フォックスアイ
そのほんの少し前。
早足で歩くリョータのあとを、彩子は必死でついて歩いていた。昔からリョータはリレーのアンカーに選ばれるほどの駿足なのだ。小柄であるといってもそれは赤木や魚住と比べるからであって、日本人の平均身長からは決して遅れを取らないリョータであるから当然彩子よりは身長も高く、その分足も長かったのでそのリョータが早足で歩くとなれば彩子もほとんど小走りでなければ追いついていけないだけのスピードになってしまうのだ。
その時、屋敷内の明かりが一斉に消えていた。それでも廊下には窓があって月明かりが入って来る。リョータは一瞬ためらったがすぐにまた歩みのスピードをもとに戻した。
彩子は暗い廊下に不安になりながらもなんとかリョータに並ぼうと努力して、それがかなわないと判ると今度はリョータのスピードを落そうと画策し始めた。
「ちょっと、待ちなさいよリョータ。いったいどこに行くの?」
「ねえアヤちゃん、この家ちょっと広すぎると思わねえ? なんで端まで行くのにこんなに時間がかかるのやら」
「知らないわよ。高頭氏はきっと健康のために歩こうとでも考えたんでしょうよ」
この程度で息が切れるとはさすがに運動不足であるらしい。今回の事件が解決したら彩子は真っ先にスポーツジムに通おうと心に決めた。
「それにしてもこんな風にアヤちゃんに追い掛けてもらえるなんて、オレ幸せ」
「仕事でなければこんな事するはずないでしょう。もう少しゆっくり歩きなさいよ」
いつもの毒舌も冴えがなくなってしまっている。こんな彩子を見たらさぞかし魚住や池上が喜ぶことだろう。
その時だった。屋敷中にボンという大音響が響いたのは。
「え? なに?」
「マジ? そういうのありかよ!」
おもむろにリョータは彩子を置いて屋敷の廊下の窓に取り付いて飛び降りた。そこが二階であるということも構わずに。驚いたのは彩子である。リョータが消えた窓に貼り付いて下を見ると、リョータが走ってゆく小さな影と、その向こうに金庫室らしき所からの煙と炎がちらちらと見えた。
「あら、あの泥棒達高頭さんの大切な金庫に穴開けちゃったのね」
彩子の脳裏に高頭が地団駄を踏む小気味のいい想像図が浮かんだが、そんなことには構っていられない。彩子はリョータを見失ってしまったのだ。泥棒の仲間かも知れないリョータを。そしてあの金庫室の前には赤木がいるはず。赤木にもしものことがあったら彩子は生きる甲斐さえなくしてしまうかも知れないのだ。
「赤木課長もリョータも金庫室。金庫室に行かなくちゃ」
心の中に渦巻く不安を何とか抑えながら、彩子は真っ暗な廊下を一人金庫室に向かって足を早めていった。
窓から飛び降りたリョータが今まさに金庫室から逃げ出そうとしているレッドフォックスの三人に追いつくのはそう難しいことではなかった。
レッドフォックスの三人はかなり駿足ではあるものの相当重い重機や持ちづらい精密機械を抱えている。それに比べてリョータはカメラ一つを抱えた身軽ないでたちである。ずいぶん近くまで走り込んできたリョータは、カメラを向けざま三人に叫んでいた。
「ラビーット!」
その声はレッドやフォックスとは間違っても似ても似つかない声だった。それなのにラビットは振り向いてしまったのだ。カメラのフラッシュに慌てて顔をそむけたときにはすでに遅かった。リョータは連続写真でラビットをとらえて仮面付きではあるがその顔をしっかりとフィルムに焼き付けていたのだ。
走り去る三人をリョータはそれ以上追わなかった。そして自分の成功にただ一人暗闇の中でほくそえむ。高頭氏はレッドフォックスの写真を撮れたら言い値で買うと約束した。こんなに近くで、しかも顔が半分はっきりと写っているのだ。いくらでもふっかけられるだろう。
今夜は本当にいいことばかりだ。先日偶然再会した初恋の女彩子とは親密になれるし(彼は本気でそう思っているらしい)いっきに借金を帳消しにできるチャンスをつかむこともできた。これでもしも彩子と結婚できることになったら、彼は天にも昇るくらいに幸せになれることだろう。指輪も結婚式も、彼に夢想の種は尽きなかった。やがて赤木を助け起こした彩子が近づいてきたことにも気づかないほど。
「リョータ! あんたはいったい……自分にレッドフォックスの疑いがかかってること判ってるんでしょうねえ」
「アヤちゃん!」
まるで瞳がハートマークにでもなってしまったかのようなとろけそうな笑顔でリョータは振り向いていた。
「アヤちゃん、オレとうとうやったよ。レッドフォックスの写真を撮ったんだ」
「それ、本当?」
と、今まで彩子の肩にもたれるようにしていた赤木がふいに自ら立ち上がった。そしてリョータを睨むように見据える。リョータは少しぎょっとしたが、今まで幸せだった気分はそう簡単には消えなかった。
「もちろん本当さ。仮面付きだけどラビットはちゃんとこっちを向いてた。今まで顔を見た奴は何人かいたけど写真を撮ったのはオレが初めてだよな。……まあ、これは高頭さんからの依頼だからあの人を通してもらうことになると思うけど」
「現像は! いつできる!」
赤木の迫力に押されて、リョータはたじたじとなってしまう。だいたいリョータは身体の大きなごつい男はなぜか苦手なのである。
「今日はもう無理ですから明日現像にかけて……明後日くらいですかね。でも本当にいっときますけど、この写真は高頭さんのものですからね。あの人に交渉してくださいよ。頼みますから」
「ああ、判った。だからお前もできるだけ早く現像するんだ。今魚住達が奴らを追っているが捕まえられるかどうか判らんからな。そうなればその写真は切り札になる。くれぐれも扱いは慎重にな」
「心得てますって。……それじゃオレはこれで。高頭さんに報告しますんで。アヤちゃん、またそのうち連絡するよ」
「そうね、待ってるわ」
彩子の社交辞令に満面の笑顔で投げキッスを贈って、リョータは駈けていった。あとに残った赤木はうめきながら彩子に言う。
「さあ、オレもレッドフォックスを追うぞ」
「待ってください。無茶ですよ。ライフルで殴られたんですよ」
「魚住達だけにまかせられるか! レッドフォックスが予告状を送ってきたのは湘北署なんだ。オレが行かないでどうする!」
「それよりも今のところレッドフォックスの顔をはっきり見たのは課長だけなんです。忘れないうちに帰ってモンタージュを作りましょう。もしも魚住課長達がレッドフォックスを捕まえられなかったらその方がずっと役に立ちます」
その前に精密検査を、などと赤木に言ったところで聞くはずがない。彩子にはそれが痛いほど判っていたので、それ以上は言わなかった。結局どんなに男勝りに見えようとも恋する女は男の心配をしながらあとをくっついてゆくことしかできないものらしい。
ここにはあなたのことを心配している女が一人いるんですよ。
そんな彩子の想いは当分赤木に届くとは思われなかった。
少し時は戻って。
無線が使えなくなってから、魚住達は独自の方針で警備を行っていた。もともと陵南署も一つの組織である。外壁を守っていたのはほとんど陵南署の警官達で埋められていたから、その点のチームワークには期待が持てる。無線が使えなくなってレッドフォックスがまんまと包囲網を突破したことが判ってから、魚住は警備陣の立て直しをした。人員をチェックし、長谷川が倒れていることを発見してその近くにあった車を監視することに外壁の十人のうちの五人を配置したのである。
やがて無線連絡が可能になり、魚住はそのことを赤木に報告した。そしてそれからも綿密に連絡を取り続け、赤木が建物内部の者に当てた命令をも受信するに至っていたのだ。その後内部からの連絡はとだえたままだったが、送電線が爆破され電灯が消えたことや大きな爆発音がしたこともすべて知ることができていた。だから再び爆発音がして外壁が破壊されたとき、魚住は最大の準備をしてレッドフォックスに臨んだ訳である。外壁の警備指揮者は池上だった。爆発音がしたとき、池上率いる全ての人材は壁の外側でレッドフォックスを待ち受けていたのである。
さて、レッドフォックスの三人はもちろんそんなことは少しも知らなかったが、想像することはできた。車を抑えられていることも、おそらくその周辺には容易に突破できない程度の人数が控えているだろうことも。だから壁を破るとき、ラビットは仲間達に指示を出していた。壁を破った後どう行動するのが適切であるのか。ラビットは重機のスイッチを入れることをフォックスにまかせて自ら壁に飛び乗っていた。そして壁が爆破された瞬間、下に陣取る警備陣に向かってラビット特製の催涙弾、スモークエッグを投げつけたのである。
陵南署の面々にとってはスモークエッグはすでにおなじみの武器である。中には予想して息を止め目を閉じたものも多い。半分はスモークエッグのえじきにはならなかった。が、そこにレッドが飛び出してきて肉体的攻撃を加えてはひとたまりもない。ラビットはその隙にリモコンで車のロックを解き、重機をかついできたフォックスと楽しそうに攻撃を加えていたレッドとを車に乗せ、まんまと車を奪うことに成功してしまったのである。
車に駆け込んできた三人は少し目を潤ませていた。判ってはいても簡単には逃れられないのがスモークエッグの恐怖。洋平はエンジンをかけながら仲間達に言った。
「ちょっと運転が荒っぽくなるから覚悟しろよ」
「どっちに逃げるんだ、洋平」
「まずはこの包囲網を突破する。第一目的地は河川敷の大橋の下だ」
「判った。……ちくしょう! この目の痛みなんとかしてくれ!」
写真を撮られてしまった。これは洋平の落ち度で、ほかの二人には関係ない。さっきから洋平の頭の中はそのことで一杯だった。だが、今は逃げることが先決だ。ここで逃げおおせなければ写真など撮られたところでまったく意味がなくなってしまうのだから。
追いすがる警官達を振り切るように強引に車を発進させる。この車がここにあることがばれている以上、非常線の位置もかなり大幅な変更があったことだろう。洋平が壁にそった道を走らせていると、まず一台目のパトカーがサイレンを鳴らして近づいてきた。洋平はそれを避けるように脇道に入る。そこには通行止めのとおせんぼがあったが構うことはない。強引に突破するとその道は一方通行だったが前から二台目のパトカーが迫っているのは音で判った。
「洋平、その角右だ」
「判った」
「次を左」
まずは大通りに出て距離をかせがなければこんな細い道でちょこまかやってたらいずれ追いつめられてしまう。道を指示するのは花道の役目だ。特に花道がよく道を知っている訳ではなかったのだが、言うとおりにして捕まった経験は今のところない。
「花道、大通りに出てくれ」
「そこ右。次の止まれ突っ切って最初の角を左。そうすれば大通りに出るからあとは右に一直線」
「了解! 無事に行けるように祈ってくれ!」
花道は思わず胸の前に両手をあわせた。流川は十字を切って指を組んだ。もちろん洋平の目には入らない。
止まれを突っ切るときには左から三台目のパトカーが迫っていて鼻先をかすめる格好になる。思わず目を閉じた花道。三台のパトカーは一直線になって洋平達のワンボックスカーを追い掛けていた。そのサイレンの音は静まりかえった住宅街に不気味に響いている。善良なサラリーマン達の健康のためにもここは早く大通りにでなければならないというものだ。ほとんど強引という感じでその細い角を左に曲がると、ようやく大通りが見えて来る。そのさきに待ち伏せしていたパトカーに行く手を阻まれそうになって洋平はハンドルを大きく右に切った。中にいた二人は左のドアに思いきり身体をぶつけてのけぞる。車はそのまま空き地を横断して駐車場を走り抜け、大通りに出るころには四台のパトカーに追跡されるはめになっていた。
「洋平いてえよ!」
「文句があるなら自分で運転しろ! 教習所卒業できなかったくせに!」
「ありゃオレが悪いんじゃねえ! 教習所が狭すぎるんだ!」
「今の道は教習所より狭いって!」
ようやく大通りにでてなんとか悪態つけるまでに気分が回復してきた二人である。だがパトカーというものはかなりチューンナップされていて普通の車よりスピードがよく出るようになっている。すぐに追いつかれて脇から当たられそうになるのを必死で避けると、今度は二人は右に飛ばされて花道は洋平の肩にしこたま頭をぶつけた。
「石頭花道! ……流川、こいつら止められるか?」
「サンルーフ開けてくれ」
「サンルーフサンルーフ」
洋平がハンドル操作しながらサンルーフを開けると、流川は身を乗り出してライフルを構える。その間にも洋平達の乗る車はスピードを上げ続け、アクセル全開の状態になる。パトカーもよくついてきていた。時速はすでに百四十キロを越えている。
「ひえ、なむさん!」
「花道! いつまでも祈ってねえでなんとかしろ! スモークエッグがまだあんだろ!」
「こんなの投げたって窓ガラスもわれねえって」
「やらねえよりましだろ!」
流川はほとんど突き刺さるような風を背後に感じながらライフルを構えた。そして撃つ。銃声がして後ろを走っていた一台がタイヤを打ち抜かれてスピンしてそのまま遠ざかってゆく。
「わあ、すげえ。死んだかな」
「外れた。水戸、もっとましな運転できねえのか」
「だからいっただろ。オレは免許持ってねえんだ」
「なんで取らねえ」
「日本じゃ自分の本籍地知らねえ奴は免許がとれねえんだよ! 判ったらちゃんと狙って撃て! オレは殺人罪で捕まるなんざまっぴらだ!」
「そいつはオレが引き受けてやる。オレは捕まりゃ禁固百二十年くらいの実刑犯だ。あと二三十年くらい増えたってどうってこたねえ」
「流川、日本には死刑ってのがまだ残ってんだぜ」
「……それは知らなかった」
流川のおかげで洋平はだいぶ冷静さが戻っていた。写真を撮られてしまったことに対する解決策さえも浮かぶほどに。それだけでかなり心の軽くなった洋平は、その後の運転もずいぶんマシになっていた。花道のために窓を開けてやると、ちょうど隣につけられたパトカーから拡声器による声が飛び込んで来る。
「レッドフォックス! むだな抵抗はやめて車を止めろ。貴様らは完全に包囲したぞ。これ以上罪を重ねるんじゃない!」
花道が覗き込むと、毎度お世話になっている陵南署の魚住課長である。ドスのきいた声で言われても三人には車を止める気なんぞ毛頭ない。
「フン! ボスザルが! これでもくらえ!」
花道がスモークエッグ攻撃をするが、そんなものでは車の窓ガラスが壊れるはずもない。元々スモークエッグはその名の通り卵のようにやわらかい武器なのだ。中の催涙ガスが効いてこそ初めて役に立つわけで、ガラス越しに投げてみたところで相手に届くはずがない。背後にぴったり迫っていたパトカーの窓ガラスに蜘蛛の巣状のひびわれを張ることで警官に自発的にブレーキを踏ませた流川は、体の向きを変えてさらに説得を続ける魚住の車に向かって弾丸を発射させた。
「外れた。水戸、逃げろ」
流川の切迫した声に洋平は慌ててブレーキを踏む。そして車体を傾けながら強引に右へ曲がると、うしろで轟く爆発音。
「げっ! 流川、お前どこねらったんだよ!」
遠くでパトカーが炎上している。洋平は真っ青になっていた。
「窓ガラス狙ったつもりがエンジンにあたった。死んでたら懲役何年だ?」
「オレが知るか! ……お前、本当はライフル下手なんじゃねえだろうな」
「動く車からなんて狙ったことねえだけだ。オレは伝説のスナイパー、フレッド=ランクの再来と言われてるほどの腕だ」
「だったら殺すな!」
「スナイパーは殺すのが商売だ」
ゴルゴサーティーンとは言わないが、せめてシティハンターくらいの腕は欲しいものである。殺さないのもスナイパーだとは思ったが、洋平はそれ以上は言わなかった。一番堪えているのは流川だ。いい条件で成功するのは当たり前。だがこれからは悪条件で狙撃することの方が多いだろう。それを乗り越えられればたいしたものだ。
最後の一台が通り過ぎて戻って来る間に、洋平は道を変えて第一目的地の河川敷へ向かっていた。そこで車を止め、重機以外の荷物をすべて車から降ろす。橋の下までおりると、川縁には一人の男がイライラしたようすで待っていた。太りぎみのまん丸の男である。夜だというのにサングラスをかけていてまるでやくざの幹部のようだが、これが洋平御用達の便利屋、高宮望である。高宮は待合せ時間に三十分も遅れた洋平達をそれでも辛抱強く待ち続けていたのだ。
「待たせたな。約束通り返すぜ。車と重機でよかったんだよな」
「ああ。……こいつは?」
「心配ねえよ。オレの泥棒仲間でフォックスだ。なかなかいい腕のスナイパーだよ」
洋平の言葉には多少の皮肉がある。が、流川はたいして気にも留めなかった。
「そうか。……いいんだけどよ。なんでお前ら仮面なんかつけてんだ? なんかあったのか?」
「別になにもねえって。気にすんな。たぶん傷はついてねえと思うけど一応確認しといてくれ。重機の方は約束通り二発しか使ってねえ」
「傷ついてたらなおさなけりゃならねえからな。修理あったらあとで請求書送る。人のもんだと思うと気を遣うぜまったく」
「ああ。だけどお前も律儀だよな。どうせ盗品だろ?」
「盗んだ訳じゃねえ。ちょっとの間借りただけだ。オレは善良な便利屋だからな。信用第一って奴……おい、なんか音しねえか?」
そういえば風の音に混じってパトカーのサイレンの音がする気がする。洋平は茶目っ気たっぷりに舌をチロッと出して言った。
「やべ、追いついて来ちまった。それじゃオレ達はこれで」
「おい! ちょっと待てよ! まさかお前追われてんじゃねえだろうな!」
「細かいこと気にすんなよ。それより返したからな。間違えるなよ」
「待てよおい! まさかお前オレのこと囮にしようってんじゃねえだろうな! おいラビット!」
「逃げ延びろよ、高宮!」
夜霧に走り去ってゆく三人の姿を目で追いながら、高宮はしばらく呆然としていた。そして不意に気づいたように車の方に駈けてゆく。こんなところで捕まる訳にはいかない。この落とし前はいつか必ずつけてやるけど、今はそんなことよりも逃げ延びることの方が先決だ。ラビットの置き土産のなんと大きなことか。
サイレンの恐怖におびえながら、高宮は二度とラビットなど信用してやるものかと心に決めていた。
河川敷から徒歩で帰りついた三人はようやくほっと一息をついていた。が、いつもなら終わるはずの仕事は今夜はまだ残っていた。着衣回収袋を出し、自らもそれに衣類を放り込んで、洋平はすぐに花道の携帯電話を求めた。そしてその電話から花道の情報屋、相田彦一に電話を入れる。彦一は眠っていた。当然である。時刻はすでに午前二時を回っていたのだから。
『なんですねん、こんな真夜中に』
「悪いんだけど緊急の仕事を頼みたいんだ。報酬ははずむから」
『あんさん誰です?』
「レッドの仕事仲間のラビット。声で判らなくても覚えてるだろ?」
電話の向こうで少しの沈黙があった。
『ラビットさん、なんかご用ですか?』
「写真を処分してもらいたいんだ。たぶん明日あたり宮城リョータの名前で現像の注文が入る。それをなんとか処分してくれ」
『それは無理ですよ。そんなことしたら会社の信用がなくなってしまいますわ。バレてクビんなるわけにもいかへんし』
「頼むよ。そいつは探偵でオレ、盗みの真っ最中の写真撮られちまったんだ。オレが捕まればレッドも芋蔓式に捕まるだろうし、そうなったらレッドのツケは帳消しだぜ。お互いの利益のためだ。頼むよ」
少し考える気配が伝わって来る。それを辛抱強く待っていると、やがて彦一は溜息をついて言った。
『探偵さんですか。まあ、なんとかやってみましょう。報酬高うおまっせ』
「うまくいったら連絡する。金は間違いなく払うから信用してくれ」
『まあ、信用はしますけど……頼みますからこれっきりにしてくださいよ。わいは夜は滅法弱いんですから』
「悪かったよ、それじゃ、よろしくな」
電話を切って一安心した洋平は、力尽きてソファに座りこんだ。今日の一日のなんと長かったことだろう。これまでで一番利益のない盗みが一番しんどい盗みになってしまった。車や重機を借りたりと、コストもかかっている。これを流川に請求するべきだろうか。ちょっと迷いながら、洋平はちょうどシャワーを浴びおえて出て来た流川に聞いてみる。
「そういや流川、約束の五十万はいつ払ってくれるんだ?」
流川は今回はちゃんとバスタオルを持って風呂に入ったらしい。一度部屋に帰った流川は百万円の札束をぽんとテーブルに放り投げた。
「流川?」
「これを二人で分けてくれ」
この帯付はいつも流川が使っている銀行のものではなかった。それどころかごく数時間前に洋平が見かけたものとそっくりで……
「お前……まさか高頭の金庫の中から……」
「あんなにたくさんあったんだ。一つくらい判らねえ」
洋平が想像したとおり、流川は高頭の金庫室から札束を盗んできたのだ。洋平は驚いて、でも怒りの方が強くて、流川にまくしたてた。
「お前なあ! オレ達は金銭目的の泥棒だけど現ナマには手えつけないって固い鉄則があるんだぜ! これじゃ押し込み強盗と同じじゃねえかよ!」
どういう理屈かは判らないが、これは洋平なりのポリシーだった。でも、盗んできてしまったものをいまさらどうこう言ってもしかたがない。洋平は心を決めてさらに言った。
「流川。今回の盗みにはかなりコストがかかってんだ。そいつもお前が持て」
流川は再び部屋に行った。そして戻ってきたときにはもう一つ札束を抱えていて……
「こいつで足りるか」
「お前、いくつ持ってきたんだ」
「これだけだ。もっと必要だったか?」
「……信じらんねえ」
洋平は頭を抱えてソファに沈み込んでいった。元スナイパーの流川の感覚は洋平達泥棒とは本当にずれていて、この男に泥棒のいろはを教えるのは洋平が想像したよりもはるかに大変なことなのかも知れないと思うと、情けないを通り超して切なくさえなって来る洋平だった。
洋平はそれでも少し声のトーンを落として、一言一言噛み砕くように言った。
「流川、品物ってのはさ、ある程度高価なものなら保険てのが掛けられるんだ。こわれたときの保険も、盗まれたときの保険も。だから保険の掛けられたものを盗む分には盗まれた奴は損害ゼロってこともありうる。でもな、現金にはそういう保険は掛けられねえんだよ。盗まれたらそのまんま損害になっちまう。そういうのって悲しくねえか? ……人のものを盗むって、すげえ悲しい商売だ。だから少しでも盗まれた奴の損害が少ねえ方がオレ達も盗む意味があるような気がするんだ」
洋平の静かな独白は、流川の反省を促す十分な説得力があった。殊勝な気分になって流川は言う。
「すまねえ、水戸」
流川の一言に、洋平はとても暖かな笑顔を向けた。
「そのうちじっくりレッスンしてやるよ。オレ達の怪盗レッドフォックスって意味をさ」
スナイパーとして腕を持ち、一人で生きてゆくだけの力を備えていたのにあえて生き方を変えた流川。その勇気ある選択のきっかけを作ってしまった洋平には、それを見守るだけの義務があるような気がする。流川が一人前の泥棒になる日まで。せめて流川が怪盗フォックスとして独り立ちできるその時までは。
洋平は今、流川に遠い昔の自分を重ね合わせていた。
翌日、彦一の電話で写真の件での作戦が成功したことを聞かされた洋平は、昼食を作りながら鼻歌なんぞを歌っていた。
その後高宮からの怒りの電話もあったが、流川からのコスト分の札束の残りでなんとか機嫌を直すことができたので、それも含めてさらに洋平は上機嫌だったのだ。もともと洋平は高宮を囮に使おうなどとは考えていなかった。ただなんとなく高宮には相手に意地悪をさせてしまうような要素があって、時々洋平もそんな高宮に刺激されてしまうのだ。高宮は金でなんでも忘れてくれる。洋平の数少ない心許せる相手だったのだ。
花道の強硬な催促に盛りつけを急いでいると、部屋から流川が大きなものを抱えて出て来るところだった。流川は午前中朝食のあとは部屋にこもってなにやら忙しそうにしていたのだ。洋平は盛りつけの手を一時やすめて、流川に声を掛けた。
「流川、なにやってんだ?」
見ると、流川の抱えているのは巨大なキツネのぬいぐるみである。流川が一番大切にしていてめったに部屋から出すことのない。
「どうしたんだよ、そんなもん抱えて。……なんだっけ、ピラ……」
「プラ・メールちゃんだ」
洋平がそのキツネの名前を思い出そうとするところ、流川が先回りして言う。いつも表情の変わらない流川も今はなぜかうれしそうに見える。そんな、流川が命の次の次くらいに大切にしているキツネのぬいぐるみを部屋から出すなどというかなり奇妙なシチュエーションに、花道も一瞬食事のことは忘れて寄ってきた。二人がそろったところで流川は巨大キツネをリビングのソファに座らせた。
「見てくれ。午前中かけてやっとできたんだ。オレの愛するプラ・メールちゃん」
洋平には苦い思い出がある。いつだったかこのぬいぐるみの目を傷つけた疑いで流川に散々文句を言われたのだ。確か左側の目にかなり目立つ傷がついて……。ぬいぐるみの目に視線をやった洋平は思わず口をあんぐり開けたまま動けなくなっていた。
ぬいぐるみの目が、目が……!
「どうだ、きれいだろ。オレの目に狂いはなかった。やっぱりオレのプラ・メールちゃんにぴったりだ」
ぬいぐるみの目に、フォックスアイのルビーがはまってる!
あまりの衝撃に洋平も花道も一言も口をきけない石と化した。フォックスアイのルビー。仮面の形に加工された銀の板から外されたルビーは、キツネの目の位置におそらく接着剤のようなものでぴったりとくっつけられていたのだ。まさかこんなことをするためにフォックスアイを欲しがったのか流川は。たかがぬいぐるみの目を入れ替えたいがために、あんなに苦労して高頭の屋敷に忍びこんで……
二人の中にふつふつと怒りがわき起こっていた。重い重機を持って壁を越え、警官と立回りをし、屋敷の中を歩き回って金庫室を開け、カーチェイスまでしてやっと手に入れたフォックスアイだったのに、流川はたかがぬいぐるみの目にするために欲しがっていたのだ。いったい二人のあの苦労はなんだったのか。渦を巻く怒りは二人の中でやがて捌け口を求めて濁流となった。
「流川、てめえ……」
「何がプラ・メールちゃんだ。ふざけんじゃねえぞ」
流川は二人が怒っているらしいことは判ったが、その理由に思い当たらずきょとんとしてる。
「何を怒ってる」
二人は指を鳴らして流川に迫る。流川と二人との距離がつまる。二人の怒りが行動にあらわれるまでの時間はあとわずか。
そして ――
その後三人がどうなったのか知るものはいない。
了
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