冬のまほろば



 獲物はいつも、風上からやってくる。
 はぐれ老鹿(カザム)。群れの中で、群れの一員として役目を終えたもの。彼らは人間(ヒト)の貴重な食料となった。老いて死んだ人間(ヒト)達が、(マトナ)(リグ)の貴重な食料となるように。
 風下の草むらに姿を隠す。気配を消す。もう少し。もう少し。
 老鹿(カザム)の注意がほんの一瞬それたその瞬間 ――
 息を詰めて、洋平は飛び出した。裸足の足に直接草原を踏みしだいて。老鹿(カザム)は反転したが遅い。それでも最後の足掻きのように逃げ、命の尽きるその時まで、戦うことを止めない。洋平も油断などしなかった。命がけで戦うことが、老いた生き物への最期の餞であるから。
 短刀(チェルク)が老鹿(カザム)の首を掻き切る。血柱が吹き上がるけれど、老鹿(カザム)は足掻きを止めることはない。足を折る。どうと倒れる。咽喉を切り裂く。痙攣は止まない。巨体を裏返して心臓に短刀(チェルク)を突き立てる。返り血は、洋平を鬼神のように変えた。
「はーっ……」
 深い溜息が、狩の終わりを告げるように風に紛れた。今回のこの戦いにおいては、洋平は勝利をおさめることができたのだ。
(でけえな。これだけありゃ、二十日は食えるか)
 まだ温もりの残る獲物を切り裂き始めた。毛皮に切り目を入れて、皮を全てきれいに剥いでしまう。血まみれの毛皮を少し遠くに向かって放り投げて、腹部を裂いて内臓を取り出す。滴り落ちる血液は気にせずに噛みついた。甘く、しょっぱい、生の内臓の味。
 滴る血液は剥き出しの胸や腹部を緋色に染めた。頬の回りも、まだ細く華奢な腕も。唇も、時々顔を出す舌先も赤い。血液は首筋を流れ、とどめを刺したとき飛び散った血液と紛れてどちらか判らなくなった。
 おこぼれを期待してか砂猫(ルミノク)がどこからか現われる。血の匂いを嗅ぎ付けて、(リグ)の群れが遠巻きにしている。しかし、手を出すことはない。この領域(クラプト)では、洋平が王者なのだ。
 内臓を喰らい尽くして、洋平は満足した。しかし洋平はその獲物を手放さなかった。悠々と立ち上がり、獲物の前足を掴んで引きずるように歩き始める。先程放り投げた獲物の皮も残さない。(リグ)の群れも、砂猫(ルミノク)も、土の中から顔を出しかけた土竜(ルギド)も、それを見送ることしかできなかった。
 洋平と獲物は、間もなく森の中へと姿を消した。


 残りの獲物を、洋平は森の中で小さく切り裂いた。森がそこだけ途切れるところ、巨大な岩の上に運んで、日の光に当てる。天日は生の肉を干し肉に変える。きちんと干せば、しばらく狩をすることはないのだ。
 近くの、涌き水が溢れて川を作っている場所で、洋平は身体を洗った。そのまま再び岩の上に登り、獲物の肉と一緒に寝転がる。水滴を乾かしながら、疲れた身体を休める。狩のあとの寝床は、干し肉を見張れるこの場所だった。
 そうして、しばらく眠ったときだった。不意に、洋平は気配を感じて目を開けた。
(風下?)
 大きな獣の気配。しかし、風下から獣が来ることはない。
 気配を消すように洋平は岩の上から覗き込んだ。風下の獣はすでに洋平に気付いていた。気付いていて、笑った。洋平は驚いて目を丸くした。
人間(ヒト)!)
「ここはお前の領域(クラプト)か?」
 赤い髪を持った人間(ヒト)だった。洋平よりふた回りは大きい身体をしている。風下から来たことは間違いない。人間(ヒト)は確かに太陽を背にしているのだ。
 洋平が生まれる秋から、洋平が死ぬべき春の始めのこの時期に、人間(ヒト)は風下から風上に移動することはない。それに、今はまだ移動の時期ではない。もっと寒くなってから、獣も人間(ヒト)も風上から風下に向かって移動するのだ。
 赤い髪の人間(ヒト)は、洋平が生まれて初めて目にした、父と母以外の人間(ヒト)だった。
「そうだ。オレの領域(クラプト)だ」
 答えを待っていたかのように、再び赤い髪の人間(ヒト)は洋平に笑いかけた。
「オレは桜木花道。ファイアとブルーの子。お前は?」
「……水戸洋平。渉と裕の子」
「水戸洋平、そこへ行ってもいいか?」
 身体が大きい人間(ヒト)。身体が大きいということは、力が強く、生きる確率が高いということだった。もしもこの領域(クラプト)をこの人間(ヒト)に奪われたら、洋平は生きる術をなくすだろう。しかし、生きる資格があるのは、身体が大きい人間(ヒト)の方なのだ。追い出され、生きる術をなくしたら、身体の小さな人間(ヒト)は死ななければならない。
 干し肉を奪われたとしても、仕方がない。
「好きなようにしろ。逆らわねえ」
「おお!」
 足場を見つけて、桜木花道は岩を登ってきた。敷き詰められた干し肉を見て驚く。しかし、その干し肉を上手に寄せて、自分の居場所を作ると座り込んだ。洋平が思ったようには、桜木花道は洋平の干し肉を奪わなかった。
 たまたま満腹だったのかもしれない。
「水戸洋平、今はお前の眠る時間か?」
 寝転がったままの洋平を見て、桜木花道は言った。生き物は、好きな時間に勝手に眠る。洋平が眠くなったときが、洋平の眠る時間だった。
「そうだ。オレはさっき狩をした。だから今はねみいんだ」
「そっか。そんじゃ寝た方がいいな。だけどちょっと教えてくれ。オレ、さっきそこで泉見つけたんだ。あれも水戸洋平の領域(クラプト)か?」
「そうだ」
「オレ、のど乾いてんだ。水もらってもいいかな」
 洋平は不思議に思って桜木花道を見た。この人間(ヒト)は洋平の領域(クラプト)を奪いに来たのではないのだろうか。
「別にかまわねえよ」
「さんきゅー。そんじゃ、ちょっと行ってくら」
 岩を駆け下りて、桜木花道は先程洋平が身体を洗った泉のところへ行く。そこで水を飲み、持っていた水筒を満たした。再び岩の上に駆け上がってくる。今度はもう少し干し肉を寄せて、大きく場所をあけて洋平と同じ方向で寝転がっていた。
「飯、喰ってもいいか?」
 今度こそ洋平の干し肉を喰うつもりだろう。
「ああ」
 しかし、桜木花道は自分が持ってきた干し肉を取り出して、洋平の干し肉には目もくれずに食べ始めたのだ。おかしな奴だと思った。目の前にはこんなにたくさんの干し肉があるというのに。
「桜木花道」
「あ、オレのこと、花道でいいぜ」
「お前、なんでオレの干し肉食べねえ」
 今度は花道の方が面食らったように洋平を見た。
「なんで水戸洋平の干し肉喰わなきゃなんねんだ? 自分で持ってんのに」
「だってお前、オレの領域(クラプト)奪いにきたんだろ?」
「……なんでだ? オレ、水戸洋平の領域(クラプト)が欲しくて来た訳じゃねえよ。世界の果てを見に来たんだ」
 世界の果て? そんなもの、なぜ見に行かなければならないのだろう。第四世代は旅をしない世代。冬の寒さに凍てついた世界の果てなど、なんの意味もないというのに。
「誤解させちまったみたいだな。オレが旅に出た理由、水戸洋平に話してやるよ」
 そうして、洋平は、花道の不思議な話を聞くことになったのだ。


「……ファイアとブルーは砂漠を越えて来たんだ。オレが住んでるのはもっと風下の聖地に近いあたりで、水戸洋平の領域(クラプト)よりも獣や木の実が多い。だから一人あたりの領域(クラプト)も小さくて、回りにはたくさんの人間(ヒト)も住んでるんだ。ファイアとブルーは第三世代の中でも一番最初に生まれた。水戸洋平、渉と裕は第三世代では最後に生まれたのか?」
「……そうだ。だからオレの領域(クラプト)は聖地から一番遠いんだ。オレの領域(クラプト)より風上には誰の領域(クラプト)もねえ」
「そっか。そんじゃ、こっから先はけっこう大変だな。ま、それはともかく、オレ、ファイアとブルーの話聞いて、砂漠の赤い砂と赤い風、見てみたくなった」
 あくびを噛み殺しながら、洋平はまた花道を変な奴だと思った。洋平も渉と裕から砂漠の話は聞いている。どこまでも続く赤い砂の大地(クラプト)で、渉と裕は育ったのだと。その砂漠を二人は旅してきた。長い時間を旅して、二人は愛し合った。旅の途中で裕の身体が(ルマ)に変化して、辿り着いたこの地で洋平を産んだのだ。
 水さえ満足にない砂漠。砂漠に比べれば、洋平の痩せた領域(クラプト)も天国だった。花道の領域(クラプト)はそれより更にすばらしい世界だった。
「桜木花道、追い風に乗って砂漠はどんどん広がってるんだ。そのうちここも砂に飲み込まれる。しばらくすりゃ、桜木花道の領域(クラプト)も赤い砂の大地(クラプト)だ。それまで待ってりゃいいじゃんか」
「オレのことは花道でいいって。……やっぱ、見に行くのと来るの待ってるのとじゃ違うだろ? オレ、自分の足で旅して、赤い砂を踏みしめてえんだ。ファイアとブルーが歩いた砂漠、オレも歩きてえ。二人がそこでどうやって愛し合って、オレを産んだのか、確かめてみてえんだ。……二人とも、死んだし」
 第三世代は旅をする世代。旅をして、寒さに強い第四世代を産んで、育てたあとに死ぬ。それはファイアとブルーでも、渉と裕でも同じだ。第四世代である洋平には何でもないこの気候は、第三世代には寒すぎるのだから。
「桜木花道の話は判った。要するに、お前はすぐにオレの領域(クラプト)を通り過ぎるんだな。それなら別にかまわねえよ」
「花道でいい。だからお前のこと、洋平って呼ばせてくれ」
「いやだ。オレをそう呼べるのは渉と裕だけだ」
「だけど渉と裕だってもう死んだんだ」
「オレの眠る時間をじゃますんなら岩から下りろ」
 花道は岩から下りることはしなかった。洋平の眠る時間をじゃましないようにおとなしくなる。目を閉じた洋平を見つめながら、花道は思った。洋平の笑った顔が見てみたいと。
 花道がそれまで出会った誰よりも身体の小さな洋平は、花道にとっても、まったく未知の生物だったのである。



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