MY FRIEND



 二年になって、洋平と花道のクラスは分かれた。

「 ―― 流川の奴はぜってー認めねえだろうけどな。オレ、一年前のあいつのレベルは超えたぜ。もう少しなんだ。あと少しで奴に勝てる」
 独り言のように言って、花道はスリーポイントシュートを放った。洋平のアパートの近くにある無料の屋外コート。ボールはリングに吸い込まれて、球拾いを担当する洋平の足元に落ちてくる。
「百二十二。あと七十八球だ。がんばれ」
「いくつ失敗した?」
「三十八、かな」
「そんじゃ、今日からそれも追加」
「オーケイ。残りあと百十六球」
 二年生夏のインターハイ。予選リーグで、湘北は無事に強豪を討ち果たしていた。流川とのコンビプレイは他者を寄せつけない強さがある。更にその上を目指すため、花道はスリーポイントを完璧にマスターしたかった。実戦で使えるようになればもっと攻撃の幅が広がる。
 今年こそ、負けない湘北になるのだ。
「惜しい! ノーカウントで残り百十二」
「疲れたときほど慎重に!」
「そーそー。百発百中のシュートマシーンになれ、花道」
「おう!」
 流川の個人プレイを盗むことで高さを、流川の無言の要求に答えることでプレイの奥行きを手に入れる。それらを活かすガードのリョータはボールさばきの天才だった。今という時は今しか得ることができない。最高のメンバーが揃うのはもうこのインターハイが最後なのだ。
 花道の個人練習に、洋平はバイトが終わった時間を利用してずっと付き合い続けていた。この一年、他人に頼り堕落してゆく花道を見つめて。
「流川に勝つんだ。流川に勝って、全国を制覇する」
 なぜ、花道は気付かないのだろう。流川を目標にしている限り、永久に流川を超えることはできないのだと。
 花道は集団に埋没してゆくような人間ではなかったはずなのに。
「まだ……何か期待してるのかよ」
 あの頃、自分の隣で自分と同じものを求めていたはずの花道。今ここにいる花道の中に、あの花道は存在しない。
「何か言ったか? 洋平」
「……いや。全国制覇、期待してるぜ、天才」
「まかしとけ! オレが最高だ! オレを信じろ洋平!」
「そうだな」
 それでもまだ、期待し続けてしまう洋平がいた。


 あの日まで、花道は誰のものになったこともなかった。
 中学の頃、花道は桜木軍団を率いてケンカに明け暮れていた。五十人の女に告白したけれど、ただの一度もうまくいくことはなかったから、一人の女に縛られる花道を洋平は見ることができなかった。誰かのものになる花道はどこにもいなかった。花道はたった一人で、同じくマブダチの洋平やほかの三人もたった一人だった。
 何かに属する花道というのがあの頃は想像できなくて、だから高校で花道がバスケ部に入部したとき、洋平は不思議な気がしたものだ。組織の頭ではなく、一員になろうとしている。誰かの風下に立つ花道というのはそれまでの花道とはまったく違う存在に思えた。それがあってはならないことなのだと気付いたのは、そうなってしまった花道を知ってからかなりの時間を経た頃だった。
  ―― ゴリが抜けた穴、これからはオレが埋めねえとだよな ――
 花道の言葉は洋平にけして小さくはない衝撃を与えた。なぜなら、この時の花道の言葉は、自分をバスケ部という小さな枠の中に限定したものだったから。それは決定的な証拠。ゴリの穴埋めのために自分が存在していると認める発言だった。いつの間にか花道は、バスケ部なんていうちっぽけな枠の中にいて満足できる、矮小な存在になっていたのだ。
 花道は、唯一無二の花道でなければならない。
 一人で立ち、誰にも頼らず、誰に迎合することもなく、それはもしかしたらひどく孤独なことであったかもしれないけれど、それでもその孤独を撥ねのけるパワーを持った一個の存在。
 洋平がそうだった。あの頃、同じ魂を持った花道と出会って、関わりながらもけっして自分を曲げることなく、まっすぐに高みを目指して伸びてゆく一本の杉の木のように自由と孤高を永遠の道連れにしていた。そして同じ魂が傍らにあるというのが、洋平の永遠をより確実なものとしている気がした。花道を受け入れた訳でも頼った訳でもなかったけれども。
 花道の変化を、洋平は受け止めることをしなかった。変化したのではなく最初から自分とは違っていたのだと解釈した。洋平は孤独で、同じ想いを分かち合う人間は存在しないのだと認めた。そんなものを期待した自分は愚かだし、また期待するべき性質のものではないことも自嘲とともに理解した。
 集団で相協力しながら高みを目指す競技など邪道なのだ。それは堕落でしかなく、そういう世界にのめり込んでいった花道は他の人間達と同じく地を這う蔦に過ぎない。花道に希望を抱いていた自分を否定するために、洋平の反作用は花道に対しては容赦というものを知らなかった。それはもしかしたらそれまでの二人があまりに自然であり過ぎたためだったのかもしれない。しかしそうと表に見せることはけっしてしなかったし、また親友を演じながら同時に軽蔑し続けることで、洋平は自分の自尊心を満足させていった。
 だから花道は、そんな洋平の心の内をなに一つ知らない。


 流川を目標にして流川により近づいてゆこうとする花道。
 チームメイトの流川に頼り流川とのコンビプレイで全国を取りにいく花道。
 巨木に巻きついて高く伸びてゆく寄生木(ヤドリギ)のように、芯を抜かれ、一人では立つこともできない。
 花道を変えたのは流川なのかもしれない。だとしたら、流川がいなくなれば、花道はもとの花道に戻るだろうか。
 否。
 ひとたび寄生木に変わってしまった杉の木は、二度と巨木に戻ることはないだろう。
 花道はもう、バスケットボールのものになってしまった。
 そしておそらく、流川のものになってしまった。
  ―― その噂を聞いたのは、夏休みの直前、バスケ部が恒例の合宿に入るほんの二日ほど前だった。
「流川の奴、とうとう行くらしいな、アメリカ」
 昼休み、軍団の五人で屋上に集って食事を掻き込みながら、周知の事実を確認するような口調で高宮が言った。初耳だった洋平は花道を振り返った。そして、洋平以上に驚き呆然とする花道を見たのだ。
「……なんだよそれ」
「……まさか、お前、知らなかったのか? 女子の間じゃ今世紀最後のビッグニュースだぜ。インハイ終わったらその足であっちに留学しちまうって……」
 食べかけのパンを強引に口に押し込んだ花道は、屋上を飛び出して行った。花道が頼り、目標に据え、やがて打ち負かすはずだった流川。その流川が道半ばにして消えてしまう。ショックだろうと思う。巨木が消えてしまえば、寄生木は地を這うよりないのだから。
 自分がひ弱な寄生木であることに気付かない花道は、流川がいなくなれば嫌でも気付くだろう。そうと気付かされることを花道は無意識に恐れているのだ。
 知らず知らずのうちに、洋平の頬には笑みが浮かんでいた。
 絶望すればいい。これが、洋平よりも流川を選んだ花道に下される罰なのだ。孤独より迎合を選んだ花道は、これから先支えを失って地に落ちる。そうして集団競技という甘い世界の限界を知るのだ。一人ではなにもできない自分を顧みて、失ったものの大きさを知り尽くすことになる。
 誰かのものになることが、どれほど愚かで取り返しのつかないことであるのか。
 花道は、それきり屋上には戻ってこなかった。


 夕刻から降り出した豪雨は雷雲を伴って、傘を広げた洋平の下半身を濡らした。風がほとんどないために雨は降り止まず、雷も通り過ぎていかない。明確な約束はなくとも洋平は毎日屋外コートに通っていた。こんな日に花道が練習しているはずはないと思いながら、しかし万が一を考えて寄り道を決めた。
 視界を遮る集中豪雨とフェンス越しに目を凝らし、そこに花道の姿を見つけたとき、洋平は驚きよりも失望を強く感じた。
「花道!」
 聞こえないだろうと思いながらも叫んで、出入口まで回って駆け寄った。学校からくすねてきたばかりのボールを雨に濡らすという暴挙に出ることはさすがにはばかられたのか、花道が使用していたのは想像上のボールだった。仮想敵の攻撃を避け、パスで戻してゴール下に駆け込む。大きなアーチで仮想流川が放ったスリーポイントシュートは僅かに外れ、それを見越してリバウンドに飛び上がった花道の両手を経由してリングに叩き込まれた。
 雨に打たれる人間は、ただでさえ何かに打ちひしがれて見える。
「馬鹿野郎! こんな大事な時に何やってんだよ!」
 明後日にはインターハイ前の合宿を控えているのだ。今無理をしたら昨日までの練習すらすべて無駄にしてしまうかもしれない。しかも今花道がしていることは練習などではなく愚挙以外のなにものでもないのだ。
 そんなにショックだったのだろうか。流川が湘北を去ることが。
 洋平の存在にさえ気付かないように動き続けていた花道に、苦労して洋平は近づいた。花道の世界では洋平も仮想敵の一人でしかない。さしていた傘を洋平は捨て、背後の敵の気配を察して回り込もうとする花道の脇腹を蹴りを回して打った。そうして動作の流れを堰き止めると、体当たりで花道の身体を泥の中に投げ出した。
「しっかりしろよ! 流川に勝って全国盗るんだろ!」
 泥を掴んで握り締める拳に滴る雨が、別のものに見えた。
「……っくしょ……。オレをナメんじゃねえよ……!」
 哀れだった。雨に打たれて試合の恍惚に逃げ道を見い出そうと愚かな行為に及び、しかし何を忘れることもできずに地面を叩き続けて感情をもてあます花道を、洋平は哀れに思った。一人で生きるチャンスを自ら捨てた花道は哀れで惨めだった。這いつくばり土を掻きむしる花道は、寄生木というより苔のように洋平には見えた。
「……泥だらけじゃねえ。さあ立てよ。風呂わかしてやっから」
 そう、洋平が声を掛けても、花道はしばらくの間、立ち上がることをしなかった。
「……てめえより強くなってやる……ぜってえ……」


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