ライセンス



『 ―― 見張りがいたからな、そんなに話してねえ。だけどかなり情報もらえたと思うぜ。あいつも判ってたらしいしな。プロフェッショナルであることは間違いねえさ』
 流川は部屋でエースからの電話を受けていた。つい先ほど情報屋野間からの電話で、場所と時間を打ち合わせたばかりである。事態が変わり始めている。そう感じていたときのエースからの電話だった。
『いいか、兎はまだレテを渡っちゃいねえ。……あいつの言葉をそのまま伝えるぞ。レテを渡ってねえってことだ。つまり、兎は死んでねえ。判るよな』
 流川はギリシャ神話にそれほど詳しい訳ではない。しかし、死者が渡る忘却の川の話くらいは知っていた。
「ああ」
『身体のでかいボディーガードに守られてた。数は知らねえが、毎日ゴッドについてるってことは、一桁じゃねえ筈だ。その他に食事の世話をしてるのが十人くらいいる。万が一病気をしても診てくれる奴もいる。たぶん医者がいるってことだ。それから、仕事が早く片付きそうだって言ってた。もしかしたら早くしねえと兎はあぶねえぞ』
 銃で撃たれ、川に落ちた洋平。それだけでも生きている確率など怪しいのだ。今は生きている。その言葉ほど嬉しいものはなかった。ただ、早くしなければ死んでしまう。その事実がまた、流川を焦れさせるのだ。
「それで。それだけか」
『こっからが重要だ。近くに地図あるか?』
 ここ数日でいろいろな場所に出向いた流川である。地理に疎い流川にしてみれば、地図がなかった日にはどうにもならなかっただろう。おかげで縮尺の大きな地図は手元に常備してあった。広げてエースに返事をすると、電話の向こうで説明を始めた。
『オレと奴が会ったのはでかい川と鉄橋の交差してる真下だ。そんでもって川の東側だ。載ってるか?』
 近くに、川は何本かある。しかし大きな川と呼べるのは一つだけだった。そしてその川を横切る形で線路が走るのは二箇所である。そう告げると、エースは更に続けた。
『その川を上流に行くとでかい橋がある。国道が走ってるような橋だ。見つかったか?』
 国道が通った橋は線路と線路の間に一つだけあった。つまり、その橋の下流にある鉄橋が、エースとゴッドが会った場所なのである。流川は確認し、二つの場所に印をつけた。
『オレが、次に会うときはでかい橋の下で会おうと言ったんだ。そうしたらあいつは、今いる場所なら二十分はかかるけど、その場所なら十二三分だ、渋滞もしないって言ったんだ。渋滞が関係あるのは歩きや自転車じゃねえ、車に決まってる。渋滞しねえってことは橋を渡らねえってことだ。つまり、川の東側で、鉄橋からは車で二十分ちょっと、国道の橋からなら十二三分のところだ。三角測量で場所割り出してみろ。その場所に兎はいる』
 その場所に洋平はいる。エースがもたらしてくれた数々の情報は、流川にとっては最高のプレゼントだった。今までは生きていることすら確認できなかったのだ。それが確認でき、正確ではないけれど場所の見当までつけてくれた。心の中でエースに深い感謝をささげ、だが、口に出したのはたった一言だけだった。
「事が収まったら必ず借りは返す」
 気持ちはエースにも伝わっていた。
『……ま、オレが生きてたらな』
 珍しいことを言うものだと、流川は思った。他人に対しては告死天使でも、本人は死から一番遠いところにいるのが天使のエースなのだ。
『いや、たぶんお前の方が片付く前に遠くへ行くことになりそうなのさ。二年は行きっぱなしだろうと思う。だから、そのうちにな』
 なにも知らない流川は、それほど気に留めずに電話を切った。すぐに頭はエースの情報とこれから会うはずの野間のところへ飛んでゆく。
 こうして天使のエースこと仙道彰は、レッドフォックスシリーズから姿を消すのである。

 野間と待ち合わせたのは、時間的には夕方と言ってもいい頃合いだった。しかし日の短いこの時期、太陽は完全に姿を隠し、風景は夜のたたずまいを見せ始めている。
 目の前の野間の表情は硬かった。まるで見てはいけないもの、触れてはいけない事実に触れてしまったとでも言うかのように。その雰囲気は微妙に二人にも伝わっていた。二人も余計なことは何も言わず、野間が話し始めるのを待っていた。
 やがて、野間はその重い口を開いた。
「……結論から言や、オレにはその真ん中にある事実についちゃ、何にも判らなかったってことだ。もちろん想像することくらいならできるけどな。だがとりあえず判ったちゃんとした事実だけ言うぜ。オレにはオレ自身の立場もある。そういうの判ってくれるよな」
 野間忠一郎は、洋平とかなり近い関係である。そしておそらく、牧とも近い。これから先情報屋としてやっていくために口にしてはいけないことというのはあるのだろう。流川はそれを察し、何か言おうと身を乗り出した花道を抑えつけた。
「判ることだけでいい。話せるだけ教えてくれ」
「判った。……あれからオレは木暮公延を調べたんだ。矯正施設 ―― これは民間の矯正施設だ ―― に入れられた木暮公延は、そのあと孤児だって理由で引取り手もないまま約三年間をそこで過ごすんだ。なにしろ年が若かったからな。かなりひどい目にもあったらしい。それで何事もなけりゃ、奴は十五になるまでそこで過ごすはずだったんだが、幸運にも奴を引き取った男がいた。ボランティアで孤児の世話をしている男だ。名前を諸星満」
 民間の矯正施設は、地方自治体から援助金を受けて、犯罪を犯した少年や、そこまでいかなくとも家族の手におえない少年を有料で引き受ける施設である。家族に放り込まれた少年はほとんどの場合、上限の二十才まで預けられることになるが、軽犯罪を犯して裁判で送られた少年は、家族が非公認で保釈金を払って早々に出してしまうのが常なのだ。そして保釈金を払ってくれる家族がいない場合、規定の十五才まで矯正されることになる。ゆえにここに暮らす少年は、十五才までの運の悪い孤児と、二十才までの凶暴な少年達なのである。
「諸星という男はかなりの資産家で一人息子がいた。その息子は心臓に持病があって、諸星は息子の世話をするために仕事もしていなかった。だが心根が優しい人でな、孤児だってだけの理由で矯正施設にいる子供達が気の毒でならなかったんだ。そこでたまに各地の施設の慰問をして、気にかかる子供達を地獄から救い出してたって訳だ。同じ屋敷に住まわせて身の回りの世話なんかをさせながら、人として正しい生き方を学ばせた。木暮が引き取られたのはそういう男だ。最終的には十人くらいの少年が諸星の身元引受で引き取られて、その二年後、木暮だけが諸星の正式な養子になったんだ。
 だから木暮公延の本名は、その時から諸星公延なんだ」
 それまで判らなかった、三井の金の出所が、少し見えてきたような気がしていた。もしも木暮が三井の協力者ならば、金の面では問題ないのだ。だがまだこれだけでは判らない。話をせかすように、二人は野間を睨み付けていた。
「五年前、ちょうど三井の事件が起こったころだ。その後ほんの一月くらいのあいだに、諸星満はかなりの財産を処分した。金額にして十億くらいだ。資産家と言ったって要はただの土地持ちだからな、別荘一つ残してほとんど処分したことになる。そして、その金は全部どこかに消えちまった」
「……消えた?」
「ああ。消えた。記録がねえのさ。現金てのは普通手元に持っとくもんじゃねえ。使うにしても、それだけの金額ならなにかしら記録が残ってるもんなのさ。物でも残ってねえ。何に使ったのかはまったくの謎だ。
 それから半年もしないうちに、諸星の息子と親父は相次いで死ぬ。木暮……諸星公延は、親父さんの保険金一億円と残った別荘を相続するのさ。棚からボタモチ。ただの孤児だった公延は、戸籍と遺産を手にするって訳だ」
「……それだけか。それだけならただのサクセスストーリーだ。ラビット誘拐する理由がねえ」
「そうだ! 恨みは時間が経ちゃなくなるんだろ? 養子んなって幸せだったんなら恨んでる訳ねえじゃねえかよ! ラビットに関係ない話こんな長々と聞かせやがったんかてめえは!」
 いつもの野間であれば、笑ってなだめるシチュエーションである。しかし今日の野間は少し違っていた。顔を伏せて、怒りが収まるのを待つでもなく、話し始めたのである。
「おかしなことが起こってる。三井が矯正施設送りになって数か月後、もう事件から一年は経ってた頃だ。三井に保釈金を出した奴がいる。そいつの名前が、諸星満だった。既に死んでるはずの諸星満だ」
「!」
「死んだ人間の名前を語って誰かが出したことになる。施設の方じゃ、書類がちゃんとしてて金さえ受け取りゃ、誰が保釈しようがかまわねえ。死人だっていいのさ。だけど、誰が出したかは判る。書類に名前を残してねえ。けど、出した奴は間違いねえ、木暮公延だ。ここまで調べてやっと判ったんだ。三井と木暮がつながったんだ」
 木暮公延。
 十三年前、洋平に裏切られて施設に送られた木暮公延。
 間違いない。だが、どうして木暮なのだろう。優しい男の養子になり、幸せに生きていたはずの木暮。その男がどうして十三年も前の復讐をしようと考えるのだろう。彼には一億の金と別荘と、孤児としてではないきちんとした戸籍があるのだ。普通に働いて生活すれば一生を保証されるだろう。残りの人生より復讐を選ぶなど、考えられないではないか。
「……おい」
 それきり語らなくなった野間に、流川が言う。野間も顔を上げることで答えた。
「諸星とかいう男とその息子はどうやって死んだ」
「息子の方は心臓病だ。かなり難しい病気で、手術のできる医者は日本にはいなかったらしい。親父の方は長年の心労が祟った過労死だ。息子が死んでから一か月も経ってねえ」
「それ以上しゃべることはねえのか」
 野間は言いづらそうにしていたが、流川の真剣な睨みと花道の恐ろしいほどに高揚した視線を受けて、それでもぼそりと言った。
「問題は消えた十億の金と、それを作った時期だ。ラビットが消えてた四か月、その時期とぴったり重なるのさ。何を意味するのかは知らねえ。だが、もしも関係あるとすれば、絡んでるのは牧だ。……これ以上はオレは考えねえ。調べることもできねえ。オレはちっと首を突込み過ぎちまったからな。突然姿消したところでひとっかけらも証拠なんか残ってねえだろう。
 オレにはいねえからな。……羨ましいぜ、ラビットが」
 野間の悲壮な顔つきに、同情はあってもそれをどうにかすることは二人にはできなかった。それよりも、確信に近づいている自分に身震いする。もう少しなのだ。もう少しで、洋平に手が届く。
 今まで一度も連絡をよこさない牧を問い詰めること。たとえ何があろうと牧に会おうと、流川は決めたのである。

  ―― 公延、ここに来て
  ―― ん? どうしたの、大
  ―― お前はいつも、すごく優しくオレの名前を呼ぶんだな
 ものすごく久し振りに、木暮は失った家族のことを思い出していた。ベッドに入り、枕によりかかって、眼鏡を外した時間。優しく神聖な自分だけの時間。
 ベッドの中の兄は、いつもわがままだった。いつ消えてしまってもおかしくないほど儚い命。愛していたのかそうでなかったのか、今ではもう知ることもできない。
 治る見込みのない先天性の心臓疾患だった。手術のできる医者は日本にはなく、海外の専門医は十年先まで予約で一杯だった。順番待ちをしても、十年後まで兄は生きない。実際、あれからわずか半年足らずで死んでしまったのだ。あとに失意の父と自分と、事実上の家族である十人の少年達を残して。
 初めての家族だった。暖かく愛情に満ち溢れ、だが同じ重さで憎しみをも生み出す家族。
 そんな木暮の回想は、ためらいがちに打ち鳴らされたノックの音にかき消された。
 一度外した眼鏡をかけながら、優しく声を掛ける。どうぞ、と。入ってきたのは、瞳の躍動感を失い、やや憔悴して見える三井寿だった。
「三井。どうしたんだい? 疲れた?」
「木暮……」
 ゆっくりと入ってきた三井は、眼鏡をかけた木暮の優しい瞳に引かれ、思い切るようにベッドに身を投げる。そして、胸に顔を埋め、背中を抱き締めた。木暮は驚いたように目を丸くする。その表情は三井には見ることができない。
「三井?」
「……なあ、木暮。オレ……間違ってるのかな」
「……何がだい?」
 涙声に気づかないふりをして、木暮は優しく言う。三井には気づかなかった。心の中を吐き出すように続ける。
「オレは水戸の奴が憎かった。あいつはオレのこと裏切って、家族をズタズタにしたんだ。ずっと恨んでて、五年も恨んでて、やっと復讐できるって思った。いじめて爆弾埋め込んで殺したらさぞかし胸がスカッとすんだろうなって。……今日、あいつすっげー傷ついて、泣きそうな顔して、オレも胸がスカッとして、これが復讐だ、参ったか! って思った。これで爆弾埋めてやったら終わりだから、それでオレの復讐は終わるんだ。だけど……
 ……なあ、木暮。オレ、間違ってんのかな。ほんとだったら、もっとウキウキしていいはずだよな。だけど、思っちまうんだ。もうこんなもんでいいんじゃねえかなって。そこまでやんなくたって十分なんじゃねえかなって。だってあいつ、ほんとに死んじまうんだ。もしかしたらオレ、とんでもねえことしようとしてんじゃねえのかな……」
 独白のような、三井の迷い。それはもしかしたら至極あたり前のことだったのかもしれない。途中から、木暮は優しく三井の背中と頭を撫で始めていた。安心させるように。まるで、愛するものに対するそれのように。
「それで三井は水戸のことを許せるの?」
 優しい、木暮の声。そして含まれる奇妙な響き。
「許せねえ! あいつのことは一生許せねえ! だけど、あいつのしたことって、死んでまで償わなけりゃいけねえことかな。爆弾抱えておびえて、そんなんで一生終わるようなことかな」
 三井から見えないところで、木暮は微笑んだ。まるで、しょうがないな三井は、とでも告げているかのように。
「たぶん三井は優し過ぎるんだよ。だから水戸がほんのちょっと弱みを見せただけで、復讐の気持ちが揺らいでしまうんだ。それは三井のいいところだと思う。オレはそんな三井が好きだよ」
「木暮……」
 顔を上げようとする三井を、木暮は強い力で抱き締めた。胸に押しつけ、三井の息が苦しくなるほどに強く。
「だけどオレは三井が五年間どんなにつらい思いをしてきたか知ってる。三井は優しいから、水戸のことを許してしまうかもしれない。だけど三井が許しても、オレは水戸を許さないよ。三井を裏切って、人生狂わせて、あんなに苦しめてたのに自分はぬくぬくと生きてて、そんなの許せるはずないだろ? 死んで当然なんだよ、水戸は。こんなに三井を苦しめたんだ。同じだけ、いやそれ以上に苦しんで死んで当然なんだ。オレの、大切な三井なんだから」
 今度こそ、三井は顔を上げる。少しの驚きと少しの涙をたたえた瞳で。
 木暮は憎しみをちらりと見せたかと思うと、やがて蕾が花開くかのように、慈愛に満ちた表情に変わっていった。
「愛してるんだ、三井、誰よりも」
「木暮……」
 今、三井がいる場所。すべてを失ったとき、たった一人そばにいてくれた人。三井がいる場所は木暮の隣しかなかった。こんなに愛してくれる。木暮は、自分の財産のほとんどを投げうってまで、三井の復讐を果たさせようとしてくれたのだ。
「オレがそばにいる。だからなにも心配しなくていいよ。何があっても三井を守ってあげるから」
 木暮の指が、三井の襟元から緩やかに侵食してゆく。一瞬抗議するかのように震えたが、木暮は構わずに指先を這わせていった。やがて三井もその豊かな感触に流されてゆく。甘い時間の到来を告げる、木暮からのサインだった。
「今日は三井の好きなことをしてあげるよ。何がして欲しいのか言ってごらん」
「……」
 眼鏡の向こうから誘いをかける視線。背筋を伝い高めてゆこうとする指先。やがて三井の判断力はすべてベールの向こうに追いやられてしまった。与えられた感触に引き寄せられ、知らずに射落とされていく。
 三井は今、木暮の揺るぎない愛情だけを、全身に感じていた。


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