冬のまほろば



 いつもの浅い眠りから覚め、同じ岩の上に同じように眠り続ける花道を一瞥して、洋平は身体を起こした。洋平の気配に花道も目覚めるかと思ったが、花道は目を覚まさなかった。干し肉の全てを一枚一枚丁寧に裏返しても、花道は目覚めなかった。
 干しておいた老鹿(カザム)の毛皮を川の水で洗い、鞣して鹿皮(カザムノ)を作った。鹿皮(カザムノ)の作り方は裕に習った。今は干し肉を包んでおくために使う。
 老鹿(カザム)の残った骨を鹿皮(カザムノ)に包んで、草原まで行く。そこで洋平は骨を草原に捨てた。洋平が去れば、骨にわずかに残った肉を求めて、砂猫(ルミノク)土竜(ルギド)が骨に群がるだろう。互いに触れ合わないように、捨てるときも少し間隔を開けなければならなかった。
 作業を終えて岩の上に戻ると、花道が目を覚ましていた。
「おはよう、水戸洋平」
 久し振りに聞く言葉。渉と裕が生きていたときは、目覚めると必ず聞いた言葉だった。
「……おはよう」
「よく寝た。なあ、水戸洋平、顔洗ってもいいか? 泉で」
「好きにしろよ」
「さんきゅー」
 面倒な奴だと思った。洋平の領域(クラプト)には、水場は割に多いのだ。別に水の少しくらいでいちいち礼を言われても煩わしいだけだ。
 洋平の方は、並べてある干し肉を何枚か選び出して泉の近くに腰をおろした。かぶりついていると、顔を洗い終えた花道も洋平の隣に腰をおろし、自分の鹿皮(カザムノ)から干し肉を取り出して食べ始めた。しばらく二人は干し肉で食事をした。水が欲しいときには直接泉に顔をつけた。
 食べ終わると、花道は言った。
「水戸洋平、オレと一緒に世界の果て、見に行かねえか?」
 花道の誘いはあまりに突拍子なくて、洋平は言葉を失っていた。渉と裕が死んでから一人で過ごしてきた洋平は、あまり人間(ヒト)と会話することに慣れていない。
「世界が赤い砂に飲み込まれるとこ、一人で見るよりオレ、水戸洋平と見たい。なあ、行こう」
「……第四世代は風上に向かって旅したりしねえ。風上に向かうのは、第四世代から産まれる第一世代だ」
「知ってるさ。第一世代が風上に向かって旅して、砂漠を越えて第二世代を産む。第二世代が第三世代をたくさん産んで、第三世代が風下の聖地に旅するんだ。だけどオレ、別に砂漠を越えて旅するつもりな訳じゃねえ。ただ、ほんのちょっと砂漠を見に行くんだ。水戸洋平の領域(クラプト)が砂に埋まるまでまだ時間あるから、それまでには帰ってこれる。だから、水戸洋平も行こう」
 変な奴だと思う。不思議だと思う。領域(クラプト)が砂に埋まるまで時間があるからと言って、世界の果てを見たいと思う第四世代はいない。今までそんな話は聞いたことがなかったし、これからも聞くことはないだろう。
「風上は寒い」
「判ってるさ。けど、これから冬になりゃ聖地は風上よりもっと寒くなる。太陽が遠くなるんだってファイアが言ってた」
「太陽が、遠く?」
「ああ、そうさ。太陽が地面(クラプト)から遠くなるから、寒くなるんだ。太陽は聖地の真上にあるから、聖地から離れると、太陽が遠くなって寒くなる。ファイアが教えてくれた」
「それで? 太陽はどんどん遠くなるのか? ずっとか?」
 その花道の話は、洋平が初めて聞く話だった。だから興味があった。そんな洋平の言葉は、花道は嬉しかった。
「今も少しずつだけど太陽は地面(クラプト)から遠くなってんだ」
「それで太陽はどこに行くんだ?」
「どこにも行かねえよ。冬が終われば戻ってきて、また地面(クラプト)は暖かくなるんだ」
「……何でだろう」
「それはオレにも判らねえ」
 洋平は、森の木の葉の間に見え隠れする太陽を見上げた。聖地の、風下の方角にずっとあって、動かない太陽。しかし今も確実に太陽の恵みは少なくなっている。渉も裕も、洋平が知らないことをたくさん教えてくれた。洋平は、二人には知らないことがないのだと思った。しかし、二人が教えてくれなかった、二人にも判らなかったことは、世界にはたくさんあるのだ。そして、洋平が知らないことは、それより更にたくさんあるに違いない。
 初めて思った。知らないことを知りたいと。そんなもの、洋平が生きていくのに必要なことではなかったのに。
「ファイアが言ってた。赤い砂の大地(クラプト)では、影が長くなるんだって」
 洋平の影は短い。足の下の小さな水たまりのように。
「影が長いのは太陽が低いからだって。想像できるか? 低い太陽なんて」
「低いって? 森の木より?」
「それは判らねえけど、首をうんと伸ばさなくても見えるくらい。ファイアとブルーは、聖地の太陽を見ながら歩いたんだ」
「太陽見ながらなんか歩ける訳ねえよ」
「オレもそう思う、水戸洋平」
 不思議な話。不思議な世界。洋平は少しだけ判ったような気がした。花道が、赤い砂の大地(クラプト)を見に行きたい理由が。低い太陽も、赤い砂も赤い風も、話を聞いただけでは想像できないのだから。
 洋平も見てみたい気がした。低い太陽と、赤い風を。
「水戸洋平、一緒に行かねえか? 低い太陽は見れねえと思うけど、赤い砂漠はもう遠くじゃねえ。こっからならたぶん三十日かからねえで戻ってこれるはずだ。移動の日には間に合う」
 目を輝かせて、花道は洋平に笑いかけた。不思議だと思う。この人間(ヒト)はどうしてこんな風に自分に笑いかけることができるのだろう。
 花道の笑顔は、聖地の太陽よりも眩しく輝いていた。


 花道は洋平のために、短刀(チェルク)で木を削って水筒を作った。洋平は鹿皮(カザムノ)を切り裂いて、移動用の袋を二つ作って出来上がったばかりの干し肉を半分ずつ包んだ。その一つを花道に渡す。水筒のお礼だと言うと、花道は笑顔でさんきゅーと言った。
 水筒と干し肉の袋と、別に鹿皮(カザムノ)を何枚か入れた袋とを身体に縛り付けると、出発の準備は整った。洋平は初めてだった。初めて、生まれ育った領域(クラプト)から外に出るのだ。
「オレは風下の聖地に向かって移動するんだと思ってた」
 初めて生まれた土地を離れることへの恐れ。洋平のその気持ちは自分の領域(クラプト)を出発した時の花道と同じだった。
「お前の渉と裕が通ってきた道だ。水戸洋平は行ける」
「当たり前だ」
 答えを聞いて、花道は洋平を意地っ張りだと思った。だけど思っただけで、その言葉をそっと胸の中にしまった。
 森の中から、所どころ木々のはえる草原に出て、二人は並んで歩いていった。まだ洋平の領域(クラプト)で、(リグ)の群れが遠巻きにしている。しばらく歩いて、洋平は不意に足を止めた。花道も振り返った。
「どうした? 水戸洋平」
「オレの領域(クラプト)、ここまでだ。気をつけろよ」
「ああ」
 花道は軽く返して再び歩き始めた。洋平が一旦足を止めたのは、自分の領域(クラプト)を出る事に対する単純な恐れなのだと思った。しかし、それまでさまざまな人間(ヒト)達の領域(クラプト)を通過してきただけの花道は、人間(ヒト)領域(クラプト)でない場所がどういうところなのか知らなかった。しばらく歩き、やがて(リグ)の群れの近くに来た時、気付いた見張りの(リグ)が仲間達に合図して二人は群れの全部の(リグ)にいきなり唸られ始めたのである。
「……なんだ? オレ達を喰いてえのか?」
「バカ。(リグ)が狩すんのにこの距離で唸る訳ねえだろ。オレ達が奴らの縄張(クラプト)に入ったから威嚇してんだ。動き、よく見て、距離保ったままゆっくり歩くんだ」
「……判った」
 互いに威嚇しあいながら、しだいに距離を遠ざけてゆく。最後に(リグ)が一頭駆けてきて脅しをかけるおまけ付きだった。そうして、完全に(リグ)の姿が見えなくなると、花道はほっと息を吐いた。
「驚いた。このへんの(リグ)ってみんなあんなか」
「言ったろ。オレの領域(クラプト)はもう終わってんだ。このあたりの(リグ)人間(ヒト)がいることに慣れてねえ。(リグ)だけじゃねえ。(マトナ)も、砂猫(ルミノク)もだ」
「そっか。もう人間(ヒト)領域(クラプト)じゃねえんだ」
 人間(ヒト)(リグ)とは、肉食という意味でほぼ同等の位置にいた。しかし(リグ)人間(ヒト)を喰うこともあるし、逆もある。この先、もっと寒い場所で獲物が少なくなれば、洋平や花道も(リグ)の狩の対象になることがあるかもしれない。花道はやっと、洋平がなぜ気をつけろと言ったのか実感することができた。
 途中、食事のために休憩して、更に歩いた。振り返って見上げても太陽の位置は変わらない。遠くまで来たような気がしたけれど、まだ一日遠ざかっただけなのだ。風景も、洋平が過ごしてきた領域(クラプト)と、ほとんど変わらなかった。
 森の中に入って、水場を見つけて水筒に補給した。そろそろ、二人の眠る時間が訪れていた。
栗鼠(キラエト)、狩るか? 水戸洋平」
 まだ先は長い。干し肉は減らさない方がよいかもしれないと、花道は思った。
「どっちみちこの干し肉じゃ帰りまではもたねえ。これから何度か鹿(カザム)は狩らなけりゃならねえから、干し肉喰った方がいいと思う」
 人間(ヒト)よりも暖かい毛皮を持つ鹿(カザム)は、寒い場所でも生きられるから、かなり先に行っても分布しているはずなのだ。それに、気温によっては鹿皮(カザムノ)で身体を覆わなければならない事態になるかもしれない。それには今洋平が持っている鹿皮(カザムノ)だけでは足りなかった。
 眠る場所に決めた木の下で、二人は干し肉を食べ始めた。しかし、本来話好きである花道は、少し元気がなかった。しばらくはもくもくと食べ続ける。食べ続けて、やがて、ぽつりと言った。
「オレ、なんかとんでもねえことに水戸洋平巻き込んだんだな」
 洋平の領地までの花道の旅と、今日の旅とでは、(リグ)の反応が違った。たったそれだけのことだったが、花道はかなり打ちのめされたのだ。その上その事実をきっかけに、思考が悪い方へと向かったこともある。縄張意識を主張する(リグ)(マトナ)の住む場所では、今までと同じようにのんびり眠ることなどできないのではないだろうか。
 しかし、花道が楽観視していたようには、洋平は楽観的ではなかった。洋平には(リグ)の反応も何もかも覚悟できていたのである。
「巻き込まれたとは思ってねえけど」
「……オレ、今考えてた。これからここで眠るつもりだけど、二人で一緒に眠るのって、危険かもしれねえ。今日は大丈夫かもしれねえけど、森が見つからなけりゃ草原の、何も隠すものがねえ場所で眠ることになる。そしたら(リグ)(マトナ)に喰い殺されるかもしれねえ。殺されたくなけりゃ、交代で眠るしかねえよな。交代で眠ったら、一日で歩ける距離は半分になって、三十日で行けるとこ、六十日かかるんだ。……オレ、そんな長くて危険な旅に、お前のことつれてきちまったんだ」
「……別に六十日かかっても平気だ。そのくらいなら砂漠はこねえ」
「お前……判ってたのか?」
「誰でも判る」
 花道は恥ずかしさに顔を赤らめてうつむいた。出発の前も、洋平の領域(クラプト)に辿り着くまでも、何人もの人間(ヒト)が無茶だと止めた。それなのに花道は笑って自分を押し通した。現実を軽く受けとめて。
「あんな強引にお前のこと誘わなきゃよかった」
「なんでしでかしたことだけ考えんだ。少しはこれからどうするか考えろよ」
「……水戸洋平」
「桜木花道はオレを連れて来てよかったんだ。お前みてえに警戒なしで眠る奴、一人で旅なんかできねえ」
 むしろ洋平は思っていたのだ。花道は実は眠るときの交代要因として自分を誘ったのだろうと。
 それはどうやら買い被りであったらしい。
「……ファイアとブルーは交代で眠って砂漠を越えたんだ。渉と裕もそうか?」
「そう聞いてる」
「二人は同じ時に同じ両親から産まれて、そっくりな顔をしてた。旅の途中にブルーが(ルマ)に変わった。第一世代から第三世代までは伴侶(カタホウ)は二人で産まれるのに、第四世代だけ、一人で産まれる。だからオレ達第四世代は自分で伴侶(カタホウ)を見つけなけりゃならねえんだ。聖地で冬を越して、春になってから、オレもお前も自分の伴侶(カタホウ)を見つける。そういうこと考えるとわくわくする。オレの伴侶(カタホウ)は、今もうどこかで産まれて、オレと出会うの待ってるんだと思うと」
「お前が考えることって、過ぎたこととそんなずっと先のことだけなのかよ。今どうするのか決めねえのか? お前が決めねえなら、オレ、もう眠るぜ。一緒に眠るのか交代で眠るのか、オレが眠ったあと勝手に決めてくれ」
 そのまま、洋平はもう花道など見もせずに眠る態勢に入ってしまう。花道の方は、いつの間にか立場が逆転してしまっていることを知って微笑んだ。最初、自分を軽い敵視で見ていたように思った洋平は、今はもう花道を恐れていないのだ。
 二人で旅をしたファイアとブルー。その足跡を辿るような気がした。愛し合い、絆を深めた二人の旅を。



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