ひとつ屋根の下



 インターハイの決勝リーグ常連のオレ達翔陽にとって、緒戦は準決勝だった。それまでの試合を勝ち抜いてきた高校に胸を貸す訳だ。その試合はオレ達にとっては踏み台のようなもので、本当のインターハイは決勝リーグにある。決勝リーグに勢いをつけるために、できるだけいい勝ち方をするのが準決勝の目標になるんだ。
 この年、翔陽のスターティングメンバーはかつてないほどの強さを誇っていた。その一番の特徴が高さ。もうすぐ二メートルに届くほどに成長した花形を筆頭に百九十センチ台が四人。加わるガードの二年生伊藤が百八十センチ。高さに加えて個々の能力もこの一年で驚くほどに上がっていた。もう誰もが確信していた。今年の翔陽は、王者海南をも凌ぐかも知れないと。
 対戦相手は去年までまったく無名だった湘北高校。同じ学年にいいセンターがいるという話は聞いたことがあったけど、部員も少なく回りにいい選手がいないばかりにそのセンターは花開くことがなかった。勝ち上がってきた今も部員は全員が登録選手。その中で現実に試合で戦える実力を持つのは三年が三人、二年が一人、一年が二人という選手層の薄さだ。おまけに一年の一人は連続退場記録を更新中の退場王。このデーターから翔陽が負ける可能性をはじきだすのは不可能だった。
 そういう新精鋭のチームには勢いがある。もちろん計算に入れていた。絶対に油断なんかしてなかった。オレ達はこんなところで負ける訳にはいかなかったんだから。
 二点リードされていたラスト一分五十秒。オレ達の怒涛の攻めに湘北は最後まで動じなかった。いったい誰が予想しただろう。まさか翔陽が無名の湘北なんかに負けるなんて。
 翔陽に監督がいたら結果は違ったかも知れないと誰かが言った。でも、そんなことは負けた理由にはならない。受験勉強も監督の死も理由にならない。ただ、オレ達が湘北より弱かっただけだ。精神的よりどころをなくしていたオレ達がそれが理由で負けたのだとしても、それはオレ達の弱さだ。弱い者が負けるのは自然の摂理なのだから。
 オレ達の夏は終わった。オレは涙で最後の夏に別れを告げた。

 同じ日の午後、ミーティングを終えてオレは一人一志をさがして学校内をさまよっていた。負けたあとの翔陽チームは静かだった。全員一人一人が敗北にうちひしがれて、自分以外の人間の動向を見守る余裕なんかなかった。だから誰も気づかなかった。ミーティングの少し前から一志がいなくなっていたことに。
 渡り廊下にさしかかったとき、敷き石の上に座っている後ろ姿を見てオレはほっと胸をなでおろした。湘北に奇跡の逆転を促したのは一志がマークしていた三井だ。その責任を感じて自分を責めていたところで不思議はないから。もちろんこれは一志だけの責任じゃない。誰もお前を責めてはいないんだということを、オレは一志に伝えたかった。
「一志」
 声を掛けながら、となりに腰かけた。一志は少し驚いたように目を丸くした。
「藤真……」
「ミーティング終わったぞ。今日は見逃してやるけど、今度さぼったら罰金だからな」
 一志は何も言わなかった。また視線を地面に戻してうつむいて見せる。オレは一志が何か言うのを辛抱強く待っていた。どのくらい待っただろう。やがて一志はぼそっと口を開いた。
「みんなは?」
「帰っただろ? ……今日は練習する元気なんかないだろうし、したい奴は勝手にできるように体育館は開けてきたけど、どうかな。確かめないで出てきちまったから」
「誰も緒戦で負けるなんて思ってなかった……」
 ああ、そうだな一志。だけどそれはお前のせいじゃない。
「湘北は強いな。オレ達の今年のチームは翔陽の歴史上類を見ないくらい強いチームだった。そのオレ達をわずかな点差とはいえ負かしちまったんだから。……あれは伸びるチームだ。完璧じゃないからこそ伸びる」
 だから、お前が気にするようなことじゃないんだ。勝負はどちらに転ぶかわからなかった。その結果が残した敗北はとてつもなく大きなものだったけど。
 一志の中にはいろいろな思いが渦巻いているようだった。その意味は一志にしか判らないものだ。今のオレにできることはお前が誰かを必要とした瞬間、側にいてやることだけだ。オレはそれを、キャプテンとしての最後の仕事のように思っていた。
「三井寿に借りがあった」
 しばらくして一志が言った言葉に、オレは少なからず驚いていた。中学の県大会でMVPを取った三井のことは覚えている。中学生であれだけ完璧なスリーポイントシュートを決められる奴は、全国でもそう何人もいなかっただろうから。
「中学最後の試合でこてんぱんにやられたんだ。なにもかもが完璧な奴だった。初めてだった。あんなに完全に負けを認めた相手ってのは。……あのころの三井に勝つために練習した。オレは、強くなったはずだ」
 三年間、誰よりも練習した一志。今のお前ならあのころの三井にだって勝てるだろう。
「ああ、お前は強いよ」
「だけど三井はこの二年、まるで練習してなかった。一回戦の時からの三井の試合を見てもあのころと実力は変わってないような気がした。実力が落ちてるような気さえした。それなのにオレは負けた。……藤真」
 初めて、一志はまっすぐにオレを見つめた。その視線にオレは一志がすでにオレを必要としていないことを悟ったんだ。
「オレ達のチームは完璧だった。だけど、今藤真は言った。完璧じゃない方が伸びるんだって。今の三井は完璧じゃない。オレは三井の完璧じゃない部分に負けたのかもしれない。
 オレは一生三井に勝てないような気がする。……うまく言えない。だけど、オレが負けたと決まったわけじゃないよな」
「ああ、お前に勝てる奴なんかいないさ。オレが保証するから自信を持て」
「引退しない。借りは倍にして返してやる」
「当然だ」
 今初めてオレは一志に認められたような気がしていた。一年の頃オレの手を振り払った一志に。
 そしてオレは一志との会話で、また考えさせられる事がいくつか増えたのだった。

 一志と夕方まで練習して帰ると、母親が夕食の支度を整えてイライラしながら待っていた。もちろんオレを待ってた訳じゃない。花形の奴もまだ帰ってなかったんだ。
「健司、あんたどうして透君と一緒に帰ってこなかったのよ。透君にもしものことがあったらあんたどう責任取るつもりなの」
 オレ達が負けたことはどこからか耳に入ったらしい。負けたショックで花形がよからぬことでも考えやしないかと母親は変な心配してるんだ。花形はそんな弱い奴じゃない。オレは楽観視してたから、さっさと食事を切上げて部屋に戻って勉強を始めた。
 三年になって選択科目の違ったオレ達は、クラスも離れていた。だけど花形は時々オレの部屋に来て勉強を見てくれる。おかげでオレはかなり成績も上がって、少しは勉強ってものに自信がついてきたところだ。まだオレが小学生の頃、ミニバスのチームでプレイしてた。基礎もなにもなってなくてへたくそなのに、なぜかバスケが楽しかった。花形の教え方にはその頃の自分を思い出させるような、不思議に共通した感覚がある。時々オレは勉強に魅了されるという、めちゃくちゃ変な感情にとらわれていた。
 その花形は無事に家に帰ってきたらしい。隣の部屋に荷物をおいて夕食を食べに一階に行くのを、オレはドアの音で察していた。母親は溢れる愛情と慰めの言葉とを花形にかけたことだろう。オレは一言の慰めも注いでもらわなかったような気がするけど。
 やがて、二階に戻ってきた花形はまっすぐにオレの部屋の前まで来てドアをノックした。オレはまのびした声でどうぞと答える。
「ちょっといいか?」
「ああ、入れよ。オレも休憩にする」
 参考書やノートはそのままに、オレは床に腰をおろした。花形はミーティングの時はそれほど普段と変わらなかった。でも今の花形はその時より明らかに意気消沈してる。一志と一緒に練習して気持ちを切り替えることに成功していたオレは、それがものすごく不思議な気がした。花形は今の時間までいったい何をしてたんだろう。
「花形?」
 オレの呼かけに、花形は顔をあげた。そして、両手をついて頭を下げながら言ったんだ。
「すまん、藤真。今日負けたのはオレのせいだ。オレが赤木に勝てなかったから」
 おい、花形! いくらなんでもそりゃあないぞ。なんでお前がオレに謝るんだよ。試合に負けたのはオレ達のチームが弱かったからだ。お前が負けたからじゃない。
「オレ、約束したお前に。最強のセンターになるって。去年のインターハイの借りは今年返すって。それなのにお前を全国につれて行けなかった。約束守れなくて……」
 謝りに来たのか花形。それとも、オレに慰めてもらいに来たのか……?
 慰めてほしいのなら慰めてやるよ。そのくらいのことでいいならいくらでもしてやる。
「花形、今の時間までお前なにしてたんだ?」
 顔をあげた花形はオレが今までに見たこともないくらい情けない顔をしていた。ただそこにいるだけで春の風を振りまいていた花形とはまるで別人みたいだった。
「海、見ながら考えてた。オレ達がどうして負けたのか」
「で? 結論は出たのか?」
「湘北は……赤木が攻撃においても防御においても要だ。だけど一番大きいのは赤木がチームの精神的な柱になってることだ。ゲームの組立てはガードの二年の役目だけど、本当にチームを支えているのは赤木の存在だ。だけど、翔陽は藤真中心のチーム。ゲームの組立ても精神的支えもすべて藤真の役目だった。そのうえ藤真は監督のようなことまでやって……オレ達は一人の人間に三つも役割を押しつけてきたんだ。その中の一つはオレが背負うべきものだったのに」
 ここまで結論が出てるのに、どうして花形はこんなに落ち込んでるんだ? そのことに気づいたのなら新しいチーム作りで活かせばいいんだ。オレ達にはまだ冬の選抜がある。
「花形、オレ達のチーム作りはまた間違ってたみたいだな。オレはこの一年、オレがいなくても十分戦えるチームにしようと思ってスタメンのガードに伊藤を鍛えた。だけど、精神的な柱としての役割を放棄した訳じゃない。オレはベンチからみんなを支えようと思った。だけどオレが本当にしなければいけなかったのは、お前が言うようにその役目をお前に預けることだったんだな」
 一志と話していた時は見つけられなかった。今だから判る。完璧なチームだと思っていたのがオレ達の敗因だ。本当はこんなに穴だらけのチームだったのに。
 新しいチームの構想のきっかけはいつもお前だ。お前はオレに新しいインスピレーションを与えてくれる。
「前に康子ねえちゃんに言われたよ。オレはわがままだって。花形、もう一度オレのわがままに付き合ってくれ。新しいチームを作る」
「藤真……?」
「冬の選抜に出る」
 インターハイを最後の試合にするつもりだった。だけど、このままじゃ終われない。そんなオレの決意を、花形は呆然として見つめていた。でも、やがてもっと苦しそうな顔になったんだ。花形はなにも言わなかった。自分が何を考えているのか、花形は言わなかった。
 サジ、投げたくなってきたぞ。そろそろ浮上しろよ。慰めてもらいたくて来たんだったらよ。
「話変わるけどさ、花形。前に言ってた初恋の相手とはあれからどうなったんだ?」
 康子ねえちゃんの事が出たから不意に思い出して言ってみる。突然話を変えたのはこれ以上花形に敗北を意識させないためだ。あまり負け試合のことばかり考えてると次の対戦まで尾をひいて本当に負ける破目になる。
「別に、なにも……」
「まだ好きなのか?」
 オレの質問に、花形はただこくんとうなずいた。頭が切り替わってないらしい。こういう話になると必ずと言っていいほど顔を赤くしてたくせに、まだそういう様子はないもんな。いっとくけどオレ、まだお前を慰めるの、諦めた訳じゃないぜ。
「そうか。それじゃ、こいつは単なる事故だ」
 どうしてこんな気分になったのか。オレより二十センチも大きい花形に膝立ちで近づいて、首に腕を絡ませた。そして唇を触れる。花形の息をのむ気配。花形は逃げなかった。乾いた唇を一度だけ舐めて、もう一度触れてみる。そんなにいいもんじゃないなキスなんて。やわらかい不思議な感触だけが残った。
 逃げる気なら逃げられたはずだ。間近にある真っ赤になった顔に、オレはちょっと意地悪く笑った。
「女神の祝福には不足かもしれねえけどな。オレのファーストキスだ。ありがたく思えよ」
「藤真、オレは……」
「好きなコがいるんだろ? お前の分はそのコのためにとっときな。……なあに、オレは誰にも言わねえって」
 これをネタに脅迫したらおもしろいかもな。でも、花形も得しただろ。オレの顔、けっこう康子ねえちゃんに似てるから。ねえちゃんとキスした気分になれたんじゃないかな。保健の時間に習った、フラストレーションの代用品てやつ。
 今の花形の頭の中には負け試合のことなんかひとかけらもないはずだ。突然のキスに驚いて、そのことで一杯なはず。
「藤真、何でこんなことする。からかってるのか」
 落ち込んでる奴わざわざからかうほどまぬけじゃねーよ。
「そろそろ話せよ。どうしてお前、思ってること見せないんだ。そこまで後ろ向きになるのには何か訳があるだろ?」
 花形にもようやくオレの意図が判ったらしい。顔をゆがめて、吐き出すように話し始めた。
「オレはどうしてもインターハイでお前に全国を取らせたかった。インターハイでいい成績を残せればお前の実力なら大学からスカウトもある。そうしたらお前、もう受験勉強しなくても済むじゃないか。スカウトがなくても推薦で入れる。だけど、負けたらお前、このまま苦労して勉強続けて実力で入るしかなくなるんだ。……オレ、どうしてもお前と同じ大学に行きたかった。あと四年、お前と同じチームでバスケがやりたかった」
 オレのためか? オレのためにお前、これだけ落ち込んでたってのか?
「選抜に出るとなるとどうしたって勉強との両立が苦しくなる。お前のことだからきっとどっちも手なんか抜かないだろう。苦しくたって苦しいなんて言わないはずだ。オレがランク落せるか……同じ大学でプレイするのを諦めればそれですむのかもしれない。たぶん、どっちもできるだろうけど……」
「ランク落とすのだけはするなよ。どの大学出たかで将来決まるからな」
 花形、お前もオレに負けず劣らずわがままだよ。だけどオレ、そんなお前のわがままに付き合いたいと思ってる。普段あまり我を通すことのないお前がこれだけ通そうとするわがままなら、そうとう強い理由があってのことだ。そんな思いをかなえてやりたいと思う。理由は判らないけど。
「同じ大学、行けないかもしれない。それでも同じチームでプレイすることはできるぜ」
 オレの言葉に、花形はきょとんとした顔を見せた。
「どうして? 大学は大学リーグだから違う大学なら違うチームになるんだろ?」
「そりゃさ、大学リーグじゃ敵同士だけど、実力さえあればいくらでも上狙える。
 花形、オレは全日本に行くぞ」
 アマチュアの最高峰。大学生のあこがれの的だ。オレは小学生の頃から夢見てた。いつかあの中でプレイすることを。
「お前、ついてこられるか?」
 花形の顔が目に見えて生き生きしてくる。こんなにお前、オレと同じチームでバスケしたかったのか。同じ大学に行けないと思えばこれだけ落ち込んで、全日本ていう道もあるんだって言えばその重大さに恐れをなすこともなく喜べるほど。
「そのためには選抜で赤木に勝てなければだめだな」
「ああ、それで今度は優勝する」
 オレの目標は牧だ。三年分の借りは冬に必ず返す。
「それにしても、落ち込んだお前を慰めるのは命がけだな。こんなに起伏の激しい奴だとは知らなかったよ」
 再び花形は真っ赤になっていた。この様子から見ても花形がキス初体験だったのは疑う余地なしだな。
「あれ、本当に藤真のファーストキスなのか?」
 オレの言葉を疑ってる訳じゃないだろう。あのキスを自分史に残すつもりなのかって聞いてるんだ。
「いいんじゃねえの? オレ花形好きだし」
 少なくとも園田先輩よりはマシだ。オレ、どちらかって言えば男とか女とかの感覚ってそれほどないかもしれない。男とキスするから嫌だってんじゃないんだ。園田先輩の場合は生理的に嫌だったけど、花形は受け付けないタイプじゃない訳だし。
「そういう好きはオレが言ったファーストキスの相手の好きとは違うと思う」
「判らねえよ。……お前がずっと前にオレに言った好きはどの好きなんだ?」
「あれは、……今お前が言った好きと同じだ」
「だったら今のキスはお前にとってもファーストキスだな。オレのがファーストキスなんだから」
 落ち込んでなければいくらでもからかえるぞ。オレは花形の反応がおかしくて、ちょっと笑った。花形も真っ赤になっていたけど、やがて笑いを漏らして言った。
「頼むからオレ以外の奴にはするなよ。自分が魅力的な人間なんだって事もう少し自覚してくれ」
 魅力的? あまり聞かない言葉にオレは首をかしげた。
「ほかの奴にしたら襲われたりするか? 園田先輩みたいに」
「ああ」
「お前もか? 襲いたいとか思ったか?」
「そろそろ危ない。押し倒しそうだ」
 オレは呆然となって花形を見つめていた。心臓がドキドキ言ってる。花形はちょっと悲しそうにオレを見ていた。やがて花形が立ち上がって言う。
「じゃまして悪かったな。帰るよ。今日はありがとう」
 出ていく後ろ姿を見ながら、オレは逆にからかわれたことを知った。だけど、オレのドキドキはしばらくおさまりそうになかった。

 インターハイのない夏休みは、なぜか唐突に始まっていた。
 本来ならこの時期、全国大会に向けての合宿がある。だけど今年は合宿はなかった。インターハイに行けないバスケ部の合宿の費用を出してくれる余裕は学校側にはなかったのだ。
 オレは学校経営者の冷たさに改めて歯噛みをした。冬の選抜や来年のことも考えてはくれない。実績がなければ経営者は切り捨てを始めるんだ。このままでは来年の新しい監督を探してくれるかどうかさえ怪しかった。
 直談判したオレは改めて選抜大会の重要さを悟った。この大会で全国に行けなければ、バスケ部は完全に切り捨てられるだろう。後輩達のために、オレ達は絶対に勝たなければならなかったんだ。
 だけど、インターハイに行けなかったことで冷たくなったのは学校だけじゃなかった。夏休みも十日を過ぎた頃、オレは呼ばれて母親のところへ行った。
「どうしたの? お母さん」
 母親は荷造りをしてる。その手を休めることもなく、いかにも軽々しく言った。
「お母さんいつも通りお父さんのところに行ってくるけど、健司大丈夫よね」
 ……そういえばいつもインターハイのこの時期、母親は父親のところに泊まりに行ってたんだよな。去年や一昨年は下宿人もオレと一緒にインターハイに出かけてたし、その前は確かねえちゃんに家事を任せて……
「オレに家事全般やれってこと?」
「そうよ。もう十八になるんだからそのくらい大丈夫でしょう? 一週間くらい行ってくるから。透君飢えさせたら承知しないからね」
 一週間! それって、いつもの年より長いじゃないか。
「そりゃないよ。一週間なんて」
「インターハイに行かないあんたが悪いのよ。お母さんが行かなかったらお父さんだってすねるし。久しぶりの夫婦水入らずなんだから少しは協力しなさい」
 そう言われたらオレには返す言葉もない。オレが呆然としていると、あっさりと母親は出かけてしまった。諦めてオレは家の中を点検する。洗濯と掃除は済んでるみたいだけど、冷蔵庫がからっぽだ。仕方ない。買物に行くか。
 夕食のメニューはカレーだ。オレは大量に材料を買い込んで、台所に立つ。材料を刻んでいる頃、今まで勉強をしてたらしい花形が二階から降りてきたんだ。
「藤真、お前……なにしてるんだ?」
「何って、夕食作ってるようには見えないか?」
「え? だっておばさんは……?」
 母親、花形になにも言わないで出かけたのか? それって果てしなくルール違反だぞ。
「男と駈け落ちしちまった。一週間は帰らないってさ」
「おばさんが? そんな人には見えなかったけど」
 信じるなよ! 言ったこっちがむなしくなるだろ。
「だから今日はカレーだ。残ったら明日の朝もだからな。まずくても残すなよ」
「手伝うよ」
「いいよ。下宿人にそんなことさせたら母親に殺されちまう」
 とは言ってみたものの、この包丁ってやつはどうしてこんなに言うことを聞かない代物なんだ。右手で持っても左手で持ってもうまくいかない。いっそ両手で持ってやろうか。
「藤真、にんじんの皮剥かないで切るつもりか?」
「にんじんて皮あるのか?」
「……色が同じで見にくいけどあると思うよ。一応剥いた方がいいと思う」
 思うを連発してフォローに走りながら指摘する花形にオレはよけいに恥ずかしくなる。だってどうしてにんじんに皮があるなんて判るんだよ。皮なら皮らしく違う色してろよ。
「材料切れたら煮ればいいんだよな」
「藤真が切ってる間にオレがお湯わかせばよかったんだ。ごめん」
「いいって。……お湯の量とか判るか?」
「……鍋に半分くらいかな。判らないけど」
 手際が悪くてどうしようもない。途中で花形が気づいてごはん炊くこと言ってくれなけりゃもっと時間がかかってたことだろう。ぐつぐつ煮えたぎる鍋にカレールーの塊を入れてみるとこれが入れ過ぎたらしく粘りまくってる。さらに水を足したら今度は入れ過ぎてスープになっちまった。ちょうどよくなるまで塊を入れると鍋は一杯だ。これ、いったい何日分あるんだろ。
「藤真、何か変な匂いしないか?」
「……やばい! 焦げてる!」
 マジかよ! 鍋焦がしたら母親にどなられるだけじゃすまねえぞ。
 そうやってオレ達が苦労しながら作ったカレーは、盛りつけるとそれなりに見えた。ほかにおかずもなくただそれだけの乗ったテーブルについて二人でいただきますを言って一口食べてみる。口に入れた瞬間、オレ達の時間はぴたっと止まった。
「……焦げてるな」
「……ああ、焦げてる」
 口一杯に広がる何とも言えない焦げた匂い。一緒に口に入ったごはんも妙に固い。
「ごはんの水、足りなかったみたいだな」
「……にんじんに芯がある」
「玉ねぎの方は影も形もないぜ」
「でも肉とじゃがいもはちょうどいいと思う」
「……肉かと思って口に入れたらルーの塊だった。混ぜ方が足りない」
 こりゃ完全に失敗だ。オレはいいけど下宿人の花形にこんなもの食わせる訳にゃいかないな。それでも果敢に口に入れる花形に、オレは言った。
「花形、もうこれ以上食うな。なんか出前でも取ってやるから」
「……いいよ。大丈夫。食えるから」
 そんなに気を遣うなよ。息を止めてただ口に流し込んでるらしい花形の唇を見ながら、オレは情けない気持ちで一杯になった。オレ、カレーすら作れない。こんなの小学生だって作れるもんなのに。
 時刻は九時を回ってる。今から出前してくれるところがあるわけない。
「……にんじん、よけていいぜ。明日も食えなんていわないから」
「にんじんは生でも食える食材なんだから平気だよ。それに、明日の朝もこれでいいよ。せっかく作ったんだから」
 花形の唇がしきりに動いてカレーを飲み下す。もういいよ。こんなカレーこれ以上食うなよ。
「コンビニ行って弁当でも買って来る。焼き肉かなんかでいいな」
「藤真が好きなもの買って来いよ。オレの分はいらないから」
「いいから食うなって言ってんだろ!」
 気づいたとき、オレはどなりつけていた。考えなしな行動だった。
「そんな風に気い遣ってもらいたくなんかないんだよ! 無理してこんなもの食ってもらう方がよけいにみじめじゃないか」
 噛み砕く花形の唇。目が行ったまま離せない。オレがキスした唇。
「コンビニの弁当まずいって話だし。それに、初めて藤真がつくったんだろ? オレにだって責任がない訳じゃないし」
 笑いながら優しい言葉を紡ぎ出す花形の唇。自分がいったい何を思っているのか判らなかった。まずいカレーをそれでも食う花形の過ぎた優しさに腹を立ててるのか、それとも感謝してるのか、カレーすら作れない自分が悔しいのか、この唇にキスしたいって衝動に駆られてるのか。
「オレ……そういうお前嫌いだ。的外れな優しさ押しつけられるのが一番嫌いだ」
 胸が苦しくて涙が出そうになる。花形の前で泣く訳にはいかない。話の途中で逃げるのは卑怯だって判ってる。だけど、止められそうにない涙を花形に見せるよりはましだと思った。
「藤真……」
「食べたいなら食べてもいい。台所そのままにしといてくれ」
 できるだけゆっくり、できるだけ早く、オレは花形に背を向けて歩き始めた。背を向けた途端に涙が溢れる。自分ですら意味の判らない涙を花形に悟られたくはなかった。なのに花形は立ち上がってオレの腕を捕まえたんだ。
「離せよ」
 背を向けたまま、オレは言った。声が震えてるのが判る。
「藤真、オレ、うまく言えないけど……」
 花形にも判ったはずだ。オレが今泣いてること。
「オレにも責任があってそりゃあんまりおいしいカレーじゃなかったけど、でもオレ、藤真がオレのために作ってくれたからうれしかった。藤真は責任感があってオレが下宿人だからそれで一生懸命になってくれたんだと思う。その気持ちをこのまま捨てちゃったりしたくなかったんだ。……優しさ押しつけるつもりじゃなかった。ごめん」
 花形が謝る事じゃない。オレだってちゃんと判ってるんだ。花形がオレに向ける優しさが本物だって事は。だからオレは見せたくなかった。オレが泣いているのはたぶん、カレーの出来が悪くて悔しいとかそういう単純な理由じゃなかったから。涙の理由が判らないから、その意味を花形に勝手に解釈されたくなかったんだ。
「前言撤回する。お前の優しさは嫌いじゃない。だから離せ」
「……判った。ごめん」
 花形がゆっくりとオレの腕を離して、オレの身体は自由になった。そのまま、オレは静かに歩き始める。階段を上がるまで、花形の視線を感じた。それが苦しくて、目の前がかすんでよく見えなくなる。部屋にたどり着いたとき、オレの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。そのままベッドを背もたれにして座りこんでただ涙を流した。理由の判らない涙を。いくら考えても答えの出ない涙を。
 こんなに自分のことが判らないのは初めてだった。花形をどなりつける気も傷つけるつもりもなかった。カレーが作れなかったからってどうって事ない。それが理由じゃないんだ絶対。
 花形の唇が目の前にちらついて離れない。オレがキスした唇。あの唇であんなまずいカレーを食べてほしくなかったのかも知れない。でもきっと、理由はそれだけじゃない。
 いくら考えても答えの出ない涙に、オレはもやもやしたままどうする事もできなかった。
 だけど花形に謝らなければいけないことだけは確かだと思いながら、空腹に痛む腹を抱えてオレは眠った。


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