冬のまほろば
翌朝洋平が目覚めると、その出来事が夢ではなかったことを知らせるように、ピジョン=ブラッドは隣にいた。半分だけ身体を起こして見回すと、近くに作りかけの干し肉がある。昨日倒した狼の肉だった。鹿ほどはやわらかくないけれど、十分食に耐えるものだった。
「おはよう、水戸洋平」
「……おはよう。……ずっといてくれたのか?」
「そうでもない。水を汲みに出たり、草を集めたりしたから。動けるようならそっちに移動してくれないか? 血だまりを片付けたいんだ」
黙って、洋平はピジョン=ブラッドの作った草の寝床に移動した。やわらかく拵えてあって、少し身体が楽になる気がする。洋平が移動すると、ピジョン=ブラッドも黙ったまま洋平の血だまりを短刀で掘り返していた。
花道に似ていると思ったピジョン=ブラッドの横顔を、洋平はずっと見つめていた。見れば見るほど花道とは違うことに気付く。ピジョン=ブラッドは花道とは違って、あまり陽気な人間ではないようだった。しゃべり方も抑揚がなくぶっきらぼうだった。それは、どちらかといえば洋平の方に似ていた。花道の領域の近くに住んでいた人間達はみな花道のような人好きのする人間だった。洋平は、今まで出会った人間を単純に二つに大別して、ピジョン=ブラッドを自分と同じ側の人間なのだと思った。
作業を終えて、ピジョン=ブラッドは洋平の方に歩み寄った。その手には切り裂いたばかりの狼の肉を持っていた。
「ほんとは内臓の方が栄養があるけど、たぶん身体の方が受け付けないと思う。ゆっくりでいいからできるだけたくさん食べて。そうでないと元気にならないから」
「判った。さんきゅ」
ぶっきらぼうでも、洋平のことを心配してくれている。食べながら、洋平はピジョン=ブラッドが言ったことを思い出していた。渉の親友で昔渉を助けたことがあるのだと。渉を助けたから、渉の子である洋平も助けるのだと。その理屈は、洋平にはなんとなく判った。人間の命は、鎖のように繋がっている。渉と洋平とは同じ鎖の隣の輪になる。最初の輪を助けて、次の輪を助けないのでは最初に助けたことの意味がなくなってしまうのだ。洋平が子を作らなければ渉や裕の命さえ無駄になってしまうのと同じように。
身体中の変化が、洋平の胃腸もおかしくしていた。普段であれば何でもない狼の肉でさえ重苦しく感じる。ゆっくり、小さく噛み砕いて、時間をかけてすべてを飲み込んだ。少し離れた場所でピジョン=ブラッドも食事をした。洋平が食事を終えたとき、ピジョン=ブラッドは洋平の目の前にどっかりと腰を下ろした。
まるで、これから長い話をしなければならないのだというように。
「水戸洋平、君の男は誰だ」
いきなり、ピジョン=ブラッドは言った。一瞬だけ意味が判らなかった。しかしすぐに気付く。ピジョン=ブラッドは洋平が女に変化したそのことを話し始めたのだ。
「いねえよ、そんなの」
「男がいなければ人間は女にはならない。君には男がいる。その男は今どこで何をしている。君が女に変化したことを知ってるのか?」
「いねえって言ってんだろ! オレは勝手に変化したんだ! 誰のせいでもねえよ!」
洋平を女に変化させたのは花道だ。洋平の、花道に対するあの気持ち。それが、洋平の身体を女に変化させてしまったのだ。それだけのことが判るくらいには洋平は冷静さを取り戻していた。しかしそれは花道のせいではない。花道は悪くはない。悪いのは、自分をわきまえず花道に心を寄せてしまった洋平自身なのだ。
「……よく判った。水戸洋平、君は一人で変化した。男はいない。もし仮にいたとしても、その男は君が変化したことを知らないんだね。……それで、君はこれからどうするつもりなんだ?」
変化してしまった身体。これをどうにかすることなどできない。洋平は、もうどうにもできない袋小路に追い込まれてしまったのだ。それはこのピジョン=ブラッドにも判っているはずだった。
答えない洋平に、ピジョン=ブラッドは別のことを言った。
「水戸洋平、僕は第三世代の生き残りだ。本当なら今の時期、第三世代はすべて死んでしまっている。それなのに僕は生き残った。それはたぶん、僕が君の渉と裕のように子を作らなかったからだと思う」
ピジョン=ブラッドの、第四世代ではありえない長さの髪。渉を助けたというピジョン=ブラッドの言葉。うすうす気付いてはいたけれど、はっきり聞いて洋平は驚いていた。第三世代には寒過ぎるこの気候で、なぜかピジョン=ブラッドは生きていたのだ。前の世代の生き残り。
あの砂猫だ。花道と旅をしていて見つけた、寒さに強くない世代の生き残りの砂猫。
「ピジョン=ブラッド、お前はどうして子を作らなかったんだ」
洋平の質問に、表情を変えずにピジョン=ブラッドは答えた。
「僕に、伴侶がいなかったから」
「なんでだ。第三世代は二人で生まれるはずだ。伴侶がいないはずねえよ」
「僕の兄弟にはちゃんと伴侶がいたのに、僕にはいなかった。どうしてかなんて僕にも判らない。……今、思った。僕は今ここで水戸洋平に出会うためにいたのかもしれない」
そう言って、ピジョン=ブラッドはしばらく、洋平を見つめていた。
洋平もピジョン=ブラッドを見つめた。花道に似ていたけれど、花道とは違う人間のピジョン=ブラッド。その赤い瞳は砂猫の血の色。名前と同じ、ブラッド。
「水戸洋平、君を洋平と呼んでもいい?」
洋平を守ると言った。そう言う前も、言ったあとも、出会った瞬間からピジョン=ブラッドは洋平を守ってくれた。子を残すことのできなかった第三世代。彼は、洋平と同じだった。同じ立場の男と女だった。
「オレをそう呼べるのは、渉と裕のほかにはピジョン=ブラッドしかいねえよ」
伴侶にしか呼ばせないと決めていた名前。
「僕のことはブラッドと呼んでくれていい。洋平のほかにはたとえ渉でも許さなかった名前だ」
ピジョン=ブラッドは洋平に触れ、抱き寄せて頬に唇を押し当てた。花道とは違った感触だったが、洋平はピジョン=ブラッドをあたたかいと思った。たった一人、洋平だけを望んだ。洋平しか望めなかった。これが、洋平の伴侶。この伴侶を、洋平は愛せると思った。
「僕の女……やっと出会えた」
絶望しかなかった洋平の心を僅かな希望に傾けてくれた、この男を愛せる女になれると思った。
洋平の悪魔は、訪れてから四日目にはほとんどその身体から抜け出ていた。痛みも発熱もなくなり、身体が軽くなる。これから洋平の身体は少しずつ変わってゆくのだと、ピジョン=ブラッドは言った。少しずつ変わって、子を宿すことのできる身体になるのだと。
「裕は、とてもきれいな女だった。洋平は裕のようなきれいな女になると思う」
洋平の身体が動くようになっても、ピジョン=ブラッドはかいがいしく洋平の世話をやいた。洋平が眠るときは近くで見張りをし、洋平が起きているときは、洋平が食べるための狩をしたり、かと思うと遠くに出かけて洋平が食べたこともないような甘い木の実を持ってきたりした。もう、聖地に移動する日は過ぎていたから、洋平の領域の内側にある領域には誰も残っていない。いつ眠るのかという質問にピジョン=ブラッドは、
「洋平が眠ったとき、一緒に眠ってる。僕はあまり眠らない人間だから」
と答えていた。
赤い砂が洋平の領域に押し寄せてくるまで、おおよそ四十日くらいしか残されていなかった。だから洋平が次の悪魔を乗り切ったあとくらいに、二人は移動しなければならない。聖地に旅立ったほかの人間達は、今はまだ聖地で多少混乱した社会を作り始めたところだ。その混乱が収まって、聖地の周囲が落ち着いた頃、聖地にかなり近い場所に住まいを移そうとピジョンブラッドは考えていたのだ。
洋平の悪魔が過ぎ去って十日ほどしたその日、ピジョン=ブラッドはあの日から数えて初めて、洋平を抱き寄せた。それまでピジョン=ブラッドは洋平に触れはしたけれど、抱き寄せることはなかった。頬に唇を寄せて、ピジョン=ブラッドは言った。
「僕は今日、聖地の様子を見に行く。遠いから時間もかかるけど、たぶん十日くらいで戻ってこられると思う。それまで、洋平はここで待ってて欲しい」
聖地には花道がいる。洋平は急に不安に襲われていた。その不安の意味は、自分でもよく判らなかった。ピジョン=ブラッドが聖地から戻ってこないかもしれないと、そう思ったのかもしれない。理由は判らない。ただ、ピジョン=ブラッドが聖地で花道に会ってほしくないと思った。
「戻って、くるよな」
「必ず戻る。僕は僕の女を残して死んだりしない」
ピジョン=ブラッドが口にした言葉で洋平は改めて気付いた。ピジョン=ブラッドは、本当ならもう死んでいるはずの人間なのだ。第三世代が生きられる期間は、もうとっくに過ぎているのだから。
ピジョン=ブラッドも不安なのだ。いつ死ぬか判らない身体。洋平と出会う前、ピジョン=ブラッドはいつ死んでもいいと思っていた。しかし今、ピジョン=ブラッドには守るべき女がいる。洋平のために、今死ぬ訳にはいかない。どのくらいの時間、洋平を見守っていけるかは判らないけど、こんなところで死ぬ訳にはいかないのだ。
洋平は、ピジョン=ブラッドを愛しいと思った。そして本気でピジョン=ブラッドの子を産みたいと思った。その子供が、凍てついた大地で無事に育つことがなくても。その子供が万が一無事に育ったところで、伴侶となる人間が存在しないことは判っていても。
「待ってるから、死ぬな……」
「……約束する。洋平」
瀕死の砂猫。その命は、必ず洋平が繋ぐ。渉を、そして洋平を守ってくれた命は、今度は洋平が守る。
別れのその日、洋平はありったけの力を込めて、ピジョン=ブラッドを抱き締めていた。
扉へ 前へ 次へ