MY FRIEND



 花道が風呂に入っている間、洋平は台所で花道の服の泥をざっと洗い流し、洗濯機に放り込んだ。そのあとタンスを開けて花道に合いそうな服を物色する。どちらかといえば細身の洋平の服の中には筋肉質の花道が着られそうなものはなかった。この時期であれば裸で過ごしても風邪をひくようなことはないだろうと、引き出しを閉め、大きめのバスタオル一枚だけを用意した。
 風呂から上がった花道にバスタオルを押しつけ、自分もシャワーだけ浴びる。風呂から出ると、花道はビールの缶を開け、同様のバスタオル姿の洋平に手渡した。
「勝手にもらった」
「ああ」
 乾杯もせずに一息で飲み下す。風呂上がりのビールは格別で、熱った身体を一気に冷やした。
「 ―― で?」
 そう尋かれた花道は、それでも先刻ほどは取り乱してはいなかった。腰にバスタオルを巻いて両膝を立てた状態で、膝の間に顔を埋める。
「頭きた。サイテー、あん野郎」
「インターハイは出んだろ?」
「優勝を手みやげに渡米するって言いやがった。今の自分の実力なら優勝間違いねえって。あいつにはオレ達なんかただの引き立て役に過ぎねえんだ。それ聞いて、ムカっ腹立って、あーーーーーーー!!!! 思い出したくもねえあんな奴のツラァ!」
 テーブルを叩いて五百ミリリットル缶を一気に空け、足りずに冷蔵庫まで駆けていって二本目を取り出して冷蔵庫の前でガブ飲みした。そんな花道を洋平は冷ややかな目で見つめていた。流川の渡米を花道が阻止する権利はないのだ。流川には所属するチームを自由に選ぶ権利があって、その権利を行使しようとしているだけなのだから。
 花道が怒っているのは、流川が湘北を去るからではなく、流川が自分を選ばなかったから。そして、流川が花道を選ばなかった理由は、花道といて流川に得るものがまったくなかったことだと想像できる。だから花道は流川を怒るべきではなく、自分の未熟さについて恥じ入るべきだった。その現実を直視できない花道は軟弱で、チームワークを盾に取って流川を攻撃しようとする行為は恥知らずだった。
  ―― コメントを差し控える洋平の前で、花道は流川の不誠実さと身勝手さを上げ連ねた。
 多量のアルコールが、花道に歯止めを忘れさせ、洋平に柔軟な優しさを忘れさせた。いつもなら聞き流せた暴言が一つ一つ洋平の感情を刳った。悪口であれ何であれ、花道は流川についてこれだけ多くを語ることができる。果たして洋平について花道はどのくらい語ることができるのだろうか。
「 ―― あん時だってそうだ。オレがゴール下で構えてんのに無理してシュートしやがって。たまたま入ったからいいようなもん ―― 」
 自分がチームメイトとして流川に信頼されないことを、流川の自己チューと言い切る厚顔さ。
 花道の中にはもう桜木花道はいない。花道は湘北の、あるいはどこかのチームの一員としてしか生きられない。それは洋平がもっとも唾棄すべきものだった。花道は自分で自分を高める術を失った、ただの寄生木に過ぎない。
(どうして、お前は、オレの部屋にいるんだ)
 どうして、洋平は、花道のそばにいるのか。
 花道は心に澱のようにわだかまる流川への想いを吐き続けた。やがて多量のアルコールに耐えきれなかった若い身体がぐらりと揺れ、平衡感覚を取り戻すように沈黙する。その沈黙は僅かに花道の思考の矛先を変えた。ぼそりと、まるで独り言のように。
「……流川がいなくなっちまったら、オレがバスケやってる意味がねえんだよ」
 そして花道のその言葉が、洋平の思考の流れをも変えたのだ。


 一年と少し前、己の個を捨て従になり下がった花道に失望した。ゴリに従い、リョータに助けられ、流川に憧れを抱いてチームという集団のために生き始めた花道に軽蔑を覚えた。それでも洋平はおそらく最後の一パーセントの希望を心に秘めていた。湘北バスケ部という集団の中で、己を確立し、やがてはトップに躍り出て、軍団を従えていたあの頃のような、かつての花道に戻るかもしれないと。
 今日まで洋平が花道との関係を切り離さず、優しい励ましと援助の手を与え続けてきたのは、花道が洋平と同じ孤独を忘れられないだろうことを信じたかったからだった。いつか、花道は昔に戻る。その時、再び花道と競い合うために、洋平はずっと側にいたのだ。
 バスケは花道にとって単なる拠り所ではなく自己を鍛え上げる手段なのかもしれない。洋平はそういった孤独の存在を知らなかったけれど、花道が目指す理想の中ではそれは存在し、洋平と違う方法ではあったけれどまぎれもなく花道は頂点を目指しているのかもしれない。
 それは洋平にとっては根拠のない憶測でしかなかった。でも、その希望があったからこそ、洋平は一年以上も花道の練習につきあい続けてきたのだ。
 そんな洋平に対して花道が言った言葉がそれだった。
『流川がいなくなっちまったら、オレがバスケやってる意味がねえんだよ』
 花道がバスケをやる意味が自己を確立することであるならば、流川がいなくなることは花道がバスケの存在意義を喪失することにはならない。流川がいるかいないかは花道が自己確立を果たすためには露ほどの障害にもならない。ゆえに、花道がバスケ部に所属しているのは、自己確立のためではないのだ。花道はやはり、集団で堕落してゆくために今日までバスケを続けてきたのだ。
 洋平の、この一年は、いったいなんだったのだろう。
 バイトのあとの僅かな時間を割いて花道の練習をサポートした。落ち込む花道を元気づけ、勇気づけた。自分の中にある軽蔑と戦いあるかないか判らない希望に賭けた。あの日々が、花道のこんな言葉を聞くためにあったのだとは思いたくなかった。
 怒りが、洋平の中に最後に残っていた花道への信頼を、打ち砕いた。
「 ―― 軟弱でサイテーな蛆虫(うじむし)……」
 洋平の小さな呟きに振り返った花道は、自分がたった今聞いた言葉をどう扱うべきか判らず、途方に暮れているような顔をしていた。
「え……?」
 花道は薄笑いを浮かべ洋平の怒りの神経をますます刺激する。花道に対して悪意を込めた嘲りを口にしたことがないのは洋平だけではなかった。訳もなく周囲に甘やかされ続けてきた花道は、聞こえなかったはずなどないのに洋平のフォローをあてにして乾いた笑いを貼り付けたままただ待ち続けている。自らの感情を抑えて笑いかけるのはこれまで洋平の役目だった。だけどそんなこと、いったい誰が決めたのか。
 当然のように洋平の協力と励ましを吸い取りながら朗らかに笑い続ける。自分以外の者が自分のためだけに存在していると本気で思っている。それが、孤独な支配者としての奢りならば当然だ。しかし花道はもう支配者にはなりえず、苔で、蛆虫だった。
 怒りが、洋平の本来の姿を目覚めさせた。
「……てめえはもう、ダチでもなんでもねえ。オレの人生に関わる資格はねえ」
 洋平は立ち上がって、まだ薄笑いのまま思考を止めて座っていた花道の横面を裏拳で薙ぎ倒した。花道は回避せず片腕で身体を支える。花道はまだ自分の回りで起こった出来事が信じられなかった。呆然と痛みを知覚する花道にのしかかるように、腰に巻いたバスタオルを割って洋平は花道自身を固く握り締めた。
「うあっ……!」
 洋平の掌の中で、力なく項垂れた花道が形を失う。
「意味のねえ屈辱の味、教えてやるよ」
 それはたった今洋平が味わったものだった。


 握り締めた拳の力を洋平は片時も弛めなかった。よつんばいにさせた花道の背後から指を差し入れ、強引に掻き出す。極部の痛みに花道は呼吸を乱した。現実が信じられなかった。昨日までの洋平を信じていた。
「頑張ってんじゃねえよ。力抜いたらもっとイイぜ」
「……んッ……!」
「おーら、こっちの手応えも変わってきた」
 洋平が指を動かすたびに湿ったいやらしい音が聞こえる。同時に体内を不用意に掻き回される独特の不快感に襲われる。足が震えて、耳ざわりなノイズのように全身を乱してゆく。
「痛え……痛えよ、洋平……」
「痛えだけじゃねえだろ。もっと奥……ほら、見つけた。ここだ」
「アァ……!」
 捜し当てたその場所を、洋平の指先が執拗に攻める。無意識に逃げを打つ花道を固く握り締めてしだいに追い詰めてゆく。聞き覚えのない搾り出すような喘ぎが自分の唇から発せられていることに、しばらくの間花道は気付かなかった。すべてが狂っていた。いったい誰なのか。裸体を晒して辱めを受けているのは。総てを奪うように弄んでいるのは。
 ほんの数分前まで、洋平は確かに洋平だったのだ。中学の頃からつるんでいた仲間。一番信頼できるマブダチ。穏やかな微笑みで、いつも花道の愚痴を聞いてくれた。バイトのあとの疲れた身体で、花道のシュート練習に毎晩夜中まで付き合ってくれた。
 洋平の長い指がその執拗さを増し、ノイズを高めてゆく。
「あァッ! よせよ……やめろよ……ッ!」
「まだ足りねえだろ? 膝が危うくなってるぜ。オラ、もっと声出せよ。もっとしてくれって言ってみろよ」
「嫌だ……ダメ……」
「違うだろ。もっとしてください、だろ。もっと気持ちよくしてください、って言えよ」
 言葉に合わせて洋平は更に奥へと突き刺す。
「アァッ! ……洋……平……やめ……!」
「バックバージンでもねえのに嫌がってんじゃねえよ。流川にもこうしてもらってんだろ?」
「……何で……オレが……」
「……にしてもお前、ちょっと感じすぎじゃねえの? うしろだけでこんだけ感じてるくせに今更バージンぶんじゃねえよ。それとも何か? 相手が流川じゃねえと足開けねえとか言う訳? どうせ流川がいなくなっちまったら他の奴にしてもらうしかねえじゃんかよ。誰だっていいんだろ?」
 洋平の目に映る花道は、既に流川の身体を知り穢されていた。洋平の中には流川に抱かれて震える花道がありありと浮かんでいた。その妄想は自らの手の中にいる花道に投影され、抑えられない憤怒と欲望に変わる。それはそれまでの洋平が抱いていた怒りとは似て非なるもの。
 何を思ってこの行為に及んだのか、既に見失っていた。汚れた花道は許せない存在だった。自らが与えられた屈辱と同じものを花道に与えることが復讐だった。しかし、花道は既に穢れている。
 正しいやり方ではなかった。だがこれ以上の報復を洋平は思いつけなかった。
 花道自身を握り潰し、自分が分け入るための場所を広げながら攻める。花道が上げ続ける悲鳴のような声は洋平の琴線を響かせる。その事実は、人を傷つけることで自らの残酷さが満足を得ているのだと洋平に思わせた。
「オレを侮辱したらどうなるか思い知れよ。流川がいなけりゃ何もできねえ。一人で生きられもしねえくせに今までよくもオレを利用してくれたな。バスケがどれほどのもんだよ。ただの仲良しクラブじゃねえのかよ」
 花道の全身をかけめぐる痛みと快感は、洋平の言葉をすぐには理解させなかった。膝の震えが花道を未知の感覚へと誘う。逃げようと思えば逃げられたのかもしれない。しかし花道は洋平と争いたくはなかった。洋平を信じていた。
 洋平の言葉も、洋平のすることも、最後は必ず花道をよい方向へ導いてくれた。洋平に従っていて後悔したことはなかった。洋平のことが好きで、信じていた。洋平が励ましてくれたから、花道は今までバスケを続けることができたのだ。
 かっこいい洋平。強い洋平。花道も洋平のようになりたかった。洋平と同じ舞台で、洋平が望む花道でいたかった。
 身体の痛みと快感が裏切る。それでも、洋平を信じる気持ちは変わらなかった。
 しかし、その洋平の言葉が、花道の思考を止めたのだ。


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