冬のまほろば
最後の鹿を狩った場所から五日歩いた場所が、二人の旅の折り返し点だった。たとえあと少しで赤い砂の砂漠に辿り着くと思っても、それ以上先に進むことはしない。二人は互いに確認しあった。生き延びることを最優先に考えての選択だった。
雨はまだ時々降った。二人にとって幸運だったことに、そこから先森と呼べるほど木の密集した場所はもうほとんどなくなってしまったが、ゴツゴツした岩肌が多く見られるようになったのだ。土のようには岩は雨水を吸わなかったから、岩陰などに雨水がたまっていて、二人の貴重な水になった。水たまりを見つけるたびに、二人は水筒に雨水を移し、残りの水を舐め取った。
鉱物を多く含む岩は黒っぽく、あたりの風景はますます荒寥としたイメージを増大させる。獣の姿はなかったから、二人はもう交代で眠ることはせず、できるだけ急ぐように岩の大地を抜けていった。そんな旅が四日間も続いたときだった。それまで時々見ることのできた倒れた樹木を覆うように、赤い砂がうっすらと見えたのだ。
「……赤い砂」
「砂の気配だ」
砂の厚みは、歩けば歩くほどより厚くなっていくようだった。二人はそれまでよりも更に精力的に歩いた。向かい風に乗って、足元を砂が少しずつ移動してゆく。それまで砂の上を歩いたことのなかった二人にとって、砂の大地は不思議な感触で歩きづらかったが、それでも精一杯、速く。
大地を覆う赤い砂がその厚みを増していくと、岩のおうとつはしだいに滑らかさを増していった。林の木々も、その足元は砂に埋もれ始めていた。更に進むと、砂の上に奇妙な縞模様が見えた。風にあおられて崩れ、丘陵を形作っていった。
やわらかい、細かい粒の赤い砂。砂煙になって舞い上がる。立ち止まれば、すぐに足首まで埋まってしまいそうだった。歩いた。風上に、向かい風に向かって。
「水戸洋平……空、色が違う」
花道の声で、洋平は顔を上げた。その時、初めて気付いた。風の色。
「……赤い風だ」
「……そっか! 風が赤いから、空が赤い」
「すげえ……」
赤い砂が、風に乗ってやって来る。砂の赤さが風の赤になる。その赤い風を通して見る風景は、何もかもが赤みがかって見えるのだ。遠くの林も、空も、そして、太陽でさえも。
「もっと先に行こう」
「ああ」
向かい風の向こうに見えた林は、近づいてみると、足元のほとんどは砂に埋もれていた。すっかり葉を落とし、立枯れているようにさえ見える。しかし、赤い風にゆられ、ゆらめきながらも、林の木は最後の抵抗をしていた。風上からどんどん砂が押し寄せて来る。それでも倒れなかった。砂の重みに、枝をたわませ、それでもなお。
二人はその場に立ちつくして、しばらくの間、林と砂の戦いを見ていた。砂の海は、ほんの少しずつ、でも確実に、林の木々を飲み込んでゆく。風にゆられ、木々は砂を払い落とそうと喘いでいる。しかしいくら払い落としても、同じ風が次から次へと小さな砂粒を運んで、その小さな砂粒は、たくさん集まることで木々を徐々に埋めてゆく。小さな、本当に小さな砂粒が、一秒ごとに勝利をおさめてゆく。それは意志。何物をも残さず喰らい尽くそうとする、小さな砂の大きな意志に見えた。
大地は砂に覆われる。洋平は初めて、その意味を実感していた。広大な、洋平の想像を越えるほどの広大な大地は、今すべて砂に覆われようとしているのだ。
(オレは、小さい。この大きな砂の海に比べたら。……砂の一粒は、オレなんかより遥かに小さいのに)
洋平は自分では判らずに、身震いをした。そんな洋平を見て、花道はうしろから、洋平を囲むように抱き締めた。
「桜木花道?」
「お前、寒いだろ。だから」
「……さんきゅ」
気温は、今まで感じなかった分、より急激に冷え始めていた。身体を動かさずに立ち止まっていたからだった。花道が触れていると、暖かいと思う。ぴったりと肌を寄せて、花道の大きな身体に包まれると、心の中から温まるような気がした。
「桜木花道、このままここに立ってたら、オレも砂に飲み込まれるかな」
すでに砂はふくらはぎのあたりまで二人を埋めている。
「ああ、たぶん」
「だけど、渉と裕はこの砂漠を越えてきたんだ。この砂漠で生まれて、この砂漠で育って、砂漠を越えてきた。たった二人きりでこんな大きな砂の海を越えてきたんだ。……どんな気持ちだったんだろ。怖く、なかったんかな」
花道は更に洋平を抱き締めた。強く。
「水戸洋平、お前、怖いか?」
「……怖い気がする。砂は、すべてを飲み込む。何も選ばねえで飲み込んじまう」
「オレも、怖い。けど、きれいだと思う」
「オレも。きれいだと思う」
「水戸洋平、オレ、お前ときてよかった。お前は?」
洋平は、背後にいる花道を振り仰いだ。花道は今、洋平を見つめていた。
「オレも、きてよかったと思ってる。ここに来たから、砂に飲み込まれる大地のきれいなことが判った。オレの領域にいたら絶対判らなかった」
花道は、洋平はこの赤い砂漠と同じくらいきれいだと思った。怖いくらいにきれいで、強い。洋平は今、花道を見つめていた。その瞳が、砂漠のように冷たくきれいだった。
「身体が……熱い」
「桜木花道? 寒いの間違いだろ?」
「間違いじゃねえ。熱い」
「だったら、戻ろう」
洋平が花道の腕を振り解こうと力を入れた。きっと、赤い色は人間をおかしくさせる。赤い砂も、花道の赤い髪も。洋平の身体に滴る鹿の赤い血も。
もっと触れていたかった。洋平の身体に。
「この先は、たぶん人間が踏み入るべき世界じゃねえ。桜木花道、戻ろう」
「……ああ。判った、水戸洋平」
赤い砂には、想いがある。かつて第三世代の踏んだ砂には、彼らの想いがしみこんでいる。旅をし、悪魔を迎え、男は女を愛し、女は男を愛した。強い想いは砂に乗って、やがて第四世代の二人のもとへもやってくる。
洋平の言う通りだ。ここは、まだ人間が足を踏み入れてはいけない場所。
赤い砂の想いは、二人の心に焼き付いて、けっして消えることはなかった。
帰り道は、行きに比べても遥かに順調だった。距離や様子が判っていたから、無駄な時間を使わなかった。一度だけ、はぐれ鹿を狩って、あとは砂猫や土竜で長らえる。平和な旅路だった。
旅の途中から花道はあまり笑わなくなった。時々洋平を見て、悲しそうな苦しそうな顔をする。洋平は気にしなかった。目的がなくなってしまった旅だから、気が抜けてしまったのだろうと思った。
洋平の領域が近づいている。それは、二人の別れを意味するものだった。
「森がある。あそこで眠るか?」
「最初の日に眠った森だ」
「もう少しだな。あと一日で、水戸洋平の領域だ」
赤い砂の気配は、帰り道を数日歩いただけで、跡形もなく消え去っていた。もちろん洋平の領域にはまったくない。しかし二人は知っていた。赤い砂は、数十日ののちには確実に洋平の領域に押し寄せることを。
泉で水筒を一杯にして、確かめるように前に来たときの寝床に腰をおろした。干し肉にかぶりつきながら、洋平は花道を見た。花道の赤い髪は、あの日の赤い砂を彷彿とさせる。洋平は見ながら、この先また花道と出会うことがあったら、その時もまたあの赤い砂を思い出すだろうと思った。
「四十日はかからなかったな」
行きの道程は、二十日以上かかった覚えがある。それに比べて、帰り道は十数日ほどだったのだ。
「桜木花道がオレの領域に来た日から、今日でちょうど四十日だ」
「そうなのか? お前、よく覚えてるな」
「聖地に向かう日は大切な日だから覚えてる。自分で数えなきゃ、誰も数えてくれねえから」
花道の領域には、ほかにもたくさんの人間が住んでいる。聖地に向かう日を花道が忘れても、そのうちの誰かが覚えていてくれるだろうし、花道よりも外側の領域に住んでいた人間達が通過すれば、出発の日だということは否応なしに判るだろう。しかし、洋平の領域は一番外側にあって、その外から来る人間は誰もいないのだ。自分で覚えていなければ、聖地に行く日を誰も教えてはくれないだろう。
領域の外側に住む人間は、あらゆる意味で不利なのだ。聖地への出発の日は外側の人間も内側の人間も同じ。同じ日に出発すれば、内側の人間の方が早く聖地に着く。早く聖地に着けば、聖地での住む場所も一番過ごしやすい場所に決めることができるのだ。
花道は改めて、洋平の運命の過酷さを知った。いかに自分が恵まれているかも。
「水戸洋平を産んだ渉と裕は第三世代の中で一番最後に生まれた。だから水戸洋平の領域も一番外側になった。だけどそれって、お前のせいじゃねえじゃんか。それなのにお前は一番最後に聖地に着くことになんだ」
「……それが、なんだ。最初がいれば最後もいる。当たり前のことだ」
「なんか悔しいじゃんか」
「桜木花道が悔しがってどうすんだ。オレのことだろ?」
「お前のことだから悔しんだ」
洋平はまた、花道を変な奴だと思った。そして、前にもそう思ったことを思い出した。
「オレは別に悔しくねえよ。オレはそういう風に生まれたんだ。生まれたときに決まったことを悔しがってどうすんだよ」
身体が小さいこと。外側の領域に生まれたこと。すべては、変えることのできないことだった。確かに不利になるかもしれない。身体の小さな自分は、花道のように多くの人間に望まれないかもしれない。それでも、だからこそ、真実が見つかるのならそれでいいのだ。身体の小さな洋平を愛する人間は、真実洋平を望んだということなのだから。
それはもしかしたら、身体の恵まれなかった洋平に対して裕が与えた、唯一の希望だったのかもしれない。
「お前がもし、このままオレの領域に来たら ―― 」
「卑怯者になりてえなら一人でやれ」
怒ったように、洋平は花道から背を向けて寝転がった。花道の領域に洋平が行けば、洋平は早く聖地に辿り着く事ができるだろう。しかし、それはほかの恵まれなかった人間達を裏切ることだ。誰もが早く聖地に辿り着きたい。その想いだけが先行すれば、やがて秩序は崩壊するだろう。
「 ―― 悪い。悪かった、水戸洋平」
花道の謝罪に、振り返らず洋平は言った。
「お前は恵まれてる。恵まれてる人間に、恵まれねえ人間の気持ちは判らねえ。お前には、死んでも判らねえ」
決めつけられて、花道は反論したかった。しかし、なにも言うことができなかった。どうしてか判らない。何か言ったら、洋平を傷つけるような気がした。
「恵まれてる人間は、忘れちゃいけねえ。自分には恵まれねえ人間の気持ちはぜったい判らねえんだってこと。ぜったい、忘れたらダメだ」
洋平の背中を見ながら、花道は知った。洋平は、軽はずみなことを言える相手ではないのだということ。洋平に何かを言うときは、覚悟が必要なのだ。自分のその言葉は裏切ることができないのだという覚悟が。
花道は、洋平の隣に寝転がって、明日洋平に言うべき言葉の覚悟を決ようとしていた。
扉へ 前へ 次へ