LAST YOU
その日は土曜日だった。
いつもよりも早く部活の終わるその日を、三井は待っていた。そして、一度家に帰ったあと、木暮の家に向かっていた。木暮の反応は恐かった。だが、伝えないかぎりこの想いは行き場がない。玄関の前で何度も迷いながら、とうとう三井は呼び鈴を押していた。
玄関に顔を出した木暮はちょっと驚いた表情を見せた。だが、すぐに笑顔になる。
「やあ、どうしたんだい?」
この笑顔のどこまでが本物なのか判らない。だけど、ここで引き下がる訳にはいかなかった。
「話があるんだ。ちょっといいか?」
「いいよ。入って」
木暮は二階の自分の部屋に三井を案内した。木暮の部屋は、バスケ一色だった。ほとんどのバスケ部員の部屋がそうであるように。
「何か飲み物でも持ってくるよ。麦茶くらいしかないけど」
「いいからかまわないでくれ!」
そんなにきつい言い方のつもりはなかった。だが、部屋を出かかっていた木暮はきょとんとして振り返る。もっとやんわりと言えたはずだ。どうして自分はこう、考えなしなのだろう。
木暮は心配そうな顔をして、三井を覗き込んだ。その目には少しの戸惑いがある。
「どうしたんだ、三井。何か悩みごとでもあるのか?」
木暮が自分から聞く体勢に入っている。それは木暮の気遣いだったのだろうが、三井にはチャンスだった。言わなければならないことがある。眼鏡の向こうからじっと見つめる視線に押されそうになりながら、三井はやっとその言葉をしぼりだした。
「木暮、俺は自分でも知らないうちにお前を傷つけるんだな。……俺がバスケ部に戻ったから、お前はスタメンを外された。……すまない」
既にインターハイも予選が始まっている。初戦は木暮がスタメンだったが、二回戦からは三井や桜木に取って替わられて、木暮の出番は桜木退場のあとのリリーフだけになっている。三井がその事を話しているのだということに、木暮はすぐに気がついた。そして言った。
「それは三井のせいじゃないだろ。俺の実力が足りなかったせいだよ。それに、三井がいなかったらうちがここまで勝ち残れたかどうか判らないし」
「一年のときだって……俺はお前が優しいのをいいことに好き勝手ばっかやってて……俺のわがままにつきあって、毎日見舞いに来て、愚痴ばっか聞かされて、お前だって一人の人間だってのに、俺はそういうの少しも考えてなかった。だから俺は謝りたくて……」
「何かと思ったらそんなことか。別に気にしてないよ。あんなに才能があるのに、一番乗ってる時に怪我なんかしたら、誰だって自暴自棄になるよ。そういうのは判ってたから、ぜんぜん気にしてない。だけど、三井が気にしてて、俺に謝りたいと思ってたんだったら、俺はその謝罪を受け入れるよ。でも俺がスタメンになれないのは違うからな。それは気にして欲しくないよ」
木暮は終始笑顔で、三井の言葉を受け止めていた。それでも三井は気持ちが晴れない。何かがひっかかっている。何か……それは、あのとき木暮が三井を引き止めなかったという事実。
あの時確かに木暮は三井を切り捨てたのだ。もう、いらない人間なのだと。バスケ部にとっても木暮自身にとっても、三井はいらない人間なのだと。
その事が三井の次の言葉を押し留めた。そして、黙ってしまった三井に、木暮は言ったのだ。
「三井、実はこれから赤木が来ることになってるんだ」
三井ははっとして顔を上げた。邪魔なのか。帰って欲しいと言っているのか。
「ああ、別にいてもらうのはかまわないんだ。ただ、赤木とは選択科目が一緒で、今日はその情報交換に来ることになってるから、話に入れないんじゃないかと思って。三井の方からほかに話がなければだけど」
「帰るよ」
「そうか。今日は嬉しかった。また遊びに来てくれ」
木暮の見送りが辛かった。自分を尋ねてきた人間になら、誰にでもそうするのだろう。それが辛かった。はっきり嫌いだと言われた方がましだった。
帰り道、三井の足取りは重かった。自分の勇気のなさと、木暮の優しさに、どうにも出来ない壁を感じながら。
赤木が三井と同じ呼び鈴を押したのは、三井が帰ってからほんの少しの時間を置いた頃だった。
ドアを開けたのは母親だった。いつもであれば、木暮自身が玄関で迎えてくれる。赤木はおかしいと思いながらも、それほど気には止めなかった。
「あら、赤木君」
「こんばんわ。公延君いますか」
「いるわよ。……おかしいわね。公延! 赤木君よ!」
母親の声にも、木暮は降りてはこなかった。いよいよおかしい。赤木は何かを察して、母親に言った。
「上がらせてもらっていいですか?」
「どうぞ。……まったくあの子ったら、赤木君を出迎えもしないで」
木暮の部屋は知っている。赤木は階段を上がって、部屋のドアの前に立った。ノックをして声を掛ける。
「木暮。いるのか?」
返事はない。
「入るぞ」
ドアを開けて赤木が見たものは、部屋の中央で放心状態になっている木暮の姿だった。眼鏡がくもっている。眼鏡の向こうの木暮の目は見えない。
「木暮」
赤木は近づいていって、木暮の肩に手を掛けた。それでようやく木暮が放心状態から解放されていった。
「赤木……?」
木暮にも、眼鏡の向こうは見えなかった。その事で、自分が目に涙を溜めていることに気付く。木暮はうつむいて眼鏡の中の涙を拭ったあと、眼鏡のくもりを取って、改めて心配そうに見つめている赤木の姿を見上げたのだった。
「どうしたんだ一体」
この夏のさなか、涙で眼鏡をくもらせるなんて尋常じゃない。いったい何があったのか。赤木の心配をやわらげようとするかのように、木暮は微笑んで見せた。それが妙に痛々しく見える。
「参ったよ、赤木。三井が俺に謝るんだ。何だってそんなこと」
「三井が?」
「スタメンになれないのは俺のせいだとか、怪我をしたときは悪かったとか、もうむちゃくちゃだ。何だって三井がそんな事俺に言いにくるんだよ。どうして三井が……」
「三井が来たのか? ちゃんと順を追って話せ。俺に判るように」
いつも表面的には冷静に見える木暮がこれほど取り乱すのを、赤木は初めて見た。そして確信した。木暮の気持ちは二年前と変わらないことを、むしろ、感情がより強くなっていることを。
「俺、どのくらいああしてたのか判らないけど、たぶんついさっきなんだ。三井が来て、話しがあるって言った。部屋に上がってもらって、何か悩みがあるのかって聞いたんだ。そうしたらあいつ、知らない間に俺のことを傷つけたかも知れないって。自分が部に戻ったから俺がスタメンになれなかったって。……たまんないよ。俺がいつそんな事言ったよ。病院に見舞いに言ったときも愚痴ばっかり聞かされて大変だっただろうって、俺がいつそんなこと言ったんだ? 謝って欲しくて見舞いに行ってた訳じゃない」
「お前、まだ三井のこと……」
「あいつがバスケに戻らなくて、このまま卒業してたら、もしかしたら忘れられたかも知れない。だけど、どうしたらいいのか判らないよ。……赤木、想像できるか? 三井が俺の、この部屋に来て、ここに座って俺のことじっと見て……いつブチキレるんじゃないかと思って、押し倒しちまうんじゃないかと思って、気が気じゃなかった。あと数分一緒にいたら、俺は間違いなくキレてたよ。なあ、俺はどうすればいいんだ? どうすればいいんだ?」
二年前のことを、赤木は思い出していた。退部するかも知れないという三井の事を話したあの日、赤木は初めて木暮の気持ちを聞いたのだ。三井のことを好きになりかけているという木暮の告白。あのとき三井が部に戻っていたら、遠からず自分が部をやめていただろうということ。あのときすでに木暮は、そこまで自分を追いつめていたのだ。
好きだから側にいられなかった。側にいたら傷つけずにはいられないほど好きだから、三井を部に引き止めることが出来なかった。三井の何にそこまで惹かれるのかは判らない。ただ、三井のすべてが木暮を惹きつけたのだ。側にいられないほど惹きつけたのだ。
「木暮、三井は変わったな」
「ああ、変わった」
「もともとあいつはどこか危うい感じがあった。だから怪我をしたときあんなに簡単にバスケを捨てたんだ。あいつは脆い人間だ。お前は三井がまた戻ってきたのはどうしてだと思ってるんだ」
「どうしてって……もう一度バスケがやりたくなったんだろう。そう言ったじゃないか」
赤木が何を言おうとしているのか、木暮には判らなかった。
「だったらどうしてお前に謝りにくるんだ? 三井がどう変わったのかお前は判ってるのか? 今のあいつの心のよりどころがどこにあるのか。 ―― 木暮、もっと三井を判ってやれ。三井の心の叫びを聞いてやれ。それはお前にしか出来ない」
赤木の指摘に、木暮はショックを受けていた。赤木の言うとおりだった。自分は三井のことを理解しようとしてはいないのだ。三井に関するかぎり、木暮の心はすべて内側に向いていた。自分のことしか考えられなかった。抱いてしまうかも知れない。側にいると辛い。それは木暮の気持ちであって、三井の気持ちじゃなかったから。さっき三井は、木暮に助けを求めてきたのかも知れない。それを木暮は聞いてやらなかった。自分のことで精一杯だった。赤木に言われて初めて、木暮はその事に気がついたのだった。
「三井は前よりももっと危うくなった。恐いくらいに練習に没頭して……。赤木、俺はもっと三井と関わらなければならないな。三井が再び挫折を味わったとき、逃げ道が残されているように」
「二度と三井をバスケから引き離しちゃいけない。今度こそあいつは駄目になる」
木暮は今本当に、赤木の存在をありがたいと思っていた。そして、赤木が親友であることを、誇らしく思っているのだった。
湘北のバスケ部は、その若さと乗りに乗った勢いを受けて、予選を次々と勝ち抜いていった。メンバー一人一人が最高のプレイを見せる。ことに、桜木の勢いはほかには真似出来ないものがある。桜木一人でメンバー全員の頑張りを引き出しているかのようだった。
三井もかなり桜木に影響され始めていた。諦めずに今持つ力の精一杯を出し尽くす。三井は桜木によって、本来の自分の原点を見つけたような気がしていた。苦しいときほど諦めてはいけないのだということ。それが、中学MVPの実力の原点だったのだ。
そんな三井はまるで一皮剥けたかのような輝きを見せた。視線を向けずにいられない。ベンチで見守る木暮は、そんな三井を食い入るように見つめた。どんなプレイも見飽きるということがなかった。ドリブル、パス、シュート。何度も見ているのに、一瞬一瞬に新たな感動がある。木暮にとってベンチは、三井を見るために特別に用意された特等席に思えた。スタメンでなくても少しも悔しくなんかない。声援を贈りながら、その華麗なプレイに魅了されることが出来るのだから。
先日の赤木の言葉は、木暮を楽な気持ちにしていた。三井を理解しようと決めたことが、自分の心の中にある複雑な気持ちから少しでも気を反らすことに役立った。今は三井が側にいることが苦しくない。嬉しいと思う心の方が強くなってしまったのだ。どうして三井はこんなに楽しそうにプレイするのだろう。どうしてこんなに綺麗なのだろう。
こんな時間が永久に続けばいい。何も考えず、ただプレイする三井を見つめつづけていられたら。煩わしいことはいらない。ただ、三井を見つめていられたらいい。
今、木暮にとっても湘北バスケ部にとっても、最高の時間が訪れていた。
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