FINAL QUEST 1
3
ひとり旅が再び二人旅になり、街道を先へと歩き続けて、やがて一月になろうとしていた。旅人のために整備された街道である。ここでは魔物の心配はほとんどなかった。南東の首都に向かって伸びる街道を二人は途中でそれ、環状に街道同士を結ぶ脇道に入った。しかしそこも旅人がひっきりなしに往来する道である。特に何事もなく、二人は至極安全な旅を続けていた。
やがて別の街道に入り、そこからようやく自治領へ続く山道を歩き始めた。しかし途中に設けられた関で、それ以上先へ行くことを阻まれたのである。
「この先は自治領だ。誰も通す訳にはいかないんだよ。もちろん子供でも大人でも同じだ。そのくらいのことは判るだろう?」
「だけどオレ、人を捜してんだ。どうしても行かなけりゃならねんだ」
「人って、この先にはぼうずの知り合いはいないよ。オレは長いことこの関所にいるが、ここ一年ばかし誰も通した覚えはないからな」
「だけどほかにも関所はあんだろ? そっちを通ったかもしれねえ」
「あいにくだが、関所はここだけだ。自治領は三方を山に囲まれてて、道を作れるのはここだけなんだ。判ったらおとなしく帰りな」
「だけど山登りの得意な奴なら……」
「無理だ! 空でも飛べりゃ話は別だが、そうでもなけりゃ越えられるような山じゃない! 疑うならやってみろ」
「……やっぱダメだ花道。諦めようぜ」
しぶしぶ、引き返さざるをえなくなっていた。とりあえず麓まで行って、その村で宿をとって考えることにして山をおりた。通行手形がないのだ。しかし手形があったところで通れるかどうかは怪しいものなのだが。
洋平が関所を通っていないのは事実だろう。だが、花道はまだ疑っていた。この一月余り、花道はずっと自治領へ行くことだけを考えていた。だからなのかもしれない。洋平の行方を捜すのに、自治領は行かなければならない絶対の場所のような気がしていたのだ。
洋平はもしかしたら空を飛んだかもしれない。洋平は一瞬にして花道を追い越すことができるのだ。空だって飛べるかもしれないではないか。
(洋平はたぶん、人間じゃなかった)
「見えてきたぜ、花道」
高宮の呼ぶ声に視線を向けると、麓の小さな村が眼下につつましやかに広がっていた。おりてゆくと、気温が変わっているのが判る。湘北国内でもかなり南に位置するこの村では、気温が高く、人々はすでに夏の装いだったのだ。
「ここって、お前が育った村なのか?」
「いんや。オレが育ったのはもっと東の、自治領の向う側の村だ。湘北連山の向こうで、陵南王国の領地との境目の方だよ」
「遠いのか?」
「そうでもねえ」
少しだけ、花道は思った。高宮との旅はすでに一月にもなる。そろそろ花道のやっかいごとにつきあうのも飽きたのではないだろうか。元々ただの通りすがりなのだ。もちろん高宮のことは好きだし、信頼もしているし、ずっと側にいてもらいたいとも思うけれども、花道の洋平を捜すという目的のためにこれほどまでに世話をかけるのは、高宮にとってあまりいいことではないのではないだろうか。高宮は言い出せないだけで、本当は自分の育った村に帰りたいのではないだろうか。
「もし、お前が帰りてえとか思ってたら、オレ……」
「ここで別れてもいいぜ、ってか? ……判った。考えとく」
「オレに遠慮なんかしなくていいぞ! オレ、一人でも大丈夫だ」
「だから考えとくって言ってるじゃんかよ。オレは気ままな風来坊だ。ほんとに帰りたくなったら遠慮なんかぜってえしねえよ」
花道はほんとにバカだな、と高宮は思った。一か月、一緒に暮らしていて誰よりも判った。花道が、見捨てられることを心の底から恐れているのだと。
(一人でも大丈夫だとか言いながら、顔の全部が言ってんだよ、側にいてくれって)
本当に洋平とかいう兄貴分が見つかるなら、その時は笑って別れるつもりでいる。だけどそれまでの間は面倒見てやってもいいと思うのだ。年はほとんど変わらなかったし、背は花道の方が大きかったけど、なんか弟ができたような気がするのだ。何にも知らない、生まれたての赤ん坊のような大きな弟が。
「おっと、道具屋だ。火打石の新しいのがあったら買ってくる。ちょっと待ってろ」
「おう」
高宮が言って見つけた道具屋に入っていくのを、花道は見送っていた。そしてしばらく待つと、高宮は少し青い顔をしながら店から出てきたのだ。そして、花道を見つけると腕を絡ませるようにしてそそくさと店から離れる。いぶかしむ花道に、歩きながら高宮はごく小さい声で言った。
「やべえよ、小銭きらしてた。気がついたのが財布ひっくりかえしたあとでよ。ガラの悪いのに見られたんだ。振り向くんじゃねえぞ」
花道にはさっぱり判らない。小銭をきらしていたらなんだというのだろう。おつりをもらえばすむことではないのだろうか。
「くそ! こういうときに限って人が通らねえじゃねえか! ……ああ! まじい追ってきた! 大通りはどっちだ!」
花道には訳が判らず、必死になって道を目で探す高宮の忠告を忘れて後ろを振り返っていた。すると後ろには一人のゴロツキ男がいて、ニヤニヤしながら二人のあとを追ってきていたのである。花道は男と目を合わせてしまっていた。すると男はいったん足を止め、するりと長剣を抜き放ったのである。
「バカ! 目を合わすな!」
高宮は言ったが一歩遅かった。花道にもようやく理解することができた。とはいってもそれは自分達がどうしてその男にあとを追われたかということではなくて、追ってきた男がその長剣をふるう相手を花道達に定めているのだというそのことを、だったのである。
花道も立ち止まっていた。目を合わせてしまった以上、視線の駆け引きで負ける訳にはいかない。それは相手が魔物でも人間でも同じである。隙を見せたら最後、気迫に飲まれてあとは餌食になるだけなのだ。
睨み合いが静寂を生む。数秒間の静寂の中で、高宮ももう人込みを探すことは諦めていた。相手はすでに剣を抜いている。そして、花道も二本の剣を持つ旅人。
「花道、こうなったら仕方ねえ。あいつを切れ」
耳打ちする高宮に、視線は男から外さず花道は答えた。
「オレは剣は使えねえ」
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろ! 相手は人間だがこっちは殺される寸前なんだ。殺す気でかからなけりゃこっちが殺される」
「そうじゃねえ。オレはほんとに剣が使えねんだ」
それまで、花道がいっぱしの剣豪であることを一瞬たりとも疑わなかった高宮は、この時この花道の言葉をすぐに理解することができなかった。しかしそうと理解できたとき、高宮は今の状況がどういうものかを一瞬忘れて、裏切られたような気持ちで一杯になったのだ。
「それじゃお前……この剣はただの飾りか!」
「洋平の忘れもんだ。一本貸しといてやっから自力で逃げろよ。奴が切りかかってきたら振り向かねえで走れ」
花道は手さぐりで外側にあった短い方の剣を高宮に渡した。無意識に受け取った高宮も剣など持ったこともない風来坊である。おたおたと柄を握って格好だけ整えた。そして、相手が体勢を変えて今にも切りかかってこようとしたその時。
一人の剣士が花道の目の前に立ったのである。
それはまるで花道をかばうように。花道に背を向け、剣士は花道の代わりにゴロツキの男と向き合って睨み付けたのだ。男の方も思わぬ加勢に体勢を整え直す。何もしゃべらないゴロツキは不気味だった。そして目の前の背を向けた剣士は、低い声で花道に告げたのである。
「剣を貸せ。早く」
目の前の剣士が花道の代わりに戦ってくれようとしていることを、花道は疑わなかった。黙って腰から剣を鞘ごと引き抜き、背を向けた剣士に手渡す。それは洋平の長い方の剣。多くの魔物の血を吸い尽くした剣。
受け取った剣士は緩慢な動作で剣を抜く。その時の血気迫る迫力は、後ろにいた二人にさえも伝わっていた。その剣の構えには隙がない。相当使える男であることも、二人は悟っていた。
二人以上に向う側に立つ男には伝わったであろう。まるで身体の表面から立ち上るかのような妖気。それがゴロツキに何を思わせたのか。数秒間の睨み合いの末、相手の男は徐々に剣を引き、やがて立ち去っていった。あとに味方の剣士と、花道と高宮の二人を残して。
ゴロツキが去っても、緊張はしばらくは解けなかった。やがて目の前の剣士がゆっくりとした動作で剣を鞘に収める。そして、あろうことか膝が崩れるように前に倒れ、両手をついたのである。二人は驚いて剣士に駆け寄り、汗びっしょりのその口髭顔を初めて見て更に驚いたのだ。
「……やばかった」
剣士のその一言で、ようやく緊張の糸が解れていた。高宮などあからさまに大笑いして剣士に言ったのである。
「なんだよお前、見かけの割にずいぶん肝が小せえじゃねえかよ!」
その高宮の言葉に、憮然として剣士は立ち上がった。まるで不当な貶めを受けたのだと言わんばかりに。
「ありがとう。おかげで助かったぜ。オレ、花道。お前は?」
友好的な花道の言葉に、剣士もいくぶん気分を取り直して言った。
「忠一郎だ。……旅人か?」
「ああ。人を捜してる。んでもってこっちが高宮」
紹介された高宮も忠一郎を小バカにしたさっきの態度をそれほど変えずに答える。
「花道の保護者みてえなもんさ。……にしてもお前、カッコよく現われたかと思ったら倒れて汗びっしょりだもんな。見かけ倒しは花道といい勝負じゃねえか」
それが本当のことであれば、バカにされても気分こそよくないが黙って受けとめてもいたしかたないのだと思うだろう。しかし忠一郎にもそれなりの言い分があった。別に忠一郎はさっきの男にビビってああなった訳ではなかったのだから。
忠一郎は花道の剣を拾いあげて、そのまま花道に返した。花道は受け取って腰に挿す。それを見届けると、忠一郎は言ったのだ。
「この剣、ずいぶん古いものだな。なのに錆び一つ刃こぼれ一つねえ。たぶん長いこといろんな血を吸ってきたもんだろう」
そう言われても、花道にはよく判らなかった。元々は洋平の剣。だが、知っているだけでも洋平は多くの魔物を切り殺し、最近では人を切った。詳しくは言わず、花道はただうなずくだけにとどめた。
「たぶんこれは魔剣だ。いつごろの時代、誰が鍛えたものかは判らねえけど、かなりの魔力を秘めてる。オレはこの剣を抜いただけで身体に痺れがきた。持ってる間中、血を求める剣と自分の理性とで戦わなけりゃならなかった。本気で負けるかと思ったんだ」
それまで笑っていた高宮も、はっとして面を改めた。ようやく忠一郎がなぜ大汗をかいてああ言ったのかが判ったのである。だがしかし、あの状況で誤解したとしても、責められるものではなかっただろう。
「すまねえ、笑ったりして悪かった」
「わかりゃいいさ」
そう言って、初めて忠一郎は笑った。そうして笑うと、意外に若い表情が覗く。口髭など蓄えているからけっこういい年かと思ったら、もしかしたら二人とそれほど変わらない年齢なのではないだろうか。
「感謝してるなら頼みがある花道」
花道は忠一郎の笑顔にすっかり打ち解けてしまっていた。こちらも極上の笑顔で言ったのである。
「何でも言ってくれ。できることなら何でもする」
「オレの伯父は刀職人なんだ。作るのも好きなんだけど、人の刀を見るのも好きでな、伯父にその刀を見せてやってほしいんだ」
「見せるだけならいいぜ。オレのじゃねえから譲ってくれとか言われたら困るけど」
「フリークだがそのへんはわきまえてる。オレはどっちかっていや刀振ってる方が好きなんだけどな。……家は近くだ。一緒に来てくれ」
「ああ、忠一郎」
「忠でいい」
思いがけず寄り道をするはめになった二人は、この偶然の出会いがやがて二人にとってこれほど有益に働くことになるとは、まるで思いもしなかったのである。
忠一郎改め忠の伯父の本橋は、国王に献上する刀も鍛える有数の刀職人である。その技術を請われ、二十年ほど前に生まれた村を捨ててこの村に移り住んでいた。忠は本橋の妹の直子の息子である。忠の父親は忠が生まれて間もなく魔物に殺されたため、忠は本橋に実の息子同然に育てられたのだ。
本橋は結局結婚をせず、やがては忠を跡継ぎにと考えていた。しかし忠は刀を作るよりも刀を振るう方にばかり興味をもって、剣を競っては腕を上げていった。今ではこの村で忠の剣技にかなう者はいないだろう。高宮はあのとき大笑いしたが、本当に失礼な話で、忠の剣の腕は本物だったのである。
忠が花道達を伴って家に帰りついたころは、すでに日も落ちかかった夕暮れ時だった。そろそろどこの家も夕食の支度の整う時分である。高宮などは当然夕食をごちそうしてもらえるのだろうとの腹を決めていた。
食卓のテーブルについて食前酒を傾ける伯父のもとに、忠は帰りついた。そして二人を紹介していると、さすがに刀フリークであるらしく目敏く花道の刀を検分した本橋の方から切り出してきたのである。
「ぼうず、ちょっとその刀、見せちゃくれねえか?」
「いいぜ。オレも忠に頼まれてそのつもりできたんだ」
腰から引き抜いて、花道は二本とも本橋に渡していた。本橋はまず長い方の魔剣を手にとって、外見から見定め始めた。
「鳥の意匠があるな。珍しい。こいつは鶫じゃねえか」
「つぐみ?」
「ああ。冬の渡り鳥だ。……古いな。だがしっかりした造りで品もいい。どこかの王家の献上品ていってもおかしくねえ装飾だ。……どこの国かな。オレが覚えてるかぎりじゃ、鶫の紋章使ってる貴族はいねえ筈だが」
ブツブツ言いながら刀をひっくりかえしている本橋を取り巻いて、三人の少年はじっと見つめていた。花道は複雑な気分だった。これは洋平の愛用の刀なのである。まさかそんなに豪勢な品物だなどとは思っていなかったから、誇らしくもあり、また少しやっかいな気分にもなっていた。
やがて両手で掲げて刀身を引き抜こうとした本橋に、忠は言った。
「伯父貴、こいつは魔剣だ。気をつけねえと」
「バカを言うな。オレは刀職人だぞ。魔剣に心を奪われて血を求めるようなやわな心根はしてねえ。お前みてえな半人前と一緒にするな」
そう言って本橋は刀を引き抜いた。ランプの明かりの下で、片刃刀が鈍く光る。少し見ていただけで、本橋はすぐに刀を収めた。まるで魔剣の放つ波動に心揺さぶられたかのように。
「魔剣だな。もしも人間の剣士がこれを振り回してたとしたら、いくらもたたねえで自滅してるところだ。こいつを自由自在に操れるのは、よっぽど精神力の強い人間か、魔物だ。花道、これはお前の剣なのか?」
花道はかぶりを振った。そしてつけ加える。
「それはオレの親代わりだった奴のものなんだ。オレはそいつを探して旅してる。一緒に旅してるとき、オレはどうしてもこの剣にはさわらしてもらえなかった。持ってただけで、使ったことはねえんだ」
「使わなくてよかったぜ。これからも使うんじゃねえぞ」
「判った」
素直に、花道は言った。その時、台所で食事の用意をしていた忠の母親が、テーブルに皿を運んできたのである。
「話が弾んでるようだね」
その呼びかけには、忠が答えた。
「花道の剣がすごい魔剣なんだ。意匠につぐみがあしらってあって、珍しいらしいぜ」
「つぐみ……」
母親の声はどこかしら毒を帯びていた。みな不思議そうに母親を見遣る。そんな視線に答えるように、母親は話し始めていた。
「いやね、噂で今じゃ確かめようもない話なんだけど、ちょっと嫌な話を思い出したんだよ。……兄さん、和光村の話」
その村の名前は、花道には初めてだった。しかし高宮と忠は知っている。まるでないしょの話をしているときのように、本橋も少し顔をしかめるようにした。
「和光村って、自治領のことだろ? 自治領がどうかしたのか?」
高宮の言葉で花道も知った。自治領は、花道のとって今一番関心の高い場所だったのだから。
「おばちゃん! オレ、自治領に行きてえんだ。自治領には洋平がいるかもしれねえ。洋平がいなくても、洋平の居場所の手がかりがあるかもしれねんだ!」
「花道、お前、自治領に行きたかったのか?」
忠が言って、再びその場は沈黙に包まれていた。母親と本橋は互いを見つめたまま、互いの顔に何かを求めるような仕種をした。きっと二人は何かを隠している。たぶん、大切な息子である忠に話すべきかどうか迷っている秘密がある。
やがて心を決めたように目を伏せたのは本橋の方だった。
「直子、忠ももう十三才だ。そろそろ話してやってもいいだろ。もしかしたら花道と高宮の役に立つ話かもしれない」
「……そうだね、兄さん。いい時期かもしれないね」
食事の用意が整っていたので、食べながら話をすることになった。始めのころ口が重くなかなかきっかけをつかもうとしなかった本橋も、ようやくぽつりと話し始めていた。
「忠、オレと直子はもとは和光村の出身なんだ」
話はそんな風に始まった。それは忠にとっても初めて聞く話だったのだ。
「それじゃ、親父が死んだのって、もしかしてあのときの……」
「ああ、あのときの魔物にやられたんだ。……客人にも判るようにちゃんと話してやろう。
和光村は自治領にある唯一の村で、神木を守る役目を与えられた一族が住んでいたんだ。その中で、オレは刀を造る本橋の一族、忠の父親は村を守る剣士の野間の一族の者だった。昔は自治領も今とは比べ物にならないほど開かれていたから、湘北王国からは多くの商人が出入りして、オレの造った刀も湘北に多く流れていった。その一本が湘北国王のお目に留まった。それがきっかけで、オレは和光の村を出て、この村に移り住んだんだ」
それは花道にはまったく関係のない本橋の身の上話だった。ちょっとイライラしたものの、花道は真剣になって耳を傾けていた。きっかけは洋平の刀のつぐみの意匠なのだ。いつかそこに辿り着くかと思えば、聞き流してしまう訳にはいかなかったのだ。
「じいちゃん達を覚えてるか? 忠」
「ああ。じいちゃんもばあちゃんも優しかった」
「オレが移り住んだころはじいちゃんもまだ元気で刀を造ってた。だが、直子が野間のところに嫁にいったころから少しずつ身体を悪くし始めて、それをきっかけに和光を引き払ってこっちに移り住んだんだ。和光村は季節が厳しいからな。そのうち直子がお前を身篭って、和光の寒い冬を身重の身体で過ごすのも酷だ、子供は暖かい麓で産もうって話になって、秋から春までひと冬越すだけのつもりで直子も山を降りてきたんだ。
その年の春だった。和光村が魔物に襲われてお前の親父が殺されたのは」
十三年前の悲惨な記憶を、本橋は思い出して身震いした。それは直子にとってはもっと悲しい記憶だった。初めての子供を産んで、春になったら迎えに来るはずだった夫。それから親子三人の幸せな暮らしがはじまるはずだった。最愛の夫は永久に自分を迎えに来ることはなく、直子は生まれたばかりの息子とともに途方に暮れたのである。
「かあちゃんね、村人はほとんど皆殺しだって聞いて、でも何人かは生き残っているって、とうさんの消息が知りたくてうわさを集めて回ったんだ。いやさ、ほんとは判ってたんだ。とうさんは村を守る剣士だった。だから絶対生きてるはずないってのはさ。だけどもしかしたらって……その時にね、誰かの話の中にあったんだよ、黒いつぐみが村を滅ぼしたって」
黒いつぐみ。
その不吉な響きが、その場にいる者達の心を凍らせていた。それが花道の魔剣と関係があるかもしれないなどと、花道以外の人間達は思わなかった。花道の養い親の十五才の少年と、村を滅ぼした魔物とは、どう考えても結びつくものではなかったのである。
しかし花道は違った。理屈は判らないが、このつぐみは洋平と深い関わりがある。そう思えてならなかったのだ。やっと、洋平と自治領とをつなぐきずなが見えたような気がしたのだ。
「おばちゃん! オレ、自治領に行きてえ! おばちゃんの顔でなんとかならねえかな」
せっかくつかんだ手がかりをこのままはなしてしまいたくはなかった。もしもその黒いつぐみと洋平の間に深い関わりがあるのなら、おそらく洋平は和光村にはいないだろう。しかしそれでも花道は行きたかった。もしかしたらそこには、花道が知らない洋平がいるかもしれないのだから。
「かあちゃん、オレからも頼む。花道を和光村に行かせてやってくれ」
その、二人の言葉に、直子は本橋と顔を見合わせた。そして、困惑する直子を尻目に、本橋はまっすぐに忠を見据え、そして言ったのである。
「忠、お前はどうしたいんだ」
まるで脅すような口調で言われて、忠は背筋を引き締めた。
「お前は自分の生い立ちを聞いた。それを聞いて、お前ならどうする。和光村は、お前が育つはずだった村だ。このままオレの跡継ぎとしてこの村で暮らしていくか」
忠は少しの間考えていた。しかし、考えた時間はほんのわずかだった。
「オレも、和光村に行く。行って確かめてくる。オレがほんとはどういう人間になるべきで、これからどうやって生きればいいか」
そう、聞いて、本橋はほんの少し肩の力を抜いたようだった。まるで、それまで肩にのしかかっていた重い荷物をようやく下ろせたのだというように。そして立ち上がり、別の部屋に行って何かを持って戻ってきた。その一つをテーブルの上に乗せる。よく見るとそれは、自治領への通行手形だったのである。
「三枚ある。これはオレと、死んだじいちゃんとばあちゃんの分だ。移民がいつか村に帰りたくなったときのために自治領で発行してくれる。これでなんとか村に入れるだろ」
本橋にとって、それは大切なもののはずだった。いつか故郷へ帰りたくなったときのための、それができる唯一の片道切符。これを渡してしまえば、本橋は二度と故郷へ帰ることはできないのだ。その気持ちに、花道は心の底から感謝した。
「ありがとおじちゃん。親切は忘れねえ」
「なあに、いいってことよ。花道、お前は若い。若い奴らの役に立つ方がこの手形だって嬉しいだろ。きっとじいちゃん達も許してくれるさ」
花道は通行手形を手にいれた。これで関所を通過することができるのである。
「忠、お前にはこれをやる」
本橋が差し出したのは、一振の刀。おそらく本橋が精根込めて鍛え上げた逸品。
「伯父貴、これ」
「野間が……お前の親父が直子を送ってこの家に来たとき、オレは奴に頼まれたんだ。もしも生まれる子供が男の子なら、いずれは野間の名前を継ぐ剣士になる。そうしたらそれ相応の刀が必要だから、一振造っといてくれってな。ったく気の早い親父だ。だからオレはお前が生まれたらすぐに造った。野間が直子とお前を迎えに来る春までに間に合うように」
話している途中から、直子は目頭を抑えて誰にも判らないようにかすかに嗚咽した。直子の心の中には、春はこない。これから先も、永久にこないのだ。
「カザムの子はカザム。お前は親父を超える剣士になれ。野間の名前は、お前のものだ」
それは、本橋が初めて忠に剣士として生きることを許した言葉だった。
そして、花道はまた一人、強力な仲間を得たのである。
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