洋平が自分の領域に戻ってから聖地への出発の日まで、約三十日ほどだった。
花道の領域に出かけたとき、洋平は睡眠のリズムを狂わせてしまったので、出発までの正確な日数が判らなくなっていた。しかし洋平はあまり気にしなかった。一日や二日出発が遅れても、洋平にはたいした害がない。もともと一番外側の領域に住む洋平は、どうあがこうとも聖地に到着するのは最後なのだ。
出発の日が近づいていた。旅の準備の一つとして、洋平は干し肉を作らなければならない。そのためには狩をしなければならなかった。領域の中ではぐれ鹿を求めてさまよい、身を沈めてチャンスを待つ。三回目だった。今まで二回、洋平は狩に失敗していたのだ。
(身体が、重い……)
草むらに足を取られて一瞬ダッシュが遅れた。その一瞬だけで結果は決まっていた。若い雄の鹿は洋平の射程距離から大きく外れてゆく。それ以上狩をする力は、洋平には残されていなかった。
集中力や判断力がなくなっている。しかし洋平にはそう判断するだけの判断力すらなかった。身体が、特に腰が重くわずかに腹部の痛みもある。兆候は確かにあったのだ。肉体が変わる。本来であれば絶対にありえない変化が洋平に起ころうとしていた。
残り少ない干し肉で飢えを満たし、いつもの木の下で横になった。下腹の奥で何かがごろっと動く気配がした。ここ一両日あたりの変化だったが、洋平自身、あまり自分の身体に対する関心を持てなかった。それまでの長い時間で、花道への気持ちに対して答えは出ていた。しかし、それについて考えることをやめるということが、洋平にはできなかった。
花道はもともと洋平の伴侶となる人間ではない。洋平を本当に愛するのは、身体の大きな恵まれた人間ではない。それはずっと昔から洋平が胸に刻んできたことだった。最初から花道が自分を選ばないことは判っていたのだ。
洋平を愛するのは、本当に心が呼んだ、たった一人だけ。洋平は呼ぶ相手を間違えてしまったけれど、冬がきて、春がきて、やがてその人間に出会ったとき、洋平もその人間を愛するようになる。その人間こそが洋平の伴侶になる。花道など目に入らなくなるほど、その人間を愛するようになるはずだ。
それが、洋平が出した答えだった。それなのに、眠る前のひととき、なにもすることがなくなると、洋平はまた堂々めぐりを繰り返してしまうのだ。洋平の伴侶が花道であるはずがないのに、花道のことを思い出してしまう。花道の伴侶はもう決まっているというのに。
(腹が、痛え……)
普通では考えられない腹痛に注意を向けて、洋平はやっと自分の身体の異常さに気付いた。鈍い継続する痛みに加えて、発熱もあるらしく身体中に汗がにじんでいた。洋平は身体を起こした。立ち上がろうとして、両足の間、何か熱いものが伝う感触に目を向けて、洋平はそのショックのあまり呼吸を止めていた。
(悪魔! まさか ―― )
大腿を、赤い血が一筋伝っていた。洋平の頭は真っ白になっていた。心拍数が上がり、知らず知らずのうちにその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでいた。
(なんで……嘘だろ……)
―― 悪魔の日。
人間は、生まれたときは男の形状をしている。第一世代から第三世代まで、一度に生まれる子供は二人。その二人のうちのどちらかがあるとき悪魔を迎え、女になる。互いにそっくりな身体をした二人のうちの一人が女に変わって、二人の間の子を宿すのだ。悪魔を迎えた女は子供を生む。子供を産んで、女は母になる。
第四世代である洋平達は、最初は一人で生まれる。そのまま伴侶を持たずに冬を越し、春になる頃、ほかの第四世代の誰かと伴侶になるのだ。そして伴侶になって、そのどちらかが悪魔を迎え、女になる。女になった第四世代は、伴侶との間の子を二人産んで、それが人間の第一世代となるのだ。
伴侶がいなければ、人間は女に変わることはない。そして今の時期、人間は伴侶を持たない。第四世代は冬を越すための世代。冬を越す前に子供を産むことはないし、もし仮に子供を産んでも、その子は冬を越すことはできないだろう。
悪魔は、三十日ごとに六回訪れる。それは世代にかかわらず、個人差もない。冬がくる前に悪魔を迎えた個体は、その六回の悪魔を冬の間にすべて迎えてしまう。そうして春まで存えても、もう子供を産むことはできないのだ。
洋平の身体は、最初の悪魔を迎えてしまった。もう洋平に子供を作ることはできない。洋平には、子供を作ることができないのだ。
(子供を、産めない、オレは……!)
洋平はパニックに陥っていた。どうして。なぜ。その疑問から思考が一歩も前に進まなくなってしまっていた。まさかこんなことが自分の身に降りかかるなど、想像すらしたことがなかった。何が悪かったのか。自分がどんな悪いことをしたのか。こんな、知識ですら聞いたことがない、誰の身にも起こらなかった悪いことが起こるような、どんなことを自分がしたというのだろう。
もう、子供が産めない。花道の子供を産みたいと願った訳ではなかった。誰の子でも受け入れたし、自分が女になろうと思った訳でもなかった。だけど、春になったら洋平の命は終わり、その前に子供を残すことで、自分の命が引き継がれてゆくのだと思った。自分の命は無駄にはならないのだと思っていた。
洋平は、自分の命を無駄にしてしまったのだ。そして、自分だけではなく、洋平を産み育てた渉と裕の命をも。洋平を産めたことが最大の喜びだと語った裕の気持ちを、洋平は無駄にしてしまったのだ。必死で生きて、あの赤い砂の砂漠を越えてきた二人の命を。
パニックは、いつしか喪失感に変わっていた。一つの命に意味があるとすれば、それがずっと昔の、気の遠くなるほど多くの世代の大勢の命を受け継いできたということと、その命を次の更に遠くの世代に繋いでいくということだ。洋平が今生きているということは、洋平の命を繋いできた多くの命達が、誰一人欠けなかったということの証。その多くの命が、今、洋平をここに存在させる。洋平が欠けることで、洋平の先に繋がるべきたくさんの命は生まれなくなってしまう。たった一人洋平が欠けたという、それだけで。
冬を越すこと。聖地へ行くこと。そのすべてが今、洋平には意味のないことになっていた。人間が聖地に旅をするのは、やがてこの地が赤い砂と氷に閉ざされ、人間が生きられなくなるからだ。聖地という小さな場所だけが、人間が唯一生きられる場所になる。しかし、子供を産めない人間が冬を越すことにどんな意味があるだろう。冬が越せても、洋平がその先を繋ぐことができないのは判り切っているのだ。
長い時間、洋平はただ呆然と、その場にしゃがみこんでいた。そしてようやくたった一つ、洋平がすべきことを見い出していた。それは、洋平が聖地へ行かないということ。もしも女に変わってしまった人間が聖地へ行ったら、もしかしたらほかの正常な人間のバランスをも狂わせてしまうかもしれないから。それでは洋平以外の人間の命をも無駄にしてしまいかねない。もしかしたら、花道の命をも、無駄にしてしまいかねないから。
一人で生きて、一人で死ぬ。
それが、多くの命を無駄にしてしまった、洋平の最後の償いだった。
そんな洋平の終末は、意外に早く訪れたかに見えた。
悪魔を迎えた翌日、洋平は狼の群れに囲まれていた。大腿を流れ落ちる血の匂いは肉食獣を誘う。今の洋平に戦う力はなかった。しかし、ただ黙って喰われるつもりはなく、諦めていないことを示すように短刀を握り締めて、群れに向き合った。
肉食獣同士の、生と死を賭けた睨み合い。洋平は逃げることでしか抵抗できない鹿とは違う。だから取り囲む狼も命がけだった。
極度の緊張が弱った洋平の肉体と精神を凌駕しようとしたその時 ――
ふらついた洋平の目の前に、その色が飛び込んできていた。褐色の、しかし光の加減でひときわ赤く見えるその色。動きに合わせて風をはらみ揺れる赤。それは、髪だった。赤い砂の砂漠と同じ色をした髪。
(……花道……?)
しかし、確かめる前に洋平の身体はその場に崩れ落ちていた。
狼の唸り声と、その人間の動く音が聞こえた。しかしやがてそれも小さくなり、狼の唸りは風に流され遠ざかっていった。助かったということは理解した。近づいてきた人間の顔を確かめようと、洋平は顔を上げた。
「大丈夫か」
褐色の、ひときわ長い髪。一瞬花道だと思って心臓が踊り上がった。その人間は花道ではなかった。しかしその顔は、花道によく似ていたのだ。
花道の赤い髪より少しくすんだ褐色の髪。そして、こちらはより鮮やかな、砂猫の血の色の瞳。まるで花道の父かと思うほどよく似た顔をしていた。しかし愛敬のある花道の顔とは違って、どちらかといえば美しいと思えるようなスッキリとした顔立ちをしていた。
その人間に助けられ、身体を起こすと、褐色の髪の人間は花道とは決定的に違う、小さな身体をしていることに気付いた。洋平と変わらぬほどに小さな身体だった。
「ピジョン=ブラッドだ。……水を飲むか?」
差し出された水筒に、洋平は口をつけた。名前を聞いて、とりあえず花道の父ではないことは判った。確か花道の両親はファイアとブルーと言った。どちらにせよ二人はもう死んでいる。
「水戸、洋平……」
「渉と裕の子だな」
そう先回りしたピジョン=ブラッドの言葉に、洋平は驚いていた。ピジョン=ブラッドは渉と裕を知っているのだ。しかし、洋平はピジョン=ブラッドを知らない。この人間は洋平が生まれる前の渉と裕を知っているのだろうか。
「お前は、いったい……」
「渉は僕の親友だった。僕は前に渉を助けたことがある。だから、渉の子である水戸洋平も助けた。悪魔を迎えた女が苦しいのは知ってる。僕が側で見ているから、ゆっくり眠るといい。僕が君を守る」
途中から、洋平は目を閉じてピジョン=ブラッドの言葉を聞いていた。目を閉じたら、声も花道に似ていると気付いた。理屈ではなく、本能が洋平に告げた。この人間は信頼してもいいと。
悪魔を迎えてから、洋平は初めて一人ではない眠りについた。