冬のまほろば



 混乱した頭を抱えて、とりあえず花道は洋平の領域(クラプト)より聖地に近い、もとのイズ=カテナの領域(クラプト)まで戻ってきていた。
 心を落ち着けて頭の中を整理するのに、かなりの時間をかけなければならなかった。泉で顔を洗って、向かい風にさらす。冷たい風に冷されて、どうにかものを考えられる程度に、花道は落ち着いてきていた。しかしまだ冷静な状態からは程遠いものがあった。
 状況を思い出して頭を掻きむしる。あのときからずっとその繰り返しだった。
「洋平、何だよ。……あいつ誰だよ」
 心の中ではずっとそう呼んでいた。許されていない名前を、ずっと。
 初めて出会ったときから、花道は洋平のことをそれ以外の人間(ヒト)とはまったく別の存在として捉えていた。旅の途中で、その気持ちが伴侶(カタホウ)に対するものなのだと気付いて、心の中でずっと温めていた。洋平は同じ気持ちにはなってくれなかった。しかし、春が来れば判らない。春が来たとき、洋平に自分を呼んでもらいたくて、不利になることなど構わずに洋平を待つことを決めた。
 洋平の側にいるときには必死で抑えてきた気持ち。嬉しくて、幸せで、自分の領域(クラプト)に戻ってきてから毎日ミッチーを捕まえてしゃべった。旅の間の、洋平の言葉やしぐさ、狩の時のしなやかな動きも。そうしてしゃべりながら思い出すのはとても幸せだった。愛しさが溢れて、言葉を尽くしても語りきれないほど。
 抱き締めたかった。ただ自分のことだけを見つめてもらいたかった。
 外側の領域(クラプト)に育った洋平は、花道よりも幼いのだと思った。だから今は花道を伴侶(カタホウ)として見てはくれないけれど、冬の間ずっと見守っていれば、自然に花道を選んでくれると思っていた。
 こんなに早く洋平が伴侶(カタホウ)を決めてしまうなんて、思ってもみなかった。
(……だけどなんでだよ。伴侶(カタホウ)を決めたんなら、二人で聖地に行きゃいいじゃねえか。聖地に行かねえなんて、自殺以外のなにもんでもねえ)
 すべてが納得できなかった。そして、洋平にそんな行動を取らせたあの伴侶(カタホウ)の考えも許せなかった。花道と別れる以前の洋平は、ちゃんと聖地に出発するつもりだった。その気持ちを変えたのはあの伴侶(カタホウ)なのだ。あの伴侶(カタホウ)が現われたから、洋平は狂ってしまったのだ。第四世代は聖地に移動しなければ生きられないのに。
(あいつは……洋平を殺そうとしてる)
 幼い洋平をまるめ込んで洋平を狂わせた。洋平の伴侶(カタホウ)としてあの人間(ヒト)はふさわしくない。あの伴侶(カタホウ)は洋平のためにはならない。だとしたら、あの伴侶(カタホウ)を洋平から遠ざけることが、洋平のためになることではないのだろうか。
 いや、どんなに言葉を飾っても、結局花道は洋平が欲しいのだ。洋平の選んだ伴侶(カタホウ)がどんなにいい人間(ヒト)でも、洋平が心から呼んだ相手でも、花道は洋平を諦めることができないのだ。洋平が欲しい。たとえ、あの伴侶(カタホウ)を殺してでも、洋平を奪って自分の伴侶(カタホウ)にしたい。
 そのことで、洋平がどれだけ自分を憎もうとも。
(洋平を、絶対聖地につれていく。洋平が誰を選んでても関係ねえ。オレのためだ)
 花道の身体が、しだいに熱さを増していった。
 それは、あの赤い砂の砂漠で洋平を抱き締めた、あのときと同じ熱さだった。


 風下の茂みで、息を殺して待った。風上からは風下の気配はあまり感じることができない。それでも洋平がほかの、花道の領域(クラプト)に近いところにいた人間(ヒト)達よりは遥かに鋭いことが判っていたから、かなり遠くに潜んだのだ。かろうじて二人の姿が見える、その茂みに。
 洋平はなかなか一人にならなかった。二人でいるときに現われれば、最初の二の舞になることは判っている。洋平の口から洋平の気持ちを聞くという目的も、抵抗したら強引に連れ去るという目的も果たせはしないだろう。緊張感を持続させながら待つのは苦しかった。どうしても、何をしても欲しいものを手に入れるためでなければできないことだった。
 花道は丸一日近くを待った。そしてようやく、ピジョン=ブラッドが洋平を置いて風下の方角に出かけていったのである。
 花道の近くを歩き過ぎるピジョン=ブラッドに気付かれないように息を殺して、そのピジョン=ブラッドが気配に気付いて戻ってこないと安心できる時間をも待った。そうして、茂みを飛び出した花道が振り返った洋平の目の前に立つと、洋平は驚いたように短刀(チェルク)を握り締めたのだ。
「水戸、洋平」
 洋平には花道が二人を見張っていただろう事は容易に想像がついた。ピジョン=ブラッドがいなくなったと同時に現われたのだ。その目的もだいたい判っている。洋平がなぜ聖地に向かわないのか、その理由を尋ねに来たのだということ。
 親切な花道。洋平が聖地に行こうが行くまいが、花道には何の関係もないというのに。
短刀(チェルク)を、オレに向けるな。必要ねえ筈だ」
 洋平は短刀(チェルク)を下に置いた。もちろん、今何か事が起こればすぐに握れる位置に。
 花道も向かいに座って短刀(チェルク)を置いた。目の前の洋平は、一緒に旅したあのときよりも更に華奢になったような気がした。
 洋平は花道が怖かった。その理由は判らない。だから早く話を終わらせて花道を追い返してしまいたかった。
「ピジョン=ブラッドは第三世代なんだ」
 洋平の言葉に、花道は硬直したまま動けなかった。
「オレはピジョン=ブラッドと一緒に生きることにした。あとどのくらい、ピジョン=ブラッドが生きられるのか判らねえけど、できるだけ一緒にいて、できることならあいつの子供を産みてえと思ってる。……聖地に住めるのは第四世代だけだ。だからオレは聖地には行かねえ」
 覚悟は、してきたのだと思っていた。しかし実際洋平の口からはっきりと聞いて、実はそんなことこれっぽっちも考えてはいなかったのだということに、花道は気付いていた。洋平は花道を選んでくれると思っていた。ピジョン=ブラッドに騙されているだけで、洋平の本当の気持ちは違うのだと思っていた。
 しかし、洋平の言葉は、騙されている人間(ヒト)の言葉ではなかった。自分の意志を持ち、納得して生きるかつての洋平そのままだったのだ。
「判ったら、桜木花道は早く聖地に帰れよ」
 短刀(チェルク)を拾って、洋平は立ち上がりかけた。その手を花道が掴んだ。洋平が握っていた短刀(チェルク)が花道を傷つけ、慌てて洋平が短刀(チェルク)を放す。花道は痛みに気付かなかった。
「待て。まだ話は終わってねえ」
 花道の腕から、赤い血が流れ落ちた。その血が洋平の神経を刺激する。あの日の絶望を思い出す。生きていることの意味を失った、あの悪魔の日のことを。
 貧血を起こしたように、洋平はその場に座り込んでいた。
「水戸洋平!」
 支えるように肩に手を回して、花道は洋平を覗き込んだ。触れた身体はやわらかかった。華奢で青白い洋平は、一瞬前までのあの力強さなどもう微塵も感じなかった。
「……話ってなんだ」
 やわらかい。なぜ、洋平はこんなにやわらかいのか。
「早く話せよ」
「あ……オレ、オレは……」
 洋平の頬に触れると、傷ついた腕から洋平の白い肌に赤い雫が落ちた。肌を染める赤。あの日洋平の肌を染めた、鹿(カザム)の赤い内臓。
 砂の流れる音が聞こえる。人の理性を狂わせるのはいつも赤い色だった。花道の視界に靄がかかるように世界を赤く染めてゆく。それは赤い風を通して見た、紫色の空の色。
 引き寄せて触れた唇は甘く開放を促す。とどまる意志など存在しなかった。ただ洋平に触れることだけが、唯一の自我だった。逃がさないように、誰も洋平を連れていかないように、しっかりと身体を抑えつけて。
 流されてしまいたかった。洋平にも同じ流れに身を委ねて欲しかった。
 花道に触れられた洋平のすべてが熱く脈打った。洋平は自分の心臓が激しく生み出す鼓動を感じた。花道の熱い息に飲まれて、息苦しさと高揚する本能に近い自我に支配された。
 (ルマ)になった身体が、洋平の意志とは無関係に流れてゆく。(ガイ)の腕にすべてを委ねて欲望を受け入れようとしている。
 不意に ――
 花道は動きを止め、洋平の身体を確かめるように弄った。そしてその瞳は洋平が見ている前で驚愕を浮かべたのだ。
「まさか……お前、この身体……」
 以前触れたときとは明らかに違うやわらかさ。洋平は身を捩って花道から逃れようとした。しかし今の洋平の力ではどうすることもできなかった。
「……嘘だろ。……お前が、(ルマ)に変化したりなんか……」
 筋肉の衰えた腕は硬さを感じさせなかった。花道に知られてしまったのだ。できることなら最後まで隠し続けたかったその事実を。
 だが、知られてしまった事実は、花道を遠ざけるためには大いに役立つ現実だった。
「判っただろ。オレが聖地に行けねえ理由が」
 花道は呆然と洋平を見ていた。信じられなかった。第四世代が、冬を越す以前に(ルマ)に変化することなどあるはずがないのだ。聖地で暮らしながら春になったら伴侶(カタホウ)になろうと約束する二人はいくらでもいる。しかしそれでもその人間(ヒト)は変化しない。春にならなければ第四世代が(ルマ)に変化することはありえないのだ。
 たとえ洋平が花道に恋をしたとしても、そしてほかの人間(ヒト)に嫉妬したとしても、本当なら洋平が(ルマ)に変化することなどなかったはずなのだ。
「オレはピジョン=ブラッドの子供を産みてえんだ。春になってから変化したんじゃ間に合わねえんだ」
 ありえないから、洋平の言葉が真実のような気がした。だけど、今腕の中にいる洋平がほかの人間(ヒト)のものだなんて、どうして信じられるだろう。花道にはたった一人の伴侶(カタホウ)なのだ。その伴侶(カタホウ)がほかの人間(ヒト)のものになってしまったら、花道はいったいどうすればいいのだろうか。
 花道の先には絶望しかなかった。それは、洋平が味わったような、洋平が思ったような絶望とはまったく違っていた。命が無駄になるとか、そんなことはどうでもよかった。花道には洋平がいない未来など何の意味もなかったのだ。
 どんな洋平でも欲しいと思った。たとえ誰のものであっても、たとえ(ルマ)に変化した洋平であっても。
「水戸、洋平。オレは、お前のことが好きだ。だから、オレの伴侶(カタホウ)になってくれ。頼む」
 それは万が一の選択の筈だった ――
「そこまでだ」
 背後の気配と首筋につきつけられた短刀(チェルク)に花道は動くことができなかった。洋平が見上げた先にはピジョン=ブラッドの凍るような表情。
「洋平から離れろ」
 いかな身体の小さなピジョン=ブラッドが相手でも、この体勢から花道が反撃することはできなかった。ゆっくりと洋平の上から身体を起こした。ピジョン=ブラッドに追い立てられるまま、花道は洋平から遠ざかった。その目にはある決意が生まれようとしていた。
(やっぱ、こいつを殺すのが先だ。こいつがいるかぎりオレは洋平を手に入れらんねえ)
「今度洋平に近づいたら容赦はしない」
(だけど洋平の目の前ではやれねえ。今度こいつが洋平から離れたとき)
「僕が君を殺す。洋平のために」
(オレがてめえを殺す。それが洋平のためだ)
 次のチャンスを求めて、花道は名誉ある撤退をした。
 今度こそ、洋平のすべてを手に入れるために。



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