残りの獲物を、洋平は森の中で小さく切り裂いた。森がそこだけ途切れるところ、巨大な岩の上に運んで、日の光に当てる。天日は生の肉を干し肉に変える。きちんと干せば、しばらく狩をすることはないのだ。
近くの、涌き水が溢れて川を作っている場所で、洋平は身体を洗った。そのまま再び岩の上に登り、獲物の肉と一緒に寝転がる。水滴を乾かしながら、疲れた身体を休める。狩のあとの寝床は、干し肉を見張れるこの場所だった。
そうして、しばらく眠ったときだった。不意に、洋平は気配を感じて目を開けた。
(風下?)
大きな獣の気配。しかし、風下から獣が来ることはない。
気配を消すように洋平は岩の上から覗き込んだ。風下の獣はすでに洋平に気付いていた。気付いていて、笑った。洋平は驚いて目を丸くした。
(人間!)
「ここはお前の領域か?」
赤い髪を持った人間だった。洋平よりふた回りは大きい身体をしている。風下から来たことは間違いない。人間は確かに太陽を背にしているのだ。
洋平が生まれる秋から、洋平が死ぬべき春の始めのこの時期に、人間は風下から風上に移動することはない。それに、今はまだ移動の時期ではない。もっと寒くなってから、獣も人間も風上から風下に向かって移動するのだ。
赤い髪の人間は、洋平が生まれて初めて目にした、父と母以外の人間だった。
「そうだ。オレの領域だ」
答えを待っていたかのように、再び赤い髪の人間は洋平に笑いかけた。
「オレは桜木花道。ファイアとブルーの子。お前は?」
「……水戸洋平。渉と裕の子」
「水戸洋平、そこへ行ってもいいか?」
身体が大きい人間。身体が大きいということは、力が強く、生きる確率が高いということだった。もしもこの領域をこの人間に奪われたら、洋平は生きる術をなくすだろう。しかし、生きる資格があるのは、身体が大きい人間の方なのだ。追い出され、生きる術をなくしたら、身体の小さな人間は死ななければならない。
干し肉を奪われたとしても、仕方がない。
「好きなようにしろ。逆らわねえ」
「おお!」
足場を見つけて、桜木花道は岩を登ってきた。敷き詰められた干し肉を見て驚く。しかし、その干し肉を上手に寄せて、自分の居場所を作ると座り込んだ。洋平が思ったようには、桜木花道は洋平の干し肉を奪わなかった。
たまたま満腹だったのかもしれない。
「水戸洋平、今はお前の眠る時間か?」
寝転がったままの洋平を見て、桜木花道は言った。生き物は、好きな時間に勝手に眠る。洋平が眠くなったときが、洋平の眠る時間だった。
「そうだ。オレはさっき狩をした。だから今はねみいんだ」
「そっか。そんじゃ寝た方がいいな。だけどちょっと教えてくれ。オレ、さっきそこで泉見つけたんだ。あれも水戸洋平の領域か?」
「そうだ」
「オレ、のど乾いてんだ。水もらってもいいかな」
洋平は不思議に思って桜木花道を見た。この人間は洋平の領域を奪いに来たのではないのだろうか。
「別にかまわねえよ」
「さんきゅー。そんじゃ、ちょっと行ってくら」
岩を駆け下りて、桜木花道は先程洋平が身体を洗った泉のところへ行く。そこで水を飲み、持っていた水筒を満たした。再び岩の上に駆け上がってくる。今度はもう少し干し肉を寄せて、大きく場所をあけて洋平と同じ方向で寝転がっていた。
「飯、喰ってもいいか?」
今度こそ洋平の干し肉を喰うつもりだろう。
「ああ」
しかし、桜木花道は自分が持ってきた干し肉を取り出して、洋平の干し肉には目もくれずに食べ始めたのだ。おかしな奴だと思った。目の前にはこんなにたくさんの干し肉があるというのに。
「桜木花道」
「あ、オレのこと、花道でいいぜ」
「お前、なんでオレの干し肉食べねえ」
今度は花道の方が面食らったように洋平を見た。
「なんで水戸洋平の干し肉喰わなきゃなんねんだ? 自分で持ってんのに」
「だってお前、オレの領域奪いにきたんだろ?」
「……なんでだ? オレ、水戸洋平の領域が欲しくて来た訳じゃねえよ。世界の果てを見に来たんだ」
世界の果て? そんなもの、なぜ見に行かなければならないのだろう。第四世代は旅をしない世代。冬の寒さに凍てついた世界の果てなど、なんの意味もないというのに。
「誤解させちまったみたいだな。オレが旅に出た理由、水戸洋平に話してやるよ」
そうして、洋平は、花道の不思議な話を聞くことになったのだ。
「……ファイアとブルーは砂漠を越えて来たんだ。オレが住んでるのはもっと風下の聖地に近いあたりで、水戸洋平の領域よりも獣や木の実が多い。だから一人あたりの領域も小さくて、回りにはたくさんの人間も住んでるんだ。ファイアとブルーは第三世代の中でも一番最初に生まれた。水戸洋平、渉と裕は第三世代では最後に生まれたのか?」
「……そうだ。だからオレの領域は聖地から一番遠いんだ。オレの領域より風上には誰の領域もねえ」
「そっか。そんじゃ、こっから先はけっこう大変だな。ま、それはともかく、オレ、ファイアとブルーの話聞いて、砂漠の赤い砂と赤い風、見てみたくなった」
あくびを噛み殺しながら、洋平はまた花道を変な奴だと思った。洋平も渉と裕から砂漠の話は聞いている。どこまでも続く赤い砂の大地で、渉と裕は育ったのだと。その砂漠を二人は旅してきた。長い時間を旅して、二人は愛し合った。旅の途中で裕の身体が女に変化して、辿り着いたこの地で洋平を産んだのだ。
水さえ満足にない砂漠。砂漠に比べれば、洋平の痩せた領域も天国だった。花道の領域はそれより更にすばらしい世界だった。
「桜木花道、追い風に乗って砂漠はどんどん広がってるんだ。そのうちここも砂に飲み込まれる。しばらくすりゃ、桜木花道の領域も赤い砂の大地だ。それまで待ってりゃいいじゃんか」
「オレのことは花道でいいって。……やっぱ、見に行くのと来るの待ってるのとじゃ違うだろ? オレ、自分の足で旅して、赤い砂を踏みしめてえんだ。ファイアとブルーが歩いた砂漠、オレも歩きてえ。二人がそこでどうやって愛し合って、オレを産んだのか、確かめてみてえんだ。……二人とも、死んだし」
第三世代は旅をする世代。旅をして、寒さに強い第四世代を産んで、育てたあとに死ぬ。それはファイアとブルーでも、渉と裕でも同じだ。第四世代である洋平には何でもないこの気候は、第三世代には寒すぎるのだから。
「桜木花道の話は判った。要するに、お前はすぐにオレの領域を通り過ぎるんだな。それなら別にかまわねえよ」
「花道でいい。だからお前のこと、洋平って呼ばせてくれ」
「いやだ。オレをそう呼べるのは渉と裕だけだ」
「だけど渉と裕だってもう死んだんだ」
「オレの眠る時間をじゃますんなら岩から下りろ」
花道は岩から下りることはしなかった。洋平の眠る時間をじゃましないようにおとなしくなる。目を閉じた洋平を見つめながら、花道は思った。洋平の笑った顔が見てみたいと。
花道がそれまで出会った誰よりも身体の小さな洋平は、花道にとっても、まったく未知の生物だったのである。
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