FINAL QUEST 1
2
一人で旅をするのは、花道には初めてだった。歩くにしても、花道は地図を見たこともなかったし、関所を通過する際の手続きも判らなかった。宿の取り方も、買物の際の値切り方も知らなかった。そういうことは必要なときすべて洋平がしてくれていたのだ。
そもそも洋平は地図なんか持っていなかったし、関所を通過するようなこともなかったから通行手形も持っていなかった。手形は国境をうろうろしている分には必要ない。しかし王宮のある首都に入る際には必ず必要になるもので、お役所で発行手続きを取らなければならないのだ。花道はそんなものの存在すら知らなかったのである。
要するに、花道は本人が思うほど、旅慣れているという訳ではなかったのだ。
洋平がいなくなった村でひとしきり涙を流したあと、花道はすぐに出発した。ぐずぐずしていては湘北王国の正規兵に見咎められる可能性がある。その前にもっと多くの旅人がいる町に辿り着いて、紛れてしまわなければならなかった。そして、急ぐことは洋平との距離を少しでも縮めることにもつながるのだ。
このときまさか星の裏側まで飛び去っていようなどとは夢にも思わない。できるだけ急いで次の村へと足を進めて宿屋を捜し歩けば、本人は見つからなくても数日前に立ち寄った痕跡くらい見つかると思ったのだ。
しかし先を急ぎ、村の宿屋のすべてを尋ねて歩き、数日が経ったのに、洋平の痕跡はただの一つも見つけることができなかったのである。
花道の旅路は、いつの間にか村々をつなぐ街道になっていた。早足で歩く花道は時々大きな商隊や巡礼の集団とすれ違った。すれ違うたび、花道は笑顔で道を譲り、洋平の姿を話して情報を求めていた。
「オレと同じくらいの背丈で、十五才くらいで、わりと華奢な感じの男なんだ。色が白くて、旅姿してる」
「一人でか?」
「うん、たぶん」
「こんなご時世だからな、子供のひとり旅じゃかなり目立つだろ。見かけたら覚えてるはずだぜ。オレ達ゃずっとこの街道沿いに旅してきたんだ。オレ達が見てねえってこた、街道外れて歩いてんじゃねえのかな」
街道を歩かず、野宿で過ごしているのだとしたら、花道に捜す術はなかった。捜す範囲が無限に広がるというだけではない。花道は一人で野宿して無事でいられるほどの力はないのだ。魔物達から無事でいられる保証は万に一つほどしかない。
自分が子供であることが恨めしかった。もっと強ければ森や山も捜せる。もっと早く歩ければ広い範囲を捜すことができる。お金があれば誰かを雇える。頭が良ければ、ほかの方法を見つけることができるかもしれない。
しかし花道はこうやって街道を歩いて道往く人に話しかけることしかできないのだ。もしかしたら街道に戻るかもしれない洋平の面影を求めて。孤独を押し殺し、笑顔でふるまいながら。
花道が洋平と別れて、今日で二十日が経とうとしていた。
海岸線から少し内陸に通る街道は、海岸からの距離をほとんど変えないので、湾と同じような形で彎曲していた。海岸にはいくつかの港があって、船が運んできた品はここから国内の各地に商隊によって輸送される。花道が歩いていたのはそのためのメイン街道だった。湾の最北を通過しまた南東に進路を移す頃、商隊の数はピークに達し、街道はかなりのにぎやかさを放っていた。
人が集まるところには町ができる。それまでだいたい一日歩くくらいの距離ごとに一つずつ村が点在していたのだが、ここにきてかなり大きな町になった。村が点在していたのは、村のほとんどが商隊相手の宿屋業で生計をたてていたからである。北の痩せた大地では、農業に期待できるほどの収穫は見込めないのだ。
しかしここから東の方には湘北王国の首都がある。小さな港町に集まった商品は、街道を通って国の中心部へと運ばれてゆく。その量は当然国境へ向かうものとは桁が違うのだ。東へ向かう商隊と、北へ向かう商隊との中継点であるこの町は、ひときわにぎわっていた。
花道はそのにぎわいに目を白黒させながらも、しだいに落ち着きを取り戻していった。二十日以上前に立ち寄った港町とはかなり雰囲気が違っているのだ。あのときは、油断していたらすぐに騙されて売られてしまいそうだった。もちろん後になって気づいたことだったのだが、少なくともこの町はそういう荒寥としたイメージはない。激しく雑多で人の多い町だったが、花道がそれまでなじんできた田舎の人々とそれほどずれるものではなかったのである。
元々湘北という国は、朴訥とした武人の国である。北に広がる大地は名馬の産地でもあるため、騎兵隊の強さは有名なのだ。南側の海岸は岩礁が多いためあまり港を作るのには向いてはいなかったが、西の湾、つまり今花道が歩いている辺りの海岸は、商用に大きく開かれている。そして、数は少ないが、沿岸には軍船もいくつか用意されているのである。
そんなことは花道は知るべくもなかったのだが、とりあえずあまりににぎやかな町に辿り着いたため、即座に通過してしまう気分にはなれなかった。とにかく町はいろいろな情報が集まる場所である。そして、村よりもはるかに人が紛れやすい。それまで道のない場所で野宿していた洋平が日用品を補うために立ち寄る可能性は大きいのだ。花道は自分を焚き付けるように、町のメインストリートを歩いていった。
ずっと考え続けていたことがある。洋平はあの日、花道のもとから去っていった。それは花道が洋平に聞いてはいけないことを聞こうとしたからなのだ。だから洋平を見つけたら花道は言おうと思っていた。もう二度と聞かないから、一緒に旅をして欲しいと。洋平の旅に加えて欲しいと。
だけどすぐに見つからなかった洋平のことを考えて、花道は弱気になっていたのだ。もしかしたら洋平は本当に花道のことを嫌いになってしまったのかもしれないと。二度と会いたくないから、花道に見つからないように旅をしているのかもしれない。だからもしも洋平の方が先に花道を見つけたのだとしたら、洋平は花道に会わずに逃げてしまうかもしれないのだ。
もしもそれがほんとうなら、花道は永久に洋平を見つけることはできないだろう。
ものすごく怖い考えだった。花道はこれから先ずっと洋平を捜し続ける。見つからなければ永久に捜し続ける。洋平が逃げている限り、それはムダな努力なのではないだろうか。いつか自分は、そんな自分に負けてしまうのではないだろうか。
あてもなく捜し続けるのは不安で、苦しかった。何か手がかりが欲しかった。洋平が言った、湘北の自治領。それはただの雑談だったのかもしれない。しかしそんなささいな手がかりでも、花道は自分を支える何かが欲しかったのである。
花道はまだ宿屋は決めず、旅姿のままあちこちの酒場をめぐっていた。まだ明るい時間で、それほどの客はない。主人に安酒を一杯おごって、話を聞いていたのだ。
「……名前は洋平。だけど偽名使ってるかもしんねえ」
「あいにくここ一月ばかりのうちにゃそんな客はねえよ。だいたい子供のひとり旅だってだけで珍しいからな。この先お前さんのこたしばらく忘れないよ」
だいたい返事は誰も同じである。最初の頃ほど期待はしなくなっていた花道は、気を取り直して別のことを言った。
「ところでおやじ、自治領ってのはまだ先か?」
「お前さん、自治領に行くんかい?」
「ああ。もしかしたらそこに洋平がいるかもしれねえんだ」
「行くのはかまわねえが、入れるのかね。何でも昔魔物に襲われてからあそこは手形の発行してねえって話だ。通れるようになったって話も聞かねえけど」
「……魔物に滅ぼされたんじゃねえのか? 人は住んでるのか?」
国境近くの村の宿屋で、女将は花道にそう言ったのだ。自治領は魔物に滅ぼされたのだと。
「ああ、何でもあのとき村にいた人間のほとんどが殺されたって話だけどな、生き残った人間もいたようだぜ。まあ、お前さんが見かけ通りのこの国の人間なら知らねえ訳もねえと思うけど、あそこは言ってみりゃ、湘北王国の聖地だ。王国の政権から完全独立してて、異国と同じなのさ。だから王国も手が出せねえ代わり、軍事的な恩恵もねえ。魔物にやられてからはしばらくは人も出入りしてたが、そのうち通行手形を発行しなくなって、今じゃ陸の孤島だ。だから今んなっちまや自治領のことは誰も知らねえのさ。近くの村までなら行けるだろうけどな」
「その、通行手形ってのがねえと、自治領には入れねえってことか」
「そういうこった。昔は手形さえありゃ自治領に入れたし、商売もできた。いまでもその頃の手形が残ってりゃ、あいつは期限はねえから使えるだろ。だがあったところで通れるかどうか。自治領じゃ、通って欲しくねえから手形を発行してねえんだろうし」
花道にとって、自治領へ行くのはそこに洋平がいるかもしれない、あるいは洋平の行き先の手がかりになるものがあるかもしれないからだった。花道が自治領の中に入れないのなら、洋平だって入れない。それなら自治領へ行くのはあまり意味のないことなのかもしれない。そう考えると、花道は酒場の主人に礼を言って、店を出た。
そのままメインストリートを少し行って、やがて一本奥の道に入った。その時だった。向こうから小さな喧騒が近づいてきたのである。
「コラ、待てよ! 逃げんじゃねーよてめえ!」
「裸にしちまえ!」
「うわぁーーー! 勘弁してくれよぉ!」
逃げる一人の少年と、追い掛ける数人の少年達。花道は関わるつもりもなく、ただ歩いていった。やがて逃げる少年と花道との間はしだいに近づいてくる。そしてその距離がほとんどなくなったとき、逃げる少年は花道の後ろに隠れるようにしがみついたのである。
「おい、兄ちゃん助けてくれよ」
花道は平均的な十三才くらいの少年よりもかなり大きい方だった。隠れた少年も同じくらいの年に見えたが、こちらは平均より大きいのは身長ではなくむしろ体重の方であった。こうして背中にしがみつかれると、花道の太ももの後ろに少年の腹があたる。その感触は花道にかすかな驚きを与えていた。
「何でだ? オレが助けたらなんかいいことあんのか?」
「情けは人のためならず、って言うじゃんか。必ず神様がいいこと恵んでくださるさ」
少年はずるがしこそうに一回舌を出して唇をなめた。花道の旅姿と腰に挿した二本の剣。そして、堂々とした歩き方とあまり賢くなさそうなところが少年の目に止まったのである。
追っ手の少年達も花道の前で足を止めた。そして隠れた少年と同じものを花道に見て、こちらは少し警戒して言った。
「なんだよてめえ。この町のもんじゃねえな」
「おお。旅人だ」
「何で旅人がこいつをかばうんだよ。関係ねえんだから退いてろよ」
その通りである。花道にはまったく関係ないのだ。花道は後ろの少年に振り返った。
「おい、お前、手を放せ」
「た、助けてくんねえのか? 多勢に無勢で困ってる哀れな少年助けるのも旅人の使命じゃねえのか?」
「そんな話聞いたことねえ」
「嘘つけ! 湘北新聞社発行の旅人の心得全三巻、二巻目の三十八ページ、第二十六条第二項に載ってんだぞ。旅人のくせに知らねえ筈ねえ!」
「……頭いいな、お前。本三冊分全部覚えてんのか」
その博識ぶりに感心しながら、前の少年達に向き直る。旅人の心得という本は知らないが、その本の二十六条にそういう項目があるなら助けない訳にはいかない。花道は生まれたときから旅人なのだ。心得には背いてはいけないというものである。
「関係ねえけど旅人だからな、助けなけりゃならねえ。なあ、おめえら、こいつは何したんだ? 理由もねえのに追っ掛けたりしねえだろ?」
ほとんどまるめ込まれてしまった花道に、追っ手の少年達は舌うちした。しかし問われれば答えるのが礼儀というもの。中の一人が言ったのである。
「こいつは賭博のツケを踏み倒しやがったんだ。そうなったら身包み剥いで尻の毛え抜いて放り出すのが賭博の掟。ジョーシキだろ?」
「お前……毛え生えてんのか?」
「ば、ばかにすんじゃねえよ! 生えてなかったら逃げるか!」
「そうだよな」
振り返って確認を取ったあと、花道は腰につけた財布に手を突っ込んだ。そして中から一枚を取り出して放り投げる。そのころには多少見物人が増えていて、それが落ちるチャリンという音にみな一斉に注目した。花道が気ままに取り出した一枚は、その財布の中では二番目に大きなコインだった。そしてそれは近隣の使用通貨の中でもめったにお目にかかれない価値のものだったのである。
「国際通貨のハーフゴールド……?」
うしろでつぶやきが上がったと思うと、少年達が先を争うように拾い上げていた。回りのやじ馬もざわめき始める。このコイン一枚だけだったとしても子供が持っている金額ではないのだ。大きな財布から無造作に取り出した一枚がこれだったということは、この財布の中にはそれ相応の金額が入っているのではないだろうか。
「おい、あれで足りたか?」
半ば呆然としてしがみつくことも忘れてしまった少年が、花道に問われて我を取り戻す。財布の中身が気になってしかたがなかった。だが、どちらにせよこのまぬけそうな男と仲よくなって損はない。信頼されれば財布を騙し取ることも難しくないような気がしたのだ。
「ああ、多すぎたくれえだ。用は済んだ。さっさと離れようぜ」
見回せばすでに注目の的である。これ以上ここにいてはもっとたちの悪い大人に見つかって、少年がするよりも先に財布を騙し取られてしまうかもしれないのだ。
「この先の店で少し話そうぜ。もちろんお前のおごりだ」
「……なんでオレがおごんだ?」
「旅人の心得第二十六条の三項に載ってる。旅人は貧乏な少年に飯をおごるべし、ってな」
「だったらしかたねえか。あとでお前、その本売ってるところ教えてくれ。読んでみてえ」
もちろん旅人の心得などというものは少年のでまかせである。しかし花道は一番重要なことに気づかなかった。自分は文字が読めないのだということに。
しかしそんなことが少年に判るはずもない。少年はできるだけ早く財布を失敬して問い詰められないうちにおさらばしてしまおうと画策し始めていた。
「オレは高宮。お前は?」
少年は言って、花道は答えた。
高宮のなじみの店で、二人は向かいあって食事をしていた。中途半端な時間であるから花道はそれほど空腹という訳ではなかったのだが、高宮が大皿をいくつか注文してその旺盛な食欲を満たし始めると、花道ももともと大喰らいである。誘われるように喰らいつき始めていた。高宮の方は最初からおごってもらう腹なので遠慮もなにもない。花道も金銭感覚はまるでなかったし、今は喰うなとうるさい洋平もいないので、二人のたいらげた量は相当なものであった。やがてひと心地つくと、それまでぽつりぽつりと話していたお互いの身の上話を再開し始めたのである。
「……ってこた、花道はその洋平とかいう兄貴分を捜してこの町まできたってことか」
「ああ。こっちの方に向かってんのは間違いねえと思うんだ。洋平はずっと東に向かって旅してた。オレがいなくなっても洋平の進路は変わってねえと思うから」
「そういうもんかね」
詳しいいきさつを聞いた訳ではないが、洋平という男が花道と別れたなら、わざわざ花道に話して聞かせた進路を取るだろうか、と高宮は思った。ちょっとした喧嘩別れで、見つけて欲しくてすねたのならそういうこともあるかもしれない。だが、本当に別れたいと思ったのなら、高宮ならまったく別の進路を取るだろう。
「東に行くなら船を使ったかもしれねえよ。津久武港からならどこに行くにも自由自在だ。たいした距離じゃねえし、その方がお前の裏をかけるってもんだ」
「いや、津久武にゃ戻ってねえ。戻れねえ訳がある」
もしも戻れば兵士に捕まる。捕まりたくなければ戻らないし、捕まってる気配もない。もしも捕まっているなら、人の噂に上らないはずがないのだ。
「だったら、湘北港からの船だ。津久武にゃ負けるが、この国の港もいい船がある。船は金がかかるしあんま安全な乗り物じゃねえが、なにしろ速いからな」
「……いや、たぶん船は使ってねえ」
「なんでそう思う」
「船は身動きが取れねえからだ」
今、改めて洋平のことを思い出して、花道は判ったことがある。洋平はそれほど社交的という訳ではなかった。旅人にとって社交性は必須条件である。その社交性を花道が補ってきたのだ。船の中で、毎日同じ人間達と顔を合わせて、何か月も変化のない日々を過ごす。そんな生活は洋平にとって苦痛以外のなにものでもないだろう。それに、船乗りの荒っぽさは経験済みである。洋平がそんな荒っぽいやからに目をつけられたら、船の上では殺して逃げることもできないのだから。
「だけど陸路って言ってもな、湘北だっていっぱしの王国だ。ばかみてえに広いぜ。二十日も捜して見つからねんじゃ、ほとんど絶望的だ。この先差は開く一方だかんな」
食後のぶどう酒を傾けながら、高宮は真剣に言った。もちろん花道の信頼を得るためのポーズには違いないが、根はそう擦れているという訳でもない。半分は本気の同情である。高宮にしたところで、あまり幸せな半生は送っていないのだ。高宮は自分の本当の名前すら判らないみなし児なのだから。
そんな高宮に言われた花道の言葉は、高宮には不思議な響きをもって迎えられた。
「だから、自治領に行こうと思ってる。洋平が残した唯一の手がかりなんだ」
それは不思議な瞬間だった。花道が言った、自治領という言葉。高宮はこの言葉の意味するものは知っている。しかし花道がそう言ったとき、高宮は今まで聞いたその言葉とはまったく違う感触を花道の言葉に持ったのである。
このとき高宮は運命を聞いたのかもしれない。しかし高宮にとって、自治領はほかの人間のそれとは違うものだった。それが、犬の拾い児とあだ名される高宮にとって重要な場所だったから、そう聞こえたのかもしれないと自分を納得させたのだ。
「自治領か。遠いぜ」
「知ってるのか?」
「ああ。オレはもっとガキのころ、自治領の向こうの村にいたんだ。……オレがまだ歩けもしねえガキのころ、一匹の犬に裸のオレがくわえられてきたんだと。死にそうなほど小さくて弱ってたんだって村で育ててくれたばあちゃんは言ってた。犬は乳が張ってて、オレはたぶんその犬の乳をもらってたんだ。よく魔物に襲われなかったって村のみんなは感心してた。すっげー運のいい子供だって」
その話は、ことあるごとに高宮はいろんな人に話してきた。時にはおちゃらけた感じで、時には同情をひくように、時には自慢話として。そして花道には、重要な秘密を打ち明けるように話した。秘密を打ち明けられた花道は、その話の内容に驚きながらも、うれしさに心の底からニッコリ笑ったのだ。
「お前はすげえ奴なんだな。オレ、お前と友達になれてよかった」
「……友達?」
「ああ。友達だろ? 違うのか?」
その花道の笑顔に、高宮はなにかいたたまれないものを感じていた。胸の奥に重たいものをつまらせている感じ。高宮は友達になろうと思ったんじゃなかった。ただ、花道の財布が欲しかったのだ。ハーフゴールドのたくさんつまった重い財布を。
花道は自分を信頼してくれた。そして信頼してもらえば高宮の仕事はやりやすいのだ。そのために花道にいろいろ話した。チャンスを見つけてあの財布を奪うために。
「友達か。ダチは寝床のねえかわいそうなダチのために今晩泊まるとこ確保してやるもんだぜ。知ってっか?」
「……そうか。だったらどっかいい宿屋紹介してくれ。飯がうまくてたくさん情報集まるとこ」
一番逃亡しやすい安宿。今夜、眠った花道から金を奪って逃走しよう。花道は旅人だ。何日か我慢してどこかに隠れていれば、いずれ旅に出てしまう。そうすればもう二度と会うこともないのだ。
高宮は決めると、目当ての宿に花道を案内したのである。
安宿の安酒を飲んで、二つ並んだベッドに互いに横になると、まもなく花道の寝息が聞こえてきていた。
花道は財布を腰紐から外して枕の下に入れた。普通旅人はそうするものだし、花道も洋平がいつもそうするのを見ていたから習慣のようにそうしたのだ。こうしておけば、万が一誰かが財布を抜き取ろうとしてもすぐに判る。しかし花道の頭は枕の上にはなかった。寝相が悪く、そういう意味で花道のこの習慣はあまり意味のあるものではなかったのである。
高宮はベッドの上でじっとしていた。もう少し待つ。もう少し待って、花道が絶対目を覚まさないと判ったときに財布を奪う。逃亡にはドアから出て、廊下の天窓から屋根に出て樋を伝って逃げればいい。重そうな身体だが意外に身は軽いのだ。そうでなければそもそもこんなに長く生きることはできなかった。
どうせ行きずりの旅人。今別れたら二度と会うこともない男。
―― オレ、お前と友達になれてよかった ――
突然、花道の言葉が頭に過った。そして、にっこりと、絶対の信頼を向けた笑顔。
(なにほだされてんだよ。柄じゃねえだろ高宮)
心の中で自分を叱咤する。めったにない獲物なのだ。成功すれば今までにない贅沢ができる。賭博仲間の奴らに金をばらまいて、尻尾を振らせていい思いもできる。しばらくの間、高宮は英雄なのだ。この金さえ手に入れれば。
(花道はこの先どうすんのかな。金がなくたって旅くらいできる。だけど裏切られたらどう思うだろ。もう誰も信じなくなっちまうかな)
高宮の、すぐにバレるような嘘まで簡単に信じた。花道は反省してもっと用心深くなるだろうか。そしてあの純粋な笑顔を誰にも見せなくなるんだろうか。それとも、反省なんかしないで何度も同じことを繰り返すのか。純粋なまま、ただ、自分が高宮に対して悪いことをしたのかもしれないと自分を傷つけながら。
そう思ったら、胸の奥がきゅんと痛くなった。たぶん高宮がこの財布を盗まなくても、この先誰かが高宮と同じことをしようとするだろう。高宮が盗んでも、今度は違う形で花道は騙されるだろう。だって、花道は孤独なのだ。守ってくれる人はどこかに行ってしまった。洋平という男は、どうして花道を捨てていくことができたのだろう。
その答えが、高宮には少し判ったような気がしていた。たぶんその人は、これから先花道を守っていく自信がなかったのだ。そして、傷ついて汚れていく花道を見たくなかった。それはおそらく、自分自身が純粋な存在ではなかったから。胸に後悔を抱いた、花道に対して罪を背負った人間だったから。
高宮はまだ、罪を背負っていない。花道に取り返しのつかないことはしていない。今ならまだ、堂々と花道の前で自分を語ることができる。
花道の財布の中からバレないように少しだけハーフゴールドを抜いたらどうなるだろうと、半ばむりやり考えようとして高宮は諦めた。自分は花道の友達になりたがってる。そして、洋平ができなかったことをやりたい。洋平がやりたかったこと。それはつまり、花道を純粋なまま守り続けること。
「仕方ねえ。自治領までつれてってやるよ。……自治領までだかんな」
「……ん……? 誰かなんか言ったか……? 洋平……?」
「何でもねえよ。寝言で間違えるな。オレは高宮だ」
「う……ん」
そして ――
翌朝目覚めた花道に高宮が自分の決心を話したとき、それじゃあと手渡された花道の財布を見て、高宮はもう絶対に花道には勝てないだろうと、本当の意味で諦めたのである。
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