花道が洋平の領域を去って、数日が経とうとしていた。
洋平の生活は、花道が来る以前とほとんど変わらなかった。眠りから覚め、干し肉や、栗鼠や土竜や砂猫を捕まえて食事をし、眠る。変わっていないのに、洋平はどこか違っていた。裕が死んだときにも少しだけ感じた孤独を更に強く感じていた。
まるで夢だったようにも思えてくる。花道とともに過ごした四十日間。赤い砂を見るために二人で旅した。あの旅は、まるで幻のように掴みどころなく洋平の心に空洞を作った。
生まれたときから側にいるようだと思った花道は、たった数日間で、嘘のように遠い。毎日が空虚で、味気なかった。何もすることがないから思い出してしまう。不意に我に返ると、また花道のことを思い出していた自分に気付く。
『洋平……って、呼んだら、ダメか?』
あのとき言おうとした。自分をそう呼べるのは、自分の伴侶だけだと。
(オレは桜木花道の伴侶になりてえのかもしれねえ)
花道はもうとっくに自分の領域に辿り着いて、今頃は同じ領域の人間達と一緒に過ごしているのだろう。何人もの人間が、花道の回りにはいるに違いない。そしてその全員をファーストネームで呼んでいるのだろう。たった四十日過ごした自分のことなど、忘れてしまっているかもしれない。
洋平のように小さな身体ではない、花道の女になって身体の大きな子供を産める人間だっているかもしれないのだ。
(桜木花道はダメだ。オレの伴侶になんかならねえ)
身体に飛び散った赤い血を舐めながら、伴侶といるようだと言った。赤い風に吹かれて震えた身体を、後ろから強く抱き締めた。触れた身体は暖かくて、一人ではないことを知った。思い出すと熱くなる。あのとき、花道も同じことを言ったのだ。
自分の気持ちが、花道をたった一人の伴侶として求めてのものなのか、そうでないのか、洋平は知りたいと思った。本当は出会うことのなかった二人だった。春になる前に、もしも伴侶と出会ったのならば、やはり人間はそれと見分けることができるのだろうか。
すべての判らないことを知りたいと思った。あのとき、赤い砂と低い太陽を求めたと同じように。
(もう一度見れば、たぶん判る)
花道に作ってもらった水筒と、鹿の干し肉を身体にくくりつけて。
何かを振り切るように洋平は、まだ行くべきではないはずの風下の聖地へと歩き始めたのである。
「どこへ行く」
呼び止められる前から、洋平はその人間の気配を感じていた。少しでも敵意を見せれば相手を挑発してしまう。油断なく振る舞いながらも、洋平は辛抱強く動かずにいた。
「桜木花道の領域まで」
「なぜだ。移動の日はまだ先の筈だ」
「移動はしねえ。用が済んだらまた戻ってくる」
渉と裕以外の人間では、相手は花道の次、二番目に出会った人間だった。身体は少し洋平よりも大きかった。しかし、花道ほども大きくはなかった。
「イズ=カテナ。ルシュエとティマの子」
「水戸洋平。渉と裕の子」
「桜木花道に何の用だ」
「水筒を届ける。オレの領域に忘れてったんだ」
「桜木花道は四日前に通っていった。そんとき水筒は持ってた」
「これも桜木花道の水筒だ」
「水戸洋平が必ず戻るかどうかオレには判らねえ」
洋平の領域のすぐ内側に領域を持つイズ=カテナは、洋平と同じくらい不利な人間だった。皆と同じ日に出発しても聖地に到着するのは一番最後になる。洋平にはカテナの気持ちがよく判った。卑怯な真似をして聖地に早く辿り着こうとする人間を絶対に許せないのだということが。
だが、洋平はカテナを納得させなければならなかった。信じてもらわなければ、花道には会えないのだ。
「もしも戻らなかったら聖地でオレを殺せ」
洋平の言葉を、カテナは半分しか信じなかった。しかし、残りの半分を埋めたのは、洋平の小さな身体だった。花道のような大きな人間ならカテナでは殺せないだろう。だが、洋平のような小さな人間なら、カテナでも殺すことができるのだ。
身体が大きい人間は生きる確率が高い。そして身体の小さな人間は、生きる確率が低いのだ。
「戻らないときはオレが水戸洋平を殺す」
「この先でオレは何度も同じ約束をする。だから殺した時は他の人間に知らせてくれ。水戸洋平はイズ=カテナが殺したって」
「判った。約束する」
道を開けたカテナの横を、少し緊張しながら洋平は抜けた。殺意を感じなかったことにほっとしかけたとき、カテナに呼び止められて洋平は振り返った。
「水戸洋平、イズ=カテナは卑怯者じゃねえ。だから水戸洋平も卑怯者になるな」
「水戸洋平も卑怯者じゃねえ。約束は守る」
生まれて初めて他人の信頼を得た洋平は、その矜持に不思議な胸の高鳴りを覚えて、足を速めていった。
少しずつ、しかし驚くべき速さで、森は豊かさを増していった。甘い実をつける種類の木は確実に増え、それに伴って栗鼠の数が目に見えて増えた。鹿の群れも。歩けば歩くほど豊かになる。大きな湖に集まる鹿の群れを見つけたときは天国かと思った。しかし、その領域の人間に眠る場所を借りて翌日再び歩きはじめれば、更に豊かな大地が広がっていた。
いつの間にか風景は洋平が暮らした領域とは同じ大地とは思えないほど変わっていた。怖いくらいに魅力的だった。イズ=カテナや多くの人間達との約束を忘れてしまいそうになるほどに。二日目のその日、洋平を殺す人間が二十人を越えたころ、信じられないことが起こっていた。
その人間は、洋平を見た。それなのに、洋平を呼び止めず、ただ黙って通過するに委せたのである。
それがどうしてなのか、結局洋平には判らなかった。しかしその先で洋平はもう呼び止められることはなく、眠る時間にその領域で眠る許可を得るため洋平自身がその人間に声をかけるまで、洋平は誰に声をかけられることもなかったのだ。
豊かさは、心にゆとりを作る。恵まれている人間は、恵まれない人間の狡さを許すことができる。彼らは洋平の卑怯な行為を黙って見逃したのだ。洋平は他人と無駄なおしゃべりなどしなかった。だから判らなかった。判らない方がよかっただろう。もしもそのことを洋平が知ったら、ひどくプライドを傷つけられ不快な思いをしただろうから。
太陽の光の遮られる木陰で目を閉じても、洋平はよく眠れなかった。もともと洋平の眠りは浅い。洋平の領域よりも獣や人間の多いこの領域では、周囲のざわめきが絶えることはなく、過敏な洋平の神経に触った。目を閉じながら、洋平は知った。花道は特別鈍かったわけではない。この領域ではあのくらい鈍くなければ眠れなかっただけなのだと。
眠れない洋平はごく自然に花道に思いを巡らせた。旅の草原の、何も隠すものがないところで、交代で眠った時のこと。洋平が目を覚ませば、まるで片時も目を離してはいなかったのかと思わせるような、見つめる花道の視線があった。そのあと眠る花道を洋平も見つめた。赤い砂の砂漠を見てからは、更に深く。
二人で行った狩は一人で行うときとはまったく違っていた。しなやかに、ダイナミックに動く花道の身体と呼吸を合わせ、獲物を追い詰める。二度目の狩からは二人ともお互いの呼吸を読むことを覚えてしまっていた。それは新たな快感の発見だった。絶対に失敗することはないという自信を持てた。生と死の戦いの中でありながらその一体感を楽しむ余裕さえあった。
大きく力強い、花道の身体。それは誰の目にもはっきりと魅力的だった。洋平にとってさえ。それは本能なのかもしれない。生き残るために、そして自分の子を生き延びさせるために身体の大きな伴侶を持ちたいという、人間としての自己保存本能。
今まで歩いてきて、洋平は花道ほど大きな人間には出会わなかった。洋平より小さい人間にも会わなかった。洋平自身が花道に魅力を感じているのは判る。当然のことだと思う。だが、花道にとって洋平は、花道が今まで出会った中でおそらく一番小さな人間だ。聖地への出発の時、花道は洋平を待っていると言った。しかし、花道にとって洋平は ――
洋平は飛び起きて出発の支度を始めた。身体は疲れているけれど、眠ることができないのはよく判った。一刻も早く自分の気持ちに決まりをつけなければどうにもならなかった。神経が高ぶるのは、けっして周囲のざわめきだけが原因ではなかったのだ。
その時洋平はまだ思い至らなかった。冬がくる前に持ってしまったこの気持ちが、いずれどういう結果を生むのかということに。