黒猫の夢
「そろそろ身体動かねえだろ」
目の前のリョータの姿は奇妙にゆらめいていた。その声は嘲るように洋平の耳に響いてくる。水割を数杯飲んだだけだ。自分の許容量よりはるかに少ないはず。
「宮城……サン」
声も思うように出せなかった。まるで自分の声とも思えないほどの頼りない声に驚愕してリョータを見ると、彼は逆に満足そうにほくそえんでいる。既に身体中が痺れて動くことすらままならない。リョータの目に何か危険なものを感じて後ずさろうとするが、気持ちとは裏腹に指一本動かすことすらできなかった。
リョータが近づいてくる。片手に何か小さな白いものをヒラヒラさせながら。
「無理に動かねえ方がいいぜ。……これ、三井さんに頼んで流してもらった薬なんだけど、巷でけっこうイイって評判でよ。あのひとは女で試して、一晩に三回失神させたってよ」
サラサラした顆粒が洋平の目の前で踊っている。リョータの言葉をそのまま上手に理解することができなかった。頭が痺れて目の前が霞んでくる。踊りながら迫ってくる白い顆粒だけが、洋平の意識を辛うじて現実につなぎとめる。
「痛みも快感に変えてくれる。まだ男で試したって話聞いてねえからな。……でも、イイと思うぜ。お前のこと天国につれてってやるよ。……初めてだろ?」
頬にふれられたリョータの指が一瞬にして洋平の脳に、そして全身に快感を伝えてくる。リョータが爪を立てて洋平の頬に傷をつける。その痛みすらも洋平には快楽と感じた。激しく脳髄を突き上げ全身を巡ってその一点に収束される快楽は、明らかに洋平の身体を蝕んでいた。一瞬にしてかいま見た天国は、洋平にとっては快楽地獄以外のなにものでもなかった。
「やめろ……宮城サン……」
叫んだつもりだった。だがその声は既に凍りついていて、僅かに唇を震わせるだけに留まった。
「楽しませろよ、洋平」
リョータの唇が洋平の唇の震えを吸い取っていった。洋平は全身に鳥肌が立つほどの快感とおぞましさとを感じてびくんと痙攣した。その瞬間、洋平は心の中で叫んでいた。目の前のリョータではない別の名前を。
声にならない声で−
リョータの這い回る唇に侵食されてゆく自分の身体に落ちていく何かを感じながら、洋平はたった一つの名前を叫びつづけていた。心の声は後悔と悲哀に満ち純粋な思いは汚辱にまみれ穢されていった。自分自身が終わりのない道を辿り始めたことを心の中で感じながら。
身体の痛みが空虚な快感に変わる瞬間、洋平は心の痛みを全身に感じていた。
洋平がバスケット部の練習を見る楽しみは、いつの間にか別の意味を持つものへと変わっていた。
しなやかな身体がボールを追う動きに無駄はない。パスを受け、ドリブルで攻め込んでディフェンスを避けながらシュートを打つ様は、身軽な黒猫をも連想させた。洋平はいつしかその身体を目で追うことに時間を費やすようになっていった。そうしているかぎり、洋平は退屈な練習を見飽きるということがなかった。
休憩時間に親友が洋平の側にやってくる。洋平はその楽しい時間の感覚そのままに親友を笑顔で迎えた。
「洋平、見たかオレの合宿シュート!」
ようやく髪の伸び始めた親友は、満面の笑顔で洋平の賛辞を求める。
「ああ、もうどこにだしても恥ずかしくねえな。さすが天才」
「そりゃ、オレは天才バスケットマン桜木だからな」
横顔に視線を感じる。その視線の先を、洋平はあえて見ようとはしなかった。その時間が好きだった。ただ黙ってその視線を受けるだけの時間が。
「なんだよ。ルカワの奴またこっち見てやがる。なんだってあいつオレにガンつけやがんだ?」
「さあな。お前の成長ぶりが嫉ましいのかもよ」
「そうだよな。あいつはオレみてえな天才じゃねえ。オレが奴を倒す日も近ーい!」
「そうだ! 頑張れよ。オレはここで見ててやっから」
「おう!」
親友にやさしい言葉をかければかけただけ、流川の視線がきつくなる気がする。そんなちょっとした視線のゲームが快感だった。もう一つ、洋平を見つめる視線があったことなどには気づかずに。
バイトの帰りに、偶然に流川に会う。不自然なほど自宅から遠いところをランニングコースに選んでいる流川に。
「よう、偶然」
ランニング中の流川は洋平の前で足を止めることを一度も厭わなかった。目的がランニングでないことを白状しているようなものだと洋平は思う。
「水戸……」
「この辺走ってると花道に会わねーか? ……ひょっとしてそれが目的とか。よく練習中に花道にガンつけてるもんな、お前」
「……桜木には会わない」
お前に会いに来てるのだと言わせたかった。流川の口からその言葉を先に聞きたかった。好きだという言葉は口に出された瞬間から色をなくす。洋平はその瞬間を楽しみに思いながらも、永遠に楽しんでいたいような矛盾した想いを描いていた。
自分に楽しむ時間はたっぷりあって、失われることなどないと思っていた。
ほんの数時間前、リョータに飲みに誘われるまでは。
「……ほれ、お前の友達の野間とか大楠とか、あのへんも誘ってんだ。聞いたらお前今日バイトだって言うからよ。まあ来ねえかも知れねえけど一応誘ってみよって話んなって。けっこう夜中遅くまではいると思うからよ。……それともお前、酒なんか飲まねえか?」
リョータに酒が飲めないと思われるのは癪だった。見つかって停学くらうのを恐がってると思われるのも。
「そんじゃこれ、オレんちの地図。待ってっから」
バイトまであまり時間もなかった。軍団たちに確認を取る暇もなく、また必要性もそれほど感じなかった。リョータがあんな邪な想いを抱えていることなど、まるで想像もしていなかった。
バイトを終えてリョータの家を捜し当てると、そこにはリョータ以外の誰もいなかった。おそらくいるはずのリョータの家族も、軍団たちの姿も。そう言えば家族は旅行に出かけていて今夜はいないという話を聞いたような気がする。
「あいつらなんか盛り上がっちまってよ。これからカラオケに繰り出すんだって出て行っちまったんだよ。オレもうっかりお前が来るの言い忘れてて。……酔っ払いだからオレの言うことなんか聞きやしねえ。仕方ねえから一人で待ってたんだ」
誰もいないのなら帰ろうと思った。リョータと二人で飲んだところで何が楽しいこともないだろうから。
「待てよ。オレだってお前が来るからって待っててやったんだぜ。一時間やそこらつきあったところでばちはあたんねえだろ? ちゃんとウイスキーも残してあるんだ」
リョータに導かれて入った部屋は妙にきれいだった。三人が飲み散らかしていった気配など微塵も感じぬほどに。
この時におかしいと思うべきだったのだ。あとから考えれば思い当たる節はいくつもあった。しかし洋平は気づかなかった。リョータにうまく誘導されて、その罠に嵌められていったのだった。
「楽しませろよ、洋平」
洋平の身体はリョータの欲望に踏みにじられて、その存在の意味を変えていった。一度リョータに穢されてしまえば、二度と流川を夢見る資格などなくしてしまう。一番純粋で美しかった夢を洋平はリョータに破壊されてしまったのだ。
いつしか洋平は流川の名前を呼ぶのをやめた。遠くはるかに消えてしまいそうになっている夢を追うことも無意味だから。洋平は自分を呪った。そして自分を恥じた。身体の奥にひそむ自らの欲望にどろどろの汚辱を感じ取って。
やがて、洋平の身体はリョータにとってもその意味をなくす。打ち捨てられた身体にリョータは言葉を投げた。
「薬が切れたら帰っていいぜ。……なあに、残りゃしねえよ。たいした薬じゃねえ」
部屋を出て行くリョータの足音を聞きながら、洋平はもう二度と戻れない昔の自分に別れを告げた。
「洋平! ……どうしたんだ? その傷」
親友の言葉は昨日の悪夢を彷彿とさせる。そのわずらわしさに洋平は親友を軽くあしらった。
「猫にひっかかれたんだ」
「女じゃねえのか?」
「案外男かもよ」
無責任軍団の言葉にやや焦りながらも、それを表にだすことはしなかった。一晩たっても悪夢が消え去らない。今はただひたすら、リョータにも流川にも会わないことだけを洋平は祈っていた。
その日の放課後、洋平はバスケ部の練習を見には行かなかった。バイトがない日は必ず見に行っていた。黒猫の雄姿を見るために、そして僅かな視線のゲームを楽しむために。
そのどちらも、今の洋平には必要のないことだった。流川を追うのはもうやめようと思った。流川を好きでいることも。そうして会わずにいればいずれ洋平は流川を忘れられるだろう。流川も洋平のことなど忘れる。その方がいいと思えた。もしも本当に流川が洋平を好きだと思っていたのだったら、その時の流川に好かれていた洋平は今の自分ではないのだから。
流川には何も話したくない。話したら流川は洋平を今までと同じ目で見ることはできなくなるだろう。何も話さないで流川とのゲームを楽しむこともできなかった。それは流川を騙すことだから。今はもう存在しない自分を演じて同じ関係を続けることは、それだけで罪悪のように洋平には思えた。
会わないことが一番いい。
流川は誤解するかも知れない。洋平の気が変わったのだと悲しむかも知れない。それでも全てを話してしまうよりましだと思う。身を引きちぎられるような思いを流川に感じさせてしまうよりは。
結論は割と早かった。一日流川を避けて過ごして、しかし洋平は自室でその堂々巡りを繰り返していた。今願うことは早く時間が経つこと。やがて流川の視線を感じることがなくなること。
洋平はリョータとの交わりで少し感覚の違ってしまった身体を持て余していた。部屋の中をうろうろと歩きまわながら、ふいに窓の外に視線を走らせる。満月に近いきれいな月夜だった。その月明かりの下に、洋平は信じられない人影を見つけたのだ。
(流川……)
月の明かりを浴びて、流川はまっすぐに洋平の部屋を見つめていた。流川の視線は洋平の心の中に一直線に入ってきた。もう洋平の中には存在しない穢れなき心。何の曇りもない視線は、洋平の身体を釘づけにして離さなかった。
今までこんな風に部屋を見つめる流川を見つけたことはなかった。もしかしたらこれまでもこういう事があったのだろうか。今日は洋平は練習を見に行かなかった。バイトにも行かなかった。ランニングコースで会わなかったから、今日に限ってこういう行動に出ているのだろうか。
視線が絡まりあう。おそらく流川も洋平の視線を感じているだろう。
それに気づいた洋平はあわてて部屋のカーテンを引いた。誤解されても傷つけても、悟られたくはなかったから。リョータとの異常な一夜のことを。
例えばもし、リョータに犯される以前に流川に自分の気持ちを告げていたら、流川との関係ももう少し違ったものになっていたかも知れない。悔しさに洋平はベッドに突っ伏してシーツを引きちぎらんばかりに握りしめた。全ては自分のおろかさから招いた結果で、誰も責めることなんかできやしない。それでも、洋平はリョータを恨みがましく思う。そっとしておいてくれたらよかった。自分の欲望の処理のために洋平を選んでなど欲しくはなかった。
もう少し早く、流川が洋平に気持ちを告げてくれたら ――
流川が悪い訳などないのに、洋平は流川を恨みに思った。こんなに遠くまでただ洋平に会うためだけにやってくる流川。そんなひたむきな気持ちを受け止めるだけの資格はもう洋平にはないのだ。そうなる前にもっとしっかり捕まえておいて欲しかった。お前が悪いんだ流川。お前が……
今初めて、洋平は泣いた。自分でも訳の判らない悔しさと悲しみとを洗い流すために。過去の自分との決別をより確実に果たすために。
窓の外の流川の気配は、いつまでも消え去ることはなかった。
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