ひとつ屋根の下



 二番目のねえちゃんが嫁に行って、そろそろ一週間になる。
 盛大でなにやら楽しくもうざったい結婚式とか披露宴とかを何とか無事にすませて、オレにとっての二度目の親族の結婚式は、一度目とそれほど変わらない感動をオレに残していった。それによってオレの事実上の家族は半分になり、たいして広くもない家は妙に閑散としてる。母親と二人っきりの生活は、オレにとって生まれて初めての不思議な体験だった。
 オレ、藤真健司は、春から翔陽高校の学生になる。
 やっと受験から開放された春休みは、今までの三年間とこれからの三年間とにはさまれた小さな休息時間だ。入学してバスケ部に入部したらオレの高校生活はバスケ一色に染まる。ま、オレの素質ならレギュラー間違いないだろうしな。忙しくなるのは火を見るより明らかってやつだ。
 やっとやかましい同居人もいなくなったことだし ――
「健司! ちょっと来なさいよ。康子からエアメールなの」
  ―― これさえなければな。
 母親はねえちゃんがいなくなってからこっち、なにかっていっちゃオレにかまってくる。まあ、この家には母親のほかにはオレしかいない訳だし、別に相手するくらい何でもないっていやそうなんだけど。
「ああ、今行く」
 そう言えばちょうどお昼でもある。のんびりした一人の時間を諦めて下へ降りていくと、母親は手紙を読みながらなにやらはしゃいでいた。
「ほらほら、見てご覧なさいよ。康子ね、今ナイアガラで壮大な自然を満喫してるんだって。いいわねえ、新婚旅行って」
 横から覗くと、あんまり上手じゃないお馴染みの文字と文章で絵はがきに旅行のすばらしさが切々と書いてある。いいんだけどね。一生に一度のことだし。
「お母さん、昼ごはんは?」
「あら、健司まだ食べてなかった? 今日は午前中出かけるから適当に食べてって言ってったでしょう?」
 そんな話聞いてないんだけど。
「そうね。冷凍のドライカレーがあるから今簡単に作るわね。ちょっと待ってて」
 なぜだろう。同居人がいなくなると途端に家事に手を抜き始めるんだこの母親は。実の息子よりも同居人の方が大切だって事かね。まあ、向こうはちゃんと食費もいれてる訳だからタダ飯食ってる息子よりは大切にしなきゃいけないのかもしれないけど。
 台所に立った母親を横目で見ながら、オレはテーブルについてもう一度まじまじとねえちゃんの手紙を見る。差出人の欄に、名字の変わったねえちゃんの名前。まだ一週間だ。そう簡単に慣れられるもんじゃないな。
「あ、そうそう。健司にも話しておかなくちゃ」
 様子の変わった母親の声に、オレはちょっと身構えていた。フライパンからドライカレーのいい匂いが漂ってくる。
「なに? 話って」
「今日ね、決まったの。午前中に向こうのご両親とお話してきたんだけど、お二人ともいい方みたいだからもうその場で決めてきちゃった。本人にも会ったんだけどなかなかいい子みたいでね、お母さんいっぺんで気に入っちゃった」
 おいおい、その主語の抜けたしゃべり方なんとかしてくれよ。言ってる事さっぱり判らないじゃねえ。
「何の話だよ」
「んもう、健司って鈍いんだから。次の下宿人に決まってるでしょう?」
 な……何だって!
 この期に及んでまだこの家に下宿人置くっていうのか!
「なんで! うちにはもうねえちゃんはいないんだぜ! まさかこのオレに……」
 冗談じゃないぞ。そんなに簡単に結婚相手決められてたまるかよ! オレはまだ十五でやっと高校生で初恋だって経験してないってのに。
 オレが焦りまくってしどろもどろって感じになっちまうと、母親、情けない顔でふうっと溜息をついた。
「……あんた、馬鹿ねえ。誰が健司の結婚相手の話なんかしてるのよ。お母さんが話してるのは次の下宿人の話よ。たまたま姉さんたちが下宿人のところに嫁に行ったからって、お母さんが仕組んだみたいに思わないで欲しいわ。それに、決めてきた子はれっきとした男の子よ」
 ……男?
 それならオレの嫁にはならないな。
 ちょっと安心。でも、ねえちゃん達のことに関してはオレは母親の陰謀説を否定はしないよ。だいたいあれだけ性格の悪いねえちゃん二人が一流大学出のいい男のところに嫁に行けたのって、母親の後押しなしではまず不可能だったもんな。まあ、オレのねえちゃんだから顔とスタイルだけはモデル顔負けな訳だけど。
 だいたいオレが初恋もまだなのって、ひとえにねえちゃんたちが原因で……おっと、これはどうでもいいことだった。
 ともかく、これ以上オレは他人と暮らすのはごめんだ。やっと家族だけで暮らせると思った矢先だってのに(念のため、オレはマザコンじゃないからな)。そりゃあ勉強教えてもらったりけっこう便利だったけど、やっぱ他人は他人だ。気い使うのはどうしようもないよ。
 ねえちゃんが結婚すればこういう生活からおさらばできると思ってたのに。
「で? 今度はどこの大学?」
「ううん、大学生じゃないの。ピチピチの高校生。それも、健司と同じ学校よ」
 高校生が下宿? それって−
「越境入学?」
「ピンポーン! それもバスケットですって。背も高くていい身体してたわよ。健司のライバルね」
 バスケで越境入学? そういうのって、一番オレの嫌いなタイプかも。オレだってそう小柄な体型じゃないけど、母親がそういうからには背はオレよりあるだろうし、わざわざ翔陽を選んで来るってことは腕に自信もあるんだろうしな。変にエリートづらした奴だったらそううまくはやってけねえよ。別に母親の人を見る目、疑ってる訳じゃないけどさ。
「ああいう子が息子になってくれてもおいしいわね」
「悪かったね、できの悪い息子で」
「もう一人女の子産んどくんだったわ。惜しいことした」
 どうせオレはおまけですよ。昼飯もろくに作ってもらえないし(そういえばそろそろフライパンのドライカレーはこげる寸前なんじゃねえ?)子供の頃の洋服もほとんどねえちゃんたちのおさがりだったし。オレが中学生になるまで近所のおじさん達オレのこと藤真家の三女だと思ってたらしいからな。おかげでオレ、人一倍負けん気だけは強くなった訳だけど。
「とにかく明後日来ることになったから心得ておきなさいよ。暇なんだから下宿部屋のお掃除くらいしておいてちょうだい」
 皿に盛られた半分こげて水分の飛んだドライカレーをつつきながら、結局母親には逆らえない自分にオレは心の中で大きな溜息をついていた。

 明後日は割とあっさりやってきた。
 朝から母親は落ち着かない様子でうろうろ動き回っていた。新しい息子に豪華な昼飯を食べさせてやるんだとか何だとか言って、台所で下ごしらえに余念がない。おかげで実の息子の方は無視されたまんまで、しかたないからすみっこで食パンをかじるていたらく。もちろん下宿部屋の掃除は済ませたよ。自分の部屋も掃除したけど、どっちかって言えばこっちの方がついでだったな。
「もうそろそろなんだけど」
 あっちこっち歩きまわる母親を横目で見て、オレはまた溜息をついた。どうせ引っ越し手伝うのはオレの役目だ。この時とばかり母親はオレのこと一人前の男扱いするに決まってる。
「場所が判らないのかしら。健司、ちょっとそこまで見て来てくれない?」
 そこまでってどこまでだよ。オレが返事をしないでいると、やがてトラックの音がして、呼び鈴が家の中に響いていた。
「あ、来たみたい!」
 喜び勇んでドアに飛びつく母親のあとを溜息で追いながら、ふてくされたオレは対抗するようにのんびりと玄関に向かって歩いていった。
「いらっしゃい! 待ってたのよ」
「どうも、お世話になります」
 一言ずつの会話が母親と下宿人との間に交わされる。その頃オレは玄関に顔を出した。そして、ちょうどオレの存在に気づいたそいつと、バッチリ目を合わせるはめになったんだ。
 第一印象は、妙にぬぼーっとどでかい奴だと思った。ばさばさしたまっ黒な髪の毛が黒ぶちの眼鏡にかぶさるように伸びてる。身体のでかい奴にありがちなちょっとした猫背と、妙にいなかくささを感じさせるグレーのパーカー。オレも自分がファッションにうるさい方だとは思えないけど、ここまで自分を魅せることに無関心な奴も珍しいと思った。どこをどう見てもなにか才能を持ってるようには見えない。
「ああ、これ、うちの息子。健司っていって透君と同じ翔陽の一年生なの」
 こいつもこいつなりにオレを品定めしたようだった。ちょっと目を見開いてオレを凝視してたかと思うと、母親の声にあわてて反応した。

「あ、あの、花形透です。よろしくお願いします」
 同い年の奴にそこまで緊張することないのにな。
「藤真健司。こういう顔だけど一応男だから」
 たまに誤解する奴がいるから初めての奴にこういう挨拶をするときもある。ま、今じゃ身長も伸びたからめったに間違えられることもなくなったけど。
 この挨拶のあとの花形は見物だった。なんか顔をまっ赤にして口ごもっちまったんだ。
「あ……あのオレ……別に女だとは……」
 ほんとに思ってたらその場で殺してるさ。冗談と本気の区別くらいつけろよな。
 あとから思えばほとんどこの時にオレの優位は決まっていた。これからの三年間のオレ達の立場みたいなものは。
「初対面なのになに言うのこの子は。……ごめんなさいね、透君。さあ、上がって上がって。まずは荷物を片付けないとね。 ―― 健司」
「ああ、来いよ。お前の部屋こっちだ」
 オレは先にたって階段を上がり始める。うしろでは母親と引っ越し屋とがわいわい話し始めて家の中が一気にやかましくなった。
 さて、オレの家はなぜか妙に敷地も大きくて、二階には部屋が三つもある。オレの部屋の下がちょうど駐車場で、多少どたばたしてもなにも言われないいい位置だ。その隣が下宿人の部屋。更に隣に元康子ねえちゃんの部屋がある。つまり、うちの下宿人はなぜか両隣を大家の子供にはさまれてる訳だ。
 これには長い間の経緯がいろいろあって、初っぱなはオレが小学校二年生ぐらいにまで遡る。まあ、簡単にいえばオレの部屋は元長女の部屋で、その頃いた最初の下宿人からごちゃごちゃあるってことで、そのねえちゃんが四年前結婚で出て行ったときにオレが部屋を引き継いで今に至ってる訳なんだ。ともかく、二階に上がったオレは、真ん中の部屋のドアを開けて、花形透とかいう派手な名前の大男を招き入れたんだ。
「ここだよ」
「……」
 さて、こいつはいったいどういう感想を持ったかな。厚い前髪と眼鏡のせいでいまいち表情が判らない。こういう時はこっちが決めつけちまう方がいいって事、オレは経験上よく知っていた。
「いい部屋だろ? 天井は高いし、南向きだ。広さは八畳だけどタンスは備え付けだから普通より広く感じるし、フローリングだから掃除も楽だよ。ジュースこぼしてもさっと一拭き。どうだ? 気に入ったか?」
 気に入らない筈はないだろう、って含みで、オレは奴に振り返った。こいつ、何か呆然と部屋を見てる。そんなにこの部屋気に入らないんかよ。
「おい」
「あ、あの……ほんとにこの部屋がオレの部屋なのか?」
「そうだよ。なにか不満か?」
「不満もなにも……まさかこんなにいい部屋もらえるとは思わなかったから。ほんとに食費込みであの値段でいいのか?」
 そうか、いい部屋すぎて呆然としてたのか。それならいいけどさ。
「下宿代のことはオレは知らないよ。でもたぶんいいんだろ。うちの母親ちょっと変わってるけど嘘はつかないから」
「オレ、並の二倍は食べるけど」
「慣れてるよ。オレは並の三倍は食べる」
 オレを振り返ったこいつは、しばらくオレを見ていた。オレも奴を見つめていた。何か不思議な雰囲気に飲まれるように、オレはこの異常なシチュエーションに気づかない。気づかないまま見つめあって、やがて奴はゆっくりと微笑んだんだ。
 すごくやわらかくてあったかい笑顔だ。喩えて言うなら春の日差し。顔の緊張が全部解き放たれて最高にリラックスした状態でしか作れない表情。それはオレのなかにダイレクトで入ってきて、自然にオレの緊張も解きほぐしていった。
 オレに対してこんな風に笑う奴は初めてだった。作りものでない本物の笑顔を向けられるのは。
「ちょっと健司! 何してるの? ベッドと本棚と机の位置決まったの?」
 階下から母親の大声。花形透の最高の笑顔は一瞬のなごりを残して緊張に封印された。おかげでオレが現実に戻るのがワンテンポ遅れる。
「あ、あの、藤真君、ベッドはどこに置いたらいいかな」
 不覚にも奴に見とれた照れ隠しもあって、オレはややぶっきらぼうに返事をした。
「藤真でいいよ。オレ、あんま君とかさんとかちゃんとかつけられるの好きじゃないから。なんて呼ばれたい?」
「ええっと……オレも別になんでも」
「じゃあ花形でいいか。前の奴は窓の下に置いてたよ。他に机と本棚があるのか。……どうするかな。とりあえず前の奴と同じレイアウトしてみるか。とくに希望がなければ」
「希望はぜんぜん」
「気に入らなかったらあとで動かすの手伝ってやるよ。じゃあ、早いとこ片付けようぜ」
 引っ越しの荷物運びを手伝いながら、オレはさっきの花形の笑顔になんとなく気分が晴れなかった。

 あいだに豪勢な昼飯を挾んだ引っ越しも、夕方にはかなりの割合で片づいていた。
 花形は相変わらずぬぼーっとした表情と声で時々オレと必要な会話を交わしたけれど、動きの方はテキパキしていてオレをイライラさせるようなことはなかった。オレも人見知りをするようなタイプじゃなかったが、例えば名前の呼ばれ方一つでも生理的に受け付けなくなるような性向を持っていて、一度そういうものを意識したらそいつがどんなにいい奴でも絶対に普通につきあえないようなところがある。花形はとりあえずいまのところそういう嫌悪感を感じさせなかったから、オレは奴の世話をやくことに何の抵抗も持たずに、無事に引っ越しを終えることが出来ていた。
 本当に久しぶりの手の込んだ夕食を目の前にして、オレはいかにうちの母親がこの日を待ち望んでいたのかを知った。この人にとって実の息子はほんとにおまけらしい。腹を痛めた(のだと信じたい)息子の方はそっちのけで、新しく来た息子の世話を焼くことに全精力を注ぎ込んでいるようだった。
「透君、おかわり遠慮しなくてもいいのよ。お茶碗貸してごらんなさい」
 オレの茶碗がからっぽになってるのにはまるっきり無関心だ。仕方がないから自分でよそりに行ったりして。
「あんまり気を使わないで頂戴ね。うちは見ての通り健司と二人っきりだし、家族が増えて嬉しいくらいなの。ほら、お父さんがいま単身赴任でしょう? 最初に転勤になってからもう八年になるかしら。その頃健司もまだチビで上は女の子二人で男手がなくて物騒でね。大学生の下宿人を置いたのが始まりなの。そんな訳でうちは下宿人大歓迎だから、ほんとに何にも気にすることないのよ。自分の家だと思って自由にやって頂戴ね」
「はあ……ありがとうございます」
 ……気の毒に。花形の奴萎縮しちまってちっとも飯が減ってない。これからの三年間の生活に不安がむくむくとわき上がっているらしいのが手に取るように判る。初っぱなのコレでうちの下宿人は並大抵のことでは母親になにも言えなくなっちまうんだよな。そのおかげで二人のねえちゃんの性格が必要以上に美化されたのかも知れないけど。
 更に精力的にしゃべりまくる母親を尻目に、早々に食事を終えたオレはごちそうさまを言って席を立った。
「あら健司、もういいの?」
「ちょっと外走ってくる。すぐ戻るから」
 春休みけっこうのんびりしすぎて少し運動不足だったからな。体重も少し増えてるし、新学期までに元に戻しとかないと練習についていけなくなっちまう。オレが軽い準備運動をしながらテーブルを離れると、花形が立ち上がって言った。
「オレも一緒についてっていいか?」
 オレは構わないけど母親が怒りそうだな。案の定、母親は妙に恨めしそうな視線で花形を見てる。
「いいけど……責任は自分でとれよ」
 そのオレの科白は今の花形にはまるで意味不明。だけどそのうち判るさ。うちでは母親をないがしろにするってのがどれだけ罪なことか。
 運動靴に履き替えながら、オレは心の中で我関せずを決めこんでいた。

 そんなこんなで母親に偏愛されるもう一人の息子を気の毒に思いながらも敢えて助けようとせずに過ごしたオレの長い春休みは、入学式の訪れとともに唐突に終わりを告げていた。
 新しい制服に身を包み初登校をした二人の息子は、クラス割の掲示板の前で互いに目を見合わせることとなった。花形の『は』、藤真の『ふ』。二人の名前は同じ掲示板に一種陰謀めいた感じで並べられていたのだ。
「確か二年はクラス替えないんだよな。とりあえずよろしく」
 オレが言うと、花形は笑顔で答えた。
「こちらこそ。オレは地元じゃないし友達もいないから心強いよ。よろしく」
 オレだって友達は多くない。たぶんこいつの方が早くクラスに馴染むだろう。新しい環境で選択枝が増えればこいつとも縁遠くなるのかと思うと、オレは妙に心寒くなった。
 入学式場になっている体育館に足を向けかけたとき、オレは聞き覚えのある声に呼び止められた。
「あれ、健司じゃねえ」
 さっそく会っちまった。一つ年上の園田先輩。中学時代バスケ部でお世話になった人だ。一代前のキャプテンでガードといえばオレのライバルって言えるかもしれないな。とりあえずこの人を越えないかぎりオレの一年生レギュラーの座は危ない。
「お久しぶりです。元気そうですね」
「そっちもな。……いいところまで行ったのに残念だったな、全中」
「壁は厚いですよ。また一からやりなおしです。よろしくご指導お願いしますよ」
 口先だけの男だ。その証拠に卒業してから一度もバスケ部の指導に来た事はなかった。
「そっちは?」
 花形の長身が園田先輩の目を引いたらしい。先輩はオレとそれほど変わらない身長だから、自分より十センチも大きい一年生は気になるところだろう。
「入部希望者の花形です。希望はセンターだっけ?」
 そう言えばこいつとはあんまりバスケの話してなかったな。オレが振り返ると花形はちょっと緊張した感じで言った。
「花形透です。中学ではセンターでした。それしか出来なくて」
「オレは園田。うちはセンターはけっこう多いぞ。フォワードに転向考えた方が無難かもな。……ま、とりあえずよろしく。入学式終わったら練習見に来るか?」
「今日は遠慮しておきます。仮入部の時にでも」
「そうか。じゃ、その時にな」
 園田先輩は軽く手を振ってオレ達から離れていった。オレ達も歩きながら、やがて花形がぼそっと言った。
「フォワード転向か。考えたこともなかった」
「まじめに取ることないぞ。その時の気分で生きてる人だから」
 自分の言ったこと端から忘れてくからなあの人は。気分次第でアドバイスして、された方がずいぶん迷惑してたのもオレは知ってる。
「藤真はあの人が嫌いなのか?」
 その花形の言葉はこれ以上にないというほどオレを驚かせた。それがどうしてなのかもオレには判らない。理由も判らないままオレはただ驚いて、反射的に言葉を返した。
「……なんで?」
「なんでって、ただそんな気がしただけだけど」
「オレは嫌いな人なんかいないよ」
 それはオレにとっては真実だ。たぶんオレは園田先輩を嫌いじゃないし、他にも嫌いだと思える人なんかいないはずだ。
 オレの言葉に、花形はほんの少しだけ微笑んだ。
「そういうところ、藤真らしいな」
 その微笑みがオレに対する落胆を表しているような気がして、オレはしばらくもやもやした気分が晴れなかった。

 入学式も終わってクラスの担任やクラスメイトとの対面も済ませたあと、オレ達は家に直行して母親の心づくしの昼食を食する幸運を得た。クラスメイトとの対面は退屈だった。オレ自身は他の奴らと何にも変わるとこなんかないのに、時々オレを振り返ってひそひそ話す声が聞こえたりする。こんな女みたいな顔のどこがいいんだろう。結局は皮一枚だろ? そんなもんでオレの内面まで計れる訳ないだろうに。
 今じゃそう悩むこともなくなったけどな。顔がいいのが悩みです、なんて、下手なジョークにもなりゃしない。
 昼食後は大量にもらってきた教科書に折り目をつけたり、教科ごとのノートを作ったりでほとんど消えた。教科書だろうが何だろうが新しいものは好きだ。勉強は得意じゃないけど、頑張ってみようかななんて殊勝な気分になってる自分がちょっとばかばかしくなっちまう。こんな気分になるのも最初のうちだって事、オレはよく判ってるから。もともと飽きっぽい性格は今更変わりゃしない。今まで一番オレを惹きつけたのはバスケだけだった。
 受験の間、触れなかったボール。
 受験が終わってからもオレはボールに触れてなかった。勉強づくめでなまったオレの身体が本当に今までと同じようにボールを操れるかどうか自信がなかったから。オレはガードとしては県下一のセンスがあるって自負してる。そんな言ってみれば根拠のない自信が、果たして本当に高校バスケで通じるかどうか、本当は不安で一杯だったから。
 今日は新しい一日。今日ならさわれる気がする。花形が来た日からランニングで身体も鍛えなおした。それに、今日さわらなきゃ入部の日までにもとに戻すなんてできるはずないじゃないか。
 そう思ったらいてもたってもいられなくなった。気分の高まりは今までオレがためらってたことなんかまるで別世界のことのように感じさせる。早くボールに触れたい。この感触を確かめたい。
 だから夕食のあとすぐにランニングにでかけた。ここ数日そうだったように花形を伴って。オレが目指したのはついこの前まで通ってた中学校の校庭だ。近所で屋外コートがあるのがここだけだったから。
「ここ、藤真の母校?」
 オレがうなずくと、花形は回りを興味ありげに見回した。

「藤真はポジションはどこだったんだ?」
「基本はガードだけど、フォワードみたいなこともやってたよ。三年のときはセンターの代わりもやった。なにしろ身長が一番でかかったんだ」
 話しながらオレがドリブルでシュートを打つと、花形は初めて気づいたように目を見張った。
「サウスポー……?」
「知らなかった? ……そうか。オレ箸は右だもんな。文字とかもたいてい右で書くし。そういうことに関しちゃ親がうるさかったもんで」
 花形の質問に答えながらも、オレは何度もドリブルしてシュートを打った。オレの左手、パワーも感覚もぜんぜん衰えてない。むしろ今までよりも調子が上がってる気がする。焦らされて焦らされてやっとシュートが打てる喜びに身体が答えてくれてるように。
「花形!」
 花形に初めてのパス。受け取ってシュート体勢に入りかけた奴に、オレは自然に叫んでいた。
「ダンクいけ花形!」
 長身の花形の華麗なダンクに、オレは魅了されて動けなかった。むだな動きも多いし稚拙なところは山ほどあるはずなのに、その動きはオレを惹きつけて離さなかった。オレは予感した。花形はきっと誰よりもうまくなる。うまくなって、ガードとしてのオレが一番信頼できるセンターになる。
「約束しろ、花形。最強の男になるって。県下一のセンターになってみせるってオレの前で」
「藤真……?」
「オレはなるぞ。オレは全国でも五本の指に入るくらいのガードになってみせる。だからお前も誓え。誰にも負けない最強のセンターになれ」
 花形のちょっとした戸惑いは笑顔に掻き消されて見えなくなる。その笑顔は本物の笑顔。オレが初めて向けられた時と同じ一点の曇りもない最高の表情。
「約束するよ。オレは最強のセンターになる。夢は大きく、だよな」
「ああ、その通り」
 今はただの夢かもしれないけれど、オレは絶対に夢をかなえてみせる。これからの三年間を、この花形と一緒に。
 オレはきっと花形と親友になれる。そんなオレの予感は、花形の最高の笑顔に裏付けられた気がしていた。


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