ひとつ屋根の下



 翔陽はバスケではかなり有名な学校だ。
 毎年たくさんの新入生がレギュラーを夢見て入部してくる。近隣の元バスケ部員がほとんどで、オレもその一人。だけどたまに運動神経だけでレギュラーになれると勘違いした奴らも入部してきたりするから、その人数は八十人を越える。でもその半分は一週間で練習についてこられなくなり、更に半分は一月もしないうちにいつの間にかやめていくのが常だ。今年も最終的に残ったのはオレと花形を含めて僅か二十人にすぎなかった。
 このくらいの人数になればもの覚えのそれほどよくないオレも顔と名前が一致するようになる。入学からそろそろ二か月が経つころにもなれば、お互いにすっかり馴染んであだ名やファーストネームで呼び合ったりもするようになる。だけどオレにあだ名をつけてくれたり健司と呼んでくれるような珍しい奴はいないらしく、いつまでたってもオレは藤真のままだった。
 オレは誤解されるのにはそれなりに慣れていた。そして、原因が自分にあることも判りすぎるほど判っているんだ。
 その日、あまり練習にも顔をだすことのないおじさんというよりはじいさんに近い年の常盤田監督はいなかった。上級生の下級生しごきはどの運動部にも存在することで、オレ達一年生は三人一組で二三年生三人のディフェンスからゴールを奪うまでは交代出来ないっていうやたらハードな練習をさせられていたんだ。
 オレのグループはメンバーにも恵まれて、わりに早くゴールすることが出来た。だけどそのつぎのグループがなかなかシュートさせてもらえなくて、もう十五分も交代出来ずにいた。
「オラオラ、足もとふらついてんぞ。しっかりボール運べよ」
 三人とも息が上がっててドリブルだって満足にできる状態じゃなかった。こんな事続けてたって上達するはずがない。そのうち一年生の一人が足をもつれさせて倒れたんだ。
「一志!」
 気がついたらオレはかけよってその身体を助け起こしていた。こんなの練習じゃない。オレには上級生が一年生をいたぶって楽しんでるようにしか見えないから。
「藤真! 人の練習中にコートに入るんじゃない!」
「どこが練習なんですか! どう見たってこれじゃいじめです! 一志……大丈夫か」
「いじめだと? こっちは交代なしでやってんだぞ! 他の連中が出来ることをこいつらは出来ないんだ。出来ない方が悪い」
 オレは次期部長候補の二年の先輩をキッと睨みつけて言った。
「誰でも同じことを同じ早さで出来るとは限らないんです。出来るようになるまで時間がかかる人だっているんです。一志だって一生懸命やってる。そのことを評価したらどうですか」
 オレと先輩とのやりとりを、誰もが遠巻きに見つめているだけだった。それ以上先輩はなにも言わず、交代を告げて練習を再開した。オレは一志に肩を貸して歩き出そうとした。だけど一志はオレの腕を振り払って、オレを睨みつけていた。
「一人で歩ける。……悪いけどほっといてくれ」
「一志……」
 どうしてなのか判らなかった。いつもオレは自分で正しいことをして、正しいことを言ってるのだと思ってる。だけどどうして一志はオレのことを睨むんだろう。どうしてオレは振り払われたんだろう。
 同じことは何度も経験していた。相手のためを思ってしたことでかえって憎まれることも一度や二度じゃない。オレは友達になりたくて近づくのに、逆に距離が遠ざかっていく気がする。だからオレには友達がいなかった。誰もオレのことを名前で呼ばなかった。
 今、オレの事を誰ともわけへだてしないで接して、ほんの少しだけオレにウエイトを置いてくれるのは花形だけだった。練習でそんな事があった数日後、試験前で部活が休みに入って数学の補修を受けたオレは、花形が待っているはずの教室に足を向けた。ドアに近づいたとき、その声が聞こえたんだ。
「花形君よく藤真君なんかとつきあってられるね」
 声を聞いただけで誰か判る。クラスで一番声の大きい活発な感じの女の子だ。オレは足をとめた。鞄がまだ教室の中だからそのまま帰る訳にもいかないし、困ったもんだ。
 花形は律儀にオレのことを待ってたらしい。花形の声も聞こえてくる。
「どうして? 別に悪い奴じゃないよ」
「だって藤真君てあたし達のことばかにしてない? 何か鼻で笑ってそう」
「誤解だよ。藤真はそんな奴じゃない」
 ……参ったな。こんなところで足止めくらって帰れないんじゃせっかくの休みが台無しだ。花形だって帰って勉強したいだろうしな。女の子がまだなにか言おうとしているところを、オレは教室の外から強引に遮った。
「花形!」
 女の子の驚く気配。そのあとに、やけにのんびりした声で花形が言った。
「おお、早かったな」
 彼女と顔を合わせる気はなかった。オレは教室の外から続ける。
「鞄頼むわ。昇降口で待ってるから」
「判った。すぐ行くよ」
 何か悪い場面にぶつかったよな。こういう時どうもスマートに対処出来ない。他にいいやり方があるのかもしれないけど、オレはいつまでたってもこういう状況に慣れることが出来なかった。
 また恨まれて誤解されるのかもな。そんな事を思いながら憂鬱な気分で花形を待っていると、やがて二人分の鞄を抱えた花形がやってきた。
「あ、サンキュ」
 鞄を受け取って、並んで歩き始める。時々二人で帰るときも、オレ達はそんなに話をすることはなかった。とくに今日みたいな日はどういう会話をしたらいいのかよく判らない。オレが話しかけなければ花形の方から話しかけてくるようなこともあまりなくて、オレ達は黙ったまま決まった帰り道を歩きつづけていた。
 オレの新学期はいつも誤解との戦いで終始する。
 どういう訳かオレは目立つらしく、顔にしてもバスケにしても都合のいい妬みの対象になっちまうらしい。誰でも保身のために自分より出来のいい人間はどこかおとしめてやりたくなる。オレがおとしめられるのは出会ったばかりでよく判らない性格と、あまりよくない成績が主だ。それが人間の弱さで、オレ自身にもきっと同じような一部分は隠れているのだろう。
 それをとやかくいう気はオレにはなかった。だからいちいち誤解を解く行動に出ることもなかった。
 だけどその数日後、不思議な出来事が起こったんだ。オレが今まで体験したことのない出来事が。
 オレはクラスの女子に話しかけられた。この間オレの悪口を花形に吹き込んだ元気な女の子だった。更にオレが驚いたのは、その子がこの間のことなんかまるでおくびにもださない笑顔でオレに接してきたことだったんだ。
 オレも知らん顔で社交的に会話した。こういう態度はオレには完全に身についていたからぜんぜん苦にはならないけど、話しながらオレはある結論に達していた。たぶんこれには花形が一枚噛んでるって。
 だからその日の夜(それはくしくも試験の前日だった)日課のランニングに出かけたとき、オレは花形に恐る恐る聞いてみたのだ。
「お前、ひょっとしてあの子に何か言った?」
 花形はいつものちょっとぼんやりした笑顔でけっこうまっすぐオレの目を見つめて答えた。
「別に特別なことは何も言ってないよ。ただ、あのときの状況を判り易く説明してあげただけで」
「何を言ったんだ?」
 花形は少し照れたような微笑みを浮かべる。こういう表情が似合うってのも不思議な感じだ。
「藤真がさ、あのとき一度も顔を出さなかったじゃないか。それって、彼女の顔を確認して気まずくなりたくなかったからだろ? そういうお前の思いやりを説明してあげた。彼女、判ってくれたみたいだな」
 花形、どうしてお前、そんなにオレのために手間をかけられるんだ? だってオレが誤解されてるのって、結局お前には何の関係もないことじゃないか。オレと一緒に行動してるのだって、お前まで誤解されて避けられる可能性もあるのに。そんな風に手間かけてまで、どうしてオレと行動しようって思えるんだ?
 そりゃ同じ屋根の下に生活してりゃ仲よくした方が得かも知れないけど、学校でまで友達でいる必要はないはずなのに。
 オレが何も言えずにいると、花形はもっとオレに近づいてきて、はにかんだ笑顔をオレに向けた。
「練習中に藤真、長谷川のこと庇っただろ。一つのことを出来るようになるのは人によって時間がかかるって。それ聞いてオレ、なんか目からウロコが落ちたような気がした。オレも誰も出来なかったことを藤真は出来るんだって思った。……あのときはオレ、下手に庇ったら自分が先輩に睨まれるかも知れないって思ったし、オレなんかが庇ったらかえって長谷川が傷つくんじゃないかってためらいがあったんだ。でもそれは言い訳で、本当はオレ、長谷川に恨まれたくなかったんだ。−オレはバスケに関しては出来る方だって自分では思ってる。そういう奴は出来ない奴の気持ちは判らない。オレが判ってるつもりでも長谷川は偽善と取るかも知れない。そんな事を考えたら庇えなかった。だけど藤真は庇った。藤真はきっと自分を顧みないで人のために行動できる人なんだと思った」
 そうか。オレが出来る奴だから、一志はオレに馬鹿にされてると思ったんだ。
 花形の行動の方が一志には正しかったのかも知れない。だけどオレにはきっとあれ以上の行動なんて思いつきもしなかっただろう。
「偽善者か。オレはきっとそうなんだろうな」
「長谷川だっていつか藤真の気持ちが判ると思う。オレはそういう藤真が好きだよ」
「……簡単に言うな。お前、いつもそうか?」
「いつもじゃないし、簡単でもないよ。こういう言葉を使うのは藤真が初めてだと思う」
 花形の目はまっすぐでオレは素直に信じられる気がしていた。花形はまるっきり等身大でオレに接して、一番正直なオレを見てる。それがうれしくて、だけど初めてのことだから戸惑いの方が大きくて、オレは照れ隠しに横を向いた。ジョークで気持ちを覆い隠す。
「あんまオレに惚れると泣きを見るぞ。ただでさえモテるんだ、オレは」
 あわてて言い訳しようとする花形を笑いながら、オレはほんの少しだけど花形との距離が縮まった気がして、なんとなく誇らしい気分に浸っていた。

 中間試験が終わると、いよいよインターハイの予選に向けての練習がはじまる。
 だけどその前に練習試合のレギュラーの発表があるから、中間試験後の一週間は監督も交えてレギュラー選抜のための実力見聞みたいな練習があるのだ。このときにうまく自分をアピールできれば、一年生でレギュラーになることだって不可能じゃない。こういうとき、オレの目立つ容貌は最高の武器になるんだ。普段はじゃまにしかならない容姿だけど、オレ自身の実力が一定のレベルに達してれば、同じレベルの奴がいたとしてもオレの方がレギュラーに選ばれるだろう。そういう意味ではオレは有利だった。もちろんオレの実力がサイテーなら目立つ分恥も大きいわけなんだけど。
 今、三年生のガードは二人いる。そのうちの一人高村先輩が実力のある人で、もう一人は身長がないからガードをやってるって感じの人だ。二年生は園田先輩ともう三人。たぶんレギュラー十一人のうちのガードは二人か多くても三人だから、オレは少なくとも園田先輩達四人より目立たないことにはレギュラーにはなれない。練習試合用のレギュラーで予選用のレギュラーはまたあとで組み直すっていう事情もあるから、三年生二人はレギュラーメンバーに入るだろう。オレがねらっていたのは三人目のレギュラーだった。だから発表までの一週間、オレは誰よりも目立つように必死で練習に参加していたんだ。
 そしていよいよ発表の日。オレ達は監督とキャプテンの前に一箇所に集められた。オレ以外の一年生はまさか自分が選ばれるなんて思ってないだろうからそう緊張はしていなかったけど、二年生はけっこう目を血走らせて発表を待っていた。ここでレギュラーになれるかなれないかでその後の一年間の練習内容にもかなり違いが出てくる。練習場のスペースにも限りがあるから、レギュラーから漏れたら少なくともインターハイの予選中は一年生と同じ場所で練習しなければならなくなるんだ。
 発表は監督が読み上げた。ガードはトップだった。
「一番、ポイントガード、藤真」
 回りがざわめく。オレも驚いていた。まさか最初に呼ばれるとは思ってなかったから。一テンポ遅れて、オレは返事をした。
「はい」
 進み出て、監督の隣に並ぶ。ざわめきはしばらくおさまらなかった。オレは目の前に並ぶ先輩達と目を合わせるのが嫌で、ずっと一点を見つめていた。オレの隣には三年生のガードの高村先輩が並ぶ。オレはこの人よりも実力を認められたんだ。高村先輩よりも実力があるって、オレは認められたんだ。
 歴代のレギュラーの中で、一年からその地位を勝ち取った奴は翔陽バスケ部の歴史の中では一人もいなかった。オレが最初の一人で、もちろんうれしかったけど、少し恐かった。発表が進んで全員が呼ばれたとき、そのメンバーの中には二年生が一人いるだけだ。レギュラーになれなかった三年生が三人いる。こういう状況でプレイするってのはかなりしんどい事かもしれない。
 だけど、オレの本質はけっこう図太い。多少のいびりで挫けるようなやわな神経は持ち合わせちゃいなかった。
 発表が済んで緊張が解けたとき、最初にオレに近づいてきたのは花形だった。本当にオレのことを喜んでいるような笑顔を向ける。オレもつられるように笑顔になっていた。花形の笑顔は何にも勝る万能薬だ。
「やったな。おめでとう」
「ああ、サンキュー」
 花形が差し出した手のひらに、オレは自分の左手をぶつけた。そう、花形は左手を出したんだ。オレと花形の様子にほかの一年生達もわらわら集まってくる。
「すごいな藤真、一年生でレギュラーかよ」
「やっぱお前オレ達とどっかちがうよな」
 オレの身体を叩いて、ほかの奴らも祝福してくれる。すごいな花形。お前がオレの隣にいるだけで、こうも回りの奴らの反応が違ってくるんだ。お前がいなかったらこんな風に祝福されたかどうか判らない。きっと嫉まれて孤立していただろう。
 花形はすごい。オレには持ってないものをいくつも持ってる。
 一年生の仲間から一通りの祝福をもらって少し落ち着いたとき、オレのところに近づいて来た人がいた。園田先輩だった。
 先輩は少し皮肉なほほえみを浮かべて、オレに言った。
「よかったな健司。一年からレギュラーなんてそう誰でもできる事じゃねえぞ。おめでとう」
 オレはあんたを抜いてレギュラーになったんだぜ。そんな風に祝福に来るなよ。後輩のオレがなんて答えていいのか判らないじゃねえか。
「ありがとうございます。先輩のおかげです」
「オレもねらってたんだけどな、三人目のガード。まあ、仕方ねえ。これで判っただろ、翔陽が実力主義だって事が。実力がありゃ一年生だってレギュラーになれる。お前らも頑張れよ」
 最後の言葉は回りの連中に言った言葉だ。その言葉に元気づけられた何人かがはいっと返事をした。
「まだ決まったわけじゃないですから、安心はしてません。インターハイのレギュラーを先輩に取られないようにしないと」
「そうだな。オレもねらってくぞ。覚悟しろよ。……だがまぁ、判るだろうがそういう可能性はまずねえな。選抜に賭けるか」
 そのまま先輩は手を振って去ってゆく。声が届かないあたりまで来たとき、一年の誰かが言った。
「いい人だな、園田先輩って。自分がレギュラーになれなかったのにああやって後輩を激励に来るなんて」
 あの人の場合、そういう気分を味わいたかっただけだと思うけどね。そうすることでオレがどんなに気まずい思いをするかなんてまるで考えてないんだ。そうは思ったけど、とりあえずオレはなにも言わなかった。ひとの感じ方にまでいちいちけちをつける気はない。
 さて、今日からが大変だ。選んでくれた監督やキャプテンの期待に答えられるように、一日でも早くチームになじまないと。お前を選んでよかったって思わせられるように。オレにはそれだけの素質はあるはずだから。
 多少の不安はいだきながらも、オレは希望に胸を膨らませていた。

 この日からオレの練習はがらっと変わった。個人練習はなくなり、ほとんどがチームとしての練習メニューになったんだ。当然レギュラーから外れた奴らとは別になって、体育館で優先的に練習をこなす。その間にいくつかの練習試合。オレも出場して、一つの試合ごとに少しずつ実力を上げていった。
 これじゃ他の連中がレギュラーに返り咲く可能性はゼロに等しい。オレは園田先輩の言った意味が判っていた。ここまで一つのチームとして出来上がったものをインターハイの予選の時に組み替えるはずがない。思った通り、インターハイのレギュラー発表の時も、オレはレギュラーのままだった。
 同期の一年生達と練習をしなくなったオレは、ますますみんなとの距離が遠ざかっていった。それでもなんとかやっていけたのは花形がいたから。オレは部活後と早朝の個人練習に花形を付き合わせて、ほとんど勉強するまもなくバスケに打ち込んでいた。まあ付き合わせてるったって、最初に言い出したのは花形の方だったんだ。オレが誰もいなくなった体育館で個人練習してるのを見て、一緒にやるって言い出したのは。
 花形のディフェンスはけっこうねちっこい。オレは手を変え品を変え、花形を突き崩すことに一種の快感を覚えた。バスケ選手としてどちらかといえば身長もそれほどないオレが全国の強豪と戦うためには、それなりの身長を持った奴と練習して体に覚えさせるのが一番の早道だ。花形は図体だけの奴とも違う。花形とのワンオンワンは今のオレには必要な練習だった。
 オレがフェイクと変則的な動きの多用でようやく花形からゴールを奪うと、それまでの長い攻防で大汗をかいている花形がふうっと息をついた。
「すごいな藤真は。オレじゃかなわないよ」
 それぞれ五回ずつの攻撃で、オレは三ゴール、花形は一ゴールを奪っていた。オレだって五回に二回はボールを取られたわけだ。
「オレと同じ学年の奴でここまでオレに長い時間攻撃させた奴はお前が初めてだよ。さすがは大黒柱だ」
「でもお前、ぜんぜん汗かいてない」
「かいてるさ。脱いで見せてやろうか?」
 花形って奴は本当にこういう冗談が通じない。真っ赤んなって口ごもっちまった。これで「好きだよ」なんて科白をはずかしげもなく言うんだから本当に不思議な奴だよな。
「男の裸ぐらいでそんなに赤くなるなよ。変な奴だと思われるぞ。……それともお前、まさか……」
 オレが後退りながら言うと、花形は勢い込んで否定した。
「違う! ……だからそれはつまり……」
「判ってるよ。……これだからからかっちまうんだよな。そろそろ帰ろうぜ」
 言いながらオレはボールをかたづけはじめる。あんまり遅くまで練習してる訳にはいかないんだよな。オレ達は学生だから宿題だって出るし、特にオレは花形みたいに勉強ができる訳じゃないからな。赤点多い奴はインターハイに出場できないってうわさだし。ほんと、頭のいい奴はいいよな。今日のリーダーの訳はみごとなもんで……
 オレは今日の授業を思い出しながら、ふいに思った。今日の授業で花形が当てられたってことは、明日のリーダーではオレが当てられるってことじゃねえ? リーダーの鈴木は日付と出席番号で当てる。こいつは予習ができてなくて答えられない奴は容赦なくテストの点を差し引くんだ。オレのテストの点なんて差し引かれたらマイナスになっちまうくらいのお粗末なもんだから、授業さぼる訳にいかねえ。気がついてよかったよ。今から始めればなんとか間に合う。
「どうしたんだ? 藤真」
「……なんでもない」
 花形を頼る訳にはいかない。いくら同じ家に住んでたって、そういうのはルール違反だ。
 オレはできる限り早く家に帰った。そして花形よりさきに熱めの風呂に入って、パジャマに着替えて机に教科書とノートを広げる。だけど、そこから先の記憶はなかった。練習の疲労のために、オレは机に突っ伏したまま眠っちまったんだ。
 目覚ましのやかましさに目を開けると、窓の外はなにやら明るくて鳥の声がしてたりする。オレは一瞬のうちに思い出して飛び起きた。だけど、オレが寝ていたのは机じゃなかった。オレはベッドの方にきちんと寝ていたんだ。
 ベッドに入った記憶なんてなかった。オレが訳も判らず、でも朝練の時間を割けばなんとかできるかもしれないと思って机の方に向かう。スタンドの明かりも消えていた。きちんと並べられた教科書とノートを広げてみると、そこにはオレなんかより数倍きれいな文字で今日やるはずのリーダーの訳がびっしり書き込まれていたんだ。
 花形がやったことに間違いなかった。花形はオレが眠っちまったのをどうやってか知って、オレの代わりに訳してくれたんだ。
 オレの中に、なんともいえないいやあな感じが広がっていった。よけいなことだと思った。確かにオレは勉強できないけど、こんなことしてもらういわれなんかないから。こんな風に同情なんかされたくない。確かにオレは朝練の時間を費やしたとしてもここまで完璧にできやしないだろう。それでも、オレは絶対自分でやらなけりゃならなかったんだ。
 その日、オレは花形に素直にありがとうを言えなかった。その悔しい気持ちが、あの日オレを睨みつけた一志の気持ちとまったく同じだということに気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

 インターハイ県予選の決勝、たった二つの椅子を賭けてこれまで勝ち上がってきた強豪が競いあう。オレ達翔陽はそれまでの二試合をみごとに勝ち抜いて、すでにインターハイ出場を決めていた。最後の試合は海南大付属。同じようにほかの二チームに勝っているから、この試合は事実上の県トップを決める試合だった。
 この大会スタメンで起用された海南のガードはオレと同じ一年生だ。オレより七センチ大きい牧紳一。その攻め気のガードはオレには脅威だった。
「藤真、スタメンいけるか」
「同じ一年なら負けません」
「奴を侮るな。実力は県内トップクラスだ」
「はい!」
 ジャンプボールで試合開始。競り合いには負けたが運よくボールをキープした翔陽チームは、ガードのオレにボールを戻して来る。マークについた目の前の牧はでかいガードだった。
(大丈夫だ。花形より小さい)
「いいのか? 女の子にオレの相手がつとまるかよ」
 牧の奴が挑発してくる。だけどあいにく、こういう挑発にはこっちが慣れっこなんだよ。かえって落ち着いてきたくらいだ。
「女がか弱いなんて誰が決めた」
 この科白が牧にしてみればフェイントだったらしい。一瞬注意がボールからそれたことをオレは見逃さなかった。そのまま脇をすり抜けてセンターにパスを送る。リターンを受けてシュート。サウスポーというラッキーもあって、オレは先制点を入れることに成功していた。
 あっけに取られる海南。それとは逆に、翔陽の陣営はおおいに盛り上がっていた。
「よーっし! いけるぞ!」
「ディフェンス一本!」
「おお!」
 速攻が決まれば勢いがつく。あとは牧のボールをカットできれば完璧だ。でもまあ、オレもそこまで楽観視はしてなかった。なにしろあれだけ高村先輩を苦しめた男なんだから。
「見かけによらないな。藤真健司」
 お前のことは知ってるぞ、って感じにニヤリと笑う。調べられてるとすればそう簡単にはいかないだろう。
「見かけ通りさ。女ってのはふてぶてしいものと決まってる」
「ふん、おもしれえ」
 牧にボールがわたり、オレを切り崩そうとあらゆる手を使ってくる。まるでオレの実力を図っているかのように。オレも必死の抵抗を繰り返した。だが、牧はオレの苦手を見抜いたらしく、死角に入った瞬間、オレは抜かれていた。
 それからの再三にわたる攻撃と防御。オレは実力のすべてを出し切っているのに、ぎりぎりのところでオレは牧に負けていた。互角と言えば言えたかも知れない。事実はたにはそう見えたことだろう。だが、オレ自身が一番よく知っていた。オレは牧に負けてる。テクニックとか運動量とかそういう細かい何かではなく、総合力でオレは牧にほんの少しの差で負けている。
 後半、ほとんど拮抗していた点差はやがてジワリジワリと開いていった。そしてゲーム終了のホイッスル。あいさつを交わしてベンチに戻ったオレへのチームメイトの激励は心からの賛美だった。口先だけじゃなく本当によくやったと思ってくれたんだろう。だけどオレは心が晴れなかった。同じ年の奴に負けたという事実は、オレの今までの自信も粉々に砕いていった。
 常勝海南に負けをきっした翔陽は、わずかな点差に涙を飲んだ。オレだけは別の意味の悔しさをかみしめていた。


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