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 手術を終えた宮益がいらなくなった機材を運びだすため地下室のドアを開け放つと、外部の冷たい空気が流れ込んできてその小さな身体をぶるっと震わせた。ストレッチャーの上の患者を振り返る。点滴のおかげか、とりあえずよく眠っていた。
 照明器具の重さは一人で負うにはいささか重いきらいがある。それでも誰をあてにすることもできず、上りの階段を慎重に持ち上げてゆく。半分ほど来たときだった。ちょうど通りかかった風にやってきたゴッドが反対側を持ってくれたのである。
「大丈夫? どこまで運べばいいんだい?」
「ああ、……とりあえず上までで」
 そして階段上まで器具を運び終えた二人は、どちらからともなくほっと笑いあっていた。
「あいつに手伝わせたらよかったのに。暇そうにしてたよ」
「三井にはこんな仕事は似合わないし」
「そういう問題でもないと思うけど」
「いいんだ。済まなかった。疲れてるのに」
「疲れるようなことはしてないって。……それよりさ、ちょっと聞くけど、怪我人の様子はどうなんだい? いつごろ目が覚めそう?」
 ゴッドは洋平を怪我させた張本人である。これまでのゴッドは洋平になど全く興味を持つ様子はなかった。珍しいことを聞くものだと宮益が目を丸くすると、ゴッドは気づいて少し笑って言った。
「オレが水戸洋平のこと心配するのがおかしい?」
「……そんなことはないけど」
「まあね、ただ、ちょっと気になることがあるんだ」
 そう言ったあと、ゴッドは急にまじめな表情になる。そんなゴッドの変化に宮益はついて行けず、まじまじと相手の顔を見つめた。
「霊感とかって、どっちかって言うと信じない方だろ? 宮益さんは医者だもんね」
「……そんなつもりはない。生命の神秘は医者にとっても永遠の謎だと思ってるし」
「そうなんだ。だったら話してもいいかな。……実はさ、昨日の夜あたりから、首筋の後ろがこう……ピリピリするような、変な感じがするんだ。オレはこう見えてもけっこう危険な場所で生きてる。だから判るんだけど、こういう感じって、オレにとってはかなりはっきりした危険信号なんだ。そろそろ三井の計画の破綻が近いんじゃないかな」
 そう、ゴッドに言われても、宮益には何のことやらさっぱり判らなかった。とりあえず今のところ、外の様子は普段と変わったところはない。仕方ないので黙っていると、ゴッドは顔の緊張を解いて、ゆったりと微笑んだ。
「信じられないね、やっぱり。だけど、何かあるといけないから一つだけ忠告させて。手術の直後でかわいそうだけど、患者はできるだけ早く起こしてあげた方がいいと思うんだ。意識があるのとないのとではたとえ身体が動かなくてもぜんぜん違うだろうから。そうすれば宮益さんも患者の心配しなくて済むし、自分のことだけ考えられるだろ? たとえ何かあっても、自分の身体の心配だけしていた方がそれを回避できる確率は高いと思うから」
 患者の状態は、手術前よりはかなりよくなっているはずである。心配されていた血溜りはすべて取り除いた。爆弾がなければ、容態は快方に向かっていくだろう。
「点滴をやめて痛み止めの注射だけにしておけば夜までに意識は戻るだろうけど、でも、どうしてそんなことオレに……」
「本当はね、宮益さんは三井の心配もしないでほしいんだ。そろそろ見捨ててもいいんじゃない? その方が三井のためにもなるよ、きっと」
 宮益はゴッドのことは嫌いではなかった。だが、三井を見捨てろとの言葉には従うことはできない。今はっきりと、宮益はゴッドに反発を覚えていた。その表情を見て取ったゴッドは、心の中で大きなため息を吐いていた。
「ま、とりあえず忠告だけ。念のため、このことは三井にも木暮にも内緒で頼むよ」
 ゴッドの忠告は時期尚早だったのかもしれない。だが、悠長に構えている暇はなかった。彼らは知らないのだ。天使のエースの背後に控える洋平の仲間達が、既にこの屋敷にターゲットを絞ってきていることを。
 当面のゴッドの心配は、ただこの宮益だけに向けられていたのである。

「……車が到着するのがだいたい九時五十分ごろだ。てめえは正面、オレは西寄りにスタンバイする。交代要員が東側の屋敷から出てきたころ、オレが送電線を撃ち抜く。それが合図だ。あとは好きなだけ暴れろ。てめえが奴らの囮になってる間にオレがかなりの人数仕留める。奴らが銃を抜いても気にするな」
「そんなの恐くねえさ。接近戦ならオレがいただきだ」
「……できるだけめちゃくちゃ動いて的にならねえようにしてろ。ある程度片付いたら合図送る。見取図頭に入ってるな」
「てめえほど方向音痴じゃねえよ。逃げ道間違えたことなんかねえからな、オレは。てめえのまきぞえ食ったことならあっけど」
 牧のところから返ってきた二人は、目立たない作業服に着替えて作戦の最終チェックをしているところだった。花道の言葉に、流川はふんと横を向く。数か月前の盗みの時、三人の先頭を走っていた流川が逃げ道を間違えてほかの連中を絶体絶命の危機に陥れたことを思い出したのである。
「別々に突入することになるからな、オレが行かなかったら地下室のドアの前で待ってろ。助けだしたらてめえが水戸を担いであとは車まで逃げるだけだ。流れ弾に注意しろよ」
「もし、洋平が地下にいなかったら……」
「見つかるまで探すだけだ。邪魔する奴はオレが仕留める」
「……死んでたら ―― 」
 不安を見せた花道。だが、そんなものは流川にはなかった。
「同じだ。見つけて助け出す。髪の毛一本だって奴らにはやらねえ」
「 ―― たりめーだ」
 もし、探し出して見つけたものが洋平の死体だったとしても、絶望に浸って自分を見失う訳にはいかない。覚悟だけはしておこうと、花道は思った。その一瞬の油断が、自分はもとより流川の命にも関わることになるのだから。
 これは盗みだ。ターゲットは水戸洋平。傷つける訳にはいかない生きた芸術品。
「久々のタダ働きじゃねえか。金はかかってるくせに売れねえ」
 最初に盗まれたのが悪いのだと思ったが流川は言わなかった。自分を鼓舞するための負け惜しみであることに気づいていたからである。
「あんまり時間がねえな。そろそろでかけるぞ」
 そう言って、流川が席を立ちかけたときだった。テーブルの上に置き放してあった流川の携帯が鳴り響いたのである。
「……はい、フォックスローン……」
『おお、フォックスか。やっと捕まったぜ。携帯のスイッチ切ってたのか?』
 久し振りに聞く声である。もの覚えのそれほどよくない流川でも、一度聞いたら忘れないような独特な感じがある。便利屋の高宮だった。
「……夕方のことなら牧のところにいた」
『それなら判るぜ。おおかた電波の通さない部屋ででも話してたんだろうさ。……ところで、ようやく見つかったぜ、ラビットの戸籍謄本』
 ゆっくり聞きたいところだったが、これから洋平を助けに行くのである。決行の時間は決まっている。交代時間の十時を過ぎると、奴らの半分は東の屋敷に引き上げてしまうのだ。そうなると全員を動けなくするのに時間がかかる。奴らに冷静になる時間を与えたら、戦闘要員が二人しかいないこちらが不利になってしまうだろう。
「これからラビットを助けに行くところだ。話はあとで聞く」
『そうか。そんじゃ現物はあとで渡すけど、手っ取り早く話しちまうぜ。ラビットに会う前に知っといた方がいいことが判った……』
 出かけるまでのわずかな時間で、流川は高宮の話すことを注意深く聞いていた。
 しかしその内容は、流川にとってはまるっきりどうでもいいことだった。

 それはいつもより少し北風の強い夜だった。
 吹き荒ぶ風は、木々を揺らし、窓ガラスを震わせ、送電線に唸り声を上げさせる。あまり気持ちのいい夕べというわけではなかった。夕食も終えてリビングでくつろいでいた三井は、ハウスキーパーをしている青年の一人に一言二言指示を与えて戻ってきた木暮に少し不安そうな視線を送る。
 その視線に答えるように、眼鏡の向こうの瞳がわずかに緩んでいた。そんな木暮の優しい仕草が、いつも三井をほんの少しだけ不安から救ってくれるような気がするのだ。
「今日は一段と冷え込むね。何か温かいものでも飲む?」
「……いや。構わないでくれ」
「どうしたんだい? 何か心配ごと?」
 たとえ口では構わないでくれと言っても、そうして木暮が自分の心配をしてくれるのは、三井には心地よかった。かたくなな態度もすべて柔らかく包み込んでくれる。そんな木暮を、三井はただ一人心の底から信頼することができるのである。
「手術が終わった。もうオレの復讐は終わったんだよな」
「そうだね。あとは水戸を放り出してしまえば終わりだね。本当はもう少し眺めてたいところだけど、電池がどのくらい持つか判らないし」
「いつだ?」
「できれば明日にでも。湘北署の玄関先にでも捨てて、その足で二人でどこかに行こう。ハワイでもインドでも、三井の好きなところに」
 復讐を願い続けて張り詰めていた五年間の思い。見果てぬ夢になりかかっていたその思いが、こういう形であっけなく終わりを告げたとき、三井の中に残されたのは空虚な脱力感だった。この先どうやって生きていけばいいのか。復讐という目的をなくした自分が、残された長い時を生きてゆくことができるのだろうか。
 喪失感も、木暮がいるなら大丈夫な気がする。そう、これからの自分には木暮がいるのだ。どこにいても暖かく見つめてくれる。復讐はなくなっても、木暮と作っていく未来が、三井の胸の中に広がっていったのだ。
「ガキのころ、毎年スイスの別荘に出かけてたんだ、親父と。お前に見せてやりてえな」
「飛行機の時間調べておくよ」
 明日になれば、木暮との新しい生活が始まる。だが、吹き抜ける風の音が、三井を落ち着かない気分にさせる。何かが変わろうとしている。これが幸せを運んで来る新風ならいうことはないのだと三井は思った。
 三井に頼まれた一仕事をするために部屋を出ていく木暮の後ろ姿を見ていた三井は、彼の顔が新たな緊張に彩られたことに、気づくことはなかった。

 吹き荒ぶ風は、木々を揺らし、窓ガラスを震わせ、送電線に唸り声を上げさせる。北風を寒いと感じることはなかった。むしろありがたいとさえ思う。この風の中では、彼らの気配は屋敷の方からは察することができないだろう。
 全身黒で統一された作業服に身を包んだ二人は、夜目に隠れて屋敷の周囲の森の中を移動する。いつも洋平が手作りしてくれる仮面は、今日はつけていない。この盗みには必要なかった。洋平を盗んだことは、怪盗レッドフォックスへの正式な挑戦状である。今夜は素顔をさらしてその挑戦を真っ向から受けるのだ。
 別荘庭の照明のぎりぎり届かないところで、レッドとフォックスは足を止める。身一つの身軽なレッドに比べ、フォックスは身体のあらゆるところにさまざまな装備を装着していた。それらは牧にプレゼントされた過敏銃から、自前の短銃やライフルなど十数種に及ぶ。彼らは木陰からボディーガードの動きを注意深く観察していた。
 そろそろ交代の時刻である。注意力散漫な二十五人が、昼間睡眠をたっぷり取った二十五人に交代するのだ。タイミングが大切である。フォックスはレッドに短く伝えた。
「手筈通りだ。オレは隠れる。オレの位置知られるような動きすんなよ」
「たかが五十人でてめえの助けがいるか。それよか、間違ってもオレを撃つんじゃねえぞ。てめえの下手なのは知ってんだかんな」
 敵をナメるのはどあほうのすることである。そうは思ったが、それを言う必要がないこともフォックスには判っていた。満月に近い月はやや東寄りの空にある。フォックスは西側の林に回り、ひときわ大きな木を選んで、木登りをはじめた。
 隠れて待っていたレッドもフォックスの登った木を確認する。そして、そこから最も広く見渡せる位置をこれから数分間の戦場に決める。そうこうしているうち、東の屋敷の中から交代要因であるボディガードがぞろぞろと出て来たのだ。二人は数を数える。そして、二十五人数え終わった時。
  ―― パ………ン
 軽快な音とともに屋敷の内外をとわず電源が一斉に切れたのである。フォックスが送電線の繋がった変電器をライフルで撃ち抜いたのだ。庭に出ていた五十人は一瞬何事かと目を見張るが、すぐに警戒心を強めて戦闘体勢に入った。それを合図に、レッドが身一つで先程戦場に決めたあたりに切り込んでいったのである。
「ぅわりゃあーーーー!」
 銃を持つ男たちはすぐに反応して照準をレッドにあわせる。しかし、近くにいた一人に殴りかかると、それはそれで撃つことはできなかった。仲間を撃ってしまってはまずいのだ。そしてレッドがその一人に取りかかっている間に、格闘家達の数人がこぞってレッドに突進していくと、もう銃を使うことはできなくなっていったのである。
 そしてある程度の人数で障壁を固めたレッドは、最初に決めた戦場に徐々に移動してゆく。その間に回りの男達をあしらい、その持ち前の運動量で蹴散らし、逃げ回った。一人で切り込んできたレッドに不信を抱き、様子を見守っていた回りの男達も、やがて本当に一人であることが判ると、今度は功を争うように次々とレッドに襲いかかっていった。戦闘はほとんど団子状態になり、二十人からを従えたレッドは、襲いかかって来る男たちを上手に避け、傷を負わせながら、フォックスの銃が一番有効に活用できる場所へと到達したのである。
 人間の腕の長さは、それぞれ個人差もあるがだいたい決まっているものである。足の長さも同様で、それがいわば格闘家の射程距離になる。武器を使わずに身体一つで戦おうとした場合、間合いはせいぜい多くて二メートル。レッドの回りに詰めた人間達が互いに影響し合わずに回りに円陣を組むとしたら、五人か六人が限界であろう。すなわちレッドは、相手が最高にいい状態ならば、一度に五六人を相手にすればよい訳だ。
 この時、レッドの相手は軍隊でも格闘団でもない。個人の格闘家の寄せ集めである。彼らを各個撃破しようと思ったら、五十人が二十人でもレッドは勝てるかどうか判らなかっただろう。しかしそこは寄せ集め集団。一人一人はかなりの腕を持つ格闘家であったが、集団としての戦い方は身についてはいなかった。一人一人が己の足場を求めて敵を求めて右往左往する。そしてやっとレッドを倒せる位置まで来ると、ほかの人間が邪魔をする。しかしそれは彼らにとって敵ではなく味方なのだ。レッドを囲む円陣の最前列を確保している男達は、目の前のたった一人の敵と、回りで邪魔をするたくさんの味方と同時に戦わなければならなくなってしまったのである。
 しかしいかに脳無しの格闘家でも、一分も同じ状態が続けば嫌が応にも判ってくるものである。少し円陣を広げ、最前列の彼らが戦いやすいように場所を空ける。中にはヌンチャクやチェーンを使う者達もいる。そうして場所を空け、一瞬の静寂が訪れた時だった。レッドの動きに全神経を集中させていた男達の耳に、銃声と一人の男の叫び声が飛び込んできたのである。
「ウゲリャッ!」
 円陣より十メートルほど離れたところにいた、銃を構えた男だった。銃を取り落とし、右腕を押さえてのた打ち回っている。その苦しみようは普通ではなかった。それまでレッドにのみ向けられていた警戒心は、新たに現われた見えない敵をさがして男達の視線を彷徨わせたのである。
 その一瞬の隙をついてレッドが襲いかかる。格闘家は否応なしにレッドに注目せずにはいられなかった。そしてその後次々と銃声がして銃を持つ男達が倒れてゆく。その異常なまでの苦しみ方と呻きが、格闘家の精神も微妙に揺らし、手元を狂わせレッドの次なる餌食にされていったのだ。
 レッドが体勢をくずしこれを好機とばかりに襲いかかれば、すかさず暗闇からの銃が狙う。その合間にも居場所の見当をつけ狙撃手に発砲する男達に制裁が加えられる。そして銃に倒れれば、すぐに起き上がることもできないほどの激痛に襲われる。レッドが切り込んでいってから僅か五分もしないうちに、男達のほとんどが地面とお友達になる不運に見舞われたのである。
 もし、最初にレッドが切り込んだとき、格闘家が出張らず銃に任せていたなら。格闘家達が一気に取り囲まず間合いを譲り合っていたなら。レッドが選んだ場所に突進せずにほかの場所に誘い出していたら。あるいは同じ結果にはならなかったかもしれない。烏合の衆を狙ったレッドフォックスの作戦勝ちだった。動く人間がいないことを確認すると、レッドは一度だけフォックスのいるあたりを振り返り、すぐに屋敷に向けて走っていったのである。
 レッドの動きを見ながら、誘い出されてくる残りのボディーガードの行方を、フォックスは見極めていた。屋敷の向う側にも銃を持つ男達はいるかもしれないのだ。しかしレッドが屋敷の窓を割って進入しても、その気配を見せなかった。自分を狙っているかもしれない。
 フォックスはそれまで装着していた赤外線スコープを外し、代わりにサングラスをかける。そして閃光弾を上げた。あたりが一瞬にして昼間の明るさに照らされる。それまで暗闇に慣れていた目ではひとたまりもないだろう。
 そうしておいてフォックスは、悠然と屋敷に向かったのである。


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