フォックスアイ



 その日、洋平は画学生の格好をして絵画専門のブローカー大楠雄二に会っていた。人気のない待ち合わせ場所で絵を見せたとき、スモークエッグの洗礼を受けたレンブラントをまた値切られそうになりながらも何とか約束の値段で取引を成立させて、変装しなおし今度はどこかの証券会社の職員の振りをして銀行で仲間たちの口座に現金を振り込んだ。更に今度はもう少しラフな感じの会社員に変装して、洋平ご用達の情報屋、野間忠一郎に会う。そこで頼んでおいた情報を得、更に買物をして家に帰ったのは、出かけてから既に六時間が経過したころだった。
 洋平がマンションのドアをあけたとき、中から花道が泣きつかんばかりに飛び出してきたのだ。
「洋平! よかった。洋平……」
「花道?」
 花道は目に涙を浮かべている。見ると流川がまだ帰っていないようだった。事情を察した洋平が微笑むと、花道は今度こそ洋平に抱きついていた。
「洋平、オレ、洋平がもう帰ってこないかと思って、流川も帰ってこないしどうしようかと思って……」
「大丈夫だよ。オレが黙っていなくなる訳ねえだろ? ほれ、今日無事に絵が売れたからよ、宴会でもしようかと思って酒買ってきたんだ。それでちょっと遅くなっちまった。ごめんな、花道」
 ほっとして涙ぐんでいるらしい花道の背中を叩きながら、洋平は抱きつかれたままの歩きづらい格好で台所まで行った。そして買ってきたものをカウンターに並べる。こんな状態になった花道は久しぶりだ。そう、今まではいつも流川がいたから。
「洋平、洋平」
「どうした? オレはここにいるぞ。黙ってどこかに行ったりはしねえよ。安心しな」
「本当か?」
「ああ、オレが今までお前に嘘ついたことがあるか? どこへも行きゃしねって。だからちょっと離れろ。飯作ってやっから」
 今日は花道は一番最初にマンションを出ていった。洋平も知っている情報屋彦一と約束があると言って。そのあと洋平は変装して出かけた訳だが、流川の予定は聞いていなかったからてっきりいつものように部屋で銃の手入れでもしながら一日を過ごすのだと思っていたのだ。もうずいぶん前から、花道は部屋で一人になるのを嫌がった。誰かに見捨てられた経験があるのかも知れないと洋平は思っていたが、それについて花道が話したことは一度もなかった。心の中のことを何でも口にしなければ気の済まない花道が、である。
(よほど根が深いんだろうな)
 どういう訳か世間の裏街道を闊歩する三人である。人には言えない事情の一つや二つはあるだろう。花道の異常に思えるほどの人恋しさも同じところから発生する歪みに他ならなかった。
 買ってきた材料で適当に料理を作り、ようやく落ち着いてきたらしい花道にリビングの方のテーブルまで運ばせる。流川が帰っていないので三分の一は温めなおしがきくようにラップをかけた。現実に料理の匂いを嗅いで、改めて洋平の存在を実感したのだろう。花道はさっきのことなど忘れたかのようにすっかり元気になっていた。
「それで? 彦一はなんて言ってた?」
 洋平の用意した料理を掻き込みながら、二人は今日仕入れてきた情報を交換しあった。
「フォックスアイは金銭価値がないから売れねえけどもしかしたら牧なら買うかもしれねえって言ってたな。洋平知ってるか?」
「宝石ブローカーの牧だろ? お前も知ってる筈だよ。ほれ、色黒で妙にじじくさい……」
「ひょっとしてジイか? 前にドでかいダイヤ売ったことがある」
「ああ。……そうか、牧がな。でもどうせ流川が売らせやしねえって」
 花道はある時期から人の名前をほとんど覚えなくなっていた。勝手にあだ名をつけてしまうのだ。洋平と出会ったころはまだそういう事もなかったのだが。
 彦一が手にいれたフォックスアイの写真を肴に、二人は宴会タイムに入っていた。少量のアルコールで口の滑りもよくなった花道がふと洩らす。
「どうして流川は何にも言わねえで出かけるんだ?」
 それは洋平も感じていた。ごくたまにだが、流川は誰もいなくなった部屋から誰にも何も告げずにいなくなるのだ。今まで花道が発作を起こさなかったのは洋平の方が早く帰っていたからで、洋平もいずれ注意しようと思っていた矢先の今回の出来事だったのだ。
「さあな。まだオレ達のやり方に慣れてないんだろうさ。なかなか難しいだろ。もともとあいつは泥棒じゃねえんだから」
「だけどあいつ、オレ達のこと信用してねえ。いつだったかお前が流川の部屋で泥棒働いたとか散々文句言いやがったじゃねえか。オレならああいうことは言わねえよ」
 二人が流川と知りあってまだ一年にもならない。よくお互いを知りもしないうちから同居生活をすることになったのだ。多少の問題が起きるのはどうしようもないことなのだと洋平は殊勝な気持ちで納得していた。花道と洋平とはその頃既に強固な結束を備えた仲間だったから、その二人の間に割って入るのはかなり気を使うことだろう。まあ、流川という奴はそう物事に気を配るような性格でもなかった訳なのだが。
「慣れてなかったんだよ。最近じゃ言わねえだろ?」
「洋平が遠慮してるからだろ? ……オレ、流川は信用しちゃいけねえ気がする。最後の最後にオレ達を裏切る気がする」
「花道……」
 花道の言うことはただの勘でしかなかった。そして、花道の勘はまず外れないのだ。
「洋平は裏切るなよ。洋平だけは」
「ああ、安心してろ」
 人恋しい花道。信用出来ないなどと言いながらも既に流川のことを信頼し抜いている花道。裏切られるのが恐ければ信用なんかしなければいいのに。洋平にとって花道は壊しちゃいけないかよわい硝子細工のようなものだった。
 いつか自分は花道を裏切るのかも知れない。
 誰一人として真に信用することのない自分の自己防衛に、洋平は空恐ろしいものを感じずにはいられなかった。

 真夜中になってようやく帰ってきた流川が見たものは、洋平を押しつぶさんばかりにのしかかって抱きついたまま眠っている花道の姿だった。
 洋平は目覚めていた。そして流川にアルコールで充血した目で笑いかけたのだ。
「遅かったな。食事は?」
「……済ませてきた」
「そうか。今日は絵が売れたから宴会の支度して待ってたんだけどな、遅いかもしれねえって勝手に始めてた。オレこの状態で動けねえから自分でやってくれ。日本酒も焼酎もオレンジジュースも冷蔵庫に入ってる」
「……ああ」
 流川は黙って冷蔵庫を探る。この男には徹底した趣味があって、アルコールといえば日本酒と焼酎を混ぜたものをオレンジジュースで割ったものしか断固として口にしないのだ。海外生活が長いと洋平は以前に聞いたことがあったので、その時はどうしていたのだろうかと不思議に思ったものである。比率にもコツがあるらしく、洋平が適当に作ったものでは流川の口には絶対に合わなかった。
 流川は洋平達の正面に座って、好みの比率で飲物を作り始める。洋平も自分のブランデーをグラスに移して、流川が作りおわったころ、乾杯の形にグラスを捧げ持った。
「乾杯」
「Toast」
 フランス風に短く発音した流川は、好みの味に調節したアルコールを半分ほど一気に流し込む。そのあとグラスを置いて目の前の二人に目をやった。洋平は表情に出さないがあの体勢はかなり苦しいものがあるだろう。
「重くねえか? 布団の方に運ぶぞ」
「ああ、かまわねえよ。たいしたことねえ」
「何かあったのか?」
 珍しくも流川が聞いてくる。あまり人のことに関心を持たないタイプだということは洋平も理解していたから、少なからず驚いていた。
「まあ、ちょっとな。……花道は誰もいない部屋に帰るのが耐えられない奴でさ、今日はオレとお前と二人ともいなかっただろ。見捨てられたんじゃねえかって変な心配しちまって。冷静に考えりゃそんな事あるはずねえんだけど、そういう常識が通用しねえんだ、こいつは」
 流川も驚いていた。花道はいつも誰よりもうるさくけんか腰だった。まさかそんな弱い部分を持っているなどとは思わなかったのだ。よく考えればそんな花道の行動も不安の表れだったのかも知れない。
「銃のブローカーに会ってた。この間水戸に見せた銃の改良版が出たって話で」
「お前、まだオレにあの銃持たせようとしてるのか? オレには必要ねえって言っただろ?」
「今度のはスタンガンだ。指紋登録のない奴が撃つと高圧電流が流れる。前のだと構えた位置によっては相手の身体に弾丸が入らねえ事もあるけど、今度のは確実に相手を倒せる。まあ、たぶんショック死はしねえだろうけど」
 銃の話になるとなぜかこいつは饒舌になるよな、と洋平は思いながら、早いところ話を変える必要性をも感じていた。
「泥棒には無用の長物だ。それより見ろよ。花道が調べてきたフォックスアイの写真。けっこうきれいに撮れてるぜ」
 洋平が放った一枚の拡大写真を流川は目を見開いて凝視した。ほぼ実物大の二倍にまで拡大されている。こんなにきれいなカラー写真を見るのは流川も初めてだったのだ。
「どうしてこんなもの手に入れた」
 僅かに感激の声が含まれている。洋平は理由もなくほんの少し嬉しくなっていた。
「花道の情報屋ってのがよ、写真の現像なんかやる工場でアルバイトしてるんだ。陵南署の奴もドジでさ、検証写真やら何やらを外部の現像所に出すんだ。こいつは三日前に出されたフィルムに入ってた。どうやら湘北署は陵南署と合同で捜査してるらしいぜ」
 さすが本職の泥棒である。暇を見て流川が調べた屋敷の見取図などもそれなりにかなりの出来だと言えるが、人脈という点ではまだまだ流川に勝ち目はないだろう。
「そいつは信用できるんだろうな。桜木の情報屋なんだろう?」
「お前が花道とオレとどっちを信用するかは判らねえけどな。オレもそいつのことは一通り調べたよ。別に変な奴じゃねえ。あっちゃこっちゃで情報ふりまいちゃいるが、大金ふっかける訳じゃねえし、花道には一番安心な奴だ。……抜かりはねえよ」
 いろんな意味の照れ隠しもあって、流川はついと立ち上がった。テーブルの反対側に回りながら言う。
「やっぱこいつは部屋に転がしとく」
 そう言って花道の肩に手をかけたとき、ふいに花道は呻いて洋平にしがみついたのだ。
「……」
 花道がなにかを呟く。その目に一筋の涙が流れるのを、二人は呆然と見つめていた。
「 ―― かあちゃ……」
「……花道。そんなにしがみつかねえでも大丈夫だよ。オレはここにいるから」
 夢でも見ているのだろうか。花道は決して洋平から離れようとはしなかった。流川も諦めてもとの自分の席まで戻ってくる。その目には今まで花道に向けたことのないほどの哀れみをたたえながら。
「流川、オレも花道のこと全部知ってる訳じゃねえ。出会う前の過去のこともこいつがたまに差し障りのねえ事話すの聞いただけで、ほんとの事情とかはぜんぜん判んねんだ。だけど、こいつはこいつなりに回りに歪められて育ってる。そういう奴の気持ち、お前になら判るだろ?」
 歪められ、普通じゃない環境に置かれて否応なしに殺し屋になった。子供だった自分に選ぶ自由はなかった。その気持ちは流川も等しく持っている。
「だからさ、判ってやって欲しい。花道は一人の部屋には帰れない。どこかに出かけるときは前もって教えてくれ。そうしたらオレが花道の側にいてやるから」
 いつか、遠い未来に、洋平は花道を裏切るかも知れない。もしもそんな時、たった一人でも花道を判ってやれる奴が側にいたら、洋平も救われるだろう。いつか自分は誰かを裏切るだろう。それは洋平の歪みがもたらした予感だった。心の底から誰かを信じることが出来ない自分は、もしかしたら花道よりもずっと弱い存在なのかも知れない。
「……判った」
 小さく答えた流川に、洋平の心の重荷は少しだけど軽くなったような気がしていた。

 次の日、三人は自分達の調べた資料を持ち寄って、作戦を立て始めていた。
 三人が三人とも言ってみれば自信過剰の塊である。この作戦の段階で意見の食い違いが生じるのは過去数回の盗みの時にさんざん経験したいわばおなじみのシチュエーションだ。
「……だからよ、塀を越える前に送電線撃ち抜いたらあとあと困んだよ。別にてめえの腕信用してねえ訳じゃねえって。時限式の小型爆弾使うのがベストだろ」
「だけどそれじゃオレのライフルの出番がねえ」
「なくたっていいんだ。できるだけドンパチは避けるってのも作戦の一つだろ」
 高頭邸の壁を越えるだけでこの調子である。もちろんワガママを言うのは流川だけではない。
「何でオレがこんな重いもん背負うんだよ。流川にやらせろ流川に!」
「てめえには力仕事がぴったりだろ。流川じゃこの役は役者不足だ。途中でへばられたら困るのはお前だぞ、花道」
「何でオレだけ……」
「期待してるぜ、天才」
 なだめたりすかしたり、あらゆる手管を使って仲間達をその気にさせる。作戦参謀洋平の真価が問われる時である。彼らにとっての作戦会議とは、つまるところ自信過剰男達が全面に押し出すワガママとの戦いなのだ。
「 ―― OK。それじゃ電子機器と爆弾はオレが調達して来るから、花道は重機関係の方頼む。便利屋の高宮知ってるよな」
「おお」
「繋ぎつけとくからブツだけ運んでくれ。言っとくけど目立つなよ」
「おう! まかしとけ!」
「流川は湘北署に行ってレッドフォックス対策本部に盗聴器仕掛けてくれ。言った通りにやりゃ簡単だ」
「判った」
「そんじゃ第一次作戦会議終了。あと一週間しかねえからな。そろそろ作業服とか用意しとけよ」
 洋平の終了宣言のあと、流川はフォックスアイの写真を手にして近づいて来る。洋平は資料をファイルに片付けながら、ふと顔を上げた。
「どうした?」
「今回の仮面、オレのはこの形にしてくれ」
 仮面の製作もこの洋平である。画用紙にマーカーペンは予告状と同じだ。
「いいぜ。……花道はどうする?」
「何が」
「仮面だよ。流川とお揃いがいいか?」
 花道はおもいっきし不機嫌な顔をした。
「ケッ! だれが! そんなダッセーのごめんだぜ。いつもの赤と黒にしてくれ」
 この言葉に、流川もいささか不機嫌になる。しかしその表情はピクリとも変わらなかったが。
「てめえにはこのよさは判らねえ。どあほうが」
「んだとルカワ! てめえこそこんなもんにシュウチャクしやがってどあほうじゃねえか! だいたいてめえが欲しいって言うからオレ達は……」
「花道!」
 それを言ったらおしまいだ。流川も意地っ張りだから、花道に頭を下げてお願いなんて絶対にしないだろう。そうなれば花道も並の意地っ張りじゃない。カツ丼三か月分の契約を突っ撥ねてやめると言い出すに違いなかった。
 昨日の今日で花道は洋平には立場が弱い。それ以上は口にせず、うらみがましい視線を洋平に向けた。
「洋平……」
「流川もだ。お互いの好みをどうこう言ってもしょうがねえだろ。聞いたオレもバカだったけど、そんなしょうもねえことでケンカなんかすんな。時間もねえ」
 普通ならもう少し文句も出るところだろう。だが、流川はもともと思ったことを口にも表情にも出さない男だった。くるりと背を向けて、上着と器具とをそのがっちりした両肩に背負った。
「行ってくる」
「おお。くれぐれも無理すんなよ。こっちでちゃんとモニターしててやるから安心してな」
「ああ」
 今回初めて盗聴器設置という大役を流川一人に任せることで、ちょっぴり不安な洋平である。だけどこれから流川が泥棒を本職にするという決意がある以上、通らずには済まない道でもある。まるで子ギツネに一人で狩をさせる母キツネのような心境で、洋平は流川の背中を見送った。しかし、そんな感慨が長く続くはずもない。ドアが閉まる音が響いた瞬間、花道は大声で洋平の静寂を破った。
「あーっ! 腹の立つ野郎だあいつは! 洋平、あんな奴の首さっさと切っちまってまた二人でやらねえか? いいじゃねえか、レッドラビットで」
 赤いきつねも相当なネーミングだが、赤いうさぎにもかなり笑えるものがある。
「そういうわけにはいかねえよ。忘れてねえだろ、花道。そろそろ一年になる」
「あん時の借りならもう十分返しただろ。こんだけ稼がせてやったんだ。いまさらあん時のことなんか言わせねえ。オレ達はあいつにそれだけのことはしてやったんだ」
 初めて流川と二人が出会った日のこと。洋平はその時の一瞬一瞬を記憶している。花道は借りだと言ったが、洋平はそうは思っていなかった。仲間になる前の時点で既に差引きはゼロだったと思っている。洋平は借りがあるから流川を仲間にしたのではないのだ。いつのまにか洋平は流川をたいそう好きになってしまっていたのだ。
 腹の立つこともある。喧嘩もする。それでも今が楽しいと思えるのは流川のおかげだったかもしれない。
 花道も生き生きしている。本人は気づいていなくても、花道自身も流川のおかげで生活に張りが出ているのは言うまでもないことなのだ。
「花道、流川はもう仲間だろ。あんま仲間を裏切るような事言うなよ」
 時々洋平は意地悪だな、と、花道は思う。もしも流川と自分とが決別したら、洋平はどちらを選ぶのだろう。
 それを洋平に聞くのがちょっと恐くて、花道は自然に無口になっていった。

 赤木晴子は交通課の婦警さんである。婦警さんといえばなんといっても駐車違反の取締りというイメージだが、もちろんそんなことばかりをしているわけではない。ちゃんと署内で事務的な仕事をするときもある。名前でも判るとおり彼女は捜査課長の赤木剛憲の妹で、今日は久しぶりに捜査課の方に赴いていた。早朝出勤のため間に合わなかった弁当を届けるためである。
 ドカベンの入った風呂敷包を片手に持ち替えて彼女がドアのノブを開けようとしたとき、内側からドアが開いて、一人の男が顔を出していた。
「あ、すみません」
「……」
 そのずいぶん高い位置にある顔を見ようと晴子が顔を上げると、その瞬間、彼女はドキッとして凍りついていた。
 長く額にかぶさった前髪。細く切れ長の目にはきれいにそろった睫毛。すうっとした流れるような眉と、筋の通った鼻。そして、その唇はまるでなにも語らぬと決心でもしているかのように固く閉じられている。
 晴子は一目で恋に落ちていた。それを一般的に一目惚れという。
 男の方は晴子になにも感じるところはなかったらしい。まるで顔を隠すように帽子を深くかぶり、そのまま歩き去ってゆく。晴子は呆然とその後ろ姿を見送っていた。開け放したドアの中から赤木が声をかけるまで。
「おお、晴子。弁当か?」
 兄の声に我を取り戻して、ようやく晴子は笑顔をみせていた。
「あ、そうなの。彩子さんこんにちは」
「あら晴子ちゃん、久しぶりね。お元気?」
「ええ、とても。彩子さんも一段とお美しくなって」
「あらやだこのコったら。いくらほんとのことだからって」
 女の子はこういう会話が好きらしい。特にあこがれの男性の前ではその傾向は顕著である。
「はい、お兄ちゃんお弁当」
「コラ、職場では課長と呼べ」
「はーい。……ところでお兄ちゃん、さっきの人誰?」
「課長だ!」
「電話屋さんのこと?」
 しつこくこだわる赤木の代わりに彩子が答えた。赤木もあきらめて話に参加する。
「電話?」
「捜査課の電話の調子が悪くてな。修理屋を呼んで修理させたんだ。何だか判らん事を言ってたぞ。外線電話のチップの一つがどうとか……」
「なになに晴子ちゃん。ひょっとしてああいうのが好み?」
「やだ、彩子さんたら……」
 またまた話からはじき出された赤木は、照れ隠しのように掲示板に貼られたレッドフォックスのモンタージュ写真を眺める。そういえばあの電話屋はずいぶん背が高かったな。レッドフォックスのメンバーの二人と同じくらいか。最近の若者の平均身長は上がったらしい。
「でもあのタイプはやめといた方がいいわよ。女の子に興味があるような感じじゃないもの。……まあ、見てくれは確かによかったけどね。どうみてもあれはオタクよ。オ・タ・ク」
「……そうなの? どうして?」
「だってすごいのよ。修理が終わったかなあ、と思ったら、なにしたと思う? 電話器拭き始めたの。『自分は電話器が汚れてるのが耐えられない質なんです』ですって。すっごい形相で拭いてたわよ。見てごらんなさいよ。まるで新品同様」
「……ほんと。ピカピカ」
「ここまできれいにされちゃうと迂闊に指紋もつけられないわよ。電話器オタクかしらね。まあ、ともかくあきらめなさい。どっちにしても変人には違いないわ」
「交通課の電話も直しに来てくれないかしら」
 いっこうに諦めた様子のない晴子に、彩子は肉眼では判らないほど微妙なほほえみを浮かべた。恋は障害が多いほど燃え上がるもの。名前も判らない電話屋さんともし再会でもできた日には、晴子の恋は本物になるだろう。
 赤木の方はそんなものには頓着しなかった。それでも多少遠慮して、二人の話がとぎれたのを見計らって声をかける。
「そろそろ魚住達が帰ってくるころだ。彩子、会議室の方の準備頼む」
「はい、課長」
「晴子はもう帰れ。交通課も暇じゃないだろう」
「はい、お兄ちゃん」
「課長だ」
「はい、お兄ちゃん課長」
 やがて ――
 しばらくしてはじまった会議の様子は、流川がオタクと言われながらも必死で取り付けた盗聴器によって、しっかりレッドフォックスのアジトにモニターされていた。

 その夜、レッドフォックスのアジトが『電話器オタク』の話題で盛り上がったのは言うまでもない。


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