フォックスアイ
レッドフォックスの秘密のアジト ―― というほどのものでもないが ―― でそんな会話が交わされた数日後、湘北署に初めての予告状なるものが郵便で配達された。それも料金未納の附箋付きである。善良なおまわりさん達の中でより立場の弱かったペーペー刑事が郵便局に出向いて料金を払ったのはいうまでもない。
ついでに仕分けと配達係の郵便局員の指紋をとらせてもらい、それを封筒に残された指紋と照合する。うわさ通り全て手書きの予告状であるというのに、ものの見事に指紋も唾液の血液型反応もでなかった。敵ながらあっぱれというところであろうか。
すぐにレッドフォックス対策本部が湘北署に設けられた。本部長は捜査課長の赤木剛憲である。その容貌はどことなく例の動物に似ていた。
「課長、どうします? このふざけた予告状」
赤木の机に熱いお茶を運びながら問いかけたのは、捜査課の紅一点、彩子女史である。自他ともに認める美貌と(他よりも自の方がより評価が高いのは自明の理と言わねばならない)そのはっきりとした性格はまさに職場の華。地域住民の湘北署に対するイメージアップが効を奏しているのは主に彼女の才覚によるところが大きい。そしてその言葉の辛辣さも彼女の魅力であると言っては言い過ぎであろうか。
「そう馬鹿にしたもんでもないぞ。事実陵南署は四回もしてやられてるんだからな」
「ふざけてますよ。だいたい何ですこの赤いきつねって。そのうち緑のたぬきも現われるんじゃないかしら」
彩子女史の言葉の最後の方は赤木課長によって黙殺された。レッドフォックスの盗みは売名行為の要素が大きい。類似の犯罪を防止するためにもできるだけ迅速に逮捕するのが警察組織の特務なのだ。
「ともかくこれまでのレッドフォックスの資料を陵南署に提供してもらわねばならんな」
「資料だけ簡単に渡してくれると思います? 相手は魚住課長ですよ」
資料だけでは済まないだろうな、と赤木は思う。口だけでなく顔も出してくることだろう。もしかしたら指揮権を渡せと言い出し始めるかも知れない。赤木にとっては頭の痛いところである。
「まあ、気はすすまんが電話してみることにしよう。万が一ということもある」
赤木の期待する〇.〇一パーセントの確率は、今回は彼に振り向いてくれる気はないようだった。
それから数時間後、湘北署に設置されたレッドフォックス対策本部は人口が二倍に膨れ上がっていた。赤木が憂慮したとおり、陵南署のレッドフォックス対策本部が大挙して押しかけてきたからである。
本部に集合したのは総勢十六人ほどになっていた。内訳が半々であるのがせめてもの救いであるかも知れないと赤木などは思う。コの字型に並べられた会議用の机の上にはコピーされた資料の山が既に配布されている。黒板の前に説明役として立った人物は、陵南署の池上というオールバックの男だった。
「 ―― というのがこれまでの事件のあらましであります。次にレッドフォックスのメンバーについてですが、これについては前回のレンブラント盗難事件でかなり有力な手がかりが得られました。お手元の資料をご覧ください」
澱みのないいい声である。若く見えるがこれでも赤木や魚住と同期であるというから不思議だ。
「屋敷に設置されておりました高感度のマイクがとらえた彼らの肉声がテープで残っております。会話は資料に載せてあるとおりです。ご希望の方にはあとでお聞かせしますが、この資料を作成したわが捜査班の勇気ある刑事は現在難聴で入院中です。なにしろあのものすごい非常ベルのなかから僅かな肉声を拾い出しましたもので」
そのジョークには誰も笑わなかった。ジョークのセンスのなさは赤木といい勝負かも知れない。
「エー、まあ、その優秀な刑事によって彼らの呼び名とその役割について解明するに至った訳であります。その問題のテープはいま専門家の手によってコンピューターでベルの音を消す作業を行っております。時間はかかるそうですが声紋をとることも可能だそうです。ともかく、我々陵南署捜査班全精力を注いで作成したモンタージュ写真をここに掲示してあります。ご覧ください」
黒板に貼り付けられたモンタージュ写真は、仮面を付けているせいもあって一同の笑いを誘った。もしも本人達がこの写真を見たら三人が三人とも『本物の方が百倍はハンサムだ!』と怒り出したことだろう。その真偽は別にしても、あまり出来のいいモンタージュとはいえなかった。
「まず一番左の男が通称フォックスであります。身長は百八十五センチから百九十センチ。やや筋肉質でスポーツマンタイプです。彼は銃の担当で腕はかなりのものです。ライフルの薬莢にも指紋を残さないあたりはその道のプロだと思われます。
次に真ん中の写真の男は通称レッドです。身長は同じく百八十五センチから百九十センチくらい。体格もフォックスに酷似しております。一番の特徴は赤く染めた髪の毛で、これが名前の由来かと思われます。役割についてはよく判りませんが、おそらくはその体格を活かした一番の実行犯ではないかと思われます。前回の事件で絵画を運んだり我々に催涙騨を投げつけたのがこの男です。
最後に一番右の男が通称ラビット。身長は百七十センチ前後で中肉中背。会話の内容から察するに作戦参謀ではないかと思われます。……以上が我々陵南署捜査班が知り得たレッドフォックスのメンバーの全貌であります ―― 」
池上の言葉はまだ続いていたが、赤木は誰にも気づかれないように深い溜息を一つついた。ところどころにしつこいくらいにちりばめられた自署自慢の数々が耳についてどうにもならない。どれだけレッドフォックスの内情が解明されたか、それが自分達のここ数か月間の努力の結晶なのだと声を大にして叫んでいるのと同じである。どれほど内情が解明されようとも未だに捕まえられないのは明らかに陵南署の失態である。この一種憐れにも思える自慢話さえなければ会議の時間が三十分は縮まるだろうと思うと怒りを通り越してなにやら情けなくなってくる赤木であった。
やがて一通りの質疑応答が済み、ニコチン中毒の刑事たちは環境のよい食堂に散らばりはじめた。残ったのはたばこを吸わない赤木に魚住、そして彩子女史と先程まで説明を担当していた池上の計四人である。赤木は自ら敬意を表するつもりで魚住の所まで足を運んだ。その表情は固く、先程までのちょっとした怜憫の感情などおくびにも出さない。
「本日はわざわざ湘北署まで足を運ばせてしまって申し訳ない」
「いや、今日の日までレッドフォックスを逮捕できなかった我々の落ち度だ。予告状の日までは悪いが間借りさせてもらう。もちろんできる限りの助力は惜しまないつもりだ」
この二人、実は警察学校時代の同期生である。が、もちろん親友などという心温まる関係ではなく、しのぎを削り合ったライバル同士であるのだが。
魚住は一種ライバル意識むき出しのようなところがある。赤木はそんな魚住と対峙すると、必ずと言っていいほど胃の調子が悪くなるのだ。
「おまえがてこずるほどの大物なのか? レッドフォックスは」
赤木は自分では尊敬の意味を込めたつもりの科白だったのだが、魚住の方はその言葉を皮肉と取った。むっつりと表情を変えて言う。
「赤木、おまえなら簡単に捕まえられるかも知れん。その手腕、とくと見せてもらうつもりだ。今後の参考にでもな」
脇で彩子女史がこれみよがしに溜息をついた。自分の上司が魚住でなくこの赤木であることに感謝するとともに、ここまで言われて黙っていられるか、との意思表示も交えて。そしてそのまま部屋を出て行く。先程から池上が喉の乾きを視線で訴えかけていたからである。
「まあ、オレにどうできるか判らんがな。ともかくよろしく頼む、魚住」
やれやれ難しいものだ、と、赤木は思った。これから先がおもいやられるというものだ。
ともかく、この同期の魚住のためにも自分の健康のためにも一刻もはやくレッドフォックスを捕まえようではないか。
赤木は溜息のうちにおおいなる決心を固めたのだった。
そんな、警察組織がレッドフォックスについてかなりの情報を入手するに至った事件から数日後、洋平はリビングルームでブローカーからの電話を受けていた。洋平が肌身離さず持っている携帯電話の番号は信頼に足る人間にしか知らされていない。絵画専門のブローカー大楠雄二はその一人だった。
「……それってちょっと値切りすぎじゃねえの? 盗品とはいえ光の画家レンブラントの絵だぜ。もうちっと色つけてくれてないとレンブラントが墓場からうらめしやーって出てくるかもよ」
洋平の隣では流川が所在なく立ちつくしている。どうやら洋平に話があって部屋から出てきたところ、電話中の洋平にまったをかけられたようだ。
「……判った。その値段で手を打つ。待ち合わせ場所指示してくれ」
洋平は待合せの日時と場所をすばやく記憶すると、
「それじゃあ頼むぜ。いつものとおり現金払いだ。小切手なんか持ってきたら承知しねえぞ」
と捨て科白を吐いて、ようやく電話は切れた。
「待たせたな、流川」
「絵は売れたのか?」
「おお。……まああんなもんだろ。あいつは何だかんだ言っちゃいつもけっこう値切るからな。今回は割とまともな方さ」
「どうしてそういう奴に売るんだ? もっと高く買ってくれる奴に鞍替えすりゃいいじゃねえか」
レッドフォックスを結成するまで、流川は泥棒稼業というものをしたことのない男だった。最初のころはなにも判らずただ洋平や花道について自分のすべきことだけをきっちりやってきたのだが、このところだんだん泥棒というものが判りかけてきて、ブローカーというものがどういうものなのかも判ってきたところである。そんな流川の質問はとても素朴で、洋平は思わずにっこりと笑った。
「確かにな。ブローカー同志で鎬削ってるようなとこもあるから、もっと高く買おうって奴もいるかも知れねえよな。競争させりゃかなり値段も上がるだろうし」
洋平はこの業界のプロである。いわば畑の違う流川が泥棒というものに目覚めつつあるのは、洋平には最高に嬉しいことだったのだ。
「だけどブローカーにもいろいろいて、詐欺まがいのや悪魔に身体半分売り渡してるのやらがけっこう多いんだ。大金で誘い込んでうしろからズドンみたいなのがさ。その点あいつは安心だ。信頼できる」
「どうしてそれが判る」
「妙な後見がついてねえ。仲間うちに顔も売れてる。……多少金ばなれは悪くてもそういう奴の方が長い目で見りゃ得なのさ。そのうちお前にも判るよ」
泥棒の世界も案外奥が深いものだな、と流川は思う。もちろんどこの世界でも奥の深さにたいした違いはないのだが。
「ところでなにか話があったんじゃねえの?」
流川はテーブルの上にぶあついカタログを広げて一点を指差した。銃身が長く奇妙な形をした銃の写真がある。
「何だよ」
「これが欲しい。経費で落とせねえ?」
「欲しけりゃ自分のポケットマネーで買えよ」
だいたい経費なんて言葉は国家に税金を払うようになってから使うべきである。ちなみに彼らは自らの収入からは一円の税金も納めていないのだ。
「命中率はかなりいい。その分殺傷力は押さえてる」
洋平が知るかぎり流川の銃の腕はかなりのものだ。いまさらどうして命中率重視の銃を欲しがることがあるだろう。洋平が無言で首をかしげていると、流川は続けて言った。
「トリガーに指紋解析の機能がついてて、あらかじめ指紋を登録した人間でないと扱えない安全装置がついてる。もし銃を奪われて危険に陥っても、相手が撃ったとたんに逆向きに弾が出る仕組みだ。一度に一発しか装填出来ねえが」
流川が銃を奪われるところなど洋平には想像が出来ない。もしも仮りにそうなったところで流川は見事に切り抜けるだけの運動能力を持っているはずだ。
「開発されたばかりの最新式だ。いいと思わねえか?」
洋平は嫌な予感を覚えて流川に問いかけた。
「それ……誰が使うんだ?」
「お前に決まってる。前から思ってたんだ。一人でブローカーに会いに行くのは危ねえ。これさえあればプロのスナイパー以外なら安心できる」
流川が自分の身を心配してくれているのがよく判る分だけ、洋平は虚しくなる。結局流川は泥棒ってものについてなにも判ってないんじゃあないか。
「お前もうちょっと泥棒の世界勉強した方がいいな」
そういうものを使わないで世の中を渡ってゆくのが真の泥棒である。それが泥棒の醍醐味というものなのだ。それを元スナイパーに判らせるのはとてつもなく骨かも知れない。
意味不明の視線を向ける流川を尻目に、洋平は心の中で大きな溜息をついていた。
洋平と流川がお互いに噛み合わない会話を交わしているころ、花道は変装らしい変装もしないで一人の男と会っていた。
花道に比べれば妙に小さな男である。もっとも花道と並んで見劣りがしないのは流川並の体格を持ってる人間に限られるのだが。
「レッドさん、わいに話って何です? ここんとこ忙しくて仕事ぎょうさんたまってんのですけど」
その男は花道の馴染みの情報屋である。ガセネタも多いがときたま重要な情報も持っているのでなかなかに重宝できる。その上この男は情報料の支払いの際ツケがきくのだ。名前を相田彦一という。
「彦一、お前フォックスアイって知ってるか?」
「フォックスアイ? なんや妙てけれんな宝石のことですか? キツネの目を模ったとかいう」
この言い方から察するに、レッドフォックスがフォックスアイを盗みに入るという情報はまだこの男の耳には届いていないようである。花道はまずそのことを確認して、話を続けた。
「それ、どういうものなんだ? 金になるのか?」
「そうですね……お金にはならへんと思いますけど……。外身はともかく中にはめこんだルビーはきれいな代物でっせ。中に銀の粉がキラキラしてて微妙に色が変わるんですわ。最近高頭力って御仁が手に入れたって情報ですけど」
「もっと詳しい話聞けねえかな。あと写真とかもつけてもらえっとありがてえんだけど」
「写真でっか……。高うおまっせ」
彦一は愛用の電卓に金額を表示させて見せる。この辺の取引はお手のものである。花道も両手を叩いた。
「それでいいぜ。ツケといてくれ」
「それじゃ、三日後に」
「おう、頼むぜ」
商談が成立して、花道は背を向けてずんずん足音を立てながらその場をあとにした。
「それにしてもレッドさん、ずいぶんぎょうさんツケためはったなあ。払ってもらわれへんのとちゃうやろか」
独り言をブツブツいうのは彦一の癖である。もちろん回りに人がいないことは確認済みだ。
「どうにもなられへんときにはしかたない、ラビットさんに頼んで払ってもらうしかあらへんな。でもわいあの人苦手やし……。もう少し様子見させてもらいましょか」
写真の現像所でアルバイトをするかたわら情報屋を営む彦一の耳に、どうやら怪盗レッドフォックスがフォックスアイを狙っているという情報が入ってきたのは、それから僅か数時間の後だった。
そして更に同じ頃、警察の威信をかけて赤木は高頭の屋敷を訪問していた。かなり広い屋敷である。ぐるっと高い塀に囲まれ、門から玄関までの石畳が約徒歩五分。屋敷の裏手には純日本風の庭園が広がり、その向こうは植物園さながらの森林地帯になっている。赤木は職業柄警備体制を頭に置きながら散策を済ませ、改めて玄関の呼び鈴を押した。かたわらには助手に彩子女史も伴っている。そして頼みもしないのになぜか魚住と池上までが強引にくっついてきていた。
「先ほどご連絡致しました湘北署の赤木と言います。高頭氏はご在宅でしょうか」
赤木達四人は屋敷の応接室らしき所に通された。一言で言えば趣味の悪い部屋である。壁から鹿の首がにょきっと生えていたかと思うとどこぞの原住民の民族土産のようなものが多数置かれていたりする。そうかと思えば反対側にはルネッサンス時代の絵画がきらびやかな光彩を放っていたりして、統一性というものがまるっきり感じられない。赤木達はなにやら落ち着かない気分でこの屋敷の主人の登場を心待ちにしていた。
それでもさほど待つことはなく、隣の部屋のドアから高頭が顔を出したのは、四人が部屋に通されてから僅か五分程度のころだった。高頭はにこやかに登場したから四人も立ち上がって高頭を迎える。
「お忙しいところをご苦労だね。私が高頭だ」
高頭はおそらく四十代も後半にさしかかろうという年齢にもかかわらず、その物腰にはどこか若々しさをただよわせていた。若いころになにかスポーツでもしていたのだろう。その年齢にしてはかなりの長身と、背広でよくは判別出来ないが隆々とした筋肉を持っていた。顔を見なければ三十代半ばの男だと思ったことだろう。
赤木は警察手帳を見せながら丁寧に挨拶を交わした。
「湘北署の赤木と申します。こちらが陵南署の魚住です。今日お伺い致しましたのは湘北署宛に盗難の予告状なるものが参りまして……」
「ああ、説明は構わんよ。うちにも先日届いたところだ。いたずらだろうと特に気にもとめてなかったがね。見るかい?」
話が早いのは赤木にも歓迎すべき事態だったので、高頭が引き出しをあけて予告状を取りだそうとしたところを手で制してハンカチを使ってビニール袋に用心深くしまった。
「一応鑑識に回して指紋を取らせていただきます。失礼ですがこれに触った方の指紋もあとで取らせていただければ」
「もちろん協力させてもらうよ。私も一市民であり納税者でもあるからね。税金を有効に使ってもらいたいのは私も同じだ」
魚住が青筋たてて顔を赤くする。過去四回に渡ってレッドフォックスを取り逃がしてきた魚住には堪える言葉である。
「ご協力感謝致します。では、さっそくですが例のフォックスアイという宝石を見せていただけますでしょうか」
高頭はうなずいて、二番目の引き出しをあけた。そこには無造作にフォックスアイが納められていて赤木の驚きを誘う。高頭はごく微細な注意も払わずにそれを持ち上げて、テーブルの上にキルティングの敷物を敷いたあとその上にとんと乗せた。その敷物もフォックスアイの保護というよりもどうやら杉の一枚板のテーブルへの配慮らしい。
「これが、例の……」
四人はそれぞれに注意深く興味を持ってその宝石を見つめた。ハトの羽を広げたような形の外枠はどうやら仮面を模ったらしく、簡単な細工がしてあり銀製だった。だがその銀も長いあいだの侵食によってかなり黒ずんでいる。そしてちょうど目の位置に当たるところに填め込まれたルビーは、外側に比べればずいぶんきれいな色をしていた。しかしよく見るとそのほぼ中央に光の加減で何色にも見えるような不純物があって、キラキラしてきれいなものの宝石としての価値はそれほどないように思われた。赤木たちが無言でなにか言葉をさがしていると見て、高頭はそれを助けるように言った。
「見て判るとおり、この宝石には価値という価値はないよ。宝石としての価値はね。ただ、フォックスアイの価値は持つ人間が決める。私にはなかなか魅力的な宝石だ」
それにしては扱いがぞんざいだな、と思いながら、赤木は尋ねる。
「時価数百万と窺いましたが」
「たしかに私は三百万でこれを買ったがね。ほとんど修道院への寄進のつもりだ。一応私もカトリックなのでね」
カトリックの人間が鹿なんか飾るかしらね、と彩子は思ったが、もちろん口に出したりはしなかった。
「これはいつもこの引き出しに?」
「たいがいはここに置いてるが、眺めていたいときにはベッドルームに置いたり様々だね。まさか盗まれるようなものとは思わんからな。とりあえず予告状の日が過ぎるまでは諦めて金庫に置く事にしよう」
「そうしていただければ助かります。では、警備の点についてはまた後日ということで。……写真を何枚か撮らせていただけますか?」
「構わんよ。好きにしなさい」
池上が使い捨てカメラでもって写真を撮り始め、彩子女子が指紋の採取などを始めると、ようやくそこは四人が馴染んだ現場の雰囲気を取り戻していた。高頭は警察にとってはまさに理想の人物で、聞きたいことは全て話してくれるなかなかに奇特な男だった。さして時間もかからずに初日の作業を終え、四人は次のアポイントを取って屋敷をあとにする。玄関を出たとき、赤木は言った。
「魚住、お前は今までレッドフォックスと対峙してきたんだろう。どう思う、例の」
魚住にとって高頭との対面は不本意な面が多かったらしく、そのしかつめらしい顔を更に不機嫌で彩っていた。
「なにがだ」
警察学校からのライバル同士であるこの二人は、なにかにつけて競いあうようなところがある。どちらかと言えば先につっかかってゆくのはこの魚住なのだが。
「盗もうと思えばあの警備状況なら予告状を出さずにいた方が楽だっただろう。そういう単純なことすら判らんような連中なのか? 赤いきつねは」
そういう言い方をされるとまるで自分が馬鹿にされているような気がする。魚住は更に輪をかけて不機嫌になりつつも、赤木の質問に答えようとした。その時。
「アヤちゃん!」
ちょうど門から入ってきた男がこちらに気づいたと同時に叫んだのだ。四人ともはっとしてそちらを見る。やや小柄なその男は満面の笑顔をたたえてこちらに走って来るところだった。
「……リョータ?」
彩子のつぶやきに赤木が問いかけようとするところ、そのまもなく男は彩子に飛びつかんばかりにまくし立てた。
「こんな所でアヤちゃんにあえるなんて! オレがどんなに君を思っているのか判ってただろうに君は勝手に警察になんか行っちまってオレがどんなに悲しんだことか。それでもまさかこんな所で再会できるなんてやっぱオレとアヤちゃんとは運命の赤い糸で結ばれてるんだ。きっとそうだ」
「誰だ、こいつは」
涙を流さんばかりに感激する男を横目で見ながら、彩子は溜息をついた。
「宮城リョータっていいまして、高校時代の同級生なんです。何がいいのか昔っからこの調子で」
「その冷たい言い方。変わってないねアヤちゃん! 何か昔より数倍美人になったし」
なるほど、この宮城リョータは彩子に惚れているらしい。それにしてもどこがいいのか、ここ数日で彩子の毒舌のえじきになりつつある魚住などは不思議に思うところだ。
「リョータ。あんた今何してるの?」
「よくぞ聞いてくれました。オレね、いま私立探偵してるんだ。ご用の節は事務所までよろしく」
と言いながらあざやかに名刺を取り出す。彩子は反射的に名刺を受け取っただけだったが、赤木は別のことを思って言った。
「君は高頭氏に呼ばれたのかね? どんな用事で」
「知りませんよ。まだ話聞いてませんし。それに依頼人の秘密を守るのは我が宮城総合事務所のモットーですから、たとえ警察の方と言えどもあかせません」
当然だと赤木は諦めかけたが、今回は彩子の方が一枚上手だった。
「ねえ、リョータ。今夜にでも夕食ごちそうしてくれない? 考えたら卒業以来だもんね、積もる話もあるし」
「え? ホント?」
「いろいろ聞かせてくれるとうれしいわ。特に今の仕事のことなんか」
「アヤちゃんの頼みをオレが断わる訳ないでしょう? 何時にどこ?」
「そうね、仕事が終わるころ。この番号に電話すればいいんでしょう?」
彩子の目配せにうなずきながら、この探偵については彩子がいろいろ情報を仕入れてくれそうだと思って、赤木はいくぶん気分が楽になっていた。
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