ひとつ屋根の下



 翔陽高校は無事に例年通り全国への扉をたたくことに成功していた。だけどやはり全国の壁は厚く、オレ達は三回戦で敗退。夏休みの地獄のもう特訓に実力をあげながら、そのあともオレはレギュラーを取られることなく、大会を戦い続けていった。
 バスケ一筋の生活に学力がどうしても追いつかなくて花形を頼ることしばしば。それでもなんとか赤点をクリアして、クラスにもそれなりになじんだオレは、花形と一緒に無事二年生に進級できることになっていた。
 そして花形のいる二度目の春休みを迎えて、去年の同じころ結婚した康子ねえちゃんが初めての子供を産むとかいって実家に舞い戻ってきたんだ。ねえちゃんはそれまでの自慢の抜群のスタイルを今はせり出した腹でみごとに崩されたにもかかわらず、なんとなくうれしそうで、なんとなく幸せそうだった。
 そう言えば一番上の英子ねえちゃんにはまだ子供がいないから、康子ねえちゃんの子供が生まれたらオレはおじさんになるんだ。母親も初めての孫が生まれるってんで、いつもよりさらにパワーアップしてはしゃぎまくってる。その二人は今、ダイニングのテーブルで世間話に花を咲かせていた。
「あ、健司、今お母さんとお茶してたんだけど、健司も一緒にどう?」
 見るとテーブルの上には焼き上がったばかりのクッキーが山積みにされてる。ったく、子供産んで身体が戻んなくても知らねーぞオレは。
「こんなとこでのんびりしてていいの? 確か予定日まであと一週間じゃなかったっけ?」
 とか言いながらオレも椅子にこしかけてクッキーをつまむ。なかなかのできだ。これはねえちゃんの作品じゃないな。
「子供なんて出てきたくなったら勝手に出て来るわよ。……そんなことよりさ、健司。あの透君て、いい子ね。さっき初めて話したけど」
 その花形は今日は約束があるとか言ってどこかへ出かけちまった。オレも友達がほめられるのは悪い気分じゃない。うれしさをあまり顔に出さないようにつとめて、適当に返事をした。
「あの子はお母さんが吟味に吟味を重ねて選んだ子なんだから当たり前よ。あなた達母親の人を見る目を信じなさいよ」
「そりゃあね、信じてるわよ。うちの旦那だってあたしにはこれ以上は考えられないくらい最高の人だもん。でもほんと、よくあんな子見つけてきたわよね。健司にはこの上ない相手だと思うわ」
 ねえちゃんの言葉には何かひっかかるものがあったけど、それについてはオレはあんまり気に止めないで言った。
「なんで?」
「だって健司、あんたってけっこうわがままでしょう? 透君てそういうの全部判ってくれそうじゃない」
「オレ、わがまま?」
 わがままと言われてオレはムッとする。確かにオレはそう引くタイプじゃないけど、でもわがまま通すタイプでもないと思うぞ。これでもオレ、クラスじゃおとなしい藤真君で通ってんだから。
「あんたは自分で気づいてなくてもわがままよ。でもね、気づいてないってことは今まではあんたにわがまま言わせてくれるような人間がいなかったってことなのよ。まあ、あたしやおねえちゃんがいるころはあたしらの方が数倍わがまま通してた訳だし。自分で知らなかったとしても無理はないけどね。お母さんもそう思うでしょ?」
「まあね、康子の言うとおりかもね。健司もなんだかんだ言って我の強いところあるから」
 何だか母親に認められるとオレもそんな気がしてくる。なにしろうちの母親は人を見る目にかけちゃかなり出来がいいからな。
「そうなのよ! だけどあの透君といると、健司もきっと楽なはずなの。これは経験者が言うんだから間違いないわよ。健司、あんた透君と今生の別れみたいなけんかしちゃだめよ。絶対後悔するから」
「健司がその気になっても透君はそんなけんかはさせてくれないわよ。あの子は心の底からいい子なんだから」
 何か話がよく判らない方向に流れていって、オレにはどうにもついていけなくなっちまった。何だって康子ねえちゃんはこんな話を始めるんだ? とりあえずオレ、花形の友達だし、それなりに花形とだってうまくやってるはずなんだ。こんなこと言われる筋合いじゃないと思うんだけど。
「お母さん、オレ、話が見えないんだけど」
 母親はちょっとほほえんだ。そして、あんまりオレにみせたことのない優しそうな顔で言ったんだ。
「まあ、今の健司には判らないかもね。……お母さんはずっと二人のこと見てるし、康子も今日透君と話してみて判っちゃった事があるのよ。だからこの話は康子の勇み足。いろいろ考えないで気楽にやっていきなさい。健司も透君好きでしょう?」
 好きか嫌いかときかれれば迷うこともない。オレは当然のように言った。
「ああ、好きだよ」
「お母さんも好きよ。……ああ、何でもう一人女の子産んどかなかったのかしら。ほんとに惜しいことしたわ」
「あたしも透君みたいな弟がほしかったな」
 ……勝手に言っててくれ。どうせオレはかわいくない弟だよ。一人ふてくされたオレはさっきのちょっと不思議な会話のことなんかすっかり忘れて部屋に戻った。そのあと用事を終えて帰ってきた花形に理由もなく無愛想にふるまったりして。
 やがて、数日経ったある日、康子ねえちゃんは待望の女の子を産んで、ほぼ強制的にオレはおじさんになっていた。オレは初めて間近で見る赤ん坊というものに、なんとなくこそばゆい思いを感じていた。

 花形と出会ってから一年が経つ。その一年間が、オレには妙に不思議だった。なぜなら、花形がオレの癇に触るような事を一度も言わなかったから。オレはほんのちょっとした一言でも気になれば絶対にそいつを受け付けなくなる。これだけ長い時間一緒にいてそういうことがないってのは、オレにとっては初めての経験だった。
 事実、ねえちゃん達の旦那は二人とも一年かからずにオレの癇に触った。英子ねえちゃんの旦那にいたっては、出会ったときに『キミは……』って言われただけでダメになった。その時はモロ態度に出してよく家族を困らせたもんだけど、今ではオレも大人になったから普通の態度で接することも出来る。だけどオレはいつも家族以外の人間とは緊張したまま過ごしていたし、康子ねえちゃんが嫁にいくまではオレは家の中でも緊張の連続だった訳だ。他人が家にいるって事は、オレにとってはほとんど拷問に近いものだったんだ。
 だけど、花形にオレは未だにそういうものを感じなかった。同じ年だって事もあるんだろう。でも本当の理由はきっとそんなもんじゃない。花形はたぶん、オレに対していつも緊張してるんだ。出会ってあいさつを交わしたときそのままに、花形の態度ってのはほとんど変わってないんだ。だからオレの方が優位で、思った通りにふるまえる。ある意味で花形を尊敬しながらも、オレはいつも花形の上に立って接しているんだ。
 そんな花形がふいに緊張を解く瞬間がある。そんなときオレはオレの中に新しい何かを感じた。その正体にオレは最近になって初めて気づいていた。花形が緊張を解いた瞬間、オレの緊張も解けているんだってこと。家族以外の誰に対しても緊張していたオレが、花形に対してだけは緊張の解ける瞬間がある。それは不思議な感覚だった。いつの間にか自然体で接している自分がいる。オレの無意識の、どうやっても取ることの出来なかった鎧が、花形の前でなら自然に剥がれるときがある。
 オレはその瞬間を快く感じながら、少し恐ろしくも思っていた。緊張のない、鎧をつけていない自分を誰かに見せるのは怖かった。それはたぶん、オレ自身が本当の意味で許されることを知らなかったからだと思う。一番素直な自分を誰かに見せるのは恐ろしかった。嫌われそうな気がした。その相手がたとえ花形であっても。
 真剣に取り組んできたバスケの腕には自信がある。だけどオレは自分の性格には自信がなかった。それはオレが人間関係を作ることに今までしっかり取り組んでこなかったからだ。相手の気持ちを察する能力がちゃんと育っていないから。
 オレの対人能力は子供のまま育ってない。それを察して付き合ってくれる奴がいるかどうか、オレにはそれが不安だった。花形が果たして本当にオレのそういう部分を判ってくれるかどうか。
 オレはいつまでも不安で、いつまでも臆病だった。

 一学期の中間試験が終わって、今年もまたインターハイに向けての練習試合用のレギュラーの発表の時期がやってきていた。去年の末ごろから常磐田監督は身体の調子が悪いらしく、休みがちで入退院を繰り返している。オレ達も一度だけ見舞に行ったけど、あとは練習の方が忙しくてほとんど足を運ぶ暇もなかった。心配も不安もあったけれど、それでも予定通りの季節に発表は行われていた。
 去年の三年生は卒業し、今年の三年生四人のガードのメンバーと比べてもオレの能力はかなり上がってきていたから、オレはレギュラー間違いなしを確信していた。たぶんほかの二年生の連中もそう思っていたことだろう。奴らも今年はずいぶん上達してる。今年の三年生はわりに身長のない人が多いから、身長のある二年生がけっこうな人数控えに入ることも期待できる。そんな計算もあって、レギュラー発表の時間、二年生の実力者は一同緊張して発表に耳をそばだてていた。
 監督がいないので、発表は部長の白木先輩が行った。だが、最初にポイントガードの発表があったとき、オレの名前は呼ばれなかったんだ。
 オレは呆然としていて発表の続きも耳に入らなかった。呼ばれたガードは二人。園田先輩ともう一人それなりに実力のある先輩だ。オレの実力が二人の先輩達に劣るとは思わなかった。だけど事実、花形も高野も永野も長谷川も呼ばれたのに、オレの名前は呼ばれなかった。発表が最後まで終わっても、オレは呼ばれなかった。
 みんな不思議な顔をして白木先輩とオレを見比べていた。やがて発表が済んで、二年生のみんながオレの回りに集まって来る。まるで去年とは逆の図式だ。オレは戸惑いながらも、それを他人に見せることはプライドが許さなかった。
「みんなおめでとう。やったな」
「藤真……」
 複雑な顔をして、四人がオレを見つめる。そんな空気を吹き飛ばしたくてオレがまた何か言おうとしたとき、押し殺したような声で永野が言った。
「こんなん、おかしいぜ。なんで藤真が選ばれないんだ」
 その声に触発されるように高野も言う。
「絶対何かの間違いだ。だいたいなんであの二人が選ばれて藤真が選ばれねえ。実力は藤真の方が……」
「高野!」
 それ以上言うのはまずい。オレは強い口調で高野を制したあと、笑顔を作って言った。こういうのは慣れてる。
「オレもこの一年頑張ったけど先輩達だって頑張ってた。誰が選ばれたって不思議じゃないよ。それにチームにはバランスとか作戦とかいろんな要素があるから、実力の上下で一概に選手を決めたり出来ないんだ。そのへんの考えはオレ達のはかり知れるところじゃないけど、きっと今年のチームにはオレよりも先輩達の方が合ってたんだよ。オレは別に気にしてない」
「藤真……」
「だけどこんな……」
「そんなことより喜べよ。三年生があれだけいるのに二年生から四人もレギュラーに選ばれたんだぜ。今年の二年は粒揃いだって認められたんだ。頑張った甲斐があったよな。おめでとう」
 オレは元気付けるように四人の背中をたたいた。一番みじめなのはオレだ。それなのになんでオレがこいつらの元気を引き出すために明るくふるまわなけりゃならないんだ。こいつらに言った説得の言葉も、オレは半分だって信じちゃいない。一番意外で一番悔しいのは誰でもない、このオレなんだ。
「オレの分まで頑張れ。なに、すぐに取り返してやるさ。オレがレギュラーに返り咲いたとき、お前らレギュラー外されてたら承知しないからな」
 オレが思ったより落ち込んでないと感じたんだろう。みんなの顔が明るくなる。だが、花形はなにも言わなかった。結局最初から最後までなにも言わなかった。
 オレは自分の中で繰り返し自分自身に納得させようとしていた。きっとこれにはキャプテンの深い考えがあって、決して自分の実力が劣っている訳ではないのだと。オレが園田先輩達に負けた訳ではないのだと。いつかオレにもちゃんとチャンスがめぐってきて、みんなを見返すことが出来る日が来るのだと。
 オレの中のオレ自身は根拠のない説得になかなか応じようとしてはくれなかった。だからオレはこの説得に相当長い時間をかけなければならなかった。

 新しいレギュラーが発表されて、オレの練習メニューもまたがらっと変わっていた。新米の一年生に混じって毎日基礎練習に明け暮れる。走り込みにスタートダッシュ、柔軟にドリブルの基礎。オレはその練習に精力を注ぎ込んだ。もしかしたらキャプテンはオレの基礎を鍛え直させるためにレギュラーを外したのかも知れないと自分に言い聞かせながら。
 練習が終われば花形につきあって個人練習。立場が逆転した今もオレ達の練習にほとんど変化はなかった。この一年で二人とも技が増えたから、ワンオンワンも一苦労だ。お互いの攻撃時間が飛躍的に伸びて、五回ずつの攻撃で点を競うなんて事も相当な時間を用する。その緊張の時間はオレに去年のインターハイ予選の決勝の時の牧との対決を彷彿とさせた。今年もオレは牧に借りを返せない。その思いは以前よりオレをいっそう練習にかり立てていった。
 やがて今年もインターハイ予選がはじまる。オレはその様子をスタンドで見守った。一回り大きくなった牧と、同じく一回りもふた回りも大きくなった花形とを。
 味方のガードがミスをすれば腹が立った。オレならそんなところにパスは出さない。そう思って見守るのは苦痛だった。オレだったらもっと上手にメンバーを使えるんだ。それがキャプテンに判ってないはずはないのに……。
 それでも翔陽がインターハイ出場を決めたときは、ほっとして胸が熱くなった。
 今年もオレ達はインターハイに行ける。オレのチームじゃないけど、それはオレの仲間達のチームだ。誇りに思うと同時に悔しい思いをかみしめる。本当はオレがいるはずだったチーム。この複雑怪奇な感情はオレには処理不能だった。
 その日、陵南に勝って最後の椅子を手に入れた翔陽バスケ部のために、学校が祝賀会の用意をしていた。広めの講義室を借り切って立食パーティーが行われる。レギュラーになれなくてもオレはバスケ部員だ。気乗りしないまでも、オレは一応は顔を連ねていた。
 校長とか後援会長とかのうざったくも長ったらしい挨拶を聞き流して、とりあえず乾杯までは持たせた。だけどそれ以上笑顔を取り繕うのは苦痛だった。みんな興奮して顔を明らめてる。トイレに行くふりをして、オレはその場を離れた。
 どこに行こうと思った訳じゃない。ただ、気づいたときオレの足は体育館に向かっていた。試合会場から直行したオレ達はいまだユニフォームのままだ。ちょうどいい。試合で流せなかった汗をここで流して、この訳の判らない感情そのものも流せたら言うことはない。
 日曜日の午後なのに、体育館の鍵はあいていた。だれもいないところを見ると日曜練習のほかの部の連中は帰ったあとなんだろう。鍵のかけ忘れなのかなんなのか、どちらにしても都合はいい。用具置場のドアも開けて、オレはバスケットボールを一つ取り出した。
「よ、健司!」
 声を聞いていやな予感がする。だいたいオレのことを名前で呼ぶ人はこの学校には一人しかいないんだ。オレはこの人に名前で呼ばれるのはかなり癇に触った。だけど部の先輩が親しげに話しかけてくれるのにまさか嫌だとは言えない。
「園田先輩」
 振り返ると用具置場のドアによりかかってオレに笑いかけてる。まずいところを見つかったな。今のオレには先輩に対して普通に接するのはかなり難しいんだ。オレからレギュラーを持ってったくせに先輩は試合の間ミスの連続だった。それもそうだし、だいたい先輩が出るとチームがぎくしゃくしてうまく噛み合わなくなるんだ。この人はメンバーを活かすことを少しも考えてない。自分だけが目立とうとするからうまく流れていかないんだ。中学のころはよく判らなかったけど、オレも成長してだんだんそういうことが判るようになってきていた。ガードはチームの要だ。先輩にはそれが判ってないからガードには向いてない。もしかしたらバスケットってスポーツにも。
「なにしてるんだこんなところで。レギュラーじゃないからって抜け出すなんてほかの連中に失礼だろ」
 ……ダメだ。聞いてるだけでイライラする。思考がプラス方向に向いてかない。
「先輩こそなにしてるんですか。レギュラーの先輩はいわば主役なんですから、レギュラーじゃないオレよりもよっぽど罪は重いと思いますよ」
 オレの質問になんかもともと答える気はなかったんだろう。それよりも、さっきの自分の質問に対するオレの答えも期待していなかったに違いない。先輩はニヤニヤ笑いを浮かべながらオレに近づいてきた。そして、オレの頭に手を伸ばして言う。
「この一年で身長伸びたな。どのくらい伸びた?」
 言いながらオレの頭に触る。オレは人に触られるのは嫌いだった。でもこういう状況でいきなり手を振り払うのは常識的に見て失礼だと思える程度の理性はある。それなりにチームに溶け込んでいる今の状況で、オレは頭を触られるよりもこの人とけんかになってチームから孤立する方を恐れていた。
「五センチです」
「そうか。オレは二センチしか伸びなかった。たぶんもう伸びねえだろうな。……今はもうお前の方が背も高くて、そのうえお前は今まで一年間レギュラーとして活躍してた。だけど今年のレギュラーに選ばれたのはオレの方だった。気の毒に思ってるよ。一度レギュラーの味を味わっちまったから今の状態は辛いだろ。その気持ちはオレには判るさ。一年下のお前が入学したと同時にレギュラーかっさらってったわけだからな」
 どういうつもりでオレにこんなこと言ってくるのか理解出来なかった。オレの気持ちが判るふりを演じて自分が気分よくなりたいだけならやめてほしい。同じポジションを選んでいる以上、お互いに戦って勝ち取る以外にはないじゃないか。今回はオレが負けただけのことだ。それを同情されたからってオレはちっともうれしくなんかない。
 体育館になんか来るんじゃなかった。こんなことならパーティーで笑顔振りまいてた方がましだ。
「あのときお前言ったよな。ありがとうございます。先輩のおかげです。先輩にレギュラー取られないように頑張ります。……実際お前も頑張ってたよな。オレは認めるよ。お前は誰より頑張ってた。それが判らない連中なんかクズだ。オレはよく判ってるよ。オレが一番そのことは判ってる」
 話しながら先輩のあいている方の手が肩にかかる。オレは我慢しきれなくなってややぶっきらぼうに言った。
「先輩、いったい何が言いたいんですか?」
「何って、お前にはこうやって慰めてくれる奴なんかいないだろ。だからオレが慰めてるんだよ」
「オレは、別に……」
 こんな風に慰めてなんかほしくない。いったいこの人は何を勘違いしてるんだ。本当のオレなんか少しも判ってないくせに ――
 オレの見ている前で、先輩はオレからすっと離れた。そしてオレが両手で持っていたバスケットボールをたたき落とす。オレの注意が先輩からそれてバスケットボールに注がれた一瞬。その一瞬にオレは先輩に後ろに突き飛ばされていた。幸い後ろには体操用のマットが重なっていて、オレの体は衝撃を免れる。オレがほっとして、でもあまりに理不尽な扱いに先輩に文句を言おうと顔を上げたとき、先輩はオレの体におおいかぶさっていた。
「先輩! なにを……」
「お前が落ち込んでると思うから慰めてやってるんじゃないか。ほかの奴らはお前がお高くとまってるとか馬鹿にしてるとか散々言ってるがオレはそんなこと思ったことないぜ。お前はいつもさみしがっててだのに友達も出来ねえで、オレは心配してたんだ。もう我慢しなくてもいいんだぜ。人恋しいってオレに言って……」
 先輩の話と先輩の行動はオレにはぜんぜん理解出来なくてそれでもなんとか頭を働かせてることに忙しかったから、オレの頭に逃げるという行動はまるで浮かんでこなかった。だから回避出来なかった。そのあと先輩が取った行動を。
 先輩は話しながらオレの顔に寄って、唇を押しつけてきたんだ。
 まるで警戒すらしていなかった。このオレにそんな目的で近づいて来る人間がいるなんて。
 オレの体にのしかかって触りまくる手が鳥肌が立つくらいおぞましかった。腐りかけのエイリアンに触られてる方がまだマシかもしれないと思うほど。唇を割って舌が入ってきてオレの口の中を動き回る。他人の唾液がオレの口の中で自分自身のものと混じりあう感触にオレは耐えられなかった。飲み込むのを抑えるのと吐き気をこらえることしか出来ない。先輩が上げる猥らな喘ぎ声がオレに最悪の嫌悪感をもたらす。ほとんど本能的にオレは腕に力を入れて引き離そうとするけれど、その程度の抵抗は予想されていたらしく、最初に抑え込まれた時からオレの腕は力を入れることが困難な位置に押しつけられていた。
 もう、先輩だとか後輩だとかで遠慮するような状況はとうの昔に通り過ぎていた。的外れな慰めもオレのためだと思えば好意的に受け取ることも出来る。だけどこれはもう欲望の押しつけでしかない。事実先輩の身体はオレに反応して変化していたのだから。
 唇が離れた時、オレは思い切って頭突きを食らわせていた。それでも怯むことなく再び唇を寄せてくる。
「ふざけんな! 離れろ! オレの上からどけよ変態!」
「健司……オレは前からお前のこと……お前だってそうだろ。こんな女みたいな顔をして……」
「オレはてめえみたいな奴に触られるのだってごめんだ! 気持ちわりいんだよ! 変態のホモ野郎!」
「最初だけだ。すぐに良くなるって。オレが気持ち良くさせてやるよ。なあ、健司、いいだろ……?」
 狂ってる!
 吐息混じりの不気味な喘ぎにオレは現実的に危機を感じた。身のすくむような思いにとらわれてよけいに身体の力が抜けていく。このままじゃ本当にオレは先輩に犯されちまう。あまりのショックにオレが建設的な作戦も思いつかないで呆然としていたその時、まさに救世主のように花形の呼ぶ声がしたのだ。
「藤真! お前、藤真に……」
 ふだんの花形からは信じられないほど乱暴な動きで花形は園田先輩の首根っこをひっつかんでいた。そして強引にオレの上から引き離す。花形は先輩に体勢を立て直す時間すら与えなかった。満身の力でもって頬に拳固を打ち込んでいた。
「お前、花……」
 園田先輩の言葉は花形の二発目によって遮られる。見上げた先輩は目を丸くしていた。オレも初めてだった。こんなに怒った花形を見るのは、もしかしたら花形自身も初めてなのかもしれない。
 二発殴ったところで花形は動きを止めた。全身が震えていてそれでもまだ昇華できない怒りがあることがオレにも伝わって来る。
「花形。お前、先輩に向かって……」
 こんな状況でまだ先輩風を吹かせられるのかこの人は。花形の中に再び怒りが燃え上がる。それを抑えたのは花形の強力な自制心だった。
「キャプテンに話したいなら話せばいい。あんたが話したらオレも話す。その時退学になるのはいったい誰か、よく考えるんですね」
 当然のことながら先輩は二の句がつけなかった。オレを襲った先輩とそれを止めに入って先輩を殴った花形とでは、どう考えても先輩の方が不利だ。
「たとえ藤真が許してもオレはあなたを許しません。オレはあなたに最低の人間のレッテルを貼りました。それが覆されることはないと思ってください」
 花形の静かな怒りは静かな分強烈だった。この怒りを向けられたのがオレだったとしても、これ以上一秒だって花形の視線にさらされたくはなかっただろう。そのくらい強烈な否定だった。先輩はただの一言も反論することはなく、逃げるようにその場をあとにしていた。
 マットに腰掛けてただ成り行きを見つめていたオレに花形は振り返り、床に膝をついてオレを見上げた。その顔には色濃い悲しみをたたえている。オレは花形がきてくれたことは本当にうれしく思った。だけど、こんな自分を見られてしまったことに、一種の罪悪間をも覚えていた。
「もっと早く気がつけばよかった。藤真」
 身体の中のおぞましさがまだ残ってる。前からオレに対してそういう感情を向けていた園田先輩の存在自体がおぞましかった。震える身体をどうしたら止めることができるだろう。素直に花形にありがとうを言うことが。
「お前がいないことに気づいて……少し考えればここにいるはずだって判ったのに。教室探し回ってこの前まできたらお前の声が聞こえて……藤真、ごめん。オレ……」
 判らない。
「……花形」
 どうしたらこの憤りが消えるのか。
「身体の……オレの身体の感触が消えない」
「藤真?」
「消してくれ、花形」
 どうしてこんなことを言ったんだろう。オレの言葉に、花形はすうっと立ち上がった。そして、オレの身体に手を伸ばすと、優しく抱き寄せてくれたんだ。花形の腕は不思議に嫌な感じは少しもなかった。
 浄化されているような気がした。オレに染み付いた園田先輩の感触は、花形の腕の中にすべて溶けていく。いつの間にかオレの震えはおさまって、花形の腕の暖かさだけをオレは感じた。固まっていた感情がすべてほぐれて花形に吸い取られていく。重苦しい憤りもすべて。
 花形は不思議な力を持ってる。オレの心を一番素直にしてしまう力を。
「ごめん花形。変なこと頼んで」
 花形の腕から抜け出してその顔を見上げた。たぶんオレ、今一番いい顔をしてる。
「助けてくれてありがとう。お前が助けてくれなかったらオレ、もっとひどいことになってた。本当に助かったよ。……まさか園田先輩がああいうこと考えてるとは思わなかったから」
「二度とさせない。……他の奴にも」
「ああ! なんかむかっ腹が立ってきた! オレも二三発殴ってやりゃよかったな」
「オレでよかったら殴られてやるよ。オレ、お前の分まで先輩殴った気がするし」
「お前のこと殴ったらこっちが自己嫌悪に陥っちまうよ。それに、お前が殴ってくれたんならもういいさ。忘れてやる」
 忘れられるかどうかなんてオレには判らない。だけど、花形がいなかったらオレの今日という日は最悪の結末を迎えていただろう。たとえあのまま自力で逃げられたとしても、こんな穏やかな気分になれたかどうかなんてまったくもって怪しいもんだ。花形はいつも、オレを一番いい状態にしてくれる。
 しつこいほどうがいを繰り返したあと、花形を伴ってオレは帰り道を歩いていた。不意に思いついて言ってみる。
「あれがオレの初めてのキスだって言ったら、お前信じるか?」
「信じない」
 オレの質問にほとんど間髪容れずに答える。いったいオレ、花形にどういう男に思われてるんだろ。この顔利用して女口説きまくったとでも思ってんのかな。
「なんで」
 オレがむっとして振り返ったのに、花形は妙に優しそうに言った。
「思春期を過ぎて初めて好きな人とするのがファーストキスだろ? それともお前、園田先輩のことが好きだったのか?」
「好きなわけないだろ。怒るぞ」
「だったら認めるな。何でもファーストキスってのは自分史に一生残るらしいから、本当に好きな人とするまでとっとけばいいよ。ああいうの残すとその後の人生悲惨だと思うよ」
 思春期を過ぎて初めて好きな人とするキス、か。初恋もまだのオレにはいったい誰とファーストキスするかなんて判らないや。でも、オレは改めてほっとしていた。ちゃんと花形はオレのこと見ててくれてるってことに。
「花形、お前の初恋っていつ?」
 オレの言葉は花形を驚かせたらしい。ちょっと顔を赤らめて言う。
「初恋は……今してる」
 おいおい! なんでそれをオレに言わない!
「誰だよ! オレに教えろ! 場合によっちゃ協力してやるぞ。誰だ? オレの知ってる女か?」
「よく知ってる人だけど……ごめん、理由があって言えない」
 オレがよく知ってる女で、理由があってオレに話せない女と聞いて、オレが真っ先に思い浮かべたのは康子ねえちゃんだった。そう言えば康子ねえちゃんもこの間妙なこと言ってて……。でも、結婚してる人だぞ。それも子供まで産んでる。
「で? 見込みはありそうなのか?」
「たぶんないと思う。そういう対象で見てもらえるとは思わないから」
 ほとんど真っ赤になりながら、それでもオレの質問にしっかり答える花形。お前って妙にいじらしいよな。康子ねえちゃんでない普通の女なら、お前みたいな奴に好かれたら世界一幸せになれるのに。
「誰だか知らないけどさ、道ならぬ恋以外ならオレも力になるよ。話せるときにはいつでも言ってくれ。ラブレターの代筆でもなんでもしてやるから」
 何だか悲しそうに笑った花形を見て、オレはほとんど確信していた。花形の道ならぬ恋のお相手が康子ねえちゃんだって。
 でも不倫はよくないよな。恋ってのは諦めようとして諦められるもんじゃないって言うし、花形の気持ちが自然に離れるのを見守るしかないってことか。……それにしても花形も趣味が悪いよな。
 勝手に決めつけながら、オレは花形が普通に恋していつか打ち明けてくれることを祈った。期待の裏にはほんの少し寂しい気持ちがあることにも気づいて。

 その次の日、園田先輩が部をやめたことがみんなに発表された。インターハイ前の大事な時期に突然退部届を出した先輩のことをいぶかしむ声も多かったが、ほとんどの奴らはオレが再びレギュラーに返り咲いたことの方を喜んでくれていた。


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