花道から遠く離れた木の下で、二人は落ち着いた。持ち歩いていた水筒に水を満たして、ピジョン=ブラッドが洋平に与える。洋平は震えていた。うまく水を飲むことができず、大半は胸にこぼしてしまっていた。
「あれが、君の男だね、洋平」
洋平は答えなかった。しかし、その様子だけで、ピジョン=ブラッドが事実を知るには十分だった。
「確か、桜木花道。ファイアとブルーの子だ」
あのとき、花道はピジョン=ブラッドに名乗らなかった。
「……知ってたのか?」
「ファイアとブルーを知ってる。桜木花道のことは知らない。だけど、あの顔を持つのはファイアとブルーの子以外にはいないから」
「……そうか」
ピジョン=ブラッドはファイアとブルーの兄弟なのかもしれないと、洋平は思った。渉や裕にも兄弟はいた。そしてその兄弟は、二人によく似ていたという。
「洋平、桜木花道のことを僕に話して」
洋平は、すべてを話した。突然花道が洋平の領域に現われたあの日のことからの経緯のすべてを。
話しながら、洋平はずっと砂の流れる音を聞いていた。赤い風の吹き荒れる感触。砂の混じった向かい風は重くて、圧倒的な意志と想いを感じた。同じ風を、ピジョン=ブラッドも感じた。はるか昔、ピジョン=ブラッドはあの赤い砂漠の向こうから、この地に旅をしてきたのだ。
話し終えた洋平を、ピジョン=ブラッドは見つめていた。優しくなつかしいものを見るような瞳で。
やがて、ピジョン=ブラッドは言った。
「洋平、女の身体は不思議だね。たった一人の男のために身体のすべてを変化させてしまう。裕は……君を産んだ裕は、渉の子供を産みたいって、その一つの想いだけで自分の身体を女に変化させた。その裕の子は、桜木花道をほかの人間に取られたくないって、ただそれだけのために身体を変化させたんだ。冬を越さなければ絶対に変化しないはずの第四世代の自分の身体を」
そのピジョン=ブラッドの言葉に、洋平は反発を覚えた。
「オレは自分が桜木花道の伴侶になれるなんて思ってなかった」
それに、今変化してしまえば、絶対花道の子供を産むことができないのは判り切っていたのだ。万が一の望みすら絶たれてしまうことは。
「理屈は、ないんだ、女の身体には。……初めて僕と渉が出会ったときね、裕は僕に嫉妬したんだよ。僕が渉の子供を産めるはずなんかなかったのに。渉が裕を愛していたのは、疑いようもなかったのに」
「……」
「洋平は裕の子だね。僕はあのとき、渉が狼に襲われていたあのとき、渉を見捨てて裕を渉から奪ってしまいたかったよ。ほんの一瞬だったけど。……洋平、僕には枷がある。僕はいつも、チャンスを自ら逃してきた。僕の兄弟であるブルーが女に変化したとき、僕はファイアを殺せなかった。殺してブルーを奪うことができなかった。渉を殺して裕を奪うこともできなかった。だから僕は、桜木花道を殺して洋平を奪うこともできないかもしれない」
花道を、殺す……?
どうして? 花道は洋平の伴侶ではない。洋平の思いが勝手に身体を変化させたけれど、花道が洋平を伴侶と思っている訳ではないのだ。洋平を迎えにきたのは単なる花道のお節介で、もしも洋平が女に変化したことを知ったら、花道は諦めて戻ってしまうはずの人間なのだ。
知られたくはないけれど、そう教えなければ花道が戻らないのならば教えてもいい。花道に軽蔑されたくはないけれど、そうしなければ花道が伴侶の元に帰らないというのならば。
「桜木花道を殺さなくてもオレはピジョン=ブラッドの女だ。オレはお前にそう言っただろ」
「だけど、もしも桜木花道が洋平の伴侶になりたいと言ったら、それでも洋平は僕の伴侶になってくれるというの?」
花道が、洋平の伴侶になりたいと言ったら。
「ありえねえよ。あいつにはミッチーとかいう伴侶がちゃんと……」
「万が一、洋平のことを全部判って、子供が産まれないことも知ってて、それでも洋平のことを愛すると言ったら? それでも洋平は僕を選ぶ? 桜木花道よりも僕を選んで、僕の子供を産むと言ってくれる?」
万が一、花道が洋平を愛すると言ったら。
身体に悪魔を迎えたと知ってから、洋平が感じてきた絶望。過去も未来も、すべてを無駄にしてしまったという強烈な後悔。悲しみ。花道が洋平を選ぶということは、洋平が辿ったとまったく同じ道を、花道が辿るということだ。その、同じ道を辿ってなおかつ、花道が洋平を愛すると言ったら。
ありえないと思う。だけど、万が一、花道が洋平と同じ地獄を見ると言ってくれたら。
後悔するだろう、洋平は。花道を巻き込んでしまったということを。しかし、その何倍も、洋平は幸せを感じる。同じ地獄を花道とともに過ごしたいと思ってしまう。
ピジョン=ブラッドには、後悔を感じない。むしろ彼の子を産んであげられる、彼に希望をあげられる自分を誇らしく思う。穏やかな日々に身を委ねながら残りの生を生きてゆける。
怖かった。選んでしまうのが。そんな洋平を見て、ピジョン=ブラッドは静かに言った。
「男を選ぶのは女だ、洋平。もしも洋平が僕を選ぶなら、僕はなんとしても桜木花道を追い返す。桜木花道を選んだら、僕は殺すつもりで桜木花道を排除する。桜木花道を殺して洋平を奪う。……だけど、できるかどうかは判らない。桜木花道は、僕にとっては子も同じだから」
「……どうして? 兄弟の子だからか?」
「桜木花道は、僕が産みたくて産めなかった、幻なんだ」
その言葉の意味は、洋平には判らなかった。だけど洋平は、ピジョン=ブラッドは花道を殺さないような気がした。たとえ万が一、花道が洋平を愛すると言ったとしても。そしてそれはあくまで万が一で、花道が洋平を愛することはないのだから。
「ピジョン=ブラッド、お願いだ。もう一度桜木花道がここにきたら、聖地に追い返してほしい。できるならオレ、自分が変化したこと、あいつに知られたくねえ」
「難しいけど、やってみるよ。洋平の次の悪魔がくる前に」
ピジョン=ブラッドは請け合った。洋平の次の悪魔の日まで、あと七日間しかなかった。