LAST YOU
スポーツマンにとって、練習中の事故は付きものである。
バスケットボールは激しいスポーツだ。だから練習中人と人とがぶつかるようなことはよくあったし、誰もがその事を熟知していた。
だがその事故が三井となると、赤木や木暮も血の気が引く思いがある。二年前の事故で、三井はあわや選手生命を断たれる危機にさらされたのだ。
だから、桜木との接触で三井がコートに倒れたとき、赤木も木暮も顔色を変えた。倒れたときの格好そのままに、三井はピクリとも動かない。
「三井!」
「三井先輩!」
「ミッチー!」
「赤木君、すぐに三井君を救護室に」
「はい、先生」
木暮は目の前がまっ暗になっていた。自分が何をしているのかも判らない。赤木が三井を抱き上げて運んでゆこうとしている様を、呆然と見守っているだけだった。
「木暮君」
安西先生の呼ぶ声で、木暮ははっとして我を取り戻した。
「木暮君、あの倒れ方ならたぶん怪我はないでしょう。三井君のことを頼みます」
言われたことを理解するのに少しの時間がかかった。
「木暮君?」
「はい」
弾かれるように木暮は走りだした。赤木の先回りをして体育館の扉を開けながら、赤木に大丈夫かと声を掛ける。三井のことを任されたのは木暮だ。赤木ではなく。
養護の先生は三井をざっと見たあと、
「睡眠不足と過激な練習による軽い貧血だね、心配ないよ」
と言い捨てて、そのまま出て行ってしまった。その様子からも、三井がただの貧血だということに疑いはないのだろう。木暮はほっとしていた。赤木も安心したように言った。
「あいつら心配してるだろう。俺は戻るが、お前はここで様子を見ていてくれ」
「ああ、判った」
「また様子を見に来る」
赤木が出ていって、救護室は三井と木暮の二人だけになっていた。三井の寝顔を見ながら、木暮は養護の先生の言葉を反芻する。睡眠不足と過激な練習。たしかに三井の練習はハードだったけれど、どうして睡眠不足なのだろうか。
(まさか……部の練習以外にも自主的に練習してたのか?)
もしもそうだとしたら、三井の身体は限界を超えているはずだ。限界を超えたトレーニングは逆効果になる。その事が三井に判らないはずはないのに。
もしも三井が冷静さを欠いて、過酷なトレーニングを積んでいるのだとしたら、すぐにでもやめさせなければならない。誰にも相談出来なかったのなら、自分が相談相手にならなければ。三井は危うい。このままでは駄目になってしまうかも知れない。
やがて、三井は目を覚ました。状況が理解出来ないようだった。
「練習中に倒れたんだよ。目を覚まさないから心配した。気分はどう?」
木暮の声に、三井は初めて木暮がいることを知った。起き上がろうとして諦める。頭がズキズキ痛んで貧血状態だった。
「頭が痛え。……木暮が運んでくれたのか?」
「運んだのは赤木だよ。俺はついてきただけだ。さっき養護の先生が診てくれたところによると、睡眠不足と練習のし過ぎからくる貧血だって。自主練習とかしてたのか?」
様々なことがいちどきに判って、三井の頭の中で整理するのに少しかかった。まだよく判らない。自分が木暮に対してどういう反応をすればいいのか。
「俺は毎日部活が終わればくたくただ。そのあと練習する体力なんかねえよ」
木暮はそれを聞いてほっとしていた。少なくとも三井は体力の限界を見極める程度の冷静さは失ってはいなかったのだ。
「それじゃ、どうして睡眠不足になんか」
本来の三井であれば、木暮にそんな話はしなかっただろう。だが、今の三井はそういう判断力を失っていた。何も考えずに木暮の質問に答える。
「俺は最近何かあるとすぐ不眠症になるんだ。だから参ってる時にはすぐに判る。ったく情けねえぜ。ちょっと他人に何か言われたくれえで」
「三井……」
「木暮、お前には判らねえだろうな。肩書ってやつの意味がよ。俺は中学でMVPを取った。そいつはバスケをやってる限り俺について回る。中学MVPが高校でただの選手になっちまえば、それはそれで叩かれるのさ。俺が中学で無名の選手だったらそういう苦労はなかったはずだ。人より三倍努力しないことには汚名は拭えねえ。だけど、そうなりゃそれでお節介な奴に不良の肩書を探られて叩かれるに決まってる。そんな事を考えちまったら眠れなくなった。ったく本当に俺って奴は……」
三井が自分のことを語ってくれたことが、木暮は嬉しかった。そして思う。自分が三井を好きなのは間違いじゃないと。心があふれてこぼれそうになる。
「三井、そんなに悩むな。俺は三井が精一杯努力していることを知ってる。言いたい奴には言わせておけよ。そんな事で悩むなんて三井らしくない」
三井の顔が目に見えて曇る。木暮はどきっとして三井を見つめた。何が気に触ったのだろう。
「三井?」
「木暮、俺のことはもういいから、部に戻れよ」
どうしてそんな事を言われるのか判らなかった。自分は三井に嫌われてるのかも知れない。そんな考えが頭をよぎる。もしも嫌われているのだとしたら、溢れる想いをどうしたらいいのか。
「こんな状態のお前を残していくのは心配だ。安西先生にだって頼まれてる」
「中途半端な優しさなんていらねえんだよ!」
誰にでも向ける木暮の優しさ。その優しさの中に、木暮の心はない。心のない優しさを向けられるほど辛いことはなかった。嫌いなら嫌いな態度をすればいい。関心がないのなら関わらずにいてくれた方がずっと……
もう、構わないでくれ。何も聞かないでくれ。
「中途半端って……三井、お前は俺にどうして欲しいんだ?」
木暮は何を言っているのか。まだ社交辞令のつもりか。木暮の仮面はこの程度では崩れないのか。
安西先生に頼まれれば、木暮はどんな事でもするのか。
「俺にキス……しろよ」
「え……?」
木暮は聞き間違えたかと思った。自分の歪んだ願望が、三井の言葉をも歪めてしまったのだと。
「俺の望むことなら何でもやってくれるんだろ? だったらキスしろよ。出来ねえのか」
「三井、それは……」
「出来ないんだったら出ていけよ! 二度とてめえの言葉なんか信じてやるもんか!」
三井はベッドに突っ伏して涙を隠した。もう、引っ込みがつかない。どうしてこんな事を言ってしまったのか。呆れられたに決まってる。木暮がどんなに優しい奴でも、こんな事を言うチームメイトを仲間だと思ってくれる訳がない。侮蔑の言葉か憐憫の言葉を聞くことになる。
三井が木暮に甘えているのだと、木暮には判っていた。しかしその甘え方は残酷すぎた。もしも今三井に触れたら、その時にはすべてが終わる。自らの苦行に満ちた二年間も、ひたすら隠しつづけてきた猥らな欲望も。
「お前にキスすれば、それでお前の気が済むのか?」
三井には判らなかった。キスされたとき、それで本当に満たされるのかどうかも。
「答えろよ、三井」
木暮が好きだ。だが、もしも木暮がキスしたら、それが優しさじゃないとどうして言い切れるだろう。誰にでも向ける優しさの延長じゃないと。どうしたら確かめられるだろう。木暮が本当に自分を嫌ってはいないのだということを。
「なあ、三井。お前は何を欲しがっているんだ? どうして俺を試そうとする。何か知りたいことがあるんだったら俺に聞けよ。俺はお前が好きだから、お前のためになら何でもしてやるから」
今、なんて言った……?
木暮が、自分のことを好きだって……
「俺を、好き……?」
「ああ、俺は三井のことが好きだ。だから三井が苦しんでいると思うと放っておけない。三井は大切なチームメイトなんだ。……まさか嫌われてるとは思ってなかっただろ?」
一度天国に浮上しかけた三井は、一気に奈落まで突き落とされていた。もう訳が判らない。結局何も判らない。
「木暮、俺は徳男に抱かれたぞ」
だから嫌いになれ。
もう好きだなんていうな。
「だから……」
三井は続きを言うことが出来なかった。木暮が怒っている。唇を噛みしめ、握りこぶしを震わせている。今初めて、三井は木暮を怒らせることに成功したのだ。
木暮の忍耐が切れた瞬間だった。もうどうなろうとかまわない。その結果三井を傷つけたとしても、それでかまわない。
木暮は三井の両肩を押え込んで抵抗力を奪った。信じられないほどの力だった。言葉を失った三井に、木暮は呻くように言った。
「三井、男だったら抵抗しろ。抵抗して俺を正気に戻してくれ」
それが木暮の最後の理性だった。木暮は激しく三井の身体を抱き締め、今まで押え込んできたものを一気に放出するかのように、三井の唇を奪っていった。三井は抵抗しなかった。木暮の激情に押し流されるように、その嵐に身を任せていった。
そして初めて知ったのだ。お互いがまったく同じ心で求めあっていたのだという事を。
二人でいることが、こんなに穏やかで快い。
木暮の肌はまだ熱さを失ってはいなかった。鼓動が聞こえる。木暮の肌に触れていると思うだけで、三井の身体中に喜びが走る。好きだという気持ちが、叫びになってほとばしりそうになる。
どうしてこんなにも世界が明るく見えるのか。
さっきまでとはぜんぜん違う。初めて徳男に抱かれたときとも違う。木暮が、木暮自身に抱かれたということが、三井の世界を変えてしまった。暖かいものが三井の心にわき上がってくる。なにも恐れるものはないような気がする。木暮に愛されているという事実が、自分を強くしてくれる気がする。
「三井、お前が望んでたのはこれだったのか?」
三井は答えない。もっと木暮の声を聞いていたかったから。
「ずるいな。俺をここまで追い込んで。ちゃんと話してくれればそれなりのやり方もあったのに」
後悔している訳じゃないだろう。ただ、木暮はもっと順番とか段階とかを重んじる人間なのだ。だんだん木暮が判ってくる。三井にはそれが嬉しかった。
「もしかして木暮は極度の恥ずかしがり屋か? お前が素直そうに見えるからみんな騙されっけど、本当は一番心の中を見せることに臆病で」
「臆病もので悪かったな。意地っぱりの三井といい勝負だろ」
「すっかり嫌われてると思ったもんな。お前の方こそ話してくれりゃ、それなりのやり方があったんだ。……のんびり話してっけど、ちょっとまずいよな」
今の二人は二人ともなにも身につけてはいない。ここは学校の救護室だ。いつ誰が入ってきてもおかしくない場所。
「俺も思ってた。三井、お前部活に戻るか?」
「自分じゃ見えねえけど、お前首のあたりにキスマークつけなかったか? そんなんで行ったら一発でバレバレだろ」
三井に言われてみて初めて気付いた。三井の方が冷静だ。さっきは夢中で自分がなにをしているのか判らなかったけど、三井の方はどこにキスマークつけられたのか判るくらい冷静だったのだ。それって、なんとなく悔しい。
「つぎからは見えねえ所に頼むぜ。お前とやった日に練習出来ねえんじゃ身体がなまっちまう」
木暮はむっつりとしてベッドを降りた。そして脱ぎ捨てた服を着始める。木暮は今まで誰にもこういう態度で接したことはなかった。三井は少し驚いたけれども、それが自分にだけ見せる木暮なのだと嬉しくなった。木暮は怒っている訳ではない。ただ、恥ずかしいだけなのだ。今ならすべてが判る。自分が嫌われていないことが判るから、もう木暮の態度に傷ついたりしない。
「戻るのか?」
「お前を家まで送って来るって赤木に言ってくる」
「ついでにロッカーの荷物頼むぜ」
「ああ、判った」
愛されることが、強くなることなのかも知れない。好きな人に愛されることで、どんなものにでも挑戦してゆく勇気が湧いてくるから。そしていつか、木暮に必要とされる人間になる。お前が必要だと、お前しかいらないと、木暮に言わせられるだけの男になる。
今の幸せが、これからの自分の原動力になるから。
三井は、孤独に負けない強い心の意味を知った。
了
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