昔、ただ一度だけ、ピジョン=ブラッドは人間を殺したことがあった。二人で生まれてくる第三世代は、伴侶を失ったとき、子を作る権利をも永久に失う。その運命を甘受できなかった男達は、変化の始まった他の女を伴侶の手から奪おうとした。そんな男達からピジョン=ブラッドは裕を守ったのだ。親友の渉のために、自らの手を血に染めて。
花道がピジョン=ブラッドを殺すのは、自分のためだった。二人の間に第三世代であるピジョン=ブラッドはいらない。洋平は苦しむかもしれない。自分を恨むかもしれない。それでも、たとえ憎まれても洋平を誰かに取られるよりは遥かにマシだと思った。
目の前に現われたピジョン=ブラッドの目は、花道を狩の対象として捉えていた。そのことを、花道は知った。
「僕は洋平を愛している」
絶対に負けることは許されなかった。
「オレはどんなことをしてでも水戸洋平を手に入れる。てめえを殺してもだ」
「僕の女を?」
「オレの女だ!」
勢いにまかせて駆け寄り短刀で空気を薙いだ。一瞬前までは確かにピジョン=ブラッドの喉笛があった場所。動きに即座に反応して翻りざま短刀を突き刺す。煙のような素速さで、ピジョン=ブラッドは花道の短刀から紙一重で逃れていた。
身体の大きな花道は生きる力も強い。だから小さなピジョン=ブラッドには負けない。
ピジョン=ブラッドを殺せないはずなどない。
「桜木花道、君は人間との戦い方を知らない」
「うるせえ!」
「こうするんだ」
あっという間だった。ピジョン=ブラッドの動きを追い掛けて振り回した短刀が花道の背に回った瞬間、ピジョン=ブラッドはその腕を捩じり上げながら足を引っ掻けて花道の巨体を地面に倒した。反撃しようと見ると首筋にピジョン=ブラッドの短刀があって命を狙っていた。腕はありえない方に捩じ曲げられて力さえ入らない。力では圧倒的に有利な花道が、どう反撃することもできないのだ。
一瞬の、完璧なまでの敗北だった。
「なん……で、嘘だろ」
「人間の身体はやわらかいんだ。鹿を狩るときみたいに首だけを狙っても簡単に逃げられる。だけどそのかわり安定感はない。身体が小さい人間でもこの程度のことはできるんだ」
ピジョン=ブラッドがほんの少し短刀を動かしただけで、花道の命は終わる。こんなに簡単に、小さなピジョン=ブラッドに殺される。
これが、洋平が選んだ男なのだ。
「……オレを殺すのか?」
花道の問には、ピジョン=ブラッドは答えなかった。
「子供に名前を ―― 」
言い掛けて言葉を切ったピジョン=ブラッドを、花道は振り仰いだ。ピジョン=ブラッドは花道を見てはいなかった。短刀を一ミリも動かさず、遠くを見るような瞳で。
そのチャンスにもなぜか、花道は抵抗する気になれなかった。
「何だって……?」
「 ―― もしも一人で生まれたなら、聖地の長老達に預けるといい。二人なら、春になる前に砂漠に向かって旅をさせて。そしてもし、万が一、三人で生まれたなら ―― 」
花道は、ピジョン=ブラッドの言葉を一言も聞き漏らさなかった。
「 ―― 三人目の、一番身体の小さな子供には、ブラッドという名前を ―― 」
三人目の、一番身体の小さな子供には、ブラッドという名前を。
―― やがて。
ピジョン=ブラッドの肌のぬくもりの消えた領域で、花道はもう二度とピジョン=ブラッドが二人の前に現われることはないと知った。
花道は、万が一子供が三人生まれたら、必ずあの赤い目の第三世代の名前をつけると、風に誓った。
祈るような気持ちで、洋平は風下の一点をただ、見つめていた。
花道にもピジョン=ブラッドにも死んで欲しくはなかった。花道にもピジョン=ブラッドにも、人間を殺して欲しくはなかった。命が消えるのは悲しいから。自分の命が消えたときの絶望は、洋平は一番よく知っていたから。
長い時間だった。洋平には、待っていることしかできなかった。なぜなら、洋平は結局、選ぶことができなかったのだから。洋平が二人のうちのどちらかを選んでいたら、二人は殺しあうこともなかったのだろう。
死んで欲しくはなかった。やがて春になり誰かと伴侶になる花道にも、やがて春になる前に死んでしまうことが判っているピジョン=ブラッドにも。
長い時間だった。待ち続けて、やがて遠くに洋平は赤く輝く髪を見つけたのだ。
花道 ―― だと思った。赤く透ける髪。花道だと思いたかったのかもしれない。
駆けてくる赤は見る間に大きくなり洋平を抱き締めた。息もできないくらいに強く。
「水戸洋平!」
身体が溶けてしまうような気がした。花道の、最高の男の腕に。
「オレ……お前の伴侶になりてえ……」
花道の、持って生まれた恵まれた運命。その運命を変えてしまう。判っていても、抱き締めるその腕を欲しいと思った。誰にも渡せなかった。のちにどれだけ後悔しようとも、今抱き締めるこの腕を放してしまいたくなどなかった。
「ずっと、思ってた。赤い砂の砂漠に旅してた時から、ずっとお前の伴侶になりたかった。……気が、狂いそうだオレ。この先なんて、ぜったい出会えねえ」
―― 何もかも見えなくなるほど洋平を望む。そして洋平もその相手を愛するようになる。
これが、洋平の本当の伴侶 ――
「洋平、って、呼んでもいいか?」
頷くか頷かないかのうちに、洋平の唇は花道の息に吸い取られていた。
生まれた時からずっと、洋平は子を作るためだけに生きてきた。
冬が来る前に聖地に辿り着き、やがて春になって伴侶を持ち、新しい命に繋ぐ。
その先のことなど知らない。おそらく洋平は役目を終えて、渉や裕がそうだったように、狼や虎の糧になるのだろう。死ぬことは恐ろしいとは思わなかった。子を作れずに死ぬことが、一番恐ろしかった。
聖地の長老達は、他の人間達よりも遥かに長く生きて、知恵を預かるのだという。
知恵は人間の中にある。だが、知恵を持った人間は、ともに苦しみをも与えられる。その知恵と苦しみとを長老達は預かる。長老達に知恵を預けてしまうから、人間は苦しみを味わわずにいられるのだ。
今、初めて洋平は思う。赤い砂を求めたあの気持ち、探求心こそが、知恵の源なのだと。
知恵を持った人間は大きな何かを失う。洋平が失ったものは生きる目的と希望だった。そして、そこまで辿り着いて洋平は気付くのだ。同じように赤い砂を求めた花道も、結局は何かを失わずにはいられなかったのだと。
楽園から墜ちた人間は、過去ほかにもいたのだろうか。彼らはどうしたのだろう。知恵を持った人間は、これから先どこに向かってゆくのだろう。
今、洋平の隣には花道がいる。これから先、自分がどこに向かうのかなど判らないけれど、となりにはずっと花道がいるから大丈夫だと思った。花道とともにいるのは、あの日洋平が花道と一緒に旅することを決めたときに洋平が選んでしまったことなのだと。
そして、花道も洋平を選んだ。
「花道、ピジョン=ブラッドは悲しい。ピジョン=ブラッドには伴侶がいねえんだ。これから先ずっと」
抱き締めてくれる腕も、抱き締めるべき女もない。身体が二つあったらよかった。そうしたら洋平は、ピジョン=ブラッドの伴侶になれた。
「……オレ、一度だけブルーに聞いたことがあるんだ。第三世代は二人で生まれるけど、ほんとに稀にだけど、三人で生まれることがあるって」
ああ、そうだったのだ。ピジョン=ブラッドはたぶん、ファイアとブルーと三人で生まれた、三人目の子供だったのだ。
花道は、もう一人のピジョン=ブラッドが産んだ幻の子供。だから殺せなかった。もう一人のピジョン=ブラッドであるファイアかブルーを殺すことができなかったように。
「 ―― 洋平、オレは、お前に出会えてよかった」
今心の底から、花道はそう思った。だからそのまま口にした。最初にそう思った時、なにも考えずに気持ちを口にしていたなら、洋平は変化しなかったのかもしれない。しかしそれは考えないことにした。ただ、同じ間違いを二度と繰り返したくはなかったから、正直な気持ちを言葉にした。洋平が二度と間違わないように。
何の衒いもなく口に出された言葉を、洋平は信じられる気がした。そして初めて花道の大きさを実感した。過酷なまでの運命に翻弄されつつも、ただ自分と出会えた事を素直に喜んでいる花道に、男としての器の大きさを感じた。
そして洋平も素直に思うことができた。花道と出会えたことが一番幸せだと。
命は、繋がっている。一人の人間の命は、ほかの多くの人間達の命との絆を持っている。ピジョン=ブラッドの命は血の絆こそ跡切れてしまったけれど、洋平と花道を思い遣る心で二人の中に絆を残した。その心の絆をもって、ピジョン=ブラッドの命は生きる。同じように、花道と洋平の命も、誰かとの絆になって生きるだろう。
洋平が産む子供はその次の命を繋げないかもしれない。しかし心を繋ぐことはできる。そうして心を繋ぐことができたら、洋平の命も誰かの中で永遠に生き続けるのだ。
「オレも、花道に出会えてよかった」
その言葉に、花道は力一杯洋平を抱き締めた。
やがて洋平は一人の子供を産む。
その子は聖地の長老の一人となり、多くの人々のために力を尽くす。
心の絆を多くの人達と繋ぐ。
―― そして、洋平は奇跡の伝説になった。
了
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