LAST YOU



 バスケ部に戻ることを決めたあの日、三井は徳男に別れを告げた。
 知りあって二年、バスケを忘れるために費やした時間と同じだけ、徳男は三井の側にいて、すべてを見つめつづけていた。いつか去ってゆくことを知りながら、ひたむきな友情を注ぎつづけていた。三井に別れを告げられたときも、ただ笑って喜んだ。よかった、よかったと何度も言いながら。
 徳男の身体を覚えている。優しさも激しさも、消えることはなかった。徳男の愛の言葉に応えられない自分に苛立ちながら、それでも、徳男だからこそ愛されることができたのだと、振り返って思う。徳男が三井の真正面から見つめていてくれたから、今の自分もあるのだと。
 突っ張ることで甘えていた。受け止めてくれる腕があることに。これからの自分が、誰のものでもない自分が生きてゆくために、徳男の腕を振り払うことが本当に正しいことなのか……。答えは出ている。徳男の腕の中にいるかぎり、自分が独り立ちすることができないことは。
 どうしたら強くなれるだろう。誰にも頼らず、自らの腕で人生を勝ち取ることが、誰でもしているように自分の力で生きることが、どうしたらできるだろう。どうしたら、たった一人の人の心を勝ち取ることができるだろう。
 バスケ部に戻ることを決めたあの日、様々な過去の風景が三井の頭の中に浮かんで、消えた。

 中学の三年間、三井は青春のすべてをバスケに注ぎ込んだ。安西先生との出会いを経て湘北高校に入学した三井は、これからの三年間をバスケ一色に染めることに、希望を膨らませていた。安西先生の側でならどんな事でも出来る気がした。そして、やがては世界を征服できる。世界は自分のためにあると、三井は本気で思っていた。
 バスケ部の先輩も同輩も、三井の驕りを実証してくれた。木暮公延も。
「三井君すごいや。あんなシュートができるなんて。俺なんか足元にも及ばないよ。どんな練習してるんだい?」
 初めて会ったとき、三井は木暮を安心できる相手だと思った。安心して驕れる人間だと。この人間は何を言っても怒らないと。どんなに酷いことを言っても、次の瞬間笑っているような奴だと。
「シュートは才能さ。ここ一番て時の勘とか、ひらめきとかな。練習も必要だけど、最後は才能だと思うぜ」
「才能か。俺には真似できそうもないな」
 木暮は笑っていた。笑いながら、シュートの練習をしていた。その笑顔のうちにどんな感情があるのか、三井は思いもしなかった。安西先生に早く認められたい。早くレギュラーになりたい。あのころの三井はそればかりを考えていた。自分のことだけで精一杯だった。
 そして、練習中の事故。
 最後まで見舞いに来たのも木暮だった。苛立ちをぶつけられるつごうのいい相手だった。どうして熱心に見舞いに来るのか、何度あたり散らされようとどうして黙って耐えているのか、三井は考えようともしなかった。木暮を理解しようなどと思わなかった。ただ、自分の苛立ちをもてあまして、小さな子供が母親に甘えるように、木暮に甘えた。木暮も一人の人間なのだと、気付きさえしなかった。
 退部を決めたあの日、三井は私物を整理するために、部室に赴いた。そして、中で話している二人の声を聞いてしまったのだ。
「三井の奴、とうとう来なかったな。退院したんだろ」
 赤木の声だった。答えたのは木暮。
「そう聞いた」
 三井は中に入るチャンスも、引き返すきっかけも失っていた。三井が部をやめるだろうという噂はすでに部の中には広まっていた。二人の耳にも入っていたし、三井自身もそういう噂があることは知っている。まさか三井が外で聞いていることなど夢にも思わなかった二人は話を続けた。
「いいのか? ずいぶん熱心に病院にも行ってたじゃないか。引き止めないのか?」
「俺が何を言っても無駄だよ。三井が自分で決めたんだからしかたないさ」
「珍しいな。お前がそこまで投げやりになるのは」
「そんなんじゃないさ」
 それ以上聞いていることは出来なかった。三井自身にも、自分が苛立つ意味が判らなかった。三井は知っていた。何人もの新入部員が厳しい練習を苦に部活をやめていったとき、木暮が最後まで止めないようにと説得していたことを。本人達がうんざりしながら話していたとき、三井も側で小耳に挾んだ。それなのに、自分のときは木暮は引き止めてくれなかった。
 その時に初めて理解したのかも知れない。木暮が、感情を持った一人の人間なのだと。
 笑顔の裏に激しい感情を隠していたことを。
 三井は失ったのだ。誰にでも向けられていた木暮の優しさ。その優しさを向ける人間達の中に、もう三井はいない。三井は木暮の優しさを、永久に失ってしまったのだ。
 結局退部届を出すことができなかった。それなのに、足が治ってからも、バスケ部に戻ることも出来なかった。もう木暮に優しくしてもらうことが出来ないと思うとつらくて、戻りたくても戻れなかった。徳男といると息をつけた。徳男の優しさは、あのときの木暮に似ていたから。三井が何を言っても怒らない。どんな癇癪を起こしても、黙って抱き寄せてくれた。だから徳男がそう言ったとき、三井は断わらなかった。抱かれてもいいと思った。
 徳男を傷つけていた自分がいる。三井は一度も徳男に好きだとは言わなかった。徳男も聞かなかった。何も聞かずに、変わらぬ友情を注ぎつづけてくれた。別れの言葉を喜んでくれた。徳男の最後の言葉が、三井の頭からはなれなかった。
「みっちゃん、俺、夢を見てたと思ってる。本当なら絶対手の届かないみっちゃんが俺の側にずっといて、俺に抱かれてくれるなんて。……本当に好きな人、大事にしなよ。俺はいつまでも応援してるから」
 徳男のためにも、同じ間違いは繰り返さない。
 徳男を傷つけた分だけ、自分は強くならなければならない。
 どうしたら強くなれるのか。どうしたら人を包めるくらいの大きな人間になれるのか。
 謝らなければならない人がいる。たとえ許されなくとも。昔のままの優しさを得られなくとも。

 その日、三井は髪を切った。


 今日が三井の復帰第一日目であることは、木暮の耳にも入っていた。
 よく晴れた天気のいい日だった。陽気がいいと気分も浮き浮きしてくる。ちょうど掃除当番にあたっていた木暮は、そんな気分のまま面倒な掃除もさっさと済ませ、同じように当番にあたっていた赤木と行きあわせて、ともに部室に向かっていった。
 二人のほかは部室には誰もいなかった。二人の会話も自然に三井の復帰の話になる。
「今日からだってな、三井は」
 赤木と木暮が出会って、もう五年以上になる。赤木の声の調子から僅かな含みを感じて、木暮はちょっと肩をすくめた。
 三井がバスケをやめてから二年。木暮の三井に対する複雑な感情を、赤木は熟知していた。それをおもんぱかっての、ちょっと遠慮も含んだ赤木の言葉だった。赤木の心づかいも判る。だが、木暮にはいらぬ遠慮だった。
「そうだな」
「大丈夫か」
「大丈夫だろ。桜木も宮城も三井とは和解したし、安西先生も許した。もう気に病むことはないよ。三井はうちの戦力になる。誰も文句はないさ」
「お前は大丈夫なのかって聞いてるんだ。お前は三井にはいろいろあるだろう」
「バスケ部に戻ったんだ。チームメイトには変わりないさ。普通に接するよ。そういう心配ばかりしてると早く禿げるぞ」
「それをいうならお前の方が早い」
 木暮が三井への感情を赤木に見せたのは、三井の退部について話をしたあの日だけだった。それ以来木暮は一度も三井の名前を出さない。その時から木暮の感情が変化したのかどうか赤木には判らなかったが、もしもあのころのままの感情が木暮のうちにあるのだったら、三井が戻ることは木暮にとって辛いことになるだろう。
 部に戻った三井は、赤木の目から見ても、少しも衰えてはいなかった。二年前の三井はその時既に超高校級だった。身長が伸びた分だけ、戦力的にもアップしている。スタメンも間違いないだろう。
 二年間、人知れずこつこつと努力してきた木暮。木暮はそんな自分をおくびにも出さず、三井をほめたたえ、帰ってきたことを心から喜んでいる。この強さが、あの細い身体のどこから来るのか。木暮がそのなにげない表情の中で、どれだけの努力をしているのか。
 赤木はこの親友を改めて尊敬した。そして、自分にできることはしてやりたいものだと思っていた。

 その日の部活が終わったあと、三井は木暮を探していた。木暮には伝えなければならないことがある。それなのに木暮はいつの間にか部室から消えていて、まるで木暮自身が自分を避けているように思えた。それはきっと自分のひがみなのだ。木暮だって忙しい。部での木暮の態度は、一年生のころと少しも変わってはいなかったのだから。
 探しながら、三井はバスケ部の一年生二人が話しているのを聞いた。反射的に気配をひそめたのは、その中に自分の名前を聞いたからだった。
「けっこうくるものがあるんじゃねーの。木暮先輩は今まで頑張ってきた訳だしさ。やっと自分が三年になって、スタメンになれると思った矢先だろ。もしも桜木がスタメンに上がってきたら、外されるのは木暮先輩だぜ」
「桜木や流川とは身長も違うしな。三井先輩もブランクあったとか言ってるけど、どう見ても三井先輩の方が実力はあるよ。木暮先輩には今年が最後のチャンスだし。一番悔しい思いしてるの、木暮先輩だろうな」
「三井先輩って、そういう事が判るようなタイプじゃなさそうだもんな。一波乱なければいいけど」
「居心地よかったからな」
 歩きながら遠ざかってゆく二人に、三井は気付かなかった。どうして判らなかったのか。三井が部に戻るということは、木暮がスタメンを外されることなのだということが。木暮は三年生になるまでずっと、このバスケ部で頑張ってきたのだ。地道に努力を続けていたのだ。一年のときに自棄を起こして部を離れた奴が、三年生になってからいきなり戻ってくる。そして何の苦労もせずにスタメンの座を与えられたのだとしたら、木暮の今までの苦労はどうなるのか。木暮がそれを何とも感じないなんて事、ある訳がない。
 本当に避けられているのかも知れない。顔を合わせるのが辛いから、なにげない素振りで避けているのかも知れない。
 三井の中から、勇気が漏れて萎んでいった。

 三井は練習に没頭した。もうすぐインターハイの県予選が始まる。レギュラーになって、スタメンから出場できたとしたら、三井の責任は重大だ。今までさぼってきた分、三井自身の気付かないところで何かが狂っているかも知れない。もしも狂いがあったとしたら、そしてその狂いが本番の一番大事なときに姿を現したとしたら、せっかく迎え入れてくれたみんなに申し訳が立たない。悔んでも悔み切れなくなってしまうだろう。そのためには練習するしかなかった。練習して、狂いを見つけて修正してゆくしかなかったのだ。
 その熱心さは回りの人間を驚かせた。そして、誰をも納得させた。三井がレギュラーにふさわしい人間なのだと、三井のことを直接知らなかった二年生や一年生にまで広く知らしめた。三井を陰で悪く言う人間はいなくなっていた。
 木暮や赤木たち三年生は、三井が足を悪化させた原因を知っている。その時の三井の熱心さは、いまでも心に残っている。三井は変わってはいなかったのだと思った。そして改めて思う。三井はやっぱりバスケットマンだと。
 そんな三井が二年前とは微妙に変化していることに気がついたのは、木暮のほかには赤木と安西先生だけだっただろう。その変化は概ねよい方向へと向いてはいたが、悪い一面がない訳ではなかった。あまりに根を詰めすぎる三井を見兼ねてか、木暮は三井に声を掛けていた。
「三井、もうそのくらいにしたらどうだ?」
 木暮はそうして誰にでも声を掛ける。その言葉に違和感はない。
「まだ足りねえ。俺は今まで散々さぼってきたんだ。俺のさぼった二年間を埋めるくらい練習しないと、お前たちには追い着けねえ」
 そう言ってまたスリーポイントシュートを打つ。三井の言葉は木暮を驚かせた。三井の口からこれほど謙虚な言葉を聞くとは思わなかったのだ。
 三井は変わったのだ。身長や髪型だけではない、もっと本質的なところで。
 もしも今の三井が二年前と同じ状況に立たされたとき、あのときと同じように木暮に酷い言葉を投げつけるのだろうか。気に入った玩具をそれ故に壊す子供のように、木暮に甘えるのだろうか。
 何も知らない残酷な子供。木暮の持つ三井のイメージは、笑いながら蝶の羽をむしる子供だった。いつの間にか三井は、残酷な子供ではなくなったのかも知れない。
「ほどほどにしておけよ」
 三井をかり立てるものの正体は、木暮には理解出来なかった。ただ、張り詰めた糸が切れないことだけを、木暮は願ってやまなかった。


 たった一言が思いつかない。
 三井が木暮に言わなければならないことは、おそらくたった一つだった。その言葉を、言い損なったあの日からずっと考えつづけていた。謝罪の言葉は浮かぶ。だが、それだけでは三井の気持ちのすべてを表現することは出来なかった。自分が木暮に対してどういう感情を持っているのか、あるいは、木暮が三井に対して、どんな感情を秘めているのか。
 強くなることと素直になることは、同義語なのかも知れない。
 三井が言った真剣な言葉を、木暮が軽々しく扱うことはないだろう。木暮はそういう人間だ。だからこそ、三井は真剣に悩んだ。きっかけはいくらでも作ることが出来る。木暮に話がしたいのだと伝えれば済むことだ。三井が悩んだのは、その先の言葉。自分の気持ちをどう伝えればいいか。木暮に対する、好きという気持ちを。
 バスケをやめたあのときから気付いていた。失ってしまった優しさにあれほどの悲しみを覚えたのは、木暮に対する特別な気持ちがあったからなのだと。徳男に抱かれたときにはっきりと判った。自分が何を求めていたのか。木暮に抱かれたいと、木暮に愛されたいと、心の底から思っていた。徳男に抱かれながら、心はずっと木暮を追っていたのだ。
 言えるとは思えない。素直になる勇気を持つことが強くなることなのだと判っていても、木暮にそれを伝えることは出来ない。今度こそ本当に、木暮の心は離れてゆくだろう。今までのような義理の優しささえも失ってしまうだろう。
 偽りの優しさであっても、失ってしまうのは恐かった。だが、同じ気持ちをひきずりながら生きてゆくこともたぶん出来ない。強くなりたい。木暮に嫌われても生きてゆけるだけの強い心が欲しい。強くなれば忘れられる。強くなれば。
 木暮に伝えよう。それが自分の通過点だから。自分がどれだけ強くなれるか判らないけど、そのためにも素直になることは避けて通れない道だから。
 その日三井は勇気をかき集めた。そして、木暮の家を尋ねることに決めたのだった。


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