黒猫の夢 おまけ

 気がついたら抱きしめていた。
 洋平が自らの内にどれだけの大きさで存在するのかは知っていた。それでも、会うこともできず視線を交わすこともなかったあの悪夢のような時間に、彼はその認識の甘さに狂い出しそうな思いをさせられていた。どんな口実でも、いや、口実なんかなくても、彼は洋平に会いたかった。会って確かめたかった。自分を避けるようになったあの日、頬にあった傷の意味を。
 その存在のすべてがただ愛しかった。ちょっと皮肉に笑う顔も、包み込むような笑顔も。親友に向ける無償の友情に腹が立った。その気持ちをうまく伝えられず親友に必要以上につっかかる自分を、何度となく情けなく思った。
 それでも、見ていればきっと伝わる。
 自分の存在に気づいてくれる。
 そんな不確かな希望は、いつしか裏付けられていた。あるいはそう思いこんでいただけなのかも知れない。すれ違えば必ず声をかけて来る。何も言えない自分をからかうように親友の話を持ち出して勘違いしてみせたりする。自分が見つめていることが判っていて親友に優しくして見せたりする。駆け引きをしかけているのだとすれば、少なくとも自分に関心を抱いているのだと解釈していたのだ。
 抱きしめた瞬間、心は通じたのだと思った。だが次の瞬間、希望は絶望に入れ替わっていた。
『オレのこと、考えることすら許さねえ!』
 洋平の言葉が、磨ぎ澄まされた氷の刃のように心に突き刺さっていた。痛くて、冷たかった。にわかに信じることはできなかった。一瞬のことだったが、確かに二人の間に流れた熱い何かを感じることができたのだから。
 洋平はまるで泣きそうな顔で罵声を浴びせ続けた。こんなにも洋平を苦しめたのが自分のたった一度の抱き締めなのだと思うと、心は氷水を浴びているように寒くなった。そんなにも抱かれることに嫌悪感を持っているのならば自分は洋平を抱けなくてもいいと思う。一番近い存在でなくても、一言も口を聞けなかったとしたって、それでも構わないのだ。ただ、洋平に嫌われさえしなければ。こんな風に拒絶さえされなかったら ――
 ただ、確かめたかっただけなのだ。あまりに性急過ぎたから驚かせてしまったのならば、洋平に謝らなければならないと思った。そしてもう一度確かめたかった。ただ驚いただけなのだと、自分を嫌いになったのではないのだと、洋平の口から聞きたかった。洋平のそのたった一言が聞きたかった。
 その一瞬に確かに流れた熱いものに繋がれた心。その自分の感覚の方を信じたい。二人の間に誤解があるのならばすべてを解きたい。そうして判り会えたなら、もう一度やり直せる気がする。ただ視線を交わし合っていたあの時のように。
 その夜、マンションの前で待ち続ける流川のもとに、洋平は帰ってはこなかった。



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