ひとつ屋根の下
翌朝、オレが起きると花形はすでに起きて台所でなにやら作業していた。
顔を見てオレはすぐに昨日のことを謝った。花形は笑って自分も悪いと言ってくれたから、オレはずいぶん心が軽くなって花形のしていることを見ると、花形は昨日炊いたごはんをどこからか探してきた蒸し器に入れて蒸してるところだったんだ。昨日焦がした鍋もきれいに洗ってある。オレはさらに恐縮しちまった。だいたいオレ、昨日の夜花形に風呂さえわかしてやらなかったんだ。
蒸し器に入れたごはんは昨日よりはだいぶましになっていた。でも水分をすって表面がひび割れてたから、お茶漬けにでもしないことにはおいしく食べるのはちょっと無理だろう。
午前中は部活に出かけて、昼ごはんはできあいの揚げ物で適当に済ませる。それからの時間は洗濯に費やした。花形も手伝ってくれた。オレも一人でできれば言うことなかったんだけど、やっぱり二人でやるのが楽で、つい花形に甘えちまった。お互いに家のことはなにもしたことのない二人だ。判らないことがものすごく多かったけど、でも二人で知恵を出し合えばなんとかなるものらしい。洗濯も掃除も炊事も、とりあえず困らない程度にオレ達はできるようになっていた。
そんな生活を続ける間、オレの視線は時々花形の唇を追っていた。そばに来て洗濯機を覗き込む花形の顔を振り返ることができないことしばしば。そんなとき決まってオレの心臓の動きは早くなった。ただ、その意味はオレには理解できなかった。同じ屋根の下で二人きりで暮らすことに不安定になりつつある自分の感情に一種もやもやしたものを感じながら。
そんな生活が五日間も続いた。たぶん明日の夕方、待望の専業主婦が帰って来るはずだ。オレは改めて母親のありがたみを感じていた。だけどつらい中にもほのかに楽しい気分もあって、オレは母親が帰って来るのが待ち遠しくもあり、ほんの少しうざったくもあったんだ。なにしろ母親のいない生活は自由だった。多少騒いだところで文句も言われなかったし、だいたい今の年ごろのオレ達にとって、母親なんていればじゃまに思える存在だったんだから。
花形とふたりっきりで迎える最後の夜、食事も終え風呂にも入ったオレ達は戸締まりを確認してそれぞれの部屋で過ごしていた。受験生のオレはもちろん十二時までは勉強がある。机に向かってノルマをこなしていたところ、やっぱりこの五日間の生活の疲れが出たらしい。オレは机に突っ伏して居眠っちまっていたんだ。
居眠りながらも、オレの意識はあった。勉強しなけりゃならないって必死で目を開けようとした。だけど、まぶたは重くて少しも言うことを聞かない。腕に力を入れて起き上がろうにも力が入らない。ただ気持ちだけは起きなきゃ、起きなきゃって思い続けてた。
その時、部屋のドアがノックされた。間違いなく花形だ。起きようと思いつつも起きられないオレは身動き一つ取れないまま二度目のノックと花形の声を聞いた。
「藤真? 寝たのか?」
もう少し遅い時間なら花形もそのまま自分の部屋に帰ったことだろう。だけど、オレが覚えてる限りでは時間はまだ十時過ぎだ。この時間にオレが寝てるはずもないから、花形は一言声を掛けてドアを開けた。
「藤真、入るぞ」
オレはそんなに寝起きの悪い方じゃない。だから本来ならこういうときすぐに起きられただろう。だけどこの五日間の生活でオレは相当疲れていたらしい。まるで金縛りにあったように、身体の一つも動かせやしなかった。そんなオレを見て、花形はたぶんオレが疲れて眠ってるんだと思ったんだろう。事実その通りだったんだけど、花形が思っているようにオレは完全には眠ってはいなかった。
意識が半分起きている状態で、オレは花形の行動を気配で追っていた。花形はオレに近づいて突っ伏したままのオレを覗き込むようにした。そしてふと吐息を漏らして後ろの方に歩いていく。その間にもオレは起きようと努力していたけど、花形のちょっとした気配くらいではオレの身体は動かなかった。花形はオレのベッドで何かゴソゴソやったあと、再びオレに近づいてきた。そして、オレの上半身を少し起こして椅子をずらして、オレの身体を抱きあげたんだ。
その瞬間、オレの意識は現実に重なっていた。身体も動かそうと思えば動かせただろう。だけどオレは今度は別の理由で身体を動かすことができなかった。花形の腕が、オレの身体を抱きあげる。その上半身はぴったりと花形の身体に押しつけられていた。頬は花形の鎖骨の位置にもたれかかっていて、その生命活動をオレに伝えている。花形の呼吸がオレの前髪を揺らす。
オレは自分の心臓の音を聞いた。それはもしかしたら花形の心臓の音だったのかも知れない。だけどオレの心臓は早鐘のように打ち鳴らされてて、同じリズムを刻んでる。花形の身体の匂いが、オレの何かを狂わせていた。
今、判った。オレの視線の意味が。オレのドキドキの意味が。花形の唇に固定されたオレの視線。オレを気遣う言葉もそのほほえみも、そして訳の判らない涙の正体。
いつかオレ、同じように居眠って気づいたらベッドに寝てたことがあった。あのときもお前、こんな風にオレのことベッドに運んだのか?
オレの身体、こんなにぴったりお前の身体に包み込んで。
やがてベッドに優しく降ろされたとき、オレは目を開けた。花形はオレの身体にふとんをかけようとしてその視線に気づくと凍りついた。二人の間に今までとはまったく違う空気が流れる。その空気に触発されるように、お互いがお互いに影響されて二人はおかしくなっていった。花形の瞳が熱っぽく潤む。きっとオレ、今花形と同じ目をしてる。
「お前……どうして平気なんだよ」
自分の声が現実のようには響かなかった。まだ半分夢の中をさまよってるのかも知れない。
花形が表情を変える。まるで何かにおびえるように。
「……平気じゃ、ない」
その瞬間、オレは疑わなかった。オレと花形が今この時同じ想いでいるという事を。
鼓動が早くなる。見つめあうオレ達の時はスローモーションの領域。緩やかに流れて、その居心地の悪さにオレはめまいさえ覚えた。花形の唇がオレを誘う。誘われるままに、オレは身体を起こした。おびえる花形の頬に触れて、唇を寄せる。触れるか触れないかのうちに、花形は弾かれるようにオレを拒んでいた。
その花形の行動にオレはひどく傷つけられていた。そして思い出す。花形の好きな相手はオレじゃないってこと。
「花形、オレのこと好きだよな」
今にも泣き出しそうなほど怯えた花形の目。その目ほどオレの神経を掻き立てるものはない。
「藤真……どうして……」
「好きだろ? そう言えよ。オレのことが好きだって」
言いながら再び花形の首に腕をからめる。次はもう逃がさない。首筋から厚い黒髪の隙間に指を滑り込ませて、片方の手は顎から唇をなぞる。わずかに開かれた唇は微妙に動いてやがてその声に震えた。
「オレのこと……気紛れにからかってるなら−」
「どうするんだ? オレのこと押し倒して襲うか? ……この間お前がそう言ったんだぜ。オレのこと押し倒したいって」
「藤真……!」
今度は逃がさなかった。唇が触れた瞬間、オレの身体に戦慄が走る。前にキスしたときとぜんぜん違う。身体の神経がすべて唇に集まってしまったように、オレは花形の唇の感触を吸いつくした。足が震えて膝立ちが苦しくなる。我慢できずに伸ばした舌は花形の舌を捜し当てるとそのままからめていった。花形の唇はオレの求めに応じることはなかった。やがて耐えきれなくなったオレの膝は崩れて、ベッドに倒れ込みそうになるオレを花形は抱き止めていた。
深い吐息が漏れる。見上げたオレが見たものは、苦しそうにオレを見つめる花形の視線だった。
「オレのこと、好きだよな、花形」
花形は答えない。ここまでやってもオレはお前の初恋の幻影には勝てないのか。
「好きじゃないなら逃げるだろ? 男のオレにキスされて逃げないのはオレのことが好きだからだ。違うんだったらオレに判るように言えよ」
歪んだ、花形の顔。オレの扱いに困り果てているのかもしれない。おまえは優しいから、オレを傷つけたくなくて……
そういうお前の優しさにオレは翻弄され続けていた気がする。
「……もういい。判った。いくらお前が優しい奴でも、ない袖は振れないよな」
オレがあきらめを口にした瞬間、オレの身体はこれ以上はないほど強引に抱き竦められていた。まるで手加減のない花形の腕はその身体に似合って強力で、オレはほとんど痛みさえ感じて呆然とする。花形の身体の震えがオレに伝わってくる。花形の激しい息づかいが耳をなでて、オレの頭を痺れさせた。
強引すぎて目眩がする。そんな花形の行動が判らなくて、オレはクエスチョンマークを頭に並べた。
「……藤真 ―― 」
苦しそうに震える声。お前、今どんな顔してる……?
「どうしてお前……オレにキスなんかしたんだ……!」
抱き締める腕がさらにきつくなる。その痛みにオレは身じろぎした。それに気づいたのだろう。花形ははっとしてオレを抱き締めるのをやめた。とっさになにもできないオレに背を向けて、花形は立ち上がってドアを出ていく。オレはそんな花形を呆然と見送ることしかできなかった。
なんだったんだ? 今の ――
お前いったいどういうつもりでオレを抱き締めたんだ? オレを好きなのか? それとも、普通に言ったんじゃオレが離れそうにないから、オレから主導権をむしり取るつもりでああいうことをしたのか?
オレは初めて、花形が動かしがたいほどの強い意志を持った人間なのだと知った。そして、結局なにも判らなかったことに、ひそかな苛立ちを感じていた。
この夜、いささか高飛車な行動で花形の気持ちを確かめようとしたオレも、本当に花形に好かれているとは爪の先ほども思ってはいなかった。だいたいオレは好かれるよりも嫌われることの方が多い人間で、だれかに無条件で好かれた経験なんてほとんどなきに等しいんだ。花形みたいに出会った奴のほとんどから好かれる人間とは違う。たぶん好かれやすい人は人を好きになることをためらわないから、よけいに好かれる人間になっていくんだろう。
でも案外、好かれやすい人は好かれにくい人よりも、他人に嫌われることが苦手なのかも知れない。反対にオレみたいな人間は人に嫌われることをそれほど恐れないでいられる。あの夜、オレはあの行動で花形に嫌われるのならそれでもいいと思った。だけど花形は、オレに自分の気持ちを正直に話すことでオレに嫌われることを恐れたのかもしれない。オレが期待した言葉を言えなかった花形。はっきり好きじゃないと伝えてくれた方が、オレはもっとスッキリした気持ちになれたはずなのに。
母親が帰ってきてオレ達をねぎらったあと、ほとんどめちゃくちゃな家の中をそのバイタリティーでもって片付けはじめた。ようやく一呼吸ついていたとき、オレは自分のもやもやをどうにもできなくてテーブルに同席したんだ。
「あら、健司。勉強はいいの?」
オレのスケジュールを把握し尽くした母親が聞いてくる。本当に主婦ってのはありがたい存在だ。
「なんかそういう気分じゃない」
オレのためにごく自然な動作でお茶を入れてくれる。この一週間いなかったせいか、母親のそういう動作が目につくようになっていた。そういえばオレが生まれてからそろそろ十八年も経つ。その間母親もねえちゃんもいない状況ってのは今回が初めてだったんだ。
「ねえ、お母さん」
母親が再びテーブルについたころ、オレは言ってみた。
「オレ、卒業したら嫁に行ってもいい?」
オレはその科白をかなりの効果を期待して言ったんだ。なのに母親はまるで動じたようすもなく、ため息をついてあっさり言ったから、オレは少なからず驚いていた。
「あんたねえ、主婦ってそりゃあ大変なのよ。毎日過ごしやすいように家の中を整えて、あんた達が帰ってきていい気分でいられるように家の中を明るく保って。掃除洗濯だけできればいいってもんじゃないのよ。簡単に言わないでほしいわ」
この場合問題にしなけりゃならないのは男のオレが嫁に行くってことだと思うんだけど。
「主婦が大変なのはこの一週間でよく判ったけど……それ、論点がずれてない? オレは嫁に行くって言ったんだよ」
「英子も康子も卒業と同時にお嫁に行ったんだもの。別にあんただけ例外にする必要はないでしょ。しっかりできるんだったら構わないわよ」
「そうじゃなくてさ、オレ、一応藤真家の長男なんだけど」
「おうちのこと心配してるの? だったら別にうちは商売してるわけじゃないし、家を継ぐことなんか考えなくてもいいわよ。お父さんもお母さんも子供はいずれ独立するものだって思ってるから。あんたの大学資金が結婚資金に変わったところでいっこうに気にしないわよ」
―― 参った。
うちの母親が世間一般の親とは違うと思ってたけど、ここまで違うとは。普通の親なら息子が嫁に行くって言ったら半狂乱になりそうなもんだよな。ここまで徹底して違うと表彰もんだよ。
オレが黙っちまったからだろう。母親は少し優しい表情になって、オレに言った。
「それで? お嫁に行くとかそこまで話が進んだの?」
「……そんなこと考えてない。相手の気持ちもよく判らない。だいたいあいつもオレのことよく判ってないだろうし」
「要は健司が強情張って自分の気持ち伝えられないでいるのか。そろそろその臆病を直さないとだめよ。どちらかが伝えようとしないといつまで経っても一方通行のままなんだから」
さすがお母さん。息子の性格よく把握してる。
「前に、さ。花形と初恋の話したことがあって……。はっきり言わなかったけどあいつ、康子ねえちゃんのことが好きなような感じだった。ねえちゃんと話してた時の花形ぜんぜん態度違ったし」
「そうか。そうしたらお母さん、健司にいいこと教えてあげる」
初めて相手の名前を言ったオレに、母親は慈愛に満ちた顔でほほえんだ。普段はいてもいなくてもたいして気にしないような態度をとっていても、いざという時にはちゃんと話を聞いてくれる。この年でこんな相談母親に持ちかけるなんて、マザコンと思われても仕方ないかもな。でも、この親にしてこの子ありってことで、オレの相談も人並みはずれたものがあるけど。
「去年の冬くらいからね、透君よく夜中に水を飲みに来てたのよ。ほら、あんたみたいに神経の太い子じゃないでしょう? よく眠れないみたいで、お母さん冷蔵庫に安眠茶作っておいたりしたの」
そういえば時期外れに麦茶なんか作ってあると思ったことがあったっけ。あれ、安眠茶だったのか。それにしても初耳だ。花形が不眠症なんて。
「お母さんもね、ご両親からお預かりした大切な息子さんでしょう? 心配で話聞いたことがあったのよね。ほら、そのころちょうど健司が受験勉強始めて、慣れないことであんたも少しピリピリしてたのよ。透君も心を鬼にして勉強教えてくれて、けっこう責任感じてたのね。今の状態があんたにとってよくないんじゃないかってしきりに心配して、自分の勉強も手につかないくらい心配して。
健司、お母さんが透君が本当にいい子だと思うのは、人のことだけでこれだけ悩めるからだってだけじゃないのよ。……あんたのことずっと考え続けてた透君、そのうちあんたの健康状態よりも自分のこと考え始めたみたい。でね、自分のことで悩む自分が透君は許せないの。許せなくて、よけいに悩んで、ほとんどどつぼにはまって、お母さんこのまま透君が自殺でもするんじゃないかって心配したわよ。これが健司なら自分のことで悩もうがさらにそれを悩むなんて複雑なことはしないから安心なんだけど」
……確かにあのころオレは少しピリピリしてて、自分のことで頭が一杯だった。花形はそんなオレの前でずっと冷静で叱咤激励してくれたからオレもある程度がんばれたんだけど、その花形がここまで激しく悩んでたなんてオレはちっとも気づかなかった。確かにオレ、母親が言うように神経は太いし、回りのことにも敏感な方じゃない。だけど花形はこんなに神経の細い奴だったんだ。たかがオレの受験勉強で眠れなくなっちまうほど。
知らなかった。オレ、花形にこんなに心配してもらってたなんて。
「だからお母さん言ったのよね。夏のインターハイで全国大会に出場できれば健司にも大学からのスカウトがあるかもしれないわよって。……今思えばこれが間違いのもとだったわね。その時は透君立ち直ってくれたけど、実際あんたインターハイ行けなかったんだもの。今度こそ自殺でもするんじゃないかってひやひやしたわ。無事帰ってきたときにはほっとした」
そうか。それで判ったよ。どうしてあんなに花形がインターハイにこだわってたのか。あのとき母親があそこまで花形のこと心配してたのか。
だけど、普通受験に失敗して自殺するって話は聞くけど、友達と同じ学校に行けないから自殺する奴の話なんて聞いたことがないぞ。
「花形、オレと同じ大学行きたいって言ったけど、でもべつに同じ大学じゃなくたってバスケくらいいくらでもできるじゃない。自殺するほどのことじゃないと思うけど」
オレのこの科白を受けて、母親はこれみよがしに大きなため息をついた。
「あんたねえ、どうして越境入学までしてバスケやりにきた子が友達と同じ大学じゃないからって自殺するのよ。ほんっっとにあんたの鈍さときたら……。お母さんの話少しも聞いてなかったでしょう。−遠回しに言っても判らないかも知れないけど、もう一度言うわよ。さっき康子の話がでたからその話するけど、あのとき康子気づいたのよ。自分と健司とは姉弟の中で一番顔が似てるって」
オレと康子ねえちゃんの顔が似てる? それ、オレも知ってるけど、もしかして……。
「妊娠期間は女が母親に変化するときよ。あの子も男勝りなところあったけど、女性として一番輝いてたのよ。そんな康子とよく似た健司とがダブったとしてもおかしくないわね。そういうものが自分の中で変化して、夜中に何を考えて眠れなくなったのか、男のあんたなら想像できるでしょう。……判らなくてもこれ以上は言わないわよ。そこまで鈍いんだったら透君かわいそうだものね」
は、花形ぁ ――
お前、いったいどういう奴なんだよ。正直に自分の気持ち話したら、オレに嫌われるとでも思ったのか? それとも、オレを抱いたらオレが傷つくとか、そういうこと思ったのか?
お前の初恋の話を聞いたのはちょうど一年前。いつからお前がそういう気持ちでいたのか判らないけど、お前の態度、ぜんぜん変わらなかった。いつもオレのこと心配して、オレのこと考えて、オレがきわどい言葉でからかっても顔を赤くしてるだけだった。こんな自制心、オレは知らないよ。オレに気づかせないってのが、お前の最大の優しさだったんだ。
オレ、花形に言わせようとした。オレのことが好きなんだろうって。あれは花形にとっては一番つらい言葉だった。花形には一番言っちゃいけない言葉だったんだ。
「お母さん、オレ、どうすればいい?」
「そうね、とにかく勉強して、透君と同じ大学行きなさい。考えなくてもなるようになるわよ」
「判った」
大人になろう。いつか花形に言わせる。オレが好きだって。だけどそれは今じゃないから。高校生のうちにできることのすべてをやって、お前が自慢に思える男になる。
お前の夢、今度はオレがかなえる。
選抜大会の決勝戦、相手は王者海南だった。オレ達翔陽はすでに二勝をあげてこれに勝てば文句なく優勝だ。対する海南大付属は湘北に一敗している。その湘北はオレ達に一敗して相手は武里だからおそらく勝つだろう。海南はもうあとがない。ここでもしオレ達が負ければ勝負は得失点差になるから、武里から思ったほど点のとれなかったオレ達は不利になる。だからどうしてもこの試合、翔陽は勝たなければならなかったんだ。
牧のいない海南も強かった。だけど、長谷川のスリーポイント封じに神は思うように点がとれず、一年生の清田は花形の執念のディフェンスに一掃。我慢比べのような苦しい展開の試合、オレ達は最後の妄執を燃やした。
試合終了のブザーを、オレはまるで他人ごとのように聞いていた。
試合後のミーティングを終えて解散したあと、体育館に残ったのはオレと花形だけだった。二人とも試合あとの興奮がまだ残ってる。もっと試合がしていたかった。こうしてオレ達はいつも試合に飢えてきたのかも知れない。
オレと花形との関係は変わっていなかった。母親のおかげで落ち着いたオレの感情は二度と花形にこの前のようなことをしなかったし、花形もオレが変わらないことを知ると今までとまったく同じようにオレに接してきた。だけど、ときおりみせる花形の優しさはオレの中に別の感情を呼び覚ました。言葉はなくても、確かに花形の心を感じとることができたから。
花形のオフェンスでシュートが決まったとき、悔しさのうちにオレは気配を感じて入り口を振り返った。そこには西日を浴びて見慣れたシルエット。三年間、オレが脳裏に描き続けてきた男。
「牧……?」
花形の言葉がオレの直感を裏付けていた。片手を軽くあげてみせる牧に、オレは近づいていく。三年間、結局勝つことのできなかった男に。
「いい試合だった」
逆光の牧は、いきなり言った。特別なあいさつなんかしなくても通じるものが確かにオレ達の中にはある。
「オレ達に何か用か」
「お前だけに用だ」
その言葉を花形は聞かなかっただろう。オレが歩き始めたときから、花形は一人でシュート練習を始めていたから。
バスケットシューズのまま、オレはわたり廊下を歩き始めた。土足の牧と少し距離を保ちながら。日曜日の学校は静かだ。オレ達のほかにだれも存在しない。
「で? 何しに来たんだ?」
体育館が見えなくなる位置まで来たとき、オレはいった。いつもやや見上げていた牧の視線は今はオレの下にある。その牧がわたり廊下の縁に座ったから、オレも隣に腰掛ける。練習あとの火照った身体に冷たいコンクリートが心地いい。
「お前、海南にこないか?」
いきなり言った牧の言葉はオレにはよく理解できなかった。
「一応受験はするつもりでいるよ。だけどほかがうかればわざわざお前のいるところにいくつもりはない」
海南は今のオレには圏内だ。でも、同じ学年に優秀なポイントガードがいるチームに行ってもその後の展望はないだろう。
「オレはスカウトに来たんだがな。……一般受験でどういう奴が来るかは知らんが、オレが一年からスタメンだったことでも判るとおり、ここ数年の海南大にはいいポイントガードがいない。穴埋めできるポイントガードをさがしてこいとの学校からの命令だ。もちろん推薦で入れるように手配する」
「穴埋め……? お前は海南大に進学しないのか?」
「するさ。オレの場合はバスケ一筋で勉強はおろそかだったからな。付属大学に進学しないことにはどこも拾っちゃくれないだろう」
そんなこともないだろう。牧の場合海南に進学しないと判れば引く手数多の筈だ。
「留学するつもりでいる。二年ほど」
なんだって! そしたらオレ、お前が帰って来るまでお前と勝負できないってことかよ!
「お前が海南にこなければオレは留学させてもらえないらしくてな。私立高校にスポーツ入学した身の辛さってやつさ。こんなことでお前に会いに来るつもりはなかったんだが」
「断るよ。悪いけど」
牧が留学できなくなる方がいいとも思った。だけどそれよりも、牧とは違うチームで、ライバルとして戦いたかったんだ。いつか借りは返したい。もしかしたら永遠に不可能だと思うことでも。
オレの言葉に牧は大げさなジェスチャーで落胆を示した。そして、上目遣いでオレを見てニヤリと笑った。
「初めてコートの上で対峙したとき、お前言ったな。女はふてぶてしいものだって。それから散々オレとお前は戦ってきた。だけど、こんなに話をするのはこれが初めてだ」
「ああ、そうだな」
「オレは忘れてない。お前の言葉も、挑戦的な顔も。お前の試合は可能な限り全部見てきた。お前には同じチームでプレイしたくなるような何かがある」
牧は身体を返してオレを引き寄せた。そして、キスの形に唇を寄せてくる。オレはあえて逆らおうとはしなかった。触れるまであと数ミリというところで、牧は動きを止めた。
「どうして逃げない」
「それより途中でやめた理由の方を聞きたいね、オレは」
「……一度に二回ふられるのは初めてだ」
苦笑して、牧は立ち上がった。そして一度夕日に伸びをして振り返る。その表情はよく判らない。
「全国、頑張れよ」
この冬がオレには最後だ。海南からの誘いを蹴ったからには全国大会でどれだけの成績を残せるかでオレの運命は決まってくる。
「そっちもな。オレより優秀なポイントガードさがして留学しろ」
「そんな奴関東中さがしたっているか」
牧のその言葉は想像以上にオレを喜ばせていた。関東中のポイントガードの中に牧自身が入るのかどうかは知らない。だけど、その言葉から察するにオレは最大のライバルだって牧に思われてるんだ。オレが思っていたように、牧もオレのことをそう認識していたんだ。
牧の後ろ姿を眺めながら、オレは改めて自分の通ってきた道を振り返っていた。
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