ライセンス



 時は少し遡って。
 それまでの静寂を貫く僅かな銃声とともに屋敷内が暗闇に覆われたとき、三井は二階の自室で荷物の整理をしていた。明日の朝にはここを引き上げる予定である。心の中は早くも夢の世界へと飛んでいた。
 三井のこの部屋では、銃声はまったくと言っていいほど聞こえなかった。最近では停電というものすらよくある出来事ではなくなっていたが、なにぶんこの風である。送電線が切れたとしてもおかしくはない。多少不安になりながら、誰かがやってきて事情を説明してくれるのをその場所を動かずに待っていた。
 しばらくすると片手に懐中電灯を持った木暮と、その後ろにかなり取り乱した様子の宮益がやってくる。宮益は停電が起こったくらいで取り乱すようなことはない。それを知っていた三井は、そんな宮益の様子に危険なものを感じて言ったのである。
「何かあったのか?」
 木暮の顔はよく見えなかったが、こちらもいつもよりかなり緊張したような声色で答える。
「たいへんだ三井。誰かが停電を起こして屋敷に入ろうとしてる。今はボディーガードと交戦中だ」
「誰か、って、誰だよ」
「たぶん水戸の仲間だ」
 三井の部屋は母屋の中では一番東寄りの部屋である。吹き荒ぶ風に阻まれて、西側で展開されている戦闘の様子はまったく伝わってはこなかったのだ。
「な……なんで水戸の仲間がくんだよ! 水戸の正体が判んなきゃ、この場所は見つけられねえ筈だろ? 水戸の正体がバレたら奴の仲間でいる訳がねえってお前が……」
 数々の裏切りを続けてきた洋平。なにも知らずに洋平を信じてレッドフォックスの仲間でいた彼らが、洋平の数多の裏切りを知ったとき、そのショックのあまり助ける気などなくしてしまうだろう。木暮は三井にそう言った。そして、三井もその通りだと思った。それほど酷いことを洋平は三井に対してしたのだ。洋平は助けるに値しない。そんな洋平のために命をかける人間などいるはずがない。
 知っていて、それでも信じたというのだろうか。いつか自分も裏切られるのだと知っていて尚。
「ゴッドが部屋にいないんだ。彼なら暗闇で動き回るあいつのこと一発で仕留められると思って捜してるんだけど。とにかく三井も来て。一人でいたら危ないから」
「何で、あいつらが……」
「オレ達が思ってたよりバカだったんだよ、フォックスとレッドは ―― 」
 その時だった。どこかでドガーンという爆発音がして、建物全体を震わせたのである。その振動に三人は立っていることができなかった。身体を伏せて、やがて揺れが収まると再び立ち上がって木暮が言ったのである。
「……本気か? あいつら、この別荘ごとオレ達を生き埋めにするつもりだ。三井、逃げよう。本当に危ない」
「なんで……」
「逃げないと死ぬからだよ。大丈夫。三井はオレが守るから」
「三井、早く」
 木暮と宮益に促されて、ようやく三井は部屋から出た。木暮に手を引かれ、宮益に後押しされて歩きながらも、二回目、三回目の爆発音と振動に襲われる。この広い別荘内のいったいどこで爆発が起こっているのか、三井にはまったく判らなかった。ただ、木暮に引かれてなんとかついてゆくだけである。転がるように階段を降り、一階の廊下を玄関に向かって必死で歩いていく。流されるように歩くその間にも、三井は心の奥底でひっかかっていたことについて考え続けていた。
 停電してから木暮が来て、爆発するまでそんなに経っていなかった。それでどうして建物を爆破などするのか。地下室まで彼らがそれほど簡単に辿り着いたとは思えない。洋平が地下室にいるのに、建物を爆破する理由があるのだろうか。助け出す前に爆破したら、三井達よりも動けない洋平の方が生き埋めになる確率は高いのだ。
 だが、三井の思考もそこまでだった。それまでとは比べ物にならないほどの大きな音で、建物の爆発音が響いたのである。
  ―― ズガガゴゴーーーン!
 爆風に前のめりに倒される。その上に木暮がかばうように倒れ込んでいた。爆発は三井達の背後からのものだった。爆風をやり過ごして、木暮が身体を起こす。あたりの様子は一変していた。もうもうと立ちこめる粉塵が収まるのを息を止めて待ち、それ以上状況が悪くならないことを確認して三井が見たものは、狭い廊下に積み上げられた瓦礫の山だった。
「……大丈夫? 三井」
 身体は動いた。覗き込む木暮の心配そうな顔を見てほっと息をつき、さっきまで後ろにいたはずの宮益を捜す。そして三井は青ざめていた。宮益はどこにもいなかった。キョロキョロ捜す。宮益はどこにもいなかった。
「宮益……? 宮益? 宮益!」
 直撃を受けたのか。瓦礫に埋まってしまったのか。
「だめだ三井! 逃げよう、早く!」
「待てよ! 宮益がいねえ。助けなきゃ!」
「いいから三井、逃げるんだ。お前まで巻き込まれる」
 信じられなかった。宮益がいないのだ。さっきまで後ろにいた。瓦礫に埋まっているなら早く助けなければ死んでしまうかもしれない。
「宮益が……」
 訴えかけようとする三井の瞳を受けとめる木暮の目には、深い悲しみといいしれない強さがあった。その目は十分過ぎるほど雄弁に語っていた。宮益は見捨てよう、と。
「オレには三井の方が大切だ。三井だけが大切だ。今三井が安全なところにいて、なにも心配しなくていられる状態なら宮益を助けることに反対はしないけど、でも、三井が危険にさらされているときにオレは宮益の心配なんかできないよ。もうここは安全じゃないんだ。オレは三井をつれて逃げる。逃げるからね。判るね」
 言葉に説得された訳ではなかった。だが、促されて、三井は立ち上がっていた。木暮に対する自分の愛情。自分に対する、木暮の愛情。自分に注がれていた宮益の愛情。そして、宮益に対する、自分の愛情のようなもの。
 複雑に絡み合って思考を撹乱する。何が最善の道なのか、三井には判らなくなっていた。歩くことしかできなかった。木暮に引きずられて。
 その時、三井と木暮の目の前で再び、大きな爆発が起こった。

 さて、また少し時は戻る。
 レッドが庭で大立回りを演じ、しかもその疲れをほとんど見せずに別荘の窓ガラスを破壊して中に入ると、すぐに閃光弾が打ち上げられて別荘内は昼の明るさに照らし出されていた。牧が提供してくれた閃光弾の取扱説明書によると、その寿命はおおよそ一分である。部屋を横切り、廊下に出ると、さすがにそこまで明るさが届く訳もなく、レッドはかなり暗い廊下を目的地に向かって進み始めていた。
 その時である。建物を揺るがす大きな爆発が、どこか遠くの方で起こったのは。
「あいつ、また何か変なもん撃ちやがったな」
 壁にもたれて揺れをやり過ごしながらレッドはつぶやいた。二人の計画では、爆弾を使うなどという行為は一切ないはずなのだ。どうせフォックスの狙いが逸れて、ボイラー室にでも引火したのだろう。その程度に考えてレッドは先を急いでいた。
 角を曲がってすぐの時だった。遠くの部屋のドアが開いて、一人の男が転がり出てきたのである。
 レッドはすぐにも襲いかかろうと身を乗り出した。だが、気づいた男は慌てて叫んだのだ。
「ま、待て! ちょっと待て!」
 待てといわれて素直に待つレッドではない。ボディーガードは全員倒した訳ではないのだ。
「オレはただ飯炊きに雇われてるだけなんだ! 何にも知らねえ! 君みたいなとびきり強そうな人に殴られたら逃げそこなって死んじゃうよ! 怖いよォー!」
 そんな情けない声でオタオタ後退りをされたら、いくらレッドでもそれ以上戦闘意欲を維持させることは不可能だった。見ると確かに戦闘向けの人種ではないようだ。小さくて細いし、言うことが子供じみて臆病である。レッドが戦意を喪失した様子を見て、明らかにほっとした態度を見せていた。
「だったら早く消えろ。オレは急がしんだ」
「ほっ。ラッキ」
 レッドに背を向けて走り出した男は、慌てたためかカシャンという金属めいた音を立てて何かを落っことした。もっと慌ててそれを拾い上げて廊下の向こうに消えてしまう。レッドの中に妙な空間だけが残っていた。
「何だありゃ」
 しかしそういつまでも呆けている訳にはいかない。先を急ぐレッドは頭の中で地図を辿りながらさらに角を曲がった。すると再び遠くの部屋のドアから誰かが出てきたのである。
「あれ?」
 まるで何事も起こっていないかのような様子で、のんびりと男は言った。レッドも遭遇した一瞬は少し緊張したが、その悪意のなさそうな、あれ? の言葉に緊張を緩める。目の前の男は割に背の高い、しかしどこから見ても格闘家には見えなかった。背中に背負ったキルティングの細長い袋にプリントされているのは、夜目ではっきりとは判らないがひょっとしたらにんじんではないだろうか。
「てめえも飯炊きか?」
 知っていたならこれほどのんびりと声などかけなかっただろう。彼こそが洋平を撃って重傷を追わせた張本人、狙撃の神様ゴッドこと神宗一郎だったのである。
「目下期? ……召し滝……芽視多岐ねえ」
「何でもかまわねえ。オレは急がしんだ。殴られたくねえならそこをどけ」
 考えながらもゴッドは脇に避けた。レッドの方は避けるならそれで構わない。すり抜けて先を急ごうとするレッドは、後ろから再びゴッドに声をかけられてずっこけた。
「ちょっと待ってよ。いったいどこに行こうとしてるの?」
「急いでんだよ! 邪魔すんなにんじん野郎!」
「水戸洋平を捜してるならそっちじゃないよ」
 そのゴッドの言葉に、気負って先を急ごうとしていたレッドは言葉と行動力を失った。見つめ合う二人の間に一瞬の沈黙が流れる。
「そっちに行っても水戸はいないって。裏口から外に出ちゃうよ。来た道を戻って、二つ目の角を右に曲がるの。その突き当たりを左に行けば地下室の扉があるから」
 さっき、男と出会った曲がり角。そこで間違えたのだ。気づいたレッドは真っ赤になってゴッドの脇を大股ですり抜ける。振り返ったレッドは恥ずかしそうに口をとがらせて言った。
「このこと、キツネ野郎には言うなよ」
「……言わないよ」
「洋平にもだぞ」
 その時、二回目の爆発音と振動が二人を襲っていた。こうしてはいられない。振動が収まるのを待ってレッドが足早に去ってしまう。それを見送ったゴッドも、ふっと真顔になっていた。
「オレも見つかる前に逃げなきゃだな。これ以上利用される気ないし」
 三井達に見つかるとやっかいである。ヒステリックになった三井に侵入者の暗殺命令を受けるのは気が進むことではなかった。
「それにしてもよっぽど爆弾が好きなんだね、あの人は」
 こうしてゴッドは、廊下の先の裏口へと、足を速めたのである。

 レッドが割った窓のところからフォックスが建物の中に入ろうとしたとき、遠くで爆発音がして窓ガラスを大きく震わせていた。フォックスは一度建物から離れ、空を見上げる。母屋の東の奥の方で少しの炎と灰色の煙が舞い上がるのが見えた。
(あの位置ならレッドじゃねえな。誰だ……?)
 予想外の出来事に対する戸惑いはあったが、その程度のことで取り乱すフォックスではない。揺れが収まると再び窓枠に取り付いてするりと入り込む。そのころになると閃光弾の明るさはほとんど残ってはいないから、フォックスはまた赤外線スコープを装着して、ドアから廊下へと用心しながら進んでいった。
 途中まではレッドが辿ったと同じ道を行き、途中で逸れたレッドとは違って正しい道に入った。その次の角を曲がればラビットが監禁されているはずの地下室の前の廊下である。角から廊下の先を覗くと、そのドアの前で大きな男が番をしている姿が映ったのである。
(レッドの奴、なにしてやがる)
 もちろんドアの前に見張りがいるだろうことは予想の範囲内であった。だが、確率からしてそれは格闘家である可能性が高かったから、レッドに先に行かせて戦わせる作戦をフォックスは取ったのである。まっすぐで見通しのきくこの場所であれば、敵が銃を持つことに意味はない。しかし同じ理由でレッドが到着していないことを知ったフォックスが取るべき道はただ一つ、この番人の男を銃でおとなしくさせることだけだった。
 角の壁に身を隠しながら、フォックスは過敏銃を構えた。そして撃つ。あたりに銃声がして敵に銃弾が命中したことが判ったのに、その男は倒れず戦闘体勢を取り始めたのである。
「だ、誰だ、誰かいるなら出てこい!」
 確かにあたったのだ。しかし男は痛がるどころか撃たれた場所を押さえもしない。擦っただけで激痛を引き起こす銃なのだ。それはそれまでの庭での激戦で十分証明されているというのに。
(こいつ……痛みを感じねえのか?)
 想像を越えた難関にフォックスの中に一瞬の躊躇いが生まれる。その時、二度目の爆発が建物を襲っていた。壁にもたれて揺れをやり過ごすうち、フォックスにもある決意が生まれていた。この爆発が誰の仕組んだことであれ、いずれは建物全体を崩してしまうことになるかもしれない。そうなってはラビットを救い出すどころではなくなるだろう。後退する訳にはいかないのだ。だとしたら、前に進むしかない。
 今度は普通の銃を構えて、フォックスは壁の向こうへ顔を出した。男は二メートル目前に迫っている。撃ち抜いたのは、男の右肩だった。しかし男は倒れるどころか右肩を少し押さえてよろめいたに過ぎなかったのだ。
「な、何かあたった。血が出てる。こ、これ、拳銃じゃないか? 拳銃は、い、痛くなるんだ。そ、そうやってゴッドが……」
 油断した。そう思ったとき、フォックスはすでに腕を捕まれていた。力でかなう相手ではないことは歴然としていた。今この至近距離で心臓に弾を撃ち込んだら、やはり痛みを感じることなくこの男は死んでゆくのだろうか。
「ち、地下室に行くのか? 地下室にはみ、三井さんの大切なものがあるんだ。絶対に誰も、い、入れちゃいけないって」
 肩口と脇腹、二箇所から血を流しているというのに、しかもその一つは過敏銃であるというのに、男はまったく堪えていないようだった。片腕でフォックスの肩を押さえたまま、もう片方の手がフォックスの首へ伸びる。人間の握力とは思えなかった。フォックスにしたところで並の男よりは多少力にも恵まれているのだ。事実、捜査課の赤木課長に押さえ込まれたときでさえ、これほどの力の差を感じることはなかったのである。
 巨大な肉厚の掌と太く長い指が、フォックスの首に食い込んで呼吸を止めようとしている。血液の流れが頚動脈で押し狭められ、耳元で騒がしく脈打っている。半分痺れた右腕の銃の感触は既になかった。だが、まだ握っている。これを少し動かして奴の心臓に弾を撃ち込むことができたなら。
 こんなところで死んだら、死体を目の前にしたレッドにこれ以上ないほどこっぴどく大笑いされるに決まっているのだから。
「……死んで、ま……で……」
莫迦にされてたまるかどあほう。
 その時だった。
 道に迷っていたレッドが、ようやく正しい道を捜し当てて駆け込んできたのは。
「コラァ! なにやってんだどあほう! フォックスから離れやがれデカ丸!」
 その勢いのまま、レッドはそのでかい男に飛び足蹴りを食らわせていた。痛みは感じないといっても、その勢いに任せたエネルギーは伝わっている。首を反らせた一瞬、フォックスを捕まえた掌に隙が生じた。フォックスは残された力で男の拘束から逃れ、九死に一生を得たのである。
「オレがいねえ間に殺されてんじゃねえよ! ほんっっとにてめえは放っとくと何してやがるか判らねえ。いくらオレが天才だからってそうどっぷり頼んな!」
 フォックスにとっては言ってやりたいことはてんこ盛なのだが、なにぶん首を絞められていた直後で文句もままならない。しかしレッドが来なければ間違いなくフォックスは殺されていたであろう。もともとはレッドが道を間違えたのが原因なのだが、偶然であれレッドに助けられてしまったことが、フォックスには一番悔しかった。
「さあ、てめえの相手はこのオレだ、デカ丸!」
「デカ丸じゃない。オレ、ミキオ」
「丸男か!」
「ち、違う、丸男。……じゃなくて、ミ、ミキオ」
「ふん、てめえも格闘家だろう? だったらそんなひ弱なピストル野郎なんか相手にしてねえでオレと勝負しな。そーんな体力ナシ殺したっててめえの格は上がんねえぜ。オレだって片手でひねり殺せんだ。ま、てめえに自信がねえってんなら見逃してやってもいいけどな、丸男」
 フォックスが何も言わないのをいいことに、レッドはフォックスを引合いに出して男を挑発した。もちろん、さっき自分が道を間違えたせいでフォックスを窮地に陥れたことなど、既に忘れ去っている。
「オレ、ミキオ!」
 そう、叫んだかと思うと、男はなりふり構わずレッドに襲いかかっていった。ひょいと避けると、拳が宙を切る。その一発だけでレッドも悟っていた。真顔になって、真剣に体勢を整える。
 それは見守っていたフォックスにも判ったことだった。この男の拳はかなり重い。馬鹿さ加減はレッドと同程度だが、力では明らかにこの男の方が上である。拳が重いのは、力があるからだけではない。それなりのスピードと、全体重を拳に乗せられるだけの技術とが合わさって初めて為し得る技なのだ。おそらくスピードではレッドの方が上だろう。しかし男は痛みを感じない怪物である。よほどうまく戦わないことには、捕まってしまったら最後、先程のフォックスと同じ運命を辿ることになるだろう。
 男が振るう重い拳を避けながら、チャンスを見つけて素早いパンチを入れる。レッドの戦い方はそのようなものだった。レッドがどれほどの渾身を込めて拳を打ち込もうと、この男にとってそれが致命傷になることはない。レッドも判ってさえいればムダなことはしなかった。避けて避けて、隙あらば鼻面を叩く。
 しかしフォックスは加勢することはしなかった。フォックスにはやることがあるのだ。この男が守っていた。それだけではっきりした。この扉の向こう、ドア二枚隔てた向こうに、ラビットこと水戸洋平がいるのだ。
「レッド、こいつは頼んだぞ」
「ああ! 何とかしてやらあ! 怪盗レッドフォックスの突撃隊長レッドの名にかけて!」
「ミキオだぁ!」
 フォックスは地下室に続くドアに向かって走り出した。そして三度目の爆発と揺れ。こころなしか爆心地が近づいているような気がする。それに建物の揺れはフォックスにとっても歓迎すべきものではなかった。建物が歪むとドアが開かなくなる。そして万が一建物が崩れたら、洋平を助け出すことは事実上不可能になるのである。
 レッドと男との戦いにはなかなか決着がつかなかった。疲れを知らないレッドにも疲れが見え始めている。それは体力がどうのというよりも、精神的な疲労からくるものである。手応えのない相手を敵にしていることが、レッドの精神的な圧迫になってきているのだ。
 フォックスがドアを撃ち抜いて飛び込んでゆく姿が視界の隅をちらっとかすめた。洋平を助け出すまで男を足止めできたらそれで何とかなる。ひ弱なフォックスでも、洋平を担いで逃げるくらいのことはできるだろう。そのあと、逃げる体力さえ残っていたら、レッドは自分のことは自分で何とかできる男なのだ。
「このレッドをここまで苦しめた男はてめえが初めてだぜ」
 まるで似つかわしくないことを口にしたその時。
「ウギャアァァーーー!」
 突然、男が叫び声を上げて身体を折ったのである。レッドは一瞬呆然と男を見つめた。のた打ち回りながら身体のあちこちを押える。転げ回り、叫び続けた。
「痛いよぉ! 痛い、い、痛いよぉ。銃が痛いよぉ。た、助けて、ゴッド。み、三井さあん!」
 それはまるで、それまで蓄積されてきた痛みが、一気に放出されたかのようだった。フォックスに与えられた過敏銃と小銃の痛み。レッドに与えられ続けた、拳と足蹴りの痛み。ただの痛みであるはずのそれらは、過敏銃の薬の作用でさらに増幅されている。まさに地獄。死んだ方がマシかもしれないほどの痛みのオンパレードだった。
 人間の痛感とは、身体の危険を知らせる生物ならではの機能である。人間は痛感がなければ、そもそも歩くことさえできないのだ。人は立ち上がるとき、それが無理な体勢であれば痛みの信号を神経に送る。痛みを感じた神経は無理のない体勢へと状態を変化させ、正しい姿勢へと導いてゆく。それが繰り返されて人間は正しい姿勢で立つことになる。もしも痛みを感じなかったとしたら、無理な姿勢で動き続けた組織は破壊され、身体はボロボロになってしまうだろう。
 無意識、反射神経の世界で、痛みは重要な役割をしているのだ。もちろんこの男にも痛感は存在している。しかしこの男の場合、中枢神経を痛みが走り抜け、脳を通過し、痛みとして意識の上にのぼるまでの間が、通常の人間と比べて非常識の範囲を越えてゆっくりだったのである。
 もちろんそんなことがレッドに判ったはずはない。だが、今この男を苦しめているのは、レッドが根気強く与え続けた痛みに間違いはなかった。そのタイムラグとの戦いに、レッドは勝ったのである。それは誇っていいことであった。
「フハハハ……! やっぱオレは天才だ。このオレに勝負をいどもうなんて十年早えぞ丸男!」
 しかし、あれだけ連呼されながらも最後まで男の名前を覚えられなかった頭脳については……筆者が語るところではない。


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