ライセンス
―― 心臓の手術の番号札だって判ったとき、どうして ――
―― オレが幸せになろうとしているのに、邪魔するのはいつも ――
―― いつ爆発するか判らない心臓を抱えて ――
夢の中の洋平は、不思議にすべてを理解していた。幼い時の初めての出会い。そして、八年の歳月を隔てた、二度目の再会。最初に置き去りにした小さな公延は、そのプロセスがなければ新しい家族と出会うことはなかったのだろう。幸せだったから忘れていた。もしかしたら自分に感謝さえしていたかもしれない。
心臓に欠陥を抱えた兄との交流は苦しかったのだと思う。兄のために犠牲にしたものは木暮の中では大きかった。しかし愛情に支えられ、可能性にかけるチャンスがあった。いつかこの苦しみもむくわれる日が来るのだと信じる希望があったのだ。
それを奪った洋平に、兄と同じ苦しみを与えようと思うのは、至極当然のことだったような気がする。
いつ爆発するか判らない爆弾。そのデリケートな構造は、摘出手術を許すかどうかすら判らない。三井に見せつけられた二枚の小さな金属版がほんの少し触れるだけで爆発するのだ。もしかしたらただ立ち上がるという行動だけでも接触してしまうかもしれない。
もう、誰に会うこともできない。人を近づけることもできない。その人間が大切な人であればあるほど、まきぞえにする訳にはいかないだろう。三井たちに監禁されたとき、洋平はあの部屋には帰らないことを決めた。あのときならまだ帰ろうと思えば帰れた。だが今は、たとえ帰りたいと思っても、もう帰ることはできないのだ。
夢の中の洋平は、今一番素直な気持ちで、帰りたいと思った。
帰れないことが判っているから、そう思うことができたのかもしれない。
なつかしいと思うのは花道の赤い髪。裏切られることを恐れながらも、いつも正面からぶつかってくる純粋な魂。あの心の前でなら、信じていられるような気がしたのだ。誰もが否定し続けてきた永遠というものを。
本当は裏切りたくなんかなかった。あの時も、あの時も ――
―― 体内の爆弾が爆発したのだと思った。
遠くで聞こえた爆発音。そしてやってきた小さな揺れ。意識はたゆたい、現実から僅かに離れたところで硬化する。痛みもショックも予想したようには訪れなかった。そして、それは錯覚で本当はまだ自分は現実の世界にとどまっていることも、すぐに理解することができていた。
その爆発音を理解することはできなかったが、洋平を正気に近いところまで戻したのは、最初に建物に加えられた爆発だったのである。
(まだ、生きてやがる)
目の前に映るのは見慣れた灰色の天井。両手は動かすことができた。ちらちらと視線の範囲を行ったり来たりする。身体を起こすことはできそうになかった。腹筋には力が入らなかったし、どうしたら腹筋に力を入れることができるのか、洋平は忘れてしまっていた。
天井がグルグル回って目眩がした。吐き気に変わるのが怖くて目を閉じる。そうして目を閉じてしまうと、現実と自分とをつなぎ止めるものはなくなってしまって、洋平にはまた何もかもが判らなくなってしまう。自分がどこにいるのかも、どうしてここに存在しているのかも。
生きている人間がもっと生きたいと思うのは傲慢なのだろうか。いつでも、どこにいても、洋平は生きていたかった。心を押しつぶしてしまうような悲しみも苦しさも、洋平の生きたいという想いを消すことはなかった。生きるために誰を傷つけようと、その誰かのために死んでしまいたいと思うことのない生命欲。それは、傲慢と呼ばれてしまうほどのただの執着なのだろうか。
三井の事件と牧との出会いのあと、洋平は自分が大人になったのだと理解した。利口になり、斜に構えて裏切りを容認した。しかし出会ってしまった過去の自分は、あの時からただの少しも変わっていない自分を大人になったはずの洋平の前にさらけ出した。その時に気づかなかったことに今になって気づいた気がするのだ。本当になりたかった洋平自身。苦しみ足掻いてまで生きたかったのはどうしてなのか。
おそらく洋平は、裏切りを否定できる強さを持った大人になりたかったのだ。
そして永遠を証明したかった。終わりのない関係。終わりのない仲間。終わりのない友情、愛情。生命の終わりが近づいた今、初めて理解することができた。残された時間の中で手に入れることは、それこそ永遠にできないというのに。
もう、誰もいない。この地下室で生涯を閉じることを定められた洋平には、それを誰かに伝えることすらできないのだ。
ドアの鍵を撃ち抜く銃の音は、洋平の耳にまで届いてはいなかった。
駆け寄って来る足音も聞こえなかった。洋平の五感自体が変調していて、回りの出来事を正確に伝えることができなくなっていたのである。
だから身体を抱き起こされたときも、激しい目眩の一つなのだと思った。しかし気づいて薄目を開けたとき、今度は満身の力で抱き締められたのである。
(……流川……?)
絶対に来るはずがないと思っていた仲間だった。助けに来るなど、一瞬たりとも考えはしなかった。そんなものは洋平の常識の中にはなかったのだ。盗みの最中にヘマをして行方不明になった仲間を捜して助けるなどと。
「水戸、水戸」
力一杯抱き締める。流川にとっては、捜して捜して、やっと出会えた仲間だった。生きて会えるかどうか、この瞬間まで不安だった。冷たい身体をした、生きていてもほとんど意識の混濁状態から抜け出てはいない洋平だったが、ともかく今は生きている。身体の感触を確かめながら感謝した。今ここで巡り逢わせてくれたすべてのものに。
やがて、あの巨大な男を倒した花道が駆け込んで来る。花道が見たものは、流川に抱き締められ生きているのか死んでいるのかすら判らない洋平の姿だった。一瞬足を止める。最悪の事態を覚悟して息を飲んだ花道に、流川は振り返っていた。
「洋平は!」
何も言わない流川の様子を、自分で確かめろと言っているのだと花道は解釈した。近づいてくる花道に流川は場所を空け、洋平の身体を引き継いだ。
「洋平……?」
うっすらと目を開ける。その時洋平の目に映ったのは、花道の心配そうな瞳と赤い髪。意識のない状態でずっと呼び続けていた。求め続けていたのは、確かにこの男だった。
「……花道……。花道!」
何かを考えた訳ではなかった。身体が勝手に反応した。抱き起こす腕に助けられて、洋平は花道にしがみついた。それは本当に弱々しい力で、言葉とておぼつかなかったが、確かに花道の名前を呼んでいた。今の洋平にとって、花道だけが現実だった。まるで生きている実感を手放すまいとするかのように、花道にしがみついていた。
「洋平! オレ、ここにいる。すぐに助けてやる。帰ったらすぐに医者にみせてやっから、何も心配すんな。あと少し頑張ってたら、大丈夫だから」
「……花道……!」
すがりついてくる腕に応えながら、花道は思った。洋平を信じた自分は間違ってはいなかったのだ。過去に洋平が誰を裏切っても、花道は裏切られてはいなかった。すがりついてくる腕が洋平のすべてを語っている気がした。
本当は理屈なんかどうでもいいのだ。今、洋平が生きていることがこんなにうれしい。こんなに自分は洋平のことが好きだったのだ。いなかった時間に嫌というほど思い知らされた。洋平が生きている。洋平が、生きている。
そんな二人の様子を、流川は背中を向けて聞いていた。ドアから入ってくる新手のボディガードを警戒してのことだった。その目は何も語ってはいなかった。しかしやるべきことは心得ている。安全を見極めながら上着を脱ぎ、花道の背中に放り投げて言った。
「着せてやれ。用意ができたら突破する」
花道は身軽になるために上着のようなものは着ていなかったが、流川の方は装備を目隠しする意味もあって一枚余分に着ていたのだ。受け取った花道は、既に混濁してしまった洋平の身体に着せてやる。そして洋平の身体をその背中に背負ったのだ。
「ついてこい。できるだけ水戸に負担かけるな」
「ああ。判ってる」
その時、五回目の爆発がかなりの規模をもって、二人と背負われた洋平に振動を与えたのである。
「近いな」
その爆発音は、混濁状態の洋平の意識にも変革をもたらしていた。身体の中の爆弾。もしもそれが今爆発したら、花道も道連れにしてしまう。
洋平は叫んでいた。自分の身体の中には爆弾があるのだと。だから自分のことはここに置いて、二人で逃げてくれと。死ぬのは自分だけでいい。花道を犠牲になんかしたくない。
しかしその声は花道には届かなかった。叫んでいるつもりの洋平ではあったが、その叫びはこの時声になってはいなかったのである。
まさに目の前で起こった五回目の爆発によって、三井は瞬間的に意識を失っていた。
前方からの爆風によって後ろに飛ばされたため、後頭部を強打している。意識を取り戻した三井はまず目を開けようとした。しかし爆風による粉塵は三井の視力を完全に奪っていた。手さぐりであたりの状態を探る。粉砕された壁が瓦礫となって、三井の身体の下にも上にも積み重なっていた。
目が見えないから、重力の方向がよく判らない。身体を回転させてその時の感覚を頼りに身体を起こした。足場がしっかりしていないため、立つということができない。だがしかし、一番気にかかることをまず最初に確かめないではいられなかった。
「木暮……木暮、大丈夫か?」
いらえはなかった。今度はもっとはっきりと声をかける。
「木暮! どこにいる木暮! 返事をしろ!」
あの爆発の瞬間、木暮は確か三井の肩を抱くようにして歩いていた。だからあのとき、木暮は三井のやや後方にいたはずである。前方からの爆風で後ろに飛ばされたのだから、木暮は三井の下敷きになったことになる。返事がないことに不安になっていた三井は、今まで自分が倒れていたあたりを手さぐりで捜した。
「木暮、木暮!」
不安が大きくなる。彷徨う手にぶつかるのは瓦礫の山だけだった。夢中になって瓦礫の山を掘り進む。だが、木暮の身体も、服の切れ端すら捜し当てることはできなかった。そのうち三井は、自分が進んできた方角も見失ってしまっていた。
木暮はいない。こんなに捜しても、木暮はいない。
木暮が消えてしまった訳を、三井は考えていた。最悪の二つのことは考えないようにしていた。一つは、木暮が爆発で死んでしまったということ。そしてもう一つは、木暮が三井を残して逃げてしまったということ。もしも木暮の方が軽傷で、三井よりも先に目覚めたのだとしたら、きっと自分を捜して目を覚まさせたことだろう。だが、木暮が三井と同じように目に粉塵を受けていたら、今の自分と同じように手さぐりでうまく捜せなかったはずなのだ。そしてもしも三井のことを捜し出せなかったとしたら、きっと今の三井と同じように考えたに違いない。先に目覚めていたのが三井だとしたら、どういう行動を取るだろうかと。
三井は壁を捜してにじりよった。そして、それを手がかりに立ち上がる。木暮は瓦礫に埋まってはいない。きっと三井を捜して彷徨っているのだ。あのとき木暮は、何があっても三井を守ると言ったのだから。そして明日になったら、一緒にスイスへ行くと、言ったのだから。
今の三井には、木暮を捜すという以外に、道はなかったのだ。
しかし木暮はすでに三井のことなど気に掛けてはいなかった。
爆発のあと、木暮はすぐに立ち上がっていた。爆発の衝撃は最初三井を盾にすることで、その後は自ら地面に伏せることで回避していた。舞い上がる粉塵はハンカチを当てて呼吸することで咽喉に入ることはなく、そばにいた三井でさえ気づかなかったが、眼鏡に特殊な加工がしてあり、割れることもなく粉塵が目に入ることもなかった。
気絶してしまった三井を置いて、木暮は別荘東の奥、建物の裏手に向かっていた。そこはフォックスが見た最初の爆発が起こったあたりである。爆発はそうして東から西に向けて順にされていったので、無関係な人間がその場所に来ることはほとんど考えられないのだ。ガレージから少し離れた場所に、木暮の目的地がある。そこには小さなマイクロバスが止まっていたのだ。
「木暮さん! 大丈夫でした?」
ドアの前に立っていた男が走ってくる木暮に声を掛ける。男の言葉に、木暮はさもおかしそうににっこりと笑った。
「信じられないくらい見事なタイミングだった。ほめてあげたいよ。みんなはそろってる?」
「卓がまだ戻ってないけど、あとは全員そろってます。……三井さんはいないけど」
木暮は更におかしくなったらしい。今度は声を上げて笑っていた。
「お前のそういうジョークは好きだよ。……どうして? 本気でオレが三井と逃げると思った?」
「五分ってところですね。なかなかお似合いでしたし」
「失礼だよ、それは。いいところのお坊ちゃんだよ。毎年スイスの別荘に出かけるような奴が、オレみたいな孤児を本気で相手にする訳ないじゃないか」
爆発を起こして別荘を壊滅させようとしている張本人だった。理由の一つは、証拠を消すため。もう一つは、三井を捨てるため。そして副産物は数多くある。爆発に巻き込まれて死んでほしい人間はこの屋敷内には何人もいたし、警察が乗り込んできて捕まってしまえばいいと思う人間も多数いるのだ。三井や洋平にかかわる人間は、そのほとんどが恨みの対象だった。三井も、そして宮益も。
「それにオレは、医者って奴が大嫌いなんだ。知ってただろ?」
兄の手術に大金を要求したのも、父を嵌めたのも医者だった。そして、長く生きないことが判っていた兄に対して最善の治療とやらを施していたずらに苦しめたのも。
「知ってましたし、正直信じてました。木暮さんは絶対オレ達を裏切らないって」
「オレが本当に信じられるのはお前達だけなんだ。今までも、これからもずっと」
諸星満に拾われた、十一人の子供達。これは彼ら全員の復讐だった。今は亡き家族に報いるための。そして、これから生きていく彼らが、すべてを忘れて羽撃いてゆくための。
やがて建物の西側から一人の男が駆けてくるのが見えた。遅れていた、最後の仲間だった。
「卓、首尾は?」
「危機一髪ですよ。赤い髪の奴に見つかって……。でもなんとか全部設置終わりました。あとは木暮さんが遠隔操作でスイッチ入れてくれれば」
「ご苦労さん。お前のおかげだ」
気づいて、木暮は眼鏡を取った。粉塵で汚れてしまった眼鏡を。
「今まで四年間も馴れない名前で呼ばせて悪かったね。もう、終わりだよ。公延って呼んでくれ。お前達にはそう呼んでもらいたいんだ」
一番大変な役目をしてきた卓を、諸星公延は抱き締めてたたえた。たったそれだけのことが、この卓には最高に嬉しかった。公延の信頼、公延の喜び。それらを得るためになら何でもするだろう。孤児であり、ただ一人諸星満の信頼を得て養子になった公延は、そうなりえなかった孤児達の最高の象徴なのである。
「さ、バスに乗れ。あとはこの屋敷の爆破と、水戸洋平の爆弾を作動させるだけだ。牧を道連れにできれば最高なんだけどな」
数個の爆弾と、三井の信頼とを残して、木暮は仲間達とバスに乗る。ほとんど完璧な勝利を手にして、彼らは酔いしれていた。
そうして別荘を離れながら爆弾のスイッチを次々と押していく。燃えているのは彼らの思い出の場所。その炎こそが、今の彼らに必要な道標なのかもしれなかった。
こうして彼らは、本当の意味で、諸星家に別れを告げたのである。
レッドの背中にラビットも加わって、久方ぶりに三人揃ったレッドフォックスが逃走経路に定めていたのは、西側に生い茂る森の中だった。
そのためにはさっきレッドが間違えて向かおうとした裏口から外に出るのが得策である。しかし六度目の爆発で、そちらの通路に向かう途中の部屋が壊滅してしまったのだ。壁や天井が崩れ、瓦礫が積み重なって廊下を完全にふさいでいる。フォックスはふうっと息をついた。
「さっきの奴が出てきた部屋だ」
余計なことは言わなければいいのに、不意にレッドが声を漏らす。その意味はフォックスには判っていたが、そのことについてあえて今は指摘しなかった。
「仕方ねえ。南側から庭に出るぞ」
「オレはラビットしか守らねえぜ」
「あてにしてねえ」
二人が庭で倒した人数は四十人を越えているはずだった。しかしボディーガードの全てではない。これだけ広い屋敷で奴らと出くわす確率はそう高くはなかったが、わずかな確率でももしも出くわしたとき、庭は危険な場所なのだ。満月に近い月はやや東寄りの空にある。先程フォックスがしたのと同じことを今彼らがされれば、その運命は四十数人のボディガードと同じことになるだろう。
しかし通路が通れない以上、ここから外に出るよりほかに道はない。フォックスは廊下を走り抜けながら、庭に面した部屋の中から一番西に位置する部屋に入る。そして用心しながら庭の様子を探った。そんな緊張感を孕んだ沈黙を、レッドが不意に破ったのである。
「……ラビットが何か言ってる」
「しっ! 静かにしろ」
フォックスの命令を受けた訳ではないが、レッドは息をひそめた。ラビットの声をもっとちゃんと聞き取るために。
―― ばく……だん……
「人影は見えねえ。賭けるか」
フォックスの言葉に邪魔されてうまく聞き取ることができなかった。
「オレの運の悪さはてめえと会ったときに使い果たした。オレにはもういい運しか残ってねえ」
「お互い様だ。オレが三つ数えたら森まで走れ」
「おお」
互いに真剣な表情で窓を見つめる。相手の言葉に怒っている余裕はないのだ。
「Un……」
窓ににじりよる。一番いい体勢を求めて。
「……Deux ―― 」
そして、七度目の爆発。
「 ―― Trois!」
爆発の振動に歪む窓ガラスをむりやり開けて二人は飛び出していた。引戸でなく観音開きであったのが吉と出たか凶と出るのか。狙撃手がいたとしたらかなり目立ったことだろう。レッドが全速力で建物に沿って走り、そのあとをフォックスがついてゆく。レッドの方は一瞬でも早く森に辿り着くことだけを考えていた。周囲に気を配るのはフォックスの役目だった。
その五十メートルほどの距離を、まるで永遠のように感じた。いつ狙撃されるか判らない恐怖。まさにそれは賭けだったのだ。そんな彼らは、脇目も振らずに車道を横切る猫の姿にどこか似ていた。
ようやく辿り着いて木の陰に身を隠したとき、レッドは精一杯ラビットに振り返っていた。
「ラビット、大丈夫だったか?」
自分も息が荒れている。しかし自分以上にラビットに伝わる衝撃は激しいものがあったはずだった。弱々しくも苦痛の声を上げるラビットに、レッドはほっとしたような心配が増したような、複雑な気持ちになっていた。全身を耳にしてラビットの声に集中する。わずかな声を、聞き逃すまいと。
―― ばく、だん……
「……ばくだん? 爆弾か?」
しかしそれ以上の声を聞き取ることはできなかった。
「フォックス! ラビットが爆弾て言ってる!」
そうしてレッドがフォックスの方を振り返ると、フォックスはまっすぐに建物の方を見据えていた。レッドの声など耳に入っていないかのように静かに凝視している。その身体全体から立ち昇る雰囲気は、単純な憎しみなどではなかった。レッドは驚いて自分もフォックスの視線の先を追う。そこに見たものは、壁に手をつきながらふらふら歩く三井寿の姿だったのである。
「……あいつだ。間違いねえ」
押し殺し過ぎて感情のこもらない声でフォックスが言う。おそらく自分がそれを口にしたということすら判っていないだろう。
のろのろした動作で、それまで握っていた短銃をベルトに戻した。そして背中の方に固定していたライフルを取り寄せ、片手でポケットを探る。様子を見守っていたレッドにも、フォックスがしようとしていることを理解することができていた。ライフルに持ち換えたのはそれを確実に果たすためなのだということも。
「フォックス、待て」
その声はフォックスに届いていた。しかし一瞥のみで、銃身に弾を込める。この距離ならフォックスは夜でも狙いを外さない。今なら殺せるのだ。ラビットを掠い傷つけ苦しめた男を。
「撃つな! 待てフォックス、撃つな!」
怒りに震えて照準が定まらない。
「……邪魔をするな。あいつはオレに殺されて当然のことをしたんだ。てめえも殺してえんじゃねえのか、レッド」
ラビットをこんなに傷つけた男。問われれば、その思いはレッドも同じだった。殺してやりたいと思う。ラビットと同じ目に会わせてやりたいと。
「だけど、ラビットなら殺さねえ」
そのレッドの言葉はフォックスにはまるで思いもよらないものだった。一瞬、自分がしようとして整えていた体勢を忘れて振り返る。そこに見たのは、息も満足にできない怪我人のラビットと、それを背負って哀れみの視線を自分に向けるレッドの姿だったのである。
「オレは殺してえ。だけどオレが奴を殺してもラビットは喜ばねえ。ラビットは……洋平は、オレが人を殺したらたぶんすっげー悲しむと思う。そんで、オレが奴を殺したのは自分のせいなんだって思って、よけいに苦しむと思う。洋平が自分で殺した時より苦しむと思う」
衝撃だった。三井が今殺されることは、ラビットを傷つけ、苦しめた当然の報いなのだ。だから自分はラビットのために殺すのだと思った。感情に走って冷静さを失った自分の行動を、フォックスは無意識にラビットのせいにしていたのか。
「レッドフォックスは人を殺しちゃいけねえんだ。お前があいつを殺さなかったって判ったら、洋平は喜ぶ。自分のために殺してくれるより、仲間が人殺しじゃねえって方が、ぜってー嬉しいと思うんだ」
フォックスと同じくらいラビットを好きな男。想いの強さが同じなら、三井を殺したいという感情の強さも同じはずだった。だがレッドは真っ先にラビットの気持ちを考えることができる。自分の感情より先に、ラビットがどうしたら喜ぶか、それを考えることができるのだ。
この仲間を軽く見ていた。感情のままに生きる幼児だと。しかし、先ほど苦しい息の中でラビットが求めたのはこの男だった。フォックスは、このとき初めてレッドこと桜木花道を認めたのである。
「……何だ」
「何だじゃねえ! 人の話ちゃんと聞いてろボケキツネ!」
「そうじゃねえ。さっき何か言いかけた」
「……ああ、ラビットが爆弾て言ってるみてえなんだ。それ以外判んねえけど」
フォックスはもう一度建物を振り返る。あれきり爆発は起こっていなかった。そして、三井はすでにその姿を消していた。
「爆弾が仕掛けられてたのは建物だけだ。もう建物から離れたから安心しろって言ってやれ。車に急ぐぞ」
「おう!」
森を抜け、一番近い道路脇に隠したワゴン車に、二人は駆け出してゆく。意識がなく、ただ辛うじて生きている状態のラビットを抱えて。
もはや三人の行く手を阻むものはなかった。
扉へ 前へ 次へ