冬のまほろば



 それから数日間を、花道と洋平はただ歩くことだけで過ごした。森があれば二人は同時に眠った。ないときは洋平が眠り、起きてから花道が眠った。狩はしないで、干し肉だけを食べて過ごした。
 森は少しずつ、少なくなっていった。まだ目に見えるほどではなかったけれど、少しずつ、確実に。
「水戸洋平……」
「シッ!」
 遠くに砂猫(ルミノク)の姿が見えた。弱々しくさまよっている。声を落としたが、必要はなかった。砂猫(ルミノク)には死期が迫っているのだ。
「弱った生き物は食ってやるのが情けだ、桜木花道」
「そうだな」
 洋平は砂猫(ルミノク)に近づいていった。近くで見ると、毛並みには艶がなく年老いているのが判る。寒さに強くない世代の砂猫(ルミノク)だった。
 花道が追いつくと、洋平は砂猫(ルミノク)にとどめを刺したあとだった。
「なんでこんな砂猫(ルミノク)が生きてたんだろ」
 砂猫(ルミノク)であれ鹿(カザム)であれ、今生きているのはすべて寒さに強い世代のもの達だけだ。特に鹿(カザム)が判りやすい。今生きている鹿(カザム)は、すべて毛色が純白の寒さに強いもの達だけなのだ。以前洋平が倒した老鹿(カザム)でさえ。
 洋平は花道の問いには答えず、別のことを言った。
「内臓はとどめ刺した奴の権利にしよう。これからも」
 思えばこれが初めての狩なのだ。
「わりい。オレ、内臓嫌い」
「……嫌い? 食いもんだぞ?」
「内臓の権利はお前にやる。オレがとどめ刺しても」
 食べ物に嫌いなものがあるなど、洋平には信じられなかった。内臓を食べなければ食べられるところが一食分減るのだ。洋平の領域(クラプト)では、その一食が生死を分ける危険性は十分あったのだから。
 花道の領域(クラプト)はよほど恵まれていたのだろう。
「林が見えるな。あそこで喰おう」
 そろそろ眠る時間が近い。林は森ほど安全ではなかったけれど、草原よりは多少マシだった。この数日歩き続けて、だいぶ肉食獣の数も減っている。それでなければこんなに弱った砂猫(ルミノク)に出会うこともなかっただろう。
 林には雨水がたまった水たまりがあった。水も、森の減少とともに減っている。これから先はもっと水に苦労することになるだろう。
「ちゃちい林だな」
「雨は降るらしいけどな」
「焼くか?」
「生で十分」
 火は起こさずに、洋平は内臓の権利もあって座るとまず短刀(チェルク)砂猫(ルミノク)の腹部を切り開いた。無造作に内臓を掴み出して口へ運ぶ。ピチャピチャと独特の音をさせて喰らいついた。やや色の薄い砂猫(ルミノク)の血にまみれて、洋平の顔と手はきれいな赤に染まった。
 内臓を食い尽くすと、抜け殻になった砂猫(ルミノク)を花道に手渡した。指先についた血を丁寧に舐め取る。そのしぐさは花道に、無関心さを装う砂猫(ルミノク)を連想させた。
「うまいか?」
「極上じゃあねえかな。年寄だし」
「そんなもん喰う水戸洋平の気が知れねえ」
「こんなうまいもん喰わねえ桜木花道の方がどうかしてる」
 花道は砂猫(ルミノク)の皮を剥ぎ、適当な大きさに切り分けて噛みついた。洋平も自分の食べやすい大きさの肉辺を掴んで噛み千切った。しばらくは食べることに没頭したが、あらかた腹の落ち着いたところで、花道は言った。
「まだ砂の気配はねえな。水は減ってるけど」
鹿(カザム)も減ってる。この先、鹿(カザム)がいねえときついぜ」
(リグ)が減ったのは嬉しいけどな」
 必要なのは、食料と水だ。花道が作った水筒はほぼ三日分の水しか蓄えられない。鹿(カザム)の干し肉も持ち歩けるのは十日分ほどだ。赤い砂の砂漠までの距離が判らないから、いつ鹿(カザム)を狩ればいいのかもよく判らない。タイミングを間違えて赤い砂の砂漠に辿り着いたときちょうど蓄えがなくなるようでは、帰り道食料がある場所まで辿り着く前に餓死するだろう。
「半分は来たかな」
「かもな」
「あとどれくらいで着くだろ」
「桜木花道、お前、せっかちだ」
「だって、急がねえと」
「急がなくたって平気だ。あと百日経ったってまだオレの領域(クラプト)に砂はこねえ。いくらのんびり歩いても百日はかからねえだろ?」
 洋平は、花道が焦る理由が判らなかった。人間(ヒト)の歩く速さは、砂が大地(クラプト)を飲み込む速さよりも速い。たとえば、この場所でのんびり待って、砂が来たのを見届けてから戻っても、十分間に合うのだ。もちろんあまり領域(クラプト)に近いところで待っては移動の日に遅れてしまうけれど、この場所ならば、ほんの少し遅れるだけですむのだ。
「だって……水戸洋平を誘ったの、オレだし。お前が移動の日に遅れたら、オレにだって責任あんだ」
 その花道の言葉は、洋平を驚かせてあまりあるものだった。
「なんでオレが遅れたら桜木花道の責任になんだよ」
 洋平の言葉に花道の方も驚いていた。
「だってよ。オレが誘わなきゃ、お前は旅に出ることなんかなかったんだ」
「そうだけど、だからってオレの行動がお前の責任になるはずなんかねえだろ」
「オレが誘ったから」
「決めたのはオレだ。オレが赤い砂を見に行こうって思ったんだ。オレがそう思ったのがお前の責任なのか?」
「違うのか?」
「オレは自分の心の中までお前に責任取ってもらう気はねえよ。たとえばこの旅でオレが死んでも、それはオレの責任であってお前の責任じゃねえ。オレが油断してたのが悪いんだ」
 これだけはっきり洋平に否定されると、花道はそれ以上の言葉を持てなかった。花道の感覚は、たくさんの人間(ヒト)が暮らす領域(クラプト)で助け合いながら生きてきて、自然に身についたものだった。たった一人の領域(クラプト)で孤独に暮らしてきた洋平には、そういう感覚は育たなかったのだ。
「だからオレはこれから先自分が生き延びることを考えて行動する。そのためには何日か歩かねえこともあるかもしれねえ。遅れねえで行くことより生き延びることだ。焦ってろくに考えねえで先急ぐんなら一人でやれ」
 洋平は冷たいような気が花道はした。だけど、言葉の一つ一つはけっして間違いではなかった。花道は今まで人のことを考える余裕のある領域(クラプト)で育ってきたけれど、ここはそういう場所ではないのだ。他人の責任は取れない。それは裏を返せば、自分の責任は自分しか取る者がいないということなのだ。
 花道は、もう洋平のことを自分の責任だと思うのはやめようと思った。そしてそのかわり、自分に対する責任を、洋平に押しつけないようにすると誓った。
「……最後の鹿(カザム)、干し肉にして行こう。もしも行きつかねえうちに干し肉が半分になったら、引き返す。悔しいけど」
「やっと少しだけマシな奴になったな、桜木花道」
 その時、洋平が初めて笑顔を見せた。唇の端をほんの少し上げただけだったけれど、花道は忘れないと思った。笑うことのなかった洋平の笑顔は、ほかの誰の笑顔よりもずっと貴重で、嬉しかった。
 その日、洋平の隣で、花道はなかなか眠ることができなかった。


 風上に、はぐれ鹿(カザム)を見つけた。
 なにも言わず、二人は互いの目を見て確認した。これが最後の鹿(カザム)だ。逃したら、もうこの先に鹿(カザム)はいない。
 先に飛び出したのは洋平だった。大きく右へ回ったので、花道は左から追い詰めるように走る。洋平に気付いた鹿(カザム)は花道が待つ左に走りはじめた。そして花道に気付き、反転して風上を目指した。
 うしろから花道が追いついて足を薙ぐ。前に回り込んだ洋平が首筋に短刀(チェルク)を立てる。花道が暴れる鹿(カザム)の角を羽交い絞めにすると、洋平は咽喉に短刀(チェルク)を突き立ててとどめを刺した。二人の咽喉からほぼ同時に溜息が漏れた。最後の鹿(カザム)は、二人の連携の前に最後の食料になったのだ。
 鹿(カザム)は、ほとんどの場合群れで行動する。その群れからはなれて行動する鹿(カザム)をはぐれ鹿(カザム)というが、はぐれ鹿(カザム)は二種類いた。年老いて、群れで行動することができなくなったものと、成人して生まれた群れから離れ、新しい別の群れを探し歩く雄だ。今回二人が倒したのは、若い雄の鹿(カザム)だった。
 洋平は手際よく鹿(カザム)の毛皮を剥いで、腹を切り開いた。熱い血の滴る内臓を掴み出して噛みつく。口の中一杯に美味なる感触が広がった。夢中になって、洋平は鹿(カザム)の内臓をむさぼり尽くした。
 ぬらぬらとねばつく赤い血液。滴り落ちて洋平の白い肌を染める。花道は、ただ黙って、洋平の食事を見つめていた。よく動く舌が滴り落ちようとする血と内臓液を舐め取り飲み込んでゆく。その瞳は恍惚をたたえ、生きている喜びに満ち残酷なまでに熱く冷たかった。
 まるで、洋平ではない別の生き物。
 人間(ヒト)ですらもないように、花道には思えた。
「水戸……洋平……」
 内臓のすべてを飲み込んで指を舐めはじめた洋平に、花道はつぶやき近づいた。むせかえる血の匂いにおかしくなる。驚き見つめた洋平の唇に近づいて、舌を触れた。舌先の血の甘さは、花道をいざなった。飲み込まれた内臓が去った口の奥へと。
 避けようとして、洋平は支えていた手を滑らせ後ろに倒れ込んだ。同時に、花道は洋平の口内の味を感じて唇を離れていた。
「まじい……やっぱ」
「お前、何やってんだよ」
「なんか、すごくて。お前の喰い方」
「……ほかにどうやって喰えってんだ」
 洋平の口の回りに飛び散った血液をきれいに舐め取った。そのまま、滴り落ちた胸の方へと移動する。血の味は、馴れた生肉と同じ味。なのに少し変だった。身体が熱くなって、心臓の動きが大きくなった。
「血が飲みてえならなにもオレの身体舐めることねえだろ。そっちの鹿(カザム)喰えばいいじゃんか」
「お前の身体、きれいんなる」
「拭きゃいんだ。おんなじだろ?」
「水は貴重品だ……」
 胸から腹部。どろりと流れ落ちて、追い掛けるように舌を動かした。ぴくっと洋平の腹部が引っ込む。吐息が漏れて、花道は顔を上げて洋平を見た。
「……くすぐってえんだ」
「なんか、伴侶(カタホウ)といるみてえ」
「オレ、お前の伴侶(カタホウ)じゃねえよ」
「 ―― 判ってる、そんなこと」
 ただ、洋平の小さな身体がきれいで、触れているだけで身体が熱くなる気がした。ブルーといるときのファイアは、とても優しい顔をしていた。同じ顔だと思った。今、花道は、ファイアと同じ顔をしていると思った。
「洋平……」
 呼ばれて、洋平の心臓が大きく音を立てた。
「……って、呼んだら、ダメか?」
 花道は洋平の腹部に顔を埋めたままだった。洋平は、花道にそう呼ばれることを嫌いではない自分に気付いた。
「オレのこと、そう呼べる奴は……」
「もしも、オレ、お前の ―― 」
 お前の伴侶(カタホウ)になったら。
 花道は言おうとした。しかし、禁忌が花道を押しとどめた。この時期、まだ冬が訪れる前に、人間(ヒト)伴侶(カタホウ)を持たない。伴侶(カタホウ)を持って一対になるのは、春になってからだ。
「桜木花道、オレはお前の伴侶(カタホウ)じゃねえ」
 洋平の言葉は正しい。それなのに、花道の胸は痛くなった。
「春になったら、お前はお前の伴侶(カタホウ)に出会う。オレはオレの伴侶(カタホウ)に出会う。裕は言ってた。春になって、オレがその人間(ヒト)と出会えば、オレにはすぐにその人間(ヒト)伴侶(カタホウ)だって判るはずだって。姿が違っても、育った場所が違っても、心の中で呼び合う何かがあるはずだって。その時は、その人間(ヒト)の方も同じ想いを持ってる。同じ想いで呼び合うことができるんだ」
 オレは桜木花道を呼んでいない。そう洋平に言われているようだと、花道は思った。
 身体の大きな人間(ヒト)は、生きる確率が高い。その人間(ヒト)と子供を作ることができれば、その子供も生きる確率は高いだろう。身体の大きな花道は、きっとたくさんの人間(ヒト)に望まれると、洋平は思った。そして生きる確率の低い身体の小さな洋平のことを、花道は望まないだろうと思った。渉や裕よりも大きくなれなかった洋平は、裕に言われた。身体の小さな洋平を望むのは、本当に心が呼んだ、その人間(ヒト)ただ一人だろうと。
「桜木花道、鹿(カザム)が冷える」
 食べるのなら温かいうちの方がおいしい。花道も身体を起こした。洋平とは顔を合わせずに。
「そうだな」
「オレは鹿皮(カザムノ)作ってる。喰い終わったら、干し肉の方作ってくれ。こっちが終わったらオレも干し肉作る」
「……判った」
 本当に心が呼び合うならば、洋平の心を呼んで欲しいと、花道は思った。それとも、春になったら洋平は呼んでくれるだろうか。花道のことを、たった一人の伴侶(カタホウ)として。
 花道は、自分の心は春になったとき、必ず洋平のことを呼ぶだろうと思った。



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