FINAL QUEST 1



  第二章 出会い


     1

 遥かいにしえ、星は漆黒の闇を持ち、闇は星をおのが領土としていた。
 光線が遮られるとき背後に闇が生まれる。しかしその闇と星の闇とは、まったく別のものであった。光線である光は蓄えることはできない。影である闇もしかり。しかし、星の闇はいわば物質の一つであった。蓄えることも、移動させることも、呼ぶことも払うこともできる。それは闇の王でもあり、魔王でもある流川にのみ許された力。星の闇はある時、闇の王流川によって、その領土を限定されたのである。
 寿命を持たない魔物達に、星の公転周期は時間としての価値を持たなかった。人間が年齢を計る際に一日という単位を使わないのと同様に。彼らは最高に長く生きた人間の一生を、一つの単位として用いていた。一寿命。それが人間の呼ぶ百年程度にあたる。
 今から一寿命ほど前、流川はそれまで封印してきた星の闇を解放させ、世界には闇の力が流れ出し始めた。それによって魔物達は急速に活性化し始める。それまで我が世の春と勢力を伸ばし続けてきた人間達の歴史に影が差したのだ。まさに暗黒の時代。人間は闇と魔物におびえる人生を強いられることとなっていった。
 なぜ突然、魔王は闇を解放させることになったのか。魔王の闇の王としての歴史は一説によれば数千寿命にものぼるという。その、気の遠くなるほどの時間を生きてきた魔王が、なぜこのとき空間を変える大事業をなさんとしたのか ―― ……
  ―― コンコン
 ノックの音に、牧は書き物を一時中断しなければならなかった。あきらめて首を伸ばす。乗っていたときだったので、なかなかに口惜しかった。
「入れ」
 返事を待ってドアから入ってきたのは、まだ十分に若い一人の小姓だった。
「陛下、翔陽皇国より先日の手紙の返事が届きましてございます」
「そうか! 読んでみろ!」
「は! では」
 丁寧に蝋の封印の手紙を開く小姓の動作を、牧はイライラした気持ちでまちわびていた。そしてやっと手紙が開かれ、目を通した小姓が読まずに牧の顔を凝視するのを見て、そのイライラはさらに程度を増していった。
「あの、よろしゅうございますか……」
「構わないと言ってる! 早くしろ!」
「……では。……あの、たった一言でございます。『ふざけるな』と。そのあとに署名がございます。翔陽皇国皇太子藤真」
 牧は見るからに気落ちしたようすでがっくりと肩を落とした。ほんの数秒そうしていて、さすがに心配になった小姓が声をかけようとすると、いきなりすっくと立ち上がった。まるでゼンマイ仕掛けの人形である。こののち踊り出しでもしようものなら、帝王陛下ご乱心となって海南帝国ご自慢の地下牢に幽閉しなければならなかっただろう。
「どうしてオレの熱い想いが通じねえ。あんなに一生懸命書いたラブレターだったのに」
「わたくしもラブレターを製本したのは生まれて初めてでした」
「そうだろ? それをこんな短い手紙で済ませるとは」
「想いの深さの差が如実に表われていてなかなかに興味深い現実です」
 小姓の言葉が牧の心を海の底から海溝まで突き落としていた。辛辣な小姓である。もう少し慰めるとかなんとかすれば可愛い気もあるというものなのだが。
「どちらへゆかれますか?」
「外の空気を吸ってくる」
「刺客は生け捕りですよ。拷問するんですからね。殺しちゃだめですよ!」
「……どっちが帝王だか判らねえ」
 ドアをくぐって、聞こえないあたりで牧はぼそっと言った。気に入らない小姓であればビシッと仕付けてしまえばよいのだが、牧はこの小姓は嫌いではなかった。耳に痛いことは多々あるが、無益なことは言わないからである。
 回廊を抜け、中庭に出ると、松明でライトアップされた噴水の美しさに目を奪われる。しかし牧は噴水は無視して中庭を突っ切り、ほとんど誰も通りたがらないだろう建物の脇の茂みを抜けていった。そこはもう完全に宮殿の裏である。背丈の低い樹木がちょぼちょぼと植えられ、月明かりだけが辺りの様子をぼんやりと照らし出していた。
 子供の頃、父王にしかられると逃げ込んだ。今ではすでに彼岸の人である。だが今でも気に入らないことがあって会議の席を立った牧が、ここを捜すと簡単に見つかったりするのだ。
「表紙にピンクのハートをあしらったのが気に入らなかったかな。やはり情熱の赤にすべきだったか」
 不毛なことを想い悩みながら夜空を見上げたその時 ――
 空から、小さな何かが落ちてきたのである。
 見る間に大きさを変えてゆく黒いもの、かなりの上空から落ちたと見えて、そのスピードは相当なものだった。それでもなんとか体勢を立て直そうとあがいているのが判る。手を差し出して受けとめようとしたが、それでは自分の腕が折れるかもしれないととっさに思い、マントを広げた。それが正解だった。まるで最後の抵抗のように身体をぱたつかせたそれは、少し進路を変えたので、手で受けとめようとしていたらおそらくすかされたことだろう。
 小さな黒い鳥だった。しかしそれは、見ている前で徐々に姿を変え、まるで魔法が解けるように、人の形になったのである。
「お前……魔物か」
 腕で身体を支え、覗き込む。明らかに魔物は弱っていた。しかしその魔物は、牧が恋する相手になんて似ていたことだろう。
 それは顔形ではなかった。人種が持つイメージ。翔陽皇国の皇族達と同じ血の流れを感じた。同じ根から派生した枝葉のように思えたのだ。
「魔物なら……何だ……」
「まず、お前が弱ってる理由を聞かせろ。お前が何を糧にする魔物なのか。お前が例えば人の生き血を啜ってゾンビ化させる魔物だとか、人の魂を吸って生きる魔物でオレを殺すとか言わなけりゃ殺さねえ」
「……条件は」
「取材に応じることだ。命と住まいの確保は間違いなくする。食べ物は何だ」
「……人間のマイナスの感情」
「交渉成立だな」
 魔物は、安心したように身体の力を抜いた。一瞬驚いて抱き寄せるが、気を失ったわけではなかった。再び魔物が目を開ける。牧は安心させるように魔物に微笑んでいた。
「海南帝国の帝王牧だ。お前は」
「……洋平」
「ずいぶん弱ってるな。ダイエットでもしてたのか?」
「……そこにいるだけで、回りの人間の感情を温める。そんな人間と暮らしてた。十三年」
 その状態がどういうものだったか、牧は察した。魔物はたった一つの方法でしかエネルギーを摂取できない。マイナスの感情を得られなかった洋平にとって、その十三年間は絶食の状態だったのだ。
「手始めにオレの失恋でブレイクした感情ってのはどうだ」
 牧の提案は、洋平によって一蹴された。
「自分をわきまえず諦めねえ人間の失恋なんか喰えねえ」
「そういうもんか。……だったらいいところに連れてってやる」
 返事を待たず、牧は洋平を抱きあげた。それはもう、軽々と。
「自慢じゃねえが海南はめちゃくちゃ治安の悪い国だ。当然堅牢な地下牢には犯罪者が列を作って牢が空くのを待ってる。番人が一か月でノイローゼになるような場所だ。すぐに元気になるだろ」
 牧との取引は、洋平にはありがたかった。体力回復のチャンスと、隠れ場所とを、同時に手に入れることができたのだから。
 花道を見捨てて遠く離れた場所まで飛んできた。洋平は今、自分がこれからどうすればいいのか、まったく判ってはいなかった。

 牧の思うとおり、数日後には洋平はかなり体力を回復させていた。寿命のない洋平にとっての十三年間は、人間にとってのそれとは明らかに違って、その程度の絶食ですぐに命を落とすようなことはない。むしろ洋平が体力を失ったのは、花道と別れてからほとんど星を半周するほどの距離を鳥の状態で飛び続けたからなのだ。しかしまだ体力は完全ではなかった。一気にたくさん食事をすれば元気になるというものでもない。人間と同じで、失った体力を完全に回復させるには、ほどほどの栄養と休養が必要なのである。
 洋平の希望もあり、数日後には洋平は別の牢に移されていた。そこは今ではほとんど使われていない古い牢である。犯罪者が溢れれば使うこともあったが、なにしろ古いためそれほど堅牢ではなかった。洋平が住まいとしたのは、一番奥の、鍵のこわれた一つの牢であった。
 歴史に塗り固められた残留思念の坩堝は、洋平には心地よい栄養と安らぎを与えた。かつてこの場所で怨みと後悔とを抱いて死んでいった者達の昇華されない感情が漂っている。そんな歴史に身を委ねていると、忙しい公務の合間になんとか暇を見つけては、牧が訪れるのである。
 牧にとってもこの牢は都合がよかった。なにしろ国の最高権力者の帝王である。犯罪者が屯する牢の中へ通うなど、許してもらえるはずもなかったのだ。あえて危険なところへ近づかないというのも最高責任者の義務なのだから。
「洋平、海南帝国の名物、地下牢の居心地はどうだ」
「悪くねえ」
 その控え目な言い方に、牧はふんと片眉を上げた。
「この国の人間は昔はそんなに血の気の多い人種じゃなかったんだ。千年以上前の歴史書を紐解けば、ずいぶんひ弱な一族だったと記されてる。ところが今じゃこの有様さ。そのきっかけの物語が昔話で残ってて、ここに記されてる」
 牧は一冊の古びた書物を開いて指し示した。洋平は特に興味もなく、牧が話すことを黙って聞いていた。
「要約しちまえばこんな感じだ。千年前、海南帝国の南の海から大きな戦艦が攻めてきた。戦いは次々に敗れ、帝王は戦死する。どうにもならなくなった帝王の娘は神に祈るのさ。ところが、姫の願いをかなえようと現われたのは神ではなく魔物だった。姫は魔物でもかまわねえ、国を救ってくれと懇願し、魔物と契りを結ぶ。そしてその魔物が敵の戦艦を撃退してめでたしめでたしってな。やがて姫は魔物の子供を産んで、その子が次の帝王になって国はそれまで以上に栄える。その遠い子孫がこのオレだ。
 この国の子供達は生まれて最初にこの話を聞かされる。そんな訳でこの国じゃ、魔物は神様と同じなのさ。そのなごりで今じゃ海南の民はみんな荒くれ者の海賊だ。オレがお前を助けようとした訳も判るだろ?」
 魔物に対する偏見の薄い国民性。洋平に対して牧がなぜ対等に向き合うのか、その理由を理解した気がしていた。牧にとって魔物はご先祖様なのだ。魔物を卑下することは、自分を卑下することにつながるという訳である。
「オレは今星の歴史について本を書くつもりでいる。魔物と人間との古い関わりについて。だが人間の書物ってのはどうも自分本意だ。魔物は悪いものだって決めつけてる。オレはもっとちゃんと魔物を理解した上で、歴史の事実だけを克明に記しておきたいのさ。そのためにお前にいろいろ教えてもらいたい。協力してくれるな」
 もとより、洋平に拒否する理由も権利もなかった。数日前、洋平は取引したのだ。取材に応じることを条件に、住まいと食事をあてがってもらうと。
「何が聞きてえ」
「まあ、そうかたくなるな。雑談のつもりでしゃべってくれりゃいいさ。とりあえず最初に聞かせてくれ。お前はどのくらい生きてる」
「……正確には判らねえ。だがたぶん五万年くらいだ」
 その言葉に、牧は心の中で踊り上がった。五万年と言えば、牧の計算ではおそらく人間の歴史よりも遥かに長いはずなのだ。
「それは具体的にはこの星がどういう状態にあったときだ? 星全体を闇が支配してたときか?」
「いや。オレが生まれたのは闇が闇の王によって封印されたときだ。オレは闇の王が闇を封印した直後に闇の王の手によって生まれた」
「その、闇の王が魔王流川だな」
「魔王は人間が呼ぶ呼び名だ。闇の王の本来の意味は闇を支配する王って意味だ。闇の世界の王じゃねえ」
「だが今では魔物の王だ。……闇の王と魔王を混同しない方がよさそうだな」
 春とはいえまだ寒さの残る牢の中で、牧は衣服が汚れるのも構わずにあぐらをかき、洋平の言葉をしきりにメモっている。こうなるともう牧は帝王ではなかった。学者肌のただの青年になってしまうのである。
「その頃星は魔物と神の世界だ。人間はいねえ。そうだな?」
「ああ、そうだ」
「それでそのあと、魔物は神を強姦した。違うか?」
 それは、あまりにも大胆過ぎる牧の仮説だった。このあと結果として神の一族はたった一つの種族を残すのみとなる。その結果を生むために、そのプロセスがなければ歴史は語れないと牧は考えたのだ。
 そのあまりに非常識な仮説は、洋平によって肯定された。
「魔物の中に、神と交わって快楽を得て、その快楽を糧にするもの達が生まれた。神は両性を持つ一族だった。姿は男だが、女としての仕組みも持ってる。魔物と交わった神は女に変化して子供を産んだ。その子供は男か女か、どちらかの性になったんだ。そうして世界に神はいなくなった」
「全部人間になっちまったか ―― 」
 人間は、神と魔物との間にある。二つの種の間にある人だから人間という。世界中の人々が誰も知らない真実だった。そして、その真実は真実であるがゆえに誰も信じることはないだろう。かつて牧の先祖は魔物と交わった。しかし、人間の先祖は誰もが魔物と交わっているのだ。人間はすべて、魔物の子孫なのだ。
 誰が信じるだろう。歴史の証人の言葉だからこそ、抹殺され続けてきた事実を。
「翔陽皇国の皇族は神の一族なんだな」
「そうだ。あの一族だけが魔物の洗礼を免れた」
「どうしてだ」
「魔物と交わる前に仲間同士で交わったんだ。子を宿した身体と交わっても次の子はできねえ」
「賢いな」
「ああ、賢い。魔物の子を宿した仲間を皆殺しにするくらい賢い」
「……そいつは凄まじい」
 翔陽皇国は、人間の領土の東の果てにある。それは、すぐ隣が魔物達の本拠地であるという意味だった。それだけ魔物の勢力はすごい。その中で純血を保つためには、それだけのことをしなければならなかったのだろう。
 ますます藤真が欲しくなった。神の一族が残した最後の純血の皇子を。
「さて、そろそろ聞かせてくれ、洋平」
 それまでの様子とは、牧は一変していた。探るように洋平を見つめる。まるで、隠された真実を見抜こうとするように。洋平は反応しなかった。
「お前は、いったい何だ。どうして十三年間も人間と暮らしてきた。魔王と近い関係なのは確かなのに、どうして魔王の元に帰らねえ。何で人間の世界をふらふらしてるんだ」
 牧の視線が洋平の胸を刳る。抱き上げた小さな命。育ててきた小さな子供。苦しくて長かった時間。そして、捨ててきた少年。
 洋平は、牧の質問にすぐに答えることはしなかった。


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