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 三井が完全に眠ったことを確認すると、木暮はベッドから這い出し、衣服を着けた。そして三井を起こさないように注意深く部屋を出る。途中別の部屋に寄り、そのあとはまっすぐ迷いもせずに歩いていく。目指したのは、今は洋平が過ごしているはずの、地下の一室だった。
 地下への階段に続くドアの鍵を開け、石造りの階段を下り、さらにその向こうの扉を開ける。洋平が起きている確率は高いと踏んでいた。思った通り、洋平はその自由にならない身体を起こして、だが虚ろな視線でドアを眺めていたのである。
 眠っていても人の気配を感じずにいられない自衛本能。それは木暮にも共通するものがある。
「起きてたね、洋平君。もっと早く来るつもりだったんだけど、ちょっとしたアクシデントがあってこんな夜中になっちゃったんだ。明日でもよかったんだけど、早い方がいいと思ったから。毛布を持ってきたよ」
 手にした毛布を持ち上げて、ちょっと微笑んで見せる。真冬の地下室は寒かった。木暮も、自分が上着を着て来なかったことを、少し後悔した。
「今夜こそはだめかと思ってたとこだ。爆死と凍死とどっちがマシなんかな……」
「死に方にマシも何もないさ。本人にとってみればね。だけど回りに何かを残す死に方ってのはあるだろ。洋平君が爆死してくれないと、三井の復讐は終わらないんだ。包んであげるからじっとしてて」
 割にしっかりとしゃべっている。だが、既に気力だけの行動なのだと、木暮にも判っていた。じっとしていろと言っても言わなくても、洋平に抵抗するだけの力はない。木暮がするのに委せて毛布に身体を包んでいった。
 地下室の気温が昼夜を境に変動することはあまりない。しかしそれでも昼間は多少暖かくなるような気がしたし、夜は夜で寒くなったような気がする。この地下室に時計などあるはずがなかったから、朦朧としたままの洋平が時刻を知るのは、そういった微妙な気温の変化と、三井や宮益の訪れだけが頼りなのだ。宮益はほぼ正確な時間に食事を運んできて、洋平が尋ねれば時刻も教えた。それから察するに、今はだいたい真夜中に近い時間である。そんな時間に木暮がここを訪れた理由を、洋平は洋平なりに少なからず勘ぐっていた。
 明日、洋平は手術されて爆弾を埋め込まれる。それに抵抗することはできないだろう。今生死の境にいる洋平は、そうなれば一気に死への階段を上り始める。木暮がここに来た訳に、洋平は希望を見い出そうとしていたのだ。
「三井はまだ満足しちゃいねえのか」
 三井はひとたび洋平の仮面を削いだ。あの高笑いは満足に値するものではなかっただろうか。
「かなり近い状態であることは間違いないと思うよ。確かにあの爆弾の威力には肝を冷やされたと思うし」
 助けてくれるなら。
「……だったらもう、十分だろ。三井が意地っ張りだってのはオレも知ってる」
 この状態から救い出してくれるのなら誰でも ――
「だけどお前が奴に言えば……」
 木暮がここに来た理由。洋平が見ている目の前で、木暮はわずかに眉を寄せ、そして、嗤った。もう表情を隠すこともせず、優しさをつくろうこともせず、微妙な顔面の筋肉の動きを抑えることもせずに。洋平は背筋が凍るほどの衝撃を覚えた。それは言ってはいけない言葉だったのだ。木暮がここに来た理由。
 嗤ったまま、木暮は身体の位置を変えた。洋平の隣に壁を背持たれにして座り、肩を抱くようにする。洋平は動くことができなかった。それはそれまでの洋平の体調が原因であるだけではなかった。
 今、気付いた。もっと早く気付くべきだったのだ。洋平が戦うべき相手は、三井ではなかったのだ。
「この方が少しあったかいと思わない? このまま眠っても構わないからね」
 振り向くことができなかった。木暮の身体は冷たい。内臓から凍りついてゆくかのような冷たさ。
「……やっぱり気がついてなかったんだ。まあ、無理はないかもしれないね。あの頃とはずいぶん変わってしまったし、洋平君はずっとここにいたんだからね。
  ―― ちょうど今オレ達が座っているあたりなんだよ。五年前、ここにはちょっと大きめの金庫があったんだ。当時としては割と最新式のものだったんだけどね、洋平君にしてみれば破るのにそう手間はかからなかったんだろうね」
 洋平の中で、過去と現在とが結ばれてゆく。そのことがさらに洋平の心臓を凍らせた。牧の代理人に連れられてきたのは信じられないくらい大きな別荘だった。相手は大金持ち。善良じゃない人間の代名詞。
 地下室までの扉は、入口を入れてわずかに三つ。当時としてもそう珍しくなかったセキュリティーシステムは、ここにはなかった。金庫はダイヤル二つにキーが二つ。信じられないくらい簡単な仕事。
「何を盗んだか覚えている? たいしたものじゃなかったよね。なんの変哲もない茶封筒と、ほんの薄っぺらい紙が一枚だけ。中を見なかったとは言わせないよ。知ってて盗んだんだ、洋平君は」
「知らなかった……知らなかったんだ。中を見るまで判らなかった。あれが……」
「そうやって洋平君は同じ事を言うんだね。三井を裏切ったときもそう言ったんだろう? 盗むはずのものがどんなものか知らなかったって。あれを手にして、中を見て、心臓の手術の番号札だって判ったとき、どうして盗むのをやめなかったんだい? 確かにあれは合法的な手段で手に入れた物じゃなかったよ。オレの父がやっとの思いで財産を処分して、不正を山ほど犯して手に入れた物だ。あの時父は君の背中に声を涸らして叫んだのに。返してくれれば何でもするって、命がけで叫んだのに」
  ―― 頼む! それだけは持っていかないでくれ! 返してくれるなら何でもする。欲しいものはどんなものでもやるから……。警察にも言わない! 私の命と引替えにしたっていいんだ。それだけは ――
「……父……? まさか……」
「走っていく後ろ姿を見ていたよ。どうしてなのか理解できなかったけど、オレには判ったんだ、あれが洋平君だって。オレと洋平君の間には、何か見えない絆みたいなものがあるんだね。どうして洋平君なんだろう、って、ずっと思ってた。オレが幸せになろうとしているのに、邪魔するのはいつも洋平君なんだから。
 三井の時、洋平君は盗まなかったのにね」
 木暮の声は終始穏やかで乱れることはなかった。牧はあのとき、洋平に盗むべき物の見本を見せた。それは英語で書かれてあったが、本物は日本語で書かれているのだと。中の文面を見たときも、とっさに意味は判らなかった。しかし走りながら追い縋がる男の様子で、意味するものの何割かは理解していたのである。
 それは命の取引。一人の人間が生き延びるための命の綱。
 目を閉じて忘れようと思ったのだ。なにも知らなかったのだと、自分を納得させながら。
 誰も自分を助けてはくれない。
「洋平君のことを調べていて三井と出会った。人を恨む心は時とともに解決していくものだけど、三井の恨みは消してあげる訳にはいかなかったね。いつ爆発するか判らない心臓を抱えて生きることがどれほど苦しいか、誰も知らないんだ。死にゆく人間の欲の大きさもね。だから覚えてもらうよ。……眠ってしまったの?」
 心を凍結させてしまいたかった。洋平が手を下して動かしてしまった命の行方。
「洋平君?」
 悪夢に引き込まれた洋平を、木暮は覗き込んで見ていた。このままひと思いに殺すこともできるのだと思う。腕の中にいるのは洋平という少年。同じ思いを抱えた、少し年下の小さな仲間。
 唇を触れながら思った。憎しみと愛情は実はまったく同じものなのかもしれないと。憎しみは互いを引き寄せる力強い絆。欲望を見せた兄を憎んでいた。愛情を注ぎ続けた父を憎んでいた。
 木暮の中の汚れなき少年もまた、心の奥底で疼き続けている。

 木暮公延改め諸星公延の所有する別荘の捜索は、やはり一筋縄ではいかなかった。
 エースに教えられたおおよその場所を頼りに別荘の所有者を洗い出してゆく。だが、最近の所有者名簿に諸星の名前はなかったのだ。何度もさまざまなやり方で調べ、ようやく数年前の古い地図でその名前を発見したときには、翌日の午前中になっていた。
 その合間にも流川は宝石ブローカー牧に連絡をつけようと携帯を取る。だが、牧本人と会話することができず、事実上の膠着状態になっていた。イライラしながら情報屋彦一に連絡して別荘の情報を集めてもらい、その連絡を待っている間に、やっと牧の方から場所と時間の指定を受けることができたのである。
 事態は一刻を争う。洋平がこのまま生き続けていられる時間がわずかであることは、二人にも想像がついた。牧に連絡をつけている間にも花道はずっと主張してきたのだ。このまま牧なんか無視して洋平を助けに行こうと。場所は判っているのだ。いまさら牧にどんな用事があるというのか。
 だが、流川は頑としてその主張を退けたのである。
「牧は今自分だけで動いてる。あいつの方が情報は早いんだ。オレ達が水戸の場所を知ってるのと同じように、あいつも知ってるはずだ。だとしたらオレ達にそれを教えねえのは変だ。考えが判らねえ」
「だったらよけい早くする方がいいんじゃねえのか? あいつが洋平のこと助けるより先にオレ達が助けんだ! それしかねえ!」
「奴が水戸のことを助けるつもりならかまわねえ。だけどもしも殺すつもりだったらどうすんだ。水戸を別荘から連れ出したオレ達ごと殺そうとしたら、てめえは水戸を守れるのか? 牧に狙われて無事でいられんのか?」
「……そんなん、やってみなけりゃ判らねえじゃんかよ」
「危険はねえにこしたことはねえ。敵か味方か判らねえ奴はのさばらしといたら危ねえんだ。敵なら敵で判ってた方がマシだ。敵に回ったらデカすぎる、あいつは」
 それまでの一連の出来事で、牧の大きさは嫌と言うほど身にしみているのだ。その大きなものが敵なのか味方なのか判らない今の状態では、人一人救い出すどころの騒ぎではない。それだけ不気味な存在なのだ、牧紳一は。
 奇襲をかけるならば真夜中。彦一が調べてきた内容をもとに作戦を立てる。今夜は大安の次にいい日だという友引。流川は知らなかったが、洋平を救い出すには最良の日だった。
 お互いの長所を存分に活かした作戦を立てて、二人は海千山千の牧に挑んでゆくのである。

 結局、あれ以後洋平が意識を取り戻すことはなかった。
 手術の場所は、最初別のところに決められていた。しかし、地下室の洋平を動かし別室で手術してまた地下室に戻すよりも、機材を地下に運び込んだ方が、洋平の健康上都合がよかったのである。どのみち設備は完全ではない。証明器具とストレッチャーさえ運び込んでしまえば、その他はそれほど大きな機材はないのである。
 前の日の夜、宮益はよく眠った。数時間ごとの点滴の交換は木暮が引き受けてくれたのだ。そのため睡眠が完全でなかった木暮は、別室で静かに眠っている。ゴッドはボディガードを一人つれて日課の射撃練習に出かけてしまった。三井はなぜか不安そうな瞳をして、所在なさげにリビングで煮詰まり過ぎたコーヒを飲んでいる。
 しっかりした頭で、宮益は手術に臨む。簡単な手術だ。時間はそれほどかからないだろう。
 宮益はハサミを持って、以前縫合した場所を開き始めた。

 待ち合わせた場所から牧の代理人に車で案内されたところは、一般的な建て売り住宅にちょっと毛が生えた程度の広さを持つごく普通の住宅だった。しかし不思議なことに、午後四時というこの時刻でありながら付近に人通りは全くない。住宅の駐車スペースに車を止め、裏口から二人が案内されたのは、窓のない二階の一室だった。
「こちらで少しお待ちください」
 人の気配がこの家にはなかった。そもそも最初から流川も花道も不審に思っていたのだ。こんなに何もない部屋につれてきて、二人をどうするつもりなのか。この状況でこの案内の男がドアから出てしまえば、二人を監禁するのはたやすい。男を引き止めようとして流川は思い止まった。どこで何を聞いても牧を信じると言ったあの言葉は、今になってもまだ生きているのだから。
 靴はぬがされなかった。持ち物もそのままである。それを救いのように思いながら振り返って花道を見る。すると花道は、部屋の中を見回すように立ちつくしていたのである。
「どうした」
 花道は振り返らずに、流川の言葉に答える。
「この部屋……なんかなつかしい気がする」
「来たことあんのか」
「ねえ……と思う。でもなんでかな。初めて来るような気がしねえ」
 流川も見回してみる。中央にテーブルと椅子と、隅にベッドがあるだけの部屋だ。なんの変哲もない部屋。むしろ不自然なほど閑散としている。
「……判った。洋平だ。洋平の部屋に似てんだ」
 洋平の部屋は知っている。数日前に携帯電話を探しに入ったばかりだ。洋平の部屋はさまざまな機械や本で埋め尽くされ、しかもその雑多なものがすべて調和の中に成り立っていて不思議に機能的に見えるほどなのだ。あの部屋とこれほど対称的な場所はない。そう、流川が言おうとしたときだった。ドアの開く音に一気に緊張感をたぎらせ振り向くと、ドアの向こうに牧一人がうすら笑いを浮かべて立っているのが見えたのだ。
「驚いたな。お前、判るのか」
 と、さして驚いた風もなく部屋に入ってくる。流川の方はすでに気持ちを切り換えていた。少なくとも牧は自分達を閉じ込める気はなかったらしい。
「判る、って、ほんとに洋平の部屋なのか? ここ」
「昔の話だ。……ま、座れよ」
「昔っていつだよ! 五年前か? 三井のこと見限って姿消したときから四か月、ここに住んでたってことか? そうなのか?」
「見限った、か。うまい言葉を見つけたな。とにかく座れ。客が座らねえと話が始まらねえだろ」
「……座ったら話すんか、てめえは」
「そのつもりだ」
 ほとんど当て付けのように、花道は部屋の中央の椅子の一つに座った。流川もそれに倣う。それにしても花道の勘というか思い込みの激しさには驚かされる。流川の常識ではついていけない。もちろん流川自身が一般の常識範囲外にあることに、本人は少しも気づいていないのだが。
「……あのころの三井はオレ達プロからしてみればかなり危険な存在でな、アマチュアならそれらしくしてりゃいいのに危険な橋わたって首突っ込んで、はっきり言って邪魔な奴らだった。本人達はぜんぜん気づいてねえ。あいつらが引っ掻き回してたおかげでこっちの勢力図がめちゃくちゃだったのさ。潰したがってた奴らは多かったな。オレもその一人。逆にこのまま勢力伸ばしてくれた方がありがてえって奴らもいた。そのころのオレ達にとっては、まさに台風の目。オレも奴らに監視の目を光らしてた。その時さ。洋平がいきなし三井を潰しちまったのは」
 その話は、花道には少し理解できる気がした。花道自身は勢力争いには縁のない方である。だが、そうであるからこそそういう争いのないところで仕事をするために、新しい土地ではそれ相応の調査をするのが常であるのだ。だからその手の情報はいつも花道の回りに溢れている。
「今思えば洋平の奴が判ってなかったはずはねえんだ。だがどういう訳か洋平はそういう危ねえ奴らの仲間で、さらにまずいことにそいつら見限って潰しちまった。こっちは大慌てさ。洋平が殺されるんならまだいいが、逆にほかの奴らに利用されたら迷惑極まりねえ。だから保護したのさ。この部屋に」
「保護? 監禁じゃねえのか」
 見かけよりも防音設備の発達したドア。窓のない部屋。なのにドアを開ける前に言った花道の言葉は牧に聞き届けられている。盗聴施設が完備されていることは間違いないと、流川は気づいていた。
 流川の言葉に、牧はニヤリと笑う。暗に認めているという意味。
「最初はスパイかと思ったがそうじゃねえのはすぐに判った。オレが手に入れたのはバックもなく特別な繋がりもぜんぜんねえ単独の泥棒だ。腕も立つ。利用しない手はないと思わねえか? 探してたんだ、そういう泥棒を。オレは計画を立てた。そのころ舞い込んできた割のいい仕事に偶然手に入れた泥棒を使い捨てる計画をな」
 大物は善意で人を助けたりはしない。自分を信じろという人間は、信じるに足る人間ではない。流川はこの男の真意を確かめるために来てよかったと思った。花道は、椅子に座らなければよかったと思った。
 最低の男。だが、否定はできない。これが世の中の仕組みなのだ。花道は納得できはしなかった。それでも反論すらできない自分が一番悔しかった。
「どんな計画だ」
「ある高名な医者がいる。その医者の専門は心臓外科で、手術を受けるためには順番を待たなけりゃならなかった。その番号札を買うためにかなりの金額を患者は支払うんだが、それでも予約は一杯でな、急を用する患者がすぐに手術してもらう訳にはいかねえのさ。オレに来た仕事は、とんでもねえ金持ちのお偉い奴の身内ですぐに手術が必要な患者がいて、そいつのために若い番号の札を手に入れてほしいって依頼だった。調べていくうちに判ったのさ。日本人でそれを手に入れた奴がいるってことが。そいつだって合法的に手に入れた訳じゃねえ。だけど身内に患者がいるんだ。大金積んで譲ってもらえる訳もねえだろ? 盗むしかねえよな」
「諸星満……か」
 消えた十億の金。半年後に心臓病で死んだ息子と過労で死んだ諸星満。養子の木暮公延がやっとの思いで得た家族を奪ったのは洋平なのだ。直接手を下した訳ではない。だが、手術をしていれば兄は助かったかもしれない。兄が助かれば、父も死なずに済んだかもしれないのだ。
 盗んだものは一枚の番号札。だが、木暮が失ったのは、家族と父の財産の大部分だった。
 五年経っても消えない恨み。
「洋平は悪くねえ。ただてめえに利用されただけだ。洋平が死ななきゃならねえことなんか少しもねえよ」
「だからこうして動いてる。だがな、レッド。利用された奴は利用されたってだけですでに悪いんだ。それに洋平は知ってた筈だ。あれの実物を見たとき、洋平は判ってた。それでも奴は盗んできた。他人の命より自分の命を選んだんだ、洋平は」
「悪くねえって言ってんだよ!」
 それまで表面的には冷静に振る舞っていた花道だったが、その忍耐力はこの時とうとう尽きた。叫んだかと思うと立ち上がり、牧に殴りかかったのだ。もちろん牧もそう簡単に殴られるようなタマではない。ひょいと避け、テーブルの向う側に回る。さらに怒り狂う花道は結局のところ牧に一発も食らわすことができなかった。後ろから流川に引き止められ、それ以上動くことができなくなっていたのである。
「落ち着け。殴ってもしょうがねえ」
「何でだよ! 洋平は悪くねえじゃんかよ。悪いのはこいつだ。そもそも最初からこいつが悪いんじゃねえか! こいつさえいなかったら洋平がひどい目にあうことなんかなかったんじゃんかよ!」
「そんなのは判ってる。だけど今こいつを殴ったところでラビットは帰らねえ。殺すのはあとだ。ラビット助けてからでも遅くねえ」
 流川の物騒な一言が、花道を正気に返していた。驚いて背後の流川を振り返る。その瞳は、今まで花道が見たこともないほどの憎悪に満ちていた。流川は本気なのだ。本気で牧を殺す気でいる。
「座れ。まだ話は終わってねえ」
 毒気を抜かれ、呆然としたまま花道は促されて椅子につく。流川も穏やかな様子で椅子に座っていた。牧の様子も変わっていた。先程までの余裕綽々だった態度は一変して、侮れない危険を流川の中に見い出し緊張を深めたのである。
「場所は諸星家の別荘に間違いねえんだな」
 促すように、流川が言った。先程の危険極まりない視線は既にない。
「そうだ。これを見ろ」
 牧がテーブルの上に広げたのは、彦一が持って来たのと同じ別荘の内部の見取図だった。
「周囲は森林で壁のようなものはない。敷地内の北側にあるのが母屋で、東にあるのは今はボディガードが寝起きしてる建物だ。こいつらは二交代制で敷地内を巡回している。交代は朝と夜の十時。この時間にはほとんど全員が敷地内に出ている訳だ」
 二人の作戦では、この時間を狙って総攻撃をかけることになっていた。彦一の情報と牧の情報は一致している。
「五十人中銃を使うのは二十一人。そのうち赤外線スコープを持つのが五人。残りは格闘家だ。名簿を見るか?」
「いや、いい」
「その他十人がいわゆる世話役として在駐している。こいつらのデーターはない。あとは母屋に狙撃屋ゴッド、諸星公延、三井寿、そして医者の宮益だ。洋平がいるのは母屋の西からドアを開けて階段を降りた地下室。鍵は銃で簡単に壊せるはずだ」
「判った」
 屋敷の見取図も受け取り、情報伝達は終わった。流川がそれらをたたんでしまっていると、牧は持っていた鞄を開けて、地図と入れ替えるようにテーブルの上に広げていた。
 麻酔銃に似た銃と、その他さまざまな道具類がそこには納められていた。
「これは撃たれた人間の痛感を数倍に引き上げる銃だ。これで一発撃ちゃ、普通の人間なら二時間は動けねえ。弾は六十入ってる。こっちが赤外線スコープ。だがスイッチで通常の視界と切り替えられる。こっちが閃光弾。ただし一発。それから、ワゴン車のキー」
 車のことは、二人は考えていなかったのだ。ばつが悪そうに目を見合わせたが、結局流川はすべてを受け取って、軽く牧に会釈した。
「助かった」
「マンションの前に乗り捨てておけ。勝手に取りに行く。医者の手配は?」
「……」
「その分だと後始末も考えてねえな。任せるなら手配する」
「……頼む」
「報酬はフォックスアイ。忘れるなよ」
 罪滅ぼしなのかもしれないと、流川は思った。洋平が幸せならばそれでいいと言った牧の言葉は真実のような気がする。五年前、洋平を嵌めたことを牧が後悔しているのならば許せる。死ぬことよりもつらいと思える生は、確かに存在するのだ。
 洋平はラビットに名前を変え、誰も信じない用心深い人間になった。それは牧が失ったもの。そして一度失ったものは二度と手に入れることはできないのだ。
 やがて再び牧の代理人に案内されて二人は住宅の外に出た。目の前のワゴン車に乗り込む。後部座席のシートはすべて外され、そこは病人が振動をほとんど受けずに横になれるベッドが設えられている。流川の運転で動き始めた車にいくぶんほっとした花道は、あれきり一言も口をきかない流川に言った。
「お前、牧のこと殺すつもりか?」
 流川はすぐには答えなかった。
「殺すんだったらオレもやるからな。一人でやるなんて薄情な事言うんじゃねえぞ」
 しかし流川の返事は花道が期待したものとは全く違っていた。
「桜木、お前、どうして水戸が五年も牧なんかと付き合ってたか判るか」
 利用した牧。利用された洋平。その事実が判ってからも二人の関係は続いていた。心底から信頼していたとも思えないのに、表面的にはごく親しい友人として。
「お前には判るのか?」
 その本当の理由は、流川にすら理解できることではなかったのである。


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