FINAL QUEST 1



     2

 季節がめぐれば、花道はすくすくと成長した。春から秋までの間を辿り着いた村で過ごし、秋から春まで、旅をして過ごした。花道は洋平から逸れることもなく、歩幅も大きくなって今では洋平と同じ速さで歩いても夕方まで元気でいられるようになっていた。その年の春、花道は十三才になっていた。しかしまだ洋平から剣の使用許可は下りてはいなかった。
 今はもう洋平と身長が変わらないくらい大きくなっている。それでもまだ、魔物に襲われたとき花道は参戦できなかった。魔物の気配を感じたとき、森の中ならば花道はすぐに木に登った。数が多くなければ洋平はすぐに魔物を片付けてしまうから、木の上の花道にまで手を出す余裕は魔物にはないのだ。花道はそれが不満だった。そのうち花道は洋平よりも大きくなるだろう。洋平よりも大きいのに、洋平に守られ続けるなんて、花道のプライドが許さなかった。花道は今でも弱い者は全力で庇うガキ大将なのだ。それももう今年は卒業する。今年の春からは、洋平と一緒に村で働こう。そう、花道は決めていたのだ。
 しかしその春最初に訪れた村では、洋平は仕事を得ることができなかった。宿屋の主人にいろいろ聞いているうちに、もっと東の町ならば仕事があるかもしれないと言われたのである。
「津久武港の港町さ。あそこなら人の出入りも激しいし、選びさえしなけりゃけっこう仕事も見つかると思うよ。中には割のいい仕事もあるしさ。ま、あんまり勧めようとは思わねえが、お前さんみたいな美少年にぴったりな仕事もあるってね。おっと、こいつはしゃべり過ぎた」
 宿屋の主人に言われた道を歩いていく。徐々に風景は変わり始め、草原もいつもの草原とは違った雰囲気を醸し出し始めていた。強い風が潮の香りを運んでくる。視界が開けたとき、花道は目を疑った。そこにはそれまで見たことのないようなたくさんの水がまっすぐな水平線を描いて輝いていたのである。
「洋平! これ、海か?」
「ああ。……そういや見たことねえか」
「すげえ! 水がいっぱいだ。ここにいたら一生飲み水の心配しなくてもいいな」
「よそじゃ言うなよ。笑われるぞ」
 その海の見える丘から、港町はほんの少しだった。やがて辿り着いたとき、花道はその人の多さに仰天していた。さまざまな職業の人。いろいろな服を着た、時には見たこともないような服を着た男達。女達はみなきれいに着飾って花の香りがした。路上ではさまざまなものが売られ、物売りにつかまった花道は採れたてのイチゴを篭に一ついつの間にか買わされてしまっていた。
 雑多な港町。歩いているだけで魚の匂いが漂ってくるような町。
「洋平、腹減った。イチゴだけじゃ腹の足しになんかならねえ」
「仕方ねえ、店に入るけどあんま食うなよ」
「何でさ」
「さっきのイチゴ、その前の村の三倍の値段だ。あんまり食うと先の路銀がなくなる」
「路銀はいらねえだろ? 仕事見つけんじゃ」
「ここにはまともな仕事はねえ。一晩泊まったらさっさと発つ」
「洋平にぴったりな仕事があるって言ってたじゃねえかよ」
 花道の言葉に耳を貸さずにさっさと一つの店を選んで入って行ってしまう洋平を追い掛けながら、花道はまた感じていた。自分がまだ洋平に一人前の男として認められていないこと。花道だって仕事を探す手伝いくらいしたいのだ。洋平に対する回りの信頼度を増すための元気な子供としてだけでなく。
 洋平が選んだのはその港町で指折りの割に大きな店だった。扉をくぐると、すっかり習慣になってしまったように花道はニッコリ笑って店の中を見回した。洋平はにこりともせずにカウンターの方に歩いていく。うしろを歩きながら大声で明るく花道は言った。
「オヤジ、安くて腹一杯になるもん、頼むぜ」
 花道は無邪気に言うのだが、世馴れした店の客達には、誰かおごってくれと言っているように聞こえた。しかしあくまで花道は無邪気である。そんな花道の笑顔に触れると、誰もが笑顔にならずにいられなくなるのだ。まるで、自分が昔持っていた素直な気持ちを思い出すように。
「ねえ、坊や。よかったらこっちのテーブルにこない? 食べきれないお皿が残ってるのよ」
 それは四五人の派手な女達のテーブルからだった。着飾った女達はそれぞれに個性的で美人である。花道は洋平を振り返り、洋平が何も言わないのを見届けると女達の囲むテーブルの空いた椅子に腰掛けていた。
「ねえ、坊や、名前は?」
「年はいくつ?」
「どっから来たのさ」
「この町は初めて?」
 かわるがわるの質問に、花道は目を丸くしていた。そのすべてに答えながらテーブルの食べ物に手を伸ばすのだが、なかなか口に運ぶことができなかった。
「十三才? やだ、十五六才かと思った。十三才じゃまだだめかしら」
「そうでもないんじゃない? 早熟そうだし。身体、たくましいわよ」
「ねえ、花道。あたし達の中で誰がこのみのタイプ?」
「ねえ、見てこの大きな手。あと五六年もしたらすごくいい男になりそうじゃない。たくましくて強くて、すっごく激しくて、もうサイコー」
「なに夢見てるのよ。あなたって、身体見る目はあっても中身見る目はないのよね。このあいだの男、サイテーだったじゃない」
「やだ、顔赤くしてる。かっわいー!」
 女達が追加注文してくれた皿のものを平らげながらも、彼女達に身体中を触られ、彼女達の身体を触らせられ、かといってごちそうになっている手前むげに振り払うこともできず、花道は真っ赤になって身体を震わせていた。なにしろ女というものにあまりお近づきになったことのない境遇である。そろそろ女性に興味が出てくる年ごろでもあったので、一人心臓を高鳴らせて、心の中で洋平に助けを求めていた。
 やがて女達はテーブルから立ち上がった。まだすべての皿を片付けきれていない花道を残して。
「あたし達、これからお仕事なの。五年たったら遊びに来てね」
「女将! 花道の分、お店の方にツケといてね」
「町はずれの舟宿『夢枕』の沙里菜よ。忘れないでね」
 五人分のキスマークをもらって、花道はまだ心臓がドキドキしていた。だが、不意に気になってカウンターの洋平を見る。洋平は店の主人と何やら深刻に話し込んでいた。花道は少し安心して、食事を再開した。
 しばらくすると、花道の後ろから声をかけた男がいた。振り返って見ると、着ているもののなかなかに高価そうな、四十過ぎくらいに見える一人の男だった。
「お前さん、東の方の出身かい?」
 花道はいぶかしみながらも首を横に振った。花道はずっと東に向かって旅をしてきたのだ。当然出身地は西である。
「そうか。いや、オレは昔はこれでも船乗りでね、世界をまたにかけて商売してきたのさ。あんたはどっちかっていやこの海の向こうの東の湘北王国に多い顔をしてると思ってさ。ま、北からの陸路もあるからこのあたりにもいる顔だがね」
「西から来たんだ。武里公国よりもずっと西さ」
「ふうん、そうかい。……ま、大地ってのは丸いからそういうこともあるさな。それより、カウンターにいるのはお前さんの連れだろう? あの子は間違いねえ、ずっと東の皇国、翔陽の出身だ。今度こそ当たりだろ」
 花道は驚いて男を凝視していた。男はにやっと笑ったかと思うと、おもむろに花道に顔を近づけ、空いている横の椅子を引いてきて隣に座った。そして、肩を抱くように口を寄せる。花道は男の話の先が聞きたくて、振り払うことをしなかった。
「そうなのか?」
「ああ、あの手の顔は翔陽の、それも皇帝の血筋に近いものにしかいねえ顔だ。……不思議な一族さ。絶対他の国との混血を許さねえ。ずっとその血を守り続けて、生まれる子供はみんな男の子だって話だ。それなのになんで子供が生まれると思う? ……あの国じゃ、男同士で結婚して、男が子供を産むのさ」
 馴染みのない話に、花道は洋平の横顔から目を離すことができなかった。初めて洋平のことを思った。洋平がその翔陽という国の出身なら、洋平も誰かと結婚して子供を産んだりするというのだろうか。
 ずっと前から気付いていた。洋平の年が、十五才から増えていないこと。毎年花道との年齢差が縮まっているのだということ。
「隠そうとしてもすぐに判っちまう。あんなに神秘的で、そそる少年はいねえな。あの肌の色は旅姿くらいでごまかせるもんじゃねえ。
 ところで、話は変わるが、お前さん、仕事をする気はねえか?」
「仕事があんのか?」
 その、降って湧いた仕事の話に、花道は驚き笑顔で男を振り返った。花道一人でこの仕事の話をまとめられたら、洋平の役に立つことができる。洋平を喜ばせることができるのだ。そんな花道に、男は少し慄いたようだった。どこかが痛んだような渋い顔をする。だが、気力を振り絞って、男も笑顔になっていた。
「ああ、お前さん達にぴったりの仕事だ。割もいい。仕事を探しに立ち寄ったんだろ?」
「もうかるってことか?」
「かなりな。二人で三か月も働きゃ、向こう一年は遊んで暮らせるぜ。……実はオレもちょっと焦っててな。頼まれてるもんで早く決めちまいたいのさ。ここで会ったのも何かの縁だ。ぜひお前さんに譲りたいね」
 真夜中に灯台に続く分かれ道で返事を聞かせてほしいと、男は言い捨てて去っていった。花道はその話を洋平にもしてやろうと思った。洋平は喜ぶに決まっているのだ。洋平はこんなところには仕事はないと言った。洋平が諦めた仕事を花道が見つけたのだ。洋平が知ればきっと花道を見直してくれる。花道を大人として認めてくれるのだ。
 だが、洋平はそんな花道の話を聞こうとはしなかった。明日は次の村に向けて出発する。湾のようにえぐれた海岸線を北に回って、湘北王国の領内に入って、そこで仕事を見つけると。小さな宿に一泊の宿泊を頼み、二人は同じ部屋で隣あわせのベッドに横になっていた。しかし花道は眠れなかった。約束の真夜中は、もう少しで訪れようとしていた。
 洋平も眠ってはいなかった。洋平はいつも花道が起きているときに眠っていたことがない。いつも身体を横たえるだけで、目を開けたまま天井を見つめている。それは、花道がものごごろついてからというもの、ずっと変わらないことだった。
「洋平」
 思い切って、花道は言った。せっかくまとめた仕事の話を、ふいにしてしまうのはもったいない気がした。
「オレ、一条っておっちゃんと約束したんだ。真夜中に洋平のこと連れてくって」
  ―― 洋平は本当はすべてを判っていた。
「昼間お前が話してた男か」
「ああ。オレ達にぴったりの仕事をくれるって。……お前、明日出発だって言ったけど、話くらい聞いてもいいよな。仕事しても、しなくても」
  ―― 判っていて、花道の話を聞いた。
「どこで会うって?」
「灯台の道の分かれるところ。そこで雇主の人と一緒に待ってるって言ってた。……だけどもし、お前がやりたくねえって言うなら、オレ、断ってくる。オレだけ行って断ってくる」
「支度しろ花道。着替えて荷物全部持て。忘れ物するなよ」
 洋平が指示したのは、宿を引き払う支度だった。まさかと思ったが、洋平が枕の下に宿代を置いているのを見て、これが尋常ならない事態であることは察していた。それでもまだ、何がどうなっているのかはさっぱり判らなかった。仕事の話をしに行くだけなのだということを、疑ってはいなかった。
 灯台は、町はずれに近い場所にあった。そこには一条と、雇主である男とが花道と洋平とを待っていた。しかし近くに十数人の部下が隠れている。そして、町はずれにも一人の部下が立っていて、花道達が通過しようとしたら合図が来てすぐにかけつけられるようになっていた。
 やがてやってきた二人連れを見て、一条はわずかにほくそえんだ。しかし二人の旅姿を見て、驚きの表情を浮かべる。男の魂胆がバレていたのか。だとしたら、なぜ町を出ようとしないのだ。ここへやってきたということは、まだバレてはいなかったということなのだろうか。
 声が届く程度に近づいたとき、一条は言った。
「待ってたよ、坊やたち。この人が雇主の乾さんだ。この町では有名な人だよ。いろんな意味でな」
「おっさん、悪いけどオレ、おっさんの仕事断りに来たんだ。洋平がどうしても先急ぎてえって言うからよ」
「それは困るよ花道。こっちだって商売だ。約束は守ってくれねえと信用がなくなっちまうんだよ。お前さんだって大人の男だ。言葉に二言はねえよな」
「オレはまだやるなんて言ってねえ。そっちこそ、ここで返事聞かせろって言ってたじゃねえかよ」
 その花道の言葉は、煙に巻こうとしていた一条の形勢を悪くしていた。表情を変え、視線で周囲に合図を送る。すると周囲のなにもないと思われていたところからたくさんの船乗り風の男達が出てきたのである。
 花道は驚いてキョロキョロ見回した。男達はみな長剣を握っている。丸腰なのは花道だけだった。仕事の話をしに来ただけなのだ。呆然とした花道に、洋平は短く言った。
「逃げまくれ。町の外まで走るんだ」
「洋平は」
「ちゃんと逃げる」
「翔陽の血を引く少年。間近で見るのは初めてだが、やはりほかの少年達とは違うようだね。一条、彼だけでいい。もう一人は後腐れないようにしなさい」
 その、乾という男の言葉と視線が、花道の背筋を寒くした。翔陽の人間は男と結婚して子供を産むのだと言った。やっと自分が取ってきた仕事の内容が判った気がしたのだ。
 洋平が捕まったら、乾の子供を産まされる。自分が後腐れのない目にあうよりも、洋平がそんな目にあう方が、もっとショックだった。
 襲ってきた男達は、花道には容赦がなかった。手持ちの武器のない花道はただ逃げるより術がない。体勢を崩さないように長剣の動きを見据え、逃げまくる。何かにつまずいたら最後だと思った。時には後ろに避け、時には相手の脇に回り、時には相手の刺し足を蹴り飛ばした。洋平も襲いかかる誰かと切り結んでいた。しかし花道には洋平の動きを見ている余裕はなかった。
 逃げなければ死ぬ。そのことが花道の神経を研ぎ澄ませた。見ていた一条や乾もだんだんイライラし始めていた。その時だった。洋平が相手をしていた男の長剣が飛んで、花道の目の前に落ちてきたのである。
 その剣を見て、花道は逃げることを忘れた。剣があれば殺すことができる。一条を。そして、洋平を自分のものにしようとした乾を。
「殺してやるてめえら!」
 初めて手にした剣は妙に重かった。だがその重さは花道に力を与えてくれる気がした。奇妙な高ぶりの中で、花道は走った。不思議と回りのものは目一杯隙のできた花道に切りかかろうとはしなかった。しかし一条だけは、ニヤニヤ笑いで剣を構えていた。
「よせ、花道!」
 ……!
 その瞬間、花道は何が起こったのか判らなかった。殺すはずの一条はもう目の前に迫っていた。背後から洋平が叫ぶ声がし、その次の瞬間、花道と一条との間に、洋平が割り込んでいたのだ。
 洋平の剣は深々と一条の胸に突き刺さっていた。回りの誰もが目を見張っていた。確かに花道よりも遥か後方にいた筈の洋平。その洋平が叫んだかと思うと、一瞬で移動し、一条の胸を貫いた。洋平の動きは尋常ではなかった。人間にできる動きではなかった。
「ば……ばけもの……!」
 誰かが叫んだとき、回りの人間達の時間は再び動き出した。誰彼も我先にと逃げ出してゆく。そして再び静かになるまで、ものの五秒とはかからなかった。
 一条が倒れる動きで自然に抜けた長剣を、洋平は一振りした。そしてまるで汚らわしいものでも見るように一瞥し、長剣の滴を一条の衣服で拭き取る。呆然と立ちつくしたままの花道が見ている前で、洋平は一条の懐を探って財布を取り出した。重さを確かめて自分の懐にしまうころ、ようやく花道は声を出すことができたのである。
「洋平、お前……」
「どうせ朝まで残ってやしねえ。迷惑かけられた奴がもらうのが筋だろ」
 洋平は花道に近づき、右手に触れた。そこにはまだ握り締めたままの長剣があったのだ。
「ゆっくり、指を放せ。急がなくていい」
 力一杯握り締められた剣は、なかなか放すことができなかった。洋平の指に導かれるように、一本一本はがしてゆく。そうして剣が落ちる音が辺りに響いたとき、花道は全身から息を吐き出していた。そして、ようやく自分がしようとしていたことの本当の意味に気づいたのだ。
 花道は人間を殺そうとした。魔物ではなく人間を。そして洋平に人間を殺させてしまったのだ。それは、花道に人間を殺させないために。
 いや、あのとき洋平が殺さなければ、殺されていたのは花道の方だったかもしれない。花道は剣など握ったことのない子供だったのだ。そして相手は世界をまたにかけて危険をくぐり抜けてきた船乗りだったのだから。
 洋平にほめてもらいたかった。洋平の役に立って、洋平に笑ってもらいたかった。花道は洋平に笑顔を向けられたことさえなかったのだ。洋平の笑顔は知っている。だけどそれは村で花道ではない誰かに向かって笑いかけている姿でしかなかったのだ。
「このまま出発する。今夜は寝るのはあきらめろ」
 洋平は、魔物を殺したときのように、機嫌が悪くはならなかった。

 歩き続けながら、やがて朝日が昇り、中天にさしかかり、落ちていった。夜には一つの村に辿り着いた。しかしそれまでの間、洋平はぽつりぽつりと話してくれた。今までどうして花道に剣を握らせなかったのかを。
「剣は、人を惑わす魔力を持ってる。剣を握ると自分が強くなったような気がする。だけどそんなのは錯覚だ。実際は腕が少し長くなるだけだ」
 花道は反論する気すら起きなかった。自分が剣を握って初めて判ったことがある。あのとき花道は自分がそれまでしていたはずの逃げることを忘れた。その経験がなかったとしたら、今の洋平の言葉もうまく理解することができなかっただろう。
「腕が長けりゃ防御が弱くなる。身体に向かって攻撃を受けたとき、防ぐための反応が鈍くなるんだ。ところが剣を持ってない人間は自分が攻撃できねえことを知ってるから、逃げることに徹することができる。逃げることに神経を集中できる。だから身体に傷を受ける確率が下がるんだ。
 身体に傷を受ければ動きが鈍くなる。動きが鈍くなれば攻撃も防御もねえ。自分が不利になるだけだ。戦うための第一条件は、傷を受けねえことだ。判るな」
 それまで旅をしてきた花道にはよく判る。怪我をすることがどれほど危険なことかを。怪我をしていればそれだけで魔物に狙われる確率が上がるのだ。魔物にしたところで、怪我をしている人間の方が遥かに襲いやすいのだから。
「特に魔物と戦うとき、それは喰うか喰われるかじゃねえ。喰われるか、喰われねえかだ。お前は魔物を殺したからって喰えるわけじゃねえ。要は喰われなけりゃいいんだ。だから、逃げ切った方が勝ちだ。殺す必要はねえ。奴らから五体満足で逃げられたら、それで勝ったってことなんだ。相手がただの魔物なら、剣を持ってる方が仇になる。だから今はお前は剣を持つ必要はねえ。それより逃げることをちゃんと覚えた方がいいんだ。判ったな」
 花道はまだ、誰かを守る必要はない。逃げることで自分を守れさえすればいい。もしも花道が逃げる術を知らない誰かを守る立場になったとき、初めて剣が必要になる。かつて、幼い花道を洋平が守ったように。
 日が暮れて辿り着いた村は、すでに湘北王国の領地だった。村に入る前、いつものように洋平は言った。
「ここから北東に行くとずっと湘北王国の国土が広がってる。湾を取り巻いて更に東の内陸の少し南に行った山間には自治領がある」
 こうして洋平はいつも花道に地理を教えた。どういう国で、どういう政治をしているのかも。しかしその知識は二人の役には立っていなかった。どんな王国でも帝国でも、洋平が選ぶのは中央部からかなり外れた国境付近の村々を通過する進路だったのだから。
 辿り着いたのは、素朴で平凡な村のひっそりとした宿屋だった。
 かなり遅くなってから到着した二人に、宿屋の夫婦は嫌そうな顔一つせず温かい食事をふるまってくれた。マントを脱がなかった洋平に何も聞かず、食事のお替わりだけを勧めた。洋平はいつもあまり食べなかった。食事は花道のつきあい程度で、あとはずっと酒を飲んでいた。
 黙り込んでいる洋平に、花道は洋平がこの村で仕事を見つける気はないのだと知った。誰もいない宿屋の食堂で花道もしだいに無口になり、コップを傾ける洋平の横顔を眺めていた。そうして洋平を見つめていると、昨日の夜死んでしまった一条の言葉が思い出された。ずっと東の皇国。洋平の顔はその国の皇族に多い顔なのだと。
 洋平はどうして旅をしているのだろう。東の皇国に帰ろうとしているのだろうか。どうして花道を育てているのだろう。洋平は家に帰ったらどこかの皇子様かなんかなのだろうか。
 洋平は、いったい誰なのだろう。
 どうして何も話してくれないのだろう。
「花道坊や、眠くなったんじゃないのかい?」
 視線を固定させたまま考え込んでいる花道に、おかみさんは声を掛けた。言われてみれば眠いような気もする。昨夜はまったく眠っていなかったのだから。
「部屋の用意はできてるよ。洋平も、今夜はゆっくりやすみなさいな。下にいるから何かあったら遠慮しないで起こしてくれていいんだからね」
「うん、ありがとおばちゃん」
 洋平の代わりに花道が返事をして、二人は二階の客室に案内された。荷物をほどき、靴を脱ぎ、旅装束の紐を弛めてベッドに入る。天井の明かり取りの窓から差し込む月明かりが部屋の中をうすぼんやりと照らしている。ベッドの中で、花道は隣のベッドに横になった洋平の横顔を眺めていた。
 昔、花道がもっと小さかったころ、洋平はすごく大きくて強くて、手の届かない大人に見えた。洋平が言う十五才は、一人前の大人の年齢なのだと思った。洋平が本当は普通の十五才の男よりもずっと細くて小さいのだと知ったのはいつのことだっただろう。そう、たぶん、自分の手のひらがいつの間にか洋平よりも大きくなっていたことを知った、去年の今頃だった。
 十五才はまだ子供なのだ。十三才の花道が子供であるのと同じように。これから二年が経って、花道が洋平と同じ十五才になったとき、花道はきっと洋平よりもずっと大きくたくましくなっているだろう。だけど洋平のようにはなれはしない。洋平ほど考えが深くて強い大人にはなれない。だって洋平は、本当は十五才ではないのだ。
 成長しない人間は何だろう。東の国の人間は、みんなそうなのだろうか。それとももっと別の……
 知りたかった。洋平のことだから知りたかったのだ。
「洋平」
 天井を見つめたまま、洋平は返事をしなかった。
「洋平は、男の姿をしてるけど、ほんとは子供を産んだりするのか?」
「……んな訳ねえだろ。ガキなんか産んでたまるか」
 洋平の言葉に、花道は少しほっとしていた。その理由は自分にもよく判らなかったけれど。
「だけど一条の奴が言ったんだ。洋平は東の国の皇族だって。その国の皇族は男が子供を産むんだって。ほんとにそんなことできる奴らがいるのか?」
「翔陽皇国の皇族はそういう種族なんだ。別におかしなことじゃねえ。あの辺りじゃ誰でも知ってる」
「だったら、洋平みたいな種族もいるのか? 洋平はどんな国のどんな種族なんだ? どうしたら十五才から大きくならなくなったりする……」
 花道はこのとき言葉を飲み込んでいた。
 洋平の顔が硬直した。まるで何かに傷ついたように。その瞬間、花道の頭にさまざまなことが飛来していた。一瞬のうちに花道を追い越して一条を刺し殺した洋平。それは人間の技じゃなかった。魔物を殺すと必ず機嫌が悪くなった。そして、人間を殺したとき、洋平は何も感じないように死体の服で血を拭った。
 広い世界の中には成長しない人間もいるのだと、洋平が語れば花道は信じただろう。たとえ世界中の隅々まで旅して歩いて、そんな種族が見つからなかったのだとしても。
 洋平が好きだから洋平のことが知りたい。洋平が好きだから、洋平の言葉ならすべて信じたいのだ。
 二人の間のいたたまれない空気が、花道に言葉を紡ぐことを強要した。何か言わなければどうにもならなかった。洋平の一言が聞きたかったのかもしれない。たとえ嘘だと判っていたとしても。
「……オレ、ずっと気づいてた。成長してるのはオレだけでお前はずっと変わってねえんだってこと。オレはたぶん生まれてそんなに経ってねえ時から洋平に育てられたんだ。オレはどうして洋平に育てられてんのか考えても判らねえ。オレはどこの国のどこの村で生まれて、親は何をしてる奴だったのか……」
 気がついたらたたみかけるようにしゃべってしまっていた。こんなことは本当はどうでもいいこと。知らなくてもいいこと。洋平から話してくれるまでは聞かないつもりでいた。一生話してくれないのなら、一生聞けなくてもいいと思っていた。
「今のなしだ! オレ、変になってるだけだ。どこで生まれたからって関係ねえ。洋平は洋平だ。オレの家族は洋平だけだ。
 もう寝る。おやすみ洋平」
 いささか強引ではあったが会話を終わらせてこの空気から逃げ出すことに成功していた。布団をかぶり、洋平に背を向ける。もとはと言えば一条が悪いのだと花道は思った。一条の言葉も、一条の死も、花道には刺激的すぎた。触発されて狂ってしまったのだ。洋平を傷つける言葉なんて、絶対言いたくなかったのだから。
 花道の精神の興奮状態は、二日間の疲れがもたらす睡魔には勝てなかった。布団をかぶったまま、やがて花道は寝息を立てはじめた。眠ったことを確認するように洋平が視線を向ける。洋平の身体に、睡眠は必要なかった。
 洋平の中に、この十三年間の想いが次々に浮かび上がってくる。初めて抱き上げたときのこと。劫火の、泣き叫ぶ母親の目の前から、洋平は花道を連れ去った。小さな手が洋平の手元を狂わせた。やがて安心するように眠ってしまった光の存在に、洋平は捕まったのだと思った。連れて戻ることもできなかった。道の途中で断念して、一番信頼する人に背を向けるように、花道とともに歩きはじめた。
 死んでしまえばいいと思った。自分を嫌いになってくれればいいと。そうすれば殺せると思った。自分を慕ってくる、信じ切った瞳が苦しかった。
 家族なんかじゃなかった。守ってやるつもりも、育ててやるつもりもなかった。それなのにいつしか失うのすら怖くなった。花道の信頼を失ってしまうのが。
 もう限界だった。いつか花道は知ってしまう。いや、たぶん、もう感づいてる。今ここで自分が花道を見捨てたなら、花道は自分を憎んでくれるだろうか。
 洋平の気配は、少しずつ希薄になっていった。月明かりの中で、しだいに透き通ってゆく。まるで構成する原子が引力を失って四散するように。そうして洋平の気配が完全に消えると、それまで洋平が存在していた場所に残ったのは、一羽の小さな黒い鳥だった。
 一度花道を振り返る。そして次の瞬間、天井の窓から鳥は闇に飛び立っていった。みるみる夜空に紛れて見えなくなる。まるで本来属する世界に還るように。

 翌朝、花道は知った。洋平がその姿を消したことを。花道を置き去りにして去っていったことを。
「おばちゃん! 洋平がいなくなった! いなくなっちまったよぉーっ!」
 あんなこと言わなければよかった。洋平は聞かれたくなかったのだ。洋平がずっと黙っていたかったなら聞かないでいればよかったのに。あんなこと聞かなくたって、洋平を好きな気持ちは変わらなかったのに。
 宿屋の女将は泣きわめく花道をずっと抱き締めていた。まるで、とうとう授かることのなかった我が子を抱き締めるように。
「花道坊や、元気をお出しよ。子供の足だ、そんなに遠くには行ってないよ」
 だけど洋平の足は早いのだ。一瞬にして花道を追い抜いてしまうほどに。
「花道坊や、教えておくれ。もちろんあたしはお前さんを信じてるよ。だから怒らないできいておくれ。……二日前の夜、隣の国のある町で、人が殺されたんだってね。今朝、兵隊がやってきたんだよ。二人連れの子供を見なかったかって」
 洋平が殺した一条。まさか、捕まってしまったのだろうか。一人で罪をかぶって。
「もちろん追い返してやったよ。隣の国の兵隊になんか従う義理はないからね。だけど、たぶん今度は湘北の正規兵がやってくる。そうなったらお前さんも洋平も、お調べを受けることになるよ。……花道坊や、やったのは、お前さんかい?」
 花道は首を横に振った。そしてつけ加える。
「……だけど、オレやがったようなもんだ」
「洋平がやったんだね」
 否定も肯定もしない花道の背中を、女将は優しく撫でていた。昨日、洋平はマントを脱がなかった。かすかに漂う血の匂いは、隠しきれるものではなかった。
「ひどいのは世の中だよ。平気で子供を売り飛ばす商人もいる。……安心おし坊や。洋平は捕まってないし、兵隊もすぐにこんなことは忘れちまう。ほんの少し我慢してたらすぐに通り過ぎちまうよ。
 よく、考えてごらん。洋平は追われてるのを判ってて来た道を戻ったりはしないよ。そうしたらもう判ったようなもんだ。洋平は先に行ったんだよ。自分がどこに向かってたのか、よく思い出してごらん。洋平が何て言ってたか思い出してごらん」
 洋平はいつも何も言わなかった。どこへ行くとか、何をするとか。国境を越えて最初の村に着いたとき、教えてくれるだけ。国のことを。
「東の方に自治領があるの?」
「ああ、小さな村がね。もうずいぶん前に魔物に滅ぼされてしまったよ。そこに行くのかい?」
「判んねえ。だけど、オレ、洋平のこと捜す。洋平のことが好きだから捜す」
「そうかい、それじゃ、たんと食べておばさんに見送らせてちょうだいね」
 洋平が残していったのは財布と、いつも肌身はなさず持っていた二本の剣。支度を整えながら思う。これを残していったということは、洋平はもしかしたら花道に剣を許してくれたのかもしれないと。初めて花道を大人として認めてくれたのかもしれないと。
 旅をする目的なんか知らなかった。気にはなったけど、なくたって構いやしなかった。だけど、これからの花道の旅の目的は、洋平を捜すこと。洋平を捜して、謝って、何でも構わないからそばにいてほしいと、ただ洋平のことが好きだと。
(洋平、オレは、お前が魔物だってよかったんだ!)
 涙声を押し殺して。
 それが少年の、本当の旅のはじまりだった。


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