ライセンス



 痛みがひどくて、目を開けてみることができない。
 さまざまな不安が押し寄せ、三井をパニックに陥れた。自らの身体、失明の恐怖。見つからない、一番頼りにしていた人。いつ天井が崩れてくるのか。床が抜けるのか。だが、一番不安を掻き立てるのは、今そばに誰もいないということだった。
 木暮がおらず、宮益もいなくなった今、三井には誰もいないのだ。どうしたらよかったのだろう。何が正しくて何が間違いだったのか、三井には判らなくなっていた。どの道を歩けば木暮の元へ行けるのだろう。
 知らない間に庭に出ていた。ここ数週間生活して馴染んでしまった別荘は、目が見えず爆発で崩されてそれまでの屋敷とは一変してしまっているのだ。おまけに知らない人間であれば迷ってしまうほど複雑な造りである。正面玄関から出たような気がするが、それさえ正確には判らなかった。
 限界だった。正体を失うぎりぎりの境界線、それが今だった。
 ふいに後ろから腕をがっちり捕まれたのである。
「うわあぁっ!」
「三井!」
 振り返って目を凝らして見ても、それが誰なのかは判らない。だが、その声の響きには聞き覚えがあった。ずいぶん声もしわがれて荒れてはいたが、それは数年来の仲間、元医者の宮益だったのである。
「宮益……宮益か! お前、生きて……」
 三井には見ることはできなかったが、宮益の様子はひどいものだった。衣服のあちこちが破れ、燃やされ、頭からはまだ乾き切らない鮮血を滴らせていたのだ。
「三井、ここで会えてよかった。……どうしたんだ? 目が、見えないのか?」
 ほとんど夢中で宮益は三井の頬に手を伸ばす。いつもならばうるさそうに振り払う三井ではあったが、そんなことは忘れてしまったかのように三井はなされるままにされていた。
「宮益、木暮がいないんだ。お前と離れ離れになってからまた爆発があって、今度は木暮と離れちまったんだ。お前、見なかったか? 木暮も見えねえかもしれねえ。どっかでさまよってっかもしれねえんだ」
 本気で木暮を心配している三井がいた。しかし、その心配は三井にとってむなしい心配である確率の方が高いと、宮益は思っていた。宮益はあのとき瓦礫に埋まった。しかし意識はちゃんとあって、二人の会話を聞いていたのだ。そしてこれは偶然かもしれない。爆発の直前、二人のすぐ後ろを走っていた宮益は、木暮に足を掛けられて転倒したのだから。
 しかしそんなことを今三井に言ったところで信じないことは判っていた。余計な反発を招いて更に三井を危険にさらすことになるだろう。
「三井、今日の昼間別荘の東の奥にバスが止まったのを知ってるか?」
 三井はそんなことは知らなかった。昼ごろから風は強く、外の気配は一切届いてこなかったのだ。
「そうなのか?」
「ああ。たぶん木暮が用意したんだと思うんだ。明日三井を連れてここを出るために。三井とはぐれたんならきっとそこに向かったんじゃないかな。すぐに連れて逃げられるように」
「だけどそんなことオレは聞いてねえよ!」
「教えたつもりで忘れたのかもしれない。捜し回るより行ってみようよ。たぶんそこで会えるから」
 そしてバスがなかったら、今度こそ二人で逃げよう。そう、宮益は思っていた。バスがなければ三井にも判るだろうから。木暮が三井をおいて、一人で逃げてしまったことが。
 宮益に手を引かれて歩きながら、三井はぼそっと言った。
「オレ、このまま見えなくなっちまうんかな」
「……大丈夫だよ。オレが必ず治してやるから。心配いらない」
 三井の手を引いて歩きながら、宮益はこのまま三井の目が見えなくなってしまえばいいと思い始めていた。

 牧の手配してくれた特別仕様のワゴン車に乗り込むと、流川は山道に近い道路を慎重に走り始めていた。後ろのベッドには洋平が寝かせられ、傍らに花道が付き添っている。今夜は警官がいてカーチェイスをする訳ではないから、道案内の必要はないのだ。流川一人でも十分ことが足りるという訳である。
 洋平は相変わらずの意識不明だった。側の花道がしきりに声を掛けるが、うわごと以外の言葉は返ってこなかった。
「大丈夫だ、洋平。もう奴らのところから出られたんだ。爆弾の心配はねえ」
 言い聞かせて安心させてやろうとするのだが、まったく効果はなかった。繰り返しつぶやき続けているのは爆弾。花道は必死で聞き取ろうとするが、あとの言葉をうまく繋げて文章にすることはできなかった。
 流川は牧に言われていた場所に向かっている。牧が手配した医者を途中で拾うためだった。そんな流川も、だんだんおかしいと思い始めていた。洋平がつぶやく爆弾の意味は、先ほど流川が思ったものなのだろうか。
 先ほど嫌と言うほど見せつけられた二人の想いの深さ。それが心の底でくすぶっている。運転手を買って出たのは花道が車を運転できなかったからだが、もし出来たとしても、流川はこちら側に座っただろう。後ろの花道の様子を聞きながら思うのだ。自分はあんなに率直に洋平に呼びかけることはできないだろうと。
「流川」
 花道の声に耳だけ後ろに集中させた。
「洋平、もしかしたら爆弾持ってるって言いてえのかもしれねえ」
 爆弾を持っている? まさか……
「持ってるのか」
「持ってる訳ねえよ! どこ触ってもそんなもんねえし。……だけど洋平、オレの身体に爆弾、って言ってる気がすんだ。さっきからそんな風に聞こえんだ」
「持ってねえんなら」
 洋平の身体の中に爆弾が入っている。その考えに行き当たって、流川はぞっとしていた。洋平の身体には手術のあとがある。それは銃で撃たれたときの弾傷の手術あとだ。誰にも疑われず爆弾を仕掛けるのに、これほどいい場所があるだろうか。
「桜木、信号で止まったら水戸の腹に耳当ててみろ」
「……まさか、嘘だろ」
「いいからやってみろ」
 時限爆弾なら時計の音がするかもしれない。それが一番手軽な時限爆弾である。信号待ちで流川はエンジンを止め、一切の音を消した。そして花道の返事を待った。
「洋平の腹の音しかしねえよ」
 時限爆弾でないなら衝撃で爆発する爆弾。あるいは遠隔操作で爆発させる爆弾。しかし花道が背負っているあのとき、かなりの衝撃が加わったはずなのに爆発しなかった。ということは、遠隔操作のタイプかもしれない。
 だとしたら何を待っているのか。レッドフォックスは今全員が揃っている。洋平以外の誰かをまきぞえに殺すつもりならば、それはいったい誰を。
 牧に指定された場所には、さりげない様子で一人の男が立っていた。車を止め、男を招き入れる。流川はすぐに車を発車させた。
「患者をみせてみな」
 あまり医者という風丁ではない。しかしそう見られて困ることも事実であるから、そう見えないよう気を遣ってもいるのだろう。
「銃で撃たれたんだ。そんで寒い地下室で……」
「説明はあとで聞くから今は黙ってな。……ショック症状は起こしてねえな。脈も特にひどかねえ。少し血圧が低いか。……血液型は?」
「知らねえよ」
「しょうがねえ奴らだな。友達の血液型くらい覚えとけ」
 乱暴な男である。ちゃんとした格好をしていたところで医者には見えないかもしれない。
「家は近いのか?」
 その質問には流川が答える。
「あと五分だ。遠かねえ」
「とりあえず今のところは大丈夫だ。こんな車の中で治療する方があぶねえ。着いたらすぐ部屋を消毒して状態見てみっからな。必要なら手術する」
 そう言って、医者は道具を広げて血液型を調べ始めた。黙っていろと言われたためこれまで口にしてはいなかったが、言わなければならないことがある。簡単ではあるが初診が完了したことを見極めた流川の口から、それは話された。
「本人がうわごとで言ってる。身体の中に爆弾があるかもしれねえ」
「爆弾?」
 医者は聴診器を当てて腹部の音を聞いた。特におかしな音はしない。触診もしてみる。人間の身体を触り慣れている医者が触っても、特に変なものは触らなかった。
「金属探知器か……お前らまさか持ってねえよな」
 医者はすぐに携帯電話で誰かに指示を与えた。金属探知器の手配をしている間に、流川の運転する車はレッドフォックスのアジトのマンションに到着する。あまり目立たない場所に車を止め、花道が抱えて洋平を部屋まで運ぶ。そして一番広いという理由で花道の部屋が洋平の治療室に当てられた。完璧な消毒がなされ、二人は部屋から追い出されて治療が始まったのである。
 やっと帰ってきた。意識を失ってから初めて洋平が帰りたいと思っていた場所に。
「洋平の身体に爆弾……」
 あのとき三井を殺しておけばよかったと、流川は思っていた。生きて戻ったから許せるような気がしたのだ。洋平が死ぬようなことがあったら、自分は何があっても三井寿を殺すだろう。
 金属探知器はまだ到着しなかった。それが到着しないうちは医者もめったなことはできない。軽く傷口を診ただけで、最初の治療は終わった。
「輸血と点滴だけしといた。これで少しはよくなるだろ。あとはとりあえず機械が到着してからだ。だが……」
 真剣に目を見張る二人の目の前に、医者は紙束のようなものを放り投げた。
「何だか判るか?」
 それには二人のうちその文字を読むことができた流川が答える。
「カルテか」
「そうだ。包帯の間に巻き込んであった。患者を診たらしい医者が経過を全部書き込んでる。検温の記録から食べたもんのカロリーまで全部だ。書いた奴は相当几帳面な奴だな。傷口も見たが、いい腕だ。あの縫い目の美しさは芸術品て言ってもおかしくねえ。あそこまで気を遣って丁寧にやる医者はいねえよ。……オレの勝手な考えだが、爆弾てのは嘘じゃねえのか? ここまでやる医者が人間一人殺すために爆弾埋め込むとはどうしても思えねえんだが」
「だったらラビットが嘘言ってるってのかよ!」
「そうは言ってねえ。だからオレの勝手な印象だ。どっちにしろ探知器がくりゃはっきりすんだろ? ともかく爆弾がなけりゃ、患者は放っておいてもそうおかしなことにゃならねえ。カルテによれば二度目の手術で余計なもんは全部取り除いてる。意識が戻って飯食ってりゃ一か月もかからねえでよくなるだろ」
「そのカルテは信用できんのか」
「オレは信用できると思ってる。こいつにゃ爆弾のことなんか一行も書いてねえしな」
 このカルテを書いた医者というのは、おそらく三井の仲間の宮益という奴だろう。二人にとって、宮益は洋平をさらった三井の一味である。それだけで信用できるとは思えなかったし、五年前の事件で医師免許を失ったことで洋平を恨んでいるだろうことは想像がついたのだ。しかし宮益も目の前の男の医者である。医者は医者同士通じ合うものがないとも限らない。金属探知器を使ってみなければ判らないが、流川は爆弾について疑いはじめていた。
 やがて金属探知器が到着し、洋平の体内を捜索した。しかし異常は見られなかったのである。
「金属を使わねえ爆弾てのもあるにはあるが、十中八九間違いねえ、爆弾は入ってねえよ。気になるんなら明日エコーかけてみてもいいけど」
「やってみてくれ」
「判った。……少し熱が出るかもしれねえがタオルで冷してやれば十分だ。あんまり高くなるようなら電話しろ。意識は戻らねえと思うがもし目が覚めたら水分と、欲しがるようなら好きなもん食わせてやれ。ただし消化のいいものをな。これが痛み止めと化膿止めだ。痛がったら飲ませてやれ。明日また来る」
 簡単な指示を残して、医者は帰っていった。すぐに取って返し、病室のふすまを開ける。点滴をつけ、洋平は眠っていた。安らかに見える眠りだった。
 洋平が帰ってきた。本当に、帰ってきたのだ。
「ちょっとやせたかな」
 花道がつぶやく。見ると頬は痩け、目は落ちくぼんで顔色もそういいという訳ではなかった。考えてみれば痩せない方が不思議というものである。三井や木暮に精神的に圧力を加えられ、身体はかなりの傷を負っているのだ。
「雑菌まみれの身体でそれ以上近づくな。風呂先に使う」
「風呂入ったらずっと側にいてもいいか?」
「……お前に看護ができるのか」
「オレは掃除も洗濯もできんだ。洋平の世話だってできる」
 洋平の顔から目を逸らさずに言う花道を見て、流川はほかには何も言わず風呂場に消えた。花道の方はそれ以上近づくなと言われた位置から少しも動くことなく洋平を見つめている。これは夢で、目覚めたら再び洋平がいなくなってしまうかもしれない。そんな気がして、目を離すことができなかった。
 しかし穏やかな時間が、やっと実感を運んでくる。手を伸ばせば届く位置に洋平はいるのだ。触れることはできないから視線を送る。洋平の寝顔が、自然に花道をほほえませていた。
「そういやオレ、洋平の寝顔見んの初めてだな」
 好きだと思う。一生側にいたいと思う。洋平が人にどう思われていようと、裏切り者であろうと、今花道は裏切られていない。本当は理屈なんかどうでもいいのだ。側にいる洋平だから信じられる。洋平が好きなのは本当だから、理屈抜きで洋平のことを信じられる。
 やがて花道は風呂に入って再び洋平を見る。消えていないことを確かめるように頬に触れる。もしも爆弾があるなら、一緒に死んでもいいと思った。もちろん一緒に生きることをあきらめる花道ではなかったけれど。
 その夜、花道は洋平の側で一晩中洋平の寝顔を見つめていたのだ。


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