MY FRIEND
中学の頃、体育教師に嫌々押しつけられていた集団競技は、花道になんの感銘も感動ももたらさなかった。たった一つのボールを追い掛け回し、ルールという名の枷で手足を縛られたまま、コート上の小さな輪の中にボールをくぐらせることで得点を競うゲーム。はっきり言ってばかばかしかったし、夢中になって走り回っていたクラスメイトが幼稚に見えた。他人に押しつけられているルールという制約は、花道の反発を招いただけで終わり、翌日からの体育の授業は仲間達と過ごす自由な時間にすり替わった。
その制約が研ぎ澄ます世界の鋭角に気付いたのは、あのシュートを見た時だったかもしれない。
それまで、片想いの少女のために強くなろうとしていた。手足にまとわりつくルールという制約に苛立ち、その不自由さが嫌で何度もやめようと思った。この狭い体育館から外に飛び出せば自由な空間はいくらでもあるのに、今花道がいる場所は理不尽に押しつけられる規則に溢れて息をすることすらできない。それでもやめなかった理由は、自ら前言を翻すことを許さないプライドと、少女の期待の眼差しだけだった。
そんな中で、花道はインターハイ全国大会での、あの流川のシュートに出会ったのだ。
残酷なまでに他者の追従を許さず、余計なものをすべて殺ぎ落して煌めき彼は孤高を極めていた。鍛え上げられた見えない翼を持ってただ一人頭上の光に触れようとしていた。花道は視線を奪われたまま身体の震えを感じた。そして、その一瞬は、花道に新たな世界を授けていた。
バスケットボールという単純なスポーツ。その中で、チームメイトの流川は誰よりも高く輝いている。その輝きはルールという制約の中にあってこそ研ぎ澄まされるものなのだ。ルールの中で、自由と孤独を掴んだとき、プレイヤーは鋭角の栄光を手に入れるのだと。
それは花道がそれまで謳歌してきた自由とはまるっきり対極にある世界だった。ルールのない場所で育つのが丘の上の一本杉であるのなら、流川は植林された造成林の中の杉の木だった。制約は剪定で、余計な枝葉を切り落としてゆく。より高く育たなければ光を得ることができない。回りに埋もれないように手を伸ばしていくから、流川は孤独になるのだ。
花道は自分が目指す孤独の意味を知った。そして、それからの一年間、流川を見つめ追い続けていった。いつか自分も同じくらい、いや、それ以上の栄光を手に入れてみせる。森林から顔を出して栄光を独り占めにしてみせる。
もはや花道にとってのバスケットボールは、あの少女のためのものではなかった。
流川のように輝くこと。
高みを目指して孤独を知ること。
流川を目指すことは、洋平を目指すことだった。だから花道はバスケに全力を尽くした。流川に追いつき流川を超えることだけを考えていた。
流川がいなくなることが、洋平を見失うことだった。
洋平を失うことだった。
「……入れよ、洋平……」
花道の声は先ほどまでとは様子が変わっていた。ひたすら許されることだけを願っていた言葉は、今は強い意志の存在を秘めていた。
「……なんだよ。開き直りか? 似合わねえことやってんなよ、蛆虫が」
「何とでも言えよ。それとも、お前には一線超える勇気はねえのか? ここまでがお前の限界かよ」
「最低だな。流川がヤバけりゃ今度はオレに乗り換えか。野郎のモンならなんでもいいのかよ」
「いい訳ねえだろ。洋平じゃなかったら誰が野郎のばばっちいモンなんか」
花道の反抗的な態度に逆上して、洋平は花道を更に引きちぎらんばかりに握った。
「アアッ!」
「これで終わりだ」
自らの肥大した部分を、洋平は花道の内部深く差し込んだ。千切れ喰われていく自分を空想して身震いする。花道に乗せられたのだと感じたのはずいぶん経ってからだった。今この瞬間に見たのは、脆く崩れゆく自分の姿だった。
身体の下に蹲り声を刻む桜木花道。覆うように抱き一つになる。本当に欲しかったのはどちらだったのだろう。傍らに伸びる杉の木なのか。足元に横たわる苔なのか。
どちらでもよかった。本当はどちらでもよかったのかもしれない。こうした姿勢を知らなかっただけなのだと本気で思えた。ただ、洋平は、自分だけの花道が欲しかっただけ。
流川のものになってしまった花道を知って、悔しかった本当の理由。
「んあぁ……! 洋平……!」
花道は洋平を追いかけていた。いつも洋平と同じ場所にいたかった。こうなることで欲しかった場所が手に入れられるかもしれないなどとは夢にも思っていなかった。今でも判らない。でも、洋平は花道に触れた。
洋平の行為は恋愛とは別のものなのかもしれない。花道の中には喜びがあり、愛しさがある。最初から洋平に捉まっていた。初めて洋平と出会い、言葉を交わしたときから。
だけど、恋とは呼べない。
洋平の動きが止まったとき、花道は自分が何をどうすればいいのか判らなかった。言葉をかけることもできなかった。洋平の誤解を解くための言葉も躊躇われた。黙ったまま、痛みから解放された部分に労うように触れ崩れ落ちた。
判らなかったのは洋平も同じだった。達してしまった自分に驚きと嫌悪を覚え、それを隠すようにシャワーを浴びに立ち上がった。
翌朝、花道は洋平の部屋を出た。
洋平はいなかった。深夜、狸寝入りの花道に声をかけずに出て行ったまま帰らなかった。嵐の後はいつもより空気が澄んでいる気がする。深呼吸して、空元気を表情に加えた。
恒例の合宿に出かけていった花道を、洋平は見送らなかった。
このインターハイを最後にアメリカ留学すると公言した流川のためにも、流川がいなくなる湘北バスケ部のためにも、全国大会は絶対に勝たなければならないと誰もが思っていた。共通するその想いはメンバー達の気持ちを一つにする。それゆえか湘北の快進撃はとどまるところを知らなかった。スタンドで見守る洋平の目の前で、勝利を手にした男達は最高の笑顔を見せていた。
あれ以来、花道とは会っていない。親友でいることをやめるとあの日口にしたのは洋平の方だった。花道がチームメイトと馴れ合うことを嫌悪していた。しかし、勝利を得た花道の笑顔は本物だった。誰に恥じるべき何ものもなかった。
花道が手にしているのは、他の誰のものでもない、花道自身の勝利だった。誰かに頼り誰かに与えてもらった勝利ではなかった。それは洋平自身の過ちを如実に示唆するものだった。もしも認めてしまったら、洋平自身のアイデンティティをも崩されてしまう気がした。
水戸洋平は、取るに足らない大勢の中の一人に過ぎない。
洋平が目指していたのものは違っていた。大勢を従え、誰に似たところもなく、この世の中にたった一人しか存在しない水戸洋平。花道を認めることは自分を覆すことで自分自身に対する侮辱だった。寄生木だと洋平が思っていた花道は、いつの間にか洋平自身が到達できないほどの高みに上り詰めた巨木になっていたのだ。
丘の上の一本杉は、他者の存在の大きさを知らない井の中の蛙だった。そんな自分が腹立たしかった。花道を認めることができなかったあの時の自分の狭量が恥ずかしかった。今更どうすることができるだろう。もう洋平は花道の親友ではないのだ。
あの夜に失ってしまったものは、二度と取り戻すことができない。
自分という存在のあり方を洋平に証明できるものは勝利しかないと思っていた。
流川に頼っていた訳ではない。流川を手本にしていただけだ。あの夜洋平に言うことはできなかったけれど、言葉にしなくても伝える方法は判っていた。勝たなければ、勝ち進まなければ、今までの自分も全て嘘になると思った。洋平の親友でいる資格はないと思った。
洋平の身体が花道に与えたものは、屈辱だけではなかった。あの時感じた喜びと愛しさとは、時間が経った今、よりくっきりと気持ちの中に残っていた。身体の中に洋平が存在していたあの感触は、そっくりそのままの形で思い出すことができる。あんなにも洋平を近くに感じることができるのだと、花道はまるで思いもしなかったのだ。
今でも、洋平は花道の目標だった。その意味ではあの夜を境に変わったものは何もない。だから今はインターハイに全てをかけていた。ほんの少しでも、一歩でも、洋平に近づいていくために。
準決勝残り三十秒、宮城のスティールの瞬間から花道は走った。流川とのダブルポストが湘北の攻撃スタイルに新たに加わっていた。プレッシャーを受ける流川から戻されたボールを、シュートエリアの外から放る。
(見ろ、洋平。これが今のオレの全部だ)
―― そしてその日、洋平は姿を消した。
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