冬のまほろば



 毎日を数えることは、洋平の習慣だった。聖地に行くための準備をしていた時、洋平は毎日を数え、出発の日を心待ちにした。その習慣は、悪魔を迎えてからは更に重要な意味を持った。洋平の悪魔は三十日ごとに六回訪れる。そしてその悪魔の日から十五日目が、受精のできる日になるのだ。
 ピジョン=ブラッドが旅立った日から、洋平は指折り数えて待ち続けた。ピジョン=ブラッドは十日で戻ると言った。だからその日を数えて待っていたのだ。今日で九日が経った。だから明日、ピジョン=ブラッドは戻ってくる。
 悪魔を迎えた(ルマ)がしなければならないことを、洋平は裕に習っていた。だから洋平は、ピジョン=ブラッドがいない時間を、その準備に当てた。(ルマ)は身体の形が変わる。その身体を隠す服が必要だった。洋平はそれまで集めて使っていなかった鹿(カザム)皮を使って、身体を覆うための服を作っていたのだ。
 ピジョン=ブラッドのために。自分自身のために。そして、生まれてくる子供のために。
(……風下!)
 気配を感じて洋平は振り返った。敏捷な動きですでに短刀(チェルク)を構えていた。信じられなかった。立っていたのは、真っ赤な髪の大きな人間(ヒト)だった。
(桜木花道……!)
「水戸洋平。……お前なんでこんなとこにいんだよ!」
 走り込んできた花道に洋平は反射的に短刀(チェルク)を向けていた。それ以上近づかせないようにあとじさる。自分が何を思って花道に短刀(チェルク)を向けるのか判らなかった。ただ判ったのは、自分の心の中にある恐れだけだった。
 花道の方も驚き目を見張っていた。花道も、どうして洋平が自分に短刀(チェルク)を向けるのか、理解できなかったのだ。
 花道はずっと洋平を待っていたのだ。出発の日が過ぎても自分は出発せずに洋平を待った。洋平がなぜこないのかが判らなかった。入れ違いになったかもしれないと思って、聖地まで行ってみたりもした。さんざん思い悩んだ末、ほかに考えられなくて、やっと洋平の領域(クラプト)までやってきたのだ。
 洋平はなぜこんなところにいるのか。どうして自分に短刀(チェルク)を向けるのか。赤い風に乗って、もうすぐ赤い砂の砂漠がやってくる。洋平を伴侶(カタホウ)にしたいと思ったのは花道の勝手な思い込みだったけど、たとえ誰を伴侶(カタホウ)に選ぶとしても洋平がここにとどまる理由など何一つありはしないのだ。
「水戸、洋平。……頼む。オレにそんなもん向けるな」
 洋平には、なぜ花道がこんなところにきたのか判らなかった。確かに花道は待っていると言った。洋平がくるのを、自分の領域(クラプト)で待っていると。しかし、花道にはもう決まった伴侶(カタホウ)がいるのだ。身体が大きく、花道と二人で大きな子を作ることのできる伴侶(カタホウ)が。あんなに、溢れ出す愛情を抑えきれないような笑顔で会話していた。ミッチーとかいう名前の伴侶(カタホウ)を置いて、花道はここで何をしているのだろうか。
 身体の震えに気付いて、冷静になるよう自分に言い聞かせた。そして、思った。花道に、自分が(ルマ)になったことを知られたくはないと。
「桜木花道。お前こそここで何をしてんだ」
 怒ったように、洋平は言った。そんな洋平の態度が、以前と微妙に違うことに、花道は気付いた。
「いつまで待ってもお前がこねえから心配して……。オレ、言ったよな。お前のこと待ってるって」
「……オレは待っててくれなんて言ってねえ」
「だけど! オレが待ってても待ってなくてもお前が聖地に旅立つのは決まったことだろ! なのになんでお前、こんなとこにいんだよ! ここにいたらお前はなにもできねえで死んじまうんだぞ!」
 そんなこと、判ってる。花道に言われなくても。
 なぜ、花道がくるのだろう。豊かな人間(ヒト)にはゆとりが生まれる。花道の豊かな環境が生み出したゆとりが、花道にこの行動をさせるのか。もしもそうなら、期待してしまう自分の気持ちをいったいどうやって抑えればいいのか。
 怖かった。すべてが。洋平にはもう、花道の子を産むことはできないのに。
 奇妙な、長い時間の膠着。それを破ったのはその声だった。
「洋平に近寄るな!」
 叫んで駆け込んできたのは洋平が待ち望んだ伴侶(カタホウ)。今まで見せたこともないような怒ったような表情で花道と洋平との間に割って入った。こんな大きな声を出す彼も初めてだった。思いがけないピジョン=ブラッドの登場に、洋平は自分が後戻りできない状況に追い込まれていることを再認識した。
 花道に、すべてを知られてしまうという失望。しかし、自分一人でこの状況をどうする事もできなかった。だからピジョン=ブラッドが予定より早く戻ってきてくれた事はありがたかった。しかし、失望。
「てめえ誰だよ!」
「僕はピジョン=ブラッド。貴様こそどういうつもりだ。洋平に何をしていた」
「洋平……って……」
 花道はあっけに取られて洋平とピジョン=ブラッドを交互に見つめた。洋平は、花道には洋平と呼ばせなかった。それなのにピジョン=ブラッドには呼ばせている。洋平はなにも言わない。ただ、ピジョン=ブラッドと同じ側に立って、花道を排除しようとしていた。
 状況が、理解できなかった。したくなかった。その、花道が考えたくなかった真実を、ピジョン=ブラッドは何の躊躇いもなしに口にしていた。
「洋平は僕と一緒にいる。僕と一緒にいるために洋平は聖地には行かなかった。僕は洋平を愛している。……それで十分なはずだ。貴様はさっさと聖地に旅立てばいい」
 思いたくもなかった。
「洋平、行こう」
 ピジョン=ブラッドに肩を押されて、洋平は一度も振り返らずに花道の視界からいなくなっていた。信じたくなかった。花道の目の前で、洋平が誰かに連れ去られる現実なんて。
 花道はしばし呆然と、洋平の華奢な後ろ姿の残像を見つめていた。


 花道から遠く離れた木の下で、二人は落ち着いた。持ち歩いていた水筒に水を満たして、ピジョン=ブラッドが洋平に与える。洋平は震えていた。うまく水を飲むことができず、大半は胸にこぼしてしまっていた。
「あれが、君の(ガイ)だね、洋平」
 洋平は答えなかった。しかし、その様子だけで、ピジョン=ブラッドが事実を知るには十分だった。
「確か、桜木花道。ファイアとブルーの子だ」
 あのとき、花道はピジョン=ブラッドに名乗らなかった。
「……知ってたのか?」
「ファイアとブルーを知ってる。桜木花道のことは知らない。だけど、あの顔を持つのはファイアとブルーの子以外にはいないから」
「……そうか」
 ピジョン=ブラッドはファイアとブルーの兄弟なのかもしれないと、洋平は思った。渉や裕にも兄弟はいた。そしてその兄弟は、二人によく似ていたという。
「洋平、桜木花道のことを僕に話して」
 洋平は、すべてを話した。突然花道が洋平の領域(クラプト)に現われたあの日のことからの経緯のすべてを。


 話しながら、洋平はずっと砂の流れる音を聞いていた。赤い風の吹き荒れる感触。砂の混じった向かい風は重くて、圧倒的な意志と想いを感じた。同じ風を、ピジョン=ブラッドも感じた。はるか昔、ピジョン=ブラッドはあの赤い砂漠の向こうから、この地に旅をしてきたのだ。
 話し終えた洋平を、ピジョン=ブラッドは見つめていた。優しくなつかしいものを見るような瞳で。
 やがて、ピジョン=ブラッドは言った。
「洋平、(ルマ)の身体は不思議だね。たった一人の(ガイ)のために身体のすべてを変化させてしまう。裕は……君を産んだ裕は、渉の子供を産みたいって、その一つの想いだけで自分の身体を(ルマ)に変化させた。その裕の子は、桜木花道をほかの人間(ヒト)に取られたくないって、ただそれだけのために身体を変化させたんだ。冬を越さなければ絶対に変化しないはずの第四世代の自分の身体を」
 そのピジョン=ブラッドの言葉に、洋平は反発を覚えた。
「オレは自分が桜木花道の伴侶(カタホウ)になれるなんて思ってなかった」
 それに、今変化してしまえば、絶対花道の子供を産むことができないのは判り切っていたのだ。万が一の望みすら絶たれてしまうことは。
「理屈は、ないんだ、(ルマ)の身体には。……初めて僕と渉が出会ったときね、裕は僕に嫉妬したんだよ。僕が渉の子供を産めるはずなんかなかったのに。渉が裕を愛していたのは、疑いようもなかったのに」
「……」
「洋平は裕の子だね。僕はあのとき、渉が(リグ)に襲われていたあのとき、渉を見捨てて裕を渉から奪ってしまいたかったよ。ほんの一瞬だったけど。……洋平、僕には枷がある。僕はいつも、チャンスを自ら逃してきた。僕の兄弟であるブルーが(ルマ)に変化したとき、僕はファイアを殺せなかった。殺してブルーを奪うことができなかった。渉を殺して裕を奪うこともできなかった。だから僕は、桜木花道を殺して洋平を奪うこともできないかもしれない」
 花道を、殺す……?
 どうして? 花道は洋平の伴侶(カタホウ)ではない。洋平の思いが勝手に身体を変化させたけれど、花道が洋平を伴侶(カタホウ)と思っている訳ではないのだ。洋平を迎えにきたのは単なる花道のお節介で、もしも洋平が(ルマ)に変化したことを知ったら、花道は諦めて戻ってしまうはずの人間(ヒト)なのだ。
 知られたくはないけれど、そう教えなければ花道が戻らないのならば教えてもいい。花道に軽蔑されたくはないけれど、そうしなければ花道が伴侶(カタホウ)の元に帰らないというのならば。
「桜木花道を殺さなくてもオレはピジョン=ブラッドの(ルマ)だ。オレはお前にそう言っただろ」
「だけど、もしも桜木花道が洋平の伴侶(カタホウ)になりたいと言ったら、それでも洋平は僕の伴侶(カタホウ)になってくれるというの?」
 花道が、洋平の伴侶(カタホウ)になりたいと言ったら。
「ありえねえよ。あいつにはミッチーとかいう伴侶(カタホウ)がちゃんと……」
「万が一、洋平のことを全部判って、子供が産まれないことも知ってて、それでも洋平のことを愛すると言ったら? それでも洋平は僕を選ぶ? 桜木花道よりも僕を選んで、僕の子供を産むと言ってくれる?」
 万が一、花道が洋平を愛すると言ったら。
 身体に悪魔を迎えたと知ってから、洋平が感じてきた絶望。過去も未来も、すべてを無駄にしてしまったという強烈な後悔。悲しみ。花道が洋平を選ぶということは、洋平が辿ったとまったく同じ道を、花道が辿るということだ。その、同じ道を辿ってなおかつ、花道が洋平を愛すると言ったら。
 ありえないと思う。だけど、万が一、花道が洋平と同じ地獄を見ると言ってくれたら。
 後悔するだろう、洋平は。花道を巻き込んでしまったということを。しかし、その何倍も、洋平は幸せを感じる。同じ地獄を花道とともに過ごしたいと思ってしまう。
 ピジョン=ブラッドには、後悔を感じない。むしろ彼の子を産んであげられる、彼に希望をあげられる自分を誇らしく思う。穏やかな日々に身を委ねながら残りの生を生きてゆける。
 怖かった。選んでしまうのが。そんな洋平を見て、ピジョン=ブラッドは静かに言った。
(ガイ)を選ぶのは(ルマ)だ、洋平。もしも洋平が僕を選ぶなら、僕はなんとしても桜木花道を追い返す。桜木花道を選んだら、僕は殺すつもりで桜木花道を排除する。桜木花道を殺して洋平を奪う。……だけど、できるかどうかは判らない。桜木花道は、僕にとっては子も同じだから」
「……どうして? 兄弟の子だからか?」
「桜木花道は、僕が産みたくて産めなかった、幻なんだ」
 その言葉の意味は、洋平には判らなかった。だけど洋平は、ピジョン=ブラッドは花道を殺さないような気がした。たとえ万が一、花道が洋平を愛すると言ったとしても。そしてそれはあくまで万が一で、花道が洋平を愛することはないのだから。
「ピジョン=ブラッド、お願いだ。もう一度桜木花道がここにきたら、聖地に追い返してほしい。できるならオレ、自分が変化したこと、あいつに知られたくねえ」
「難しいけど、やってみるよ。洋平の次の悪魔がくる前に」
 ピジョン=ブラッドは請け合った。洋平の次の悪魔の日まで、あと七日間しかなかった。



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