黒猫の夢
月日は着実にながれていた。
洋平の頬の傷も既に目立たないまでに回復していた。学校生活もそつなく送り、洋平自身の精神状態もいくぶん回復の兆しがあった。
時々洋平は流川と校舎の中ですれ違った。しかしそういう時に備えて移動教室のときは必ず親友と一緒に行動していたので、流川は声をかけるきっかけをなくしていた。洋平の親友は流川にあからさまにライバル意識を剥き出しにしていたので、そういう意味では都合のいい相手だった。逆にリョータと会ったとき、洋平はさりげなく席をはずした。リョータと親友とは兄弟のように仲がよかったので、そういう意味でもこの親友は洋平にとってなくてはならない存在だったのだ。
ただ一つ洋平に都合が悪かったのは、この親友が洋平をたびたび練習に誘うことだった。洋平はバイトの日数を増やし、単純な親友をあしらわなければならなかった。こうして洋平の影の努力は効を奏するかに見えた。
その日、流川に会うまでは。
洋平はバイトの帰り、今まで流川と会ったことのある場所を避けて帰路についていた。こんなおっかけっこがいつまで続くものか洋平には確信がなかったが、やがて流川も諦めるだろうと、ただそれだけを心に念じつづけていた。
今日も会わなかったと洋平がほっとしかけたとき、ふいに流川は現われていた。もう偶然を装うこともせず、マンションの入口の前で待ち伏せしていたのだ。
「水戸」
心臓が飛び出しそうなほどに高鳴る。それでも平静を装って洋平は笑顔で声をかけた。
「よう、流川。何してんだこんなとこで」
声が上ずっている気がする。汗はかいていないか。顔は引きつってないか。あたりはあまりに静かだ。心臓の音が流川の耳にまで届いてはいないだろうか。
「買い物……頼まれてたのか」
流川の言うことはあまりに突飛すぎて洋平には理解できなかった。洋平が意味不明の表情のまま黙っていると、流川は先を続けた。
「習い事でも始めたのか。……親が病気でもしてるのか。もしかしたらお前が身体の具合でも悪くて病院に通って……」
いろいろ並べたてる流川を見ながら、洋平はその言葉の意味をどこかで理解していた。たぶん流川は洋平が練習に顔を出さなくなった理由をいろいろ考えていたのだ。最初の数日はきっと買物を頼まれただけでそれが終われば来るかも知れないと。それでも来ないと判れば次の何日かは習い事始めたとか親が病気なんじゃないだとか……そして、洋平自身が病気なのかも知れないというところまで辿り着いて、おそらく確かめずにはいられなくなってしまったのだ。
そこまで思い当たって、洋平は胸が熱くなっていった。自分のためにここまで悩んでくれた流川の気持ちに。そして、その気持ちに答える訳にはいかない自分の過ちに。
「お前が心配するようなことじゃねえよ。親は両方共元気だし、オレだって別にどこも悪くねえ」
「顔に傷があった……」
流川が手を伸ばして頬に触れようとする瞬間、洋平はその手を避けるように身体を仰け反らせた。
「そんなもんはもう治った。オレは男だぜ。いちいち顔の傷一つくらいで心配されてたまるかよ」
手が触れなくてよかったと思う。もしも触れていたら洋平はその手に全てを任せてしまいたくなる衝動にかられたことだろう。
今だって、この手が欲しくてどうにもならなくなりつつあるのだから。
「その時からだ。お前の元気がなくなって、練習にも来なくなった。バイトの帰りに偶然会うこともなくなった」
この手が欲しい。この身体に抱かれたい。それは今までの洋平にはなかった感情だった。リョータに抱かれたときに感じた自らの欲望。それが初めて洋平の中で形をとった瞬間だった。洋平はその欲望を否定した。否定しようとした。
「オレはバスケ部員じゃねえし、練習に行かねえからって誰にも責められる筋合いじゃねえだろ。それに偶然は偶然だ。バイトの時間だっていつも同じじゃねえ。会わねえったって何の不思議もねえだろ」
「……だったら、もうオレを避けるな ―― 」
その流川の手を、洋平はもはや避けることができなかった。手首を引き寄せられ、その腕の中に抱きしめられたとき、洋平の欲望は否定の仕様もないほどに大きくなっていった。流川の腕の暖かさが洋平を狂わせる。身体に染み込んでゆくその心地よさが洋平の脳髄を痺れさせ−
「ふ……ふざけんな!」
まるで奇跡のように、洋平は流川の腕を拒むことに成功していた。しかし奇跡は二度とは起こらないことを洋平は知っていた。たたみかけるように洋平は言葉を紡ぐ。
「二度とオレに触るな! 二度とオレに話しかけるな! オレを見るな! ……帰れよ。もう二度と現われるんじゃねえよ。帰れよ!」
「……水戸」
「てめえの面なんか見たくねえ! ……オレのこと……考えることすら許さねえ。今度こんなことしやがったら……」
「水戸……オレは……」
「帰らねえんならいつまででもそこにいやがれ!」
洋平はマンションとは反対の方向に走りだした。できるだけ早く流川から遠ざかるように。流川は追いかけてこなかった。
風景が曇る。もう走りつづけることすらできないほどに曇ってしまって、ようやく洋平は足をとめた。こんな風に流川を傷つけたくはなかった。とまどいの裏に絶望を隠した流川の瞳は、洋平の目に焼き付いて離れなかった。
自分を抱きしめた、流川の腕。
その流川の行動がどんな感情からなされたものであっても、洋平はもう二度と流川の腕を忘れることはないだろう。一番欲しくて、それでも拒んだ腕。なにも知らずに洋平を抱きしめた。もしも洋平が既に誰かに穢された存在だと知っていても、それでも流川は同じように抱きしめただろうか。
それはありえない。人の心はそんなに強くない。
言葉では理解しようとしても、流川は洋平の中にリョータの存在を感じつづけるだろう。そして、洋平もリョータとの事を心の傷として負いつづけることになる。それが二人の溝になり、やがては修復できない大きな亀裂となって二人の間に横たわるだろう。洋平には難しいことは判らなかったが、そのことは肌で感じていた。
これでよかったのだ、と、洋平は思っていた。そして、奇跡を起こせた自分を愛しく思う。流川のためだからできたことだ。自分のためだけならば、ここまで強くなれる自分じゃなかっただろう。
心に整理をつけられるだけの時間と、流川が立ち去ることのできるだけの時間を置いて、洋平は帰路についた。自分の屈折した欲望もやがて昇華できる日が来ると信じながら。そう信じて信じて、自分に暗示をかけるように繰り返していたその時、洋平は悪夢のような声に背筋を凍らせていた。
「洋平」
振り返るのが恐かった。もしも振り返れば悪夢は現実になる。こんな現実は見たくなかった。空耳であればいいと思った。
「人が話しかけてんのにだんまりはねえだろ」
全身が凍りついて動かなくなる。喉の奥にものをつまらせてしまったかのように、普通に呼吸することすらできなかった。声も出せない。恐怖に手が震えている。その震えはやがて全身の震えになって、洋平の心までも震わせていった。
やっとの思いで洋平は振り返った。身体がぎくしゃくしてひどく緩慢な動き。勇気を出して相手を見ると、そこには現実の悪夢が立ちつくしていた。
「来てやったぜ、洋平。お前のために」
金縛りにあってむりやりしぼりだす時のように、洋平は声を出した。
「どうして……宮城サン」
「そろそろ男の身体が恋しくなる頃じゃねえ?」
洋平の身体の奥底まで刷り込まれたリョータの身体。昇華されぬ欲望。一度その味を知ってしまった身体は二度と離れることができない。洋平はその意味を初めて理解していた。それは流川に感じた欲望と同じものだった。壊れてしまったものを元に戻すことは誰にもできない。
洋平の中でなにかが激しく葛藤していた。この身体に与えられた屈辱と男の身体を求める欲望とが渦を巻いて戦う。光と暗闇とが互いを打ち消し合いながら激しく争った。やがて、目の前に灯っていた小さな光が消える。そして、その光が消えたとき、洋平の中にはなにか空虚なものが浮かび上がっていた。
流川でなければ同じだ。リョータでも、リョータでないほかの誰かでも。
「あの薬は……もう……」
「シラフでなけりゃこっちもそう燃えられねえよ。お前が欲しいって言わなけりゃ使わねえさ」
最初は無理矢理でも、二度目からは自分の意志。流川に戻れない今となってはリョータに抱かれることも意味をなさない。今確実に洋平は死神の鎌に捕まっていた。
美しい思い出は過去の自分と共に置き去りにされて行く。現実は悪夢に蹂躙され、純粋な夢はその奥に無残に打ち捨てられる。
洋平は二度と、しなやかな黒猫の夢を見ることはない。
了
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