花道は洋平のために、短刀で木を削って水筒を作った。洋平は鹿皮を切り裂いて、移動用の袋を二つ作って出来上がったばかりの干し肉を半分ずつ包んだ。その一つを花道に渡す。水筒のお礼だと言うと、花道は笑顔でさんきゅーと言った。
水筒と干し肉の袋と、別に鹿皮を何枚か入れた袋とを身体に縛り付けると、出発の準備は整った。洋平は初めてだった。初めて、生まれ育った領域から外に出るのだ。
「オレは風下の聖地に向かって移動するんだと思ってた」
初めて生まれた土地を離れることへの恐れ。洋平のその気持ちは自分の領域を出発した時の花道と同じだった。
「お前の渉と裕が通ってきた道だ。水戸洋平は行ける」
「当たり前だ」
答えを聞いて、花道は洋平を意地っ張りだと思った。だけど思っただけで、その言葉をそっと胸の中にしまった。
森の中から、所どころ木々のはえる草原に出て、二人は並んで歩いていった。まだ洋平の領域で、狼の群れが遠巻きにしている。しばらく歩いて、洋平は不意に足を止めた。花道も振り返った。
「どうした? 水戸洋平」
「オレの領域、ここまでだ。気をつけろよ」
「ああ」
花道は軽く返して再び歩き始めた。洋平が一旦足を止めたのは、自分の領域を出る事に対する単純な恐れなのだと思った。しかし、それまでさまざまな人間達の領域を通過してきただけの花道は、人間の領域でない場所がどういうところなのか知らなかった。しばらく歩き、やがて狼の群れの近くに来た時、気付いた見張りの狼が仲間達に合図して二人は群れの全部の狼にいきなり唸られ始めたのである。
「……なんだ? オレ達を喰いてえのか?」
「バカ。狼が狩すんのにこの距離で唸る訳ねえだろ。オレ達が奴らの縄張に入ったから威嚇してんだ。動き、よく見て、距離保ったままゆっくり歩くんだ」
「……判った」
互いに威嚇しあいながら、しだいに距離を遠ざけてゆく。最後に狼が一頭駆けてきて脅しをかけるおまけ付きだった。そうして、完全に狼の姿が見えなくなると、花道はほっと息を吐いた。
「驚いた。このへんの狼ってみんなあんなか」
「言ったろ。オレの領域はもう終わってんだ。このあたりの狼は人間がいることに慣れてねえ。狼だけじゃねえ。虎も、砂猫もだ」
「そっか。もう人間の領域じゃねえんだ」
人間と狼とは、肉食という意味でほぼ同等の位置にいた。しかし狼は人間を喰うこともあるし、逆もある。この先、もっと寒い場所で獲物が少なくなれば、洋平や花道も狼の狩の対象になることがあるかもしれない。花道はやっと、洋平がなぜ気をつけろと言ったのか実感することができた。
途中、食事のために休憩して、更に歩いた。振り返って見上げても太陽の位置は変わらない。遠くまで来たような気がしたけれど、まだ一日遠ざかっただけなのだ。風景も、洋平が過ごしてきた領域と、ほとんど変わらなかった。
森の中に入って、水場を見つけて水筒に補給した。そろそろ、二人の眠る時間が訪れていた。
「栗鼠、狩るか? 水戸洋平」
まだ先は長い。干し肉は減らさない方がよいかもしれないと、花道は思った。
「どっちみちこの干し肉じゃ帰りまではもたねえ。これから何度か鹿は狩らなけりゃならねえから、干し肉喰った方がいいと思う」
人間よりも暖かい毛皮を持つ鹿は、寒い場所でも生きられるから、かなり先に行っても分布しているはずなのだ。それに、気温によっては鹿皮で身体を覆わなければならない事態になるかもしれない。それには今洋平が持っている鹿皮だけでは足りなかった。
眠る場所に決めた木の下で、二人は干し肉を食べ始めた。しかし、本来話好きである花道は、少し元気がなかった。しばらくはもくもくと食べ続ける。食べ続けて、やがて、ぽつりと言った。
「オレ、なんかとんでもねえことに水戸洋平巻き込んだんだな」
洋平の領地までの花道の旅と、今日の旅とでは、狼の反応が違った。たったそれだけのことだったが、花道はかなり打ちのめされたのだ。その上その事実をきっかけに、思考が悪い方へと向かったこともある。縄張意識を主張する狼や虎の住む場所では、今までと同じようにのんびり眠ることなどできないのではないだろうか。
しかし、花道が楽観視していたようには、洋平は楽観的ではなかった。洋平には狼の反応も何もかも覚悟できていたのである。
「巻き込まれたとは思ってねえけど」
「……オレ、今考えてた。これからここで眠るつもりだけど、二人で一緒に眠るのって、危険かもしれねえ。今日は大丈夫かもしれねえけど、森が見つからなけりゃ草原の、何も隠すものがねえ場所で眠ることになる。そしたら狼や虎に喰い殺されるかもしれねえ。殺されたくなけりゃ、交代で眠るしかねえよな。交代で眠ったら、一日で歩ける距離は半分になって、三十日で行けるとこ、六十日かかるんだ。……オレ、そんな長くて危険な旅に、お前のことつれてきちまったんだ」
「……別に六十日かかっても平気だ。そのくらいなら砂漠はこねえ」
「お前……判ってたのか?」
「誰でも判る」
花道は恥ずかしさに顔を赤らめてうつむいた。出発の前も、洋平の領域に辿り着くまでも、何人もの人間が無茶だと止めた。それなのに花道は笑って自分を押し通した。現実を軽く受けとめて。
「あんな強引にお前のこと誘わなきゃよかった」
「なんでしでかしたことだけ考えんだ。少しはこれからどうするか考えろよ」
「……水戸洋平」
「桜木花道はオレを連れて来てよかったんだ。お前みてえに警戒なしで眠る奴、一人で旅なんかできねえ」
むしろ洋平は思っていたのだ。花道は実は眠るときの交代要因として自分を誘ったのだろうと。
それはどうやら買い被りであったらしい。
「……ファイアとブルーは交代で眠って砂漠を越えたんだ。渉と裕もそうか?」
「そう聞いてる」
「二人は同じ時に同じ両親から産まれて、そっくりな顔をしてた。旅の途中にブルーが女に変わった。第一世代から第三世代までは伴侶は二人で産まれるのに、第四世代だけ、一人で産まれる。だからオレ達第四世代は自分で伴侶を見つけなけりゃならねえんだ。聖地で冬を越して、春になってから、オレもお前も自分の伴侶を見つける。そういうこと考えるとわくわくする。オレの伴侶は、今もうどこかで産まれて、オレと出会うの待ってるんだと思うと」
「お前が考えることって、過ぎたこととそんなずっと先のことだけなのかよ。今どうするのか決めねえのか? お前が決めねえなら、オレ、もう眠るぜ。一緒に眠るのか交代で眠るのか、オレが眠ったあと勝手に決めてくれ」
そのまま、洋平はもう花道など見もせずに眠る態勢に入ってしまう。花道の方は、いつの間にか立場が逆転してしまっていることを知って微笑んだ。最初、自分を軽い敵視で見ていたように思った洋平は、今はもう花道を恐れていないのだ。
二人で旅をしたファイアとブルー。その足跡を辿るような気がした。愛し合い、絆を深めた二人の旅を。
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