FINAL QUEST 1



     3

 闇の中に横たわると、すべてが心地よく、安らかになる。
 光の届かない地下室には流川の闇が滞っている。地下は闇に属する場所だった。恨みや憎しみ、妬みや悲しみの感情も闇に属している。誕生が光ならば、死は闇に属するのだろう。
 今洋平がいるのは、光のない場所だった。光に属するものの存在しない場所。すべてのものが闇に属する場所。
 心地よくたゆたい、闇の中に溶けるよう。感覚のすべてを広げ、洋平は闇を感じていた。ざわめく闇はいつもあるじの存在を意識している。比較的流川に近い場所のこの闇は、遠い場所にある闇たちよりもずっと活性化していた。ざわざわとうごめき、光を内包した人間達ならば、この場所のこの闇に寒気と恐れを感じるのだろう。
 洋平は闇を感じていた。触手を伸ばし、うごめく闇と溶け合って安定する。流川に近い場所で、闇は歓喜に震え、洋平の身体をも震わせる。闇と一体になり、同じ喜びに身を委ねる。
  ―― 不意に
 長く続いていた闇のざわめきは雰囲気を変えた。言葉にするならばそれは戸惑いと恐れ。洋平はその闇の動きに更なる注意を向けた。闇はざわめき、困惑し、悲哀に変わって最後には絶望にさえなる ――
(……流川が動いた!)
 闇の城に棲む闇の王。多くの闇を従え、流川が城を出たのだ。洋平はもっと神経を研ぎ澄ませた。誰も従えず、闇だけを従えて、流川が闇の城から遠く離れてゆく。
(向かってる。どこへ……?)
(……まさか!)
 洋平の頭上を越え、まっすぐに西へ向かってゆく。その先、直線の延長上に、光がある。洋平が恐れ、封印し、なす術もなく神木によって解き放たれてしまった巨大な光が!
(流川が花道のところに向かった!)
 洋平の回りに巣喰う闇達の悲哀と絶望とはかかわりなく ――
 今、洋平は自分の身体が震えているのに気がついていた。

 真夜中。
 花道は仲間達の説得をものともしなかった。晴子を連れて城を出ることなどそもそもできはしない。万が一成功したところで、追われ続けていずれは捕まるか、どちらにせよ晴子の方が長い旅などできないだろう。しかし花道は自分の意志を曲げなかった。仲間達はほとんど絶望的な気分で、花道についてこの中庭に集ったのである。
 晴子はそこにはいなかった。仲間達はそれみたことかとささやきで花道の説得を再開する。今ならまだなんとかごまかしがきくのだ。晴子が現われなかったことで、仲間達は心の底からほっとしたのである。
「オレ、一晩中でもハルコさんのこと待ってる。絶対ハルコさんは来る。ハルコさんだってオレと逃げたいにきまってんだ」
「ばか言うなよ。なんでお姫様育ちの女の子が優雅な暮らしを捨てられるってんだよ。いくら望まない結婚だからって、向こうは公爵だぜ。ただの旅人とじゃ勝負は見えてるだろ」
(お前が惚れられてるわけじゃねえんだし)
 その言葉は高宮は心の中だけでつぶやくことにした。だいたい本当に晴子が花道を好きだったところで、この勝負は分が悪いのだ。ただの知り合いの花道と一緒に晴子が逃げるどんな訳があるというのだろう。
 高宮も、大楠も忠も、せっかくの豪勢な寝室とベッドはあきらめなければならないかもしれないと思い始めていた。やがて、かなりの時間をかけると、ようやく三人も心を決めることができた。あのベッドはふかふかだった。枕はいい香りがしてよく眠れそうだった。その理想的な寝具は、こんな中庭の硬いベンチに変わってしまったのだ。諦めるのに時間がかかったのも当然だろう。
 花道と友達になった自分の運命さえ呪いたくなったその時。
「ななななな!」
 中庭はそもそも深い暗闇だった。しかしその暗闇が更に密度を増したように花道は思えたのである。見る間に闇に閉ざされてゆく周囲をキョロキョロと見回すうち、驚愕の声を上げた高宮がまっすぐと何かを見つめているのに気付いた。目を見開いた高宮はすでに普通の表情をしてはいなかった。がくがくと膝を震わせ顎をかち鳴らして、花道の背後を見つめていた。
 身体の芯から急速に血の気が失われていった。ほかの二人の視線も同じ位置にある。背後に何かがいる。花道は今、その事実をひと滴ほども疑わなかった。
 それは強大な闇の気配だった。花道がそれまで会ったことのある魔物などとは比べものにならないほど大きな存在だった。花道はすでに死を予感していた。背後に迫る闇の気配が、まっすぐに花道に向かっていることを知ったのである。
 まるで死んだような曖昧さで、花道は背後を振り返った。恐れに今すぐに逃げ出してしまいたかった。しかし恐怖はもう既に収拾が不可能なほど大きくなっていた。大き過ぎる恐怖はほかのすべての感覚を麻痺させてしまったのである。
 目を見開いて、花道は背後の闇と対峙した。そして自分の中にまだそんなものが残っていたのかと思うほどの感動が、花道を襲った。背後にあった存在は、闇色の一人の魔物だった。
「う……あ……っ!」
 圧倒的な恐怖と感動に花道は震えが止まらなかった。呼吸さえ満足にできないほどの密度の濃い闇の中に、それはいた。まるで純粋な闇を集めるとその姿になるのだと思わせるような、闇色の衣と闇色の髪。そして、宇宙を凝縮して二つに分け納めたかのような、双の瞳。闇の刃に切り刻まれてしまいそうな強い視線。
 しかしその闇はなんと美しかったことだろう。
 これ以上その凝視には耐えられないと思った。しかし視線を逸らすことはできなかった。完璧なまでの美貌はその闇に似つかわしく冷たく残酷だった。どのくらいの時間視線が交わされたのか。不意に、なんの前ぶれもなく、闇の魔物は口を開いていた。
「水戸はどこだ」
 この闇の生き物から人の言葉が発せられるのが不思議なくらいだった。しかしその言葉が、それまでの四人の恐怖を人知を越えた高みにあるものから、とりあえず理解できる程度の恐怖にまで引き戻したのである。
(ミトハドコダ)
 花道はその短い言葉を心の中で反復した。そして、かなり長い時間をかけはしたが、記憶の中から意味を探し出すことに成功していた。
 水戸は、十三年前に和光村を襲った魔物。もしかしたら洋平だったかもしれない、いや、おそらく間違いなく洋平だったはずの黒いつぐみ。
「水戸って、洋平のことか? 何でてめえ、洋平のこと……」
 魔物の気配が変わった。花道は更に心が凍りつく感触を味わった。
「水戸はどこにいる。てめえのところにいるんじゃねえのか」
 しかし、花道は最後の勇気を振り絞っていた。
「てめえは誰なんだ!」
 そのとき。
「きゃぁーーーーーーーーーーーーーっ!」
 悲鳴に呪縛を解かれ、反射的に振り返ると、柱の陰に恐怖に顔を引きつらせた晴子がいた。晴子は来たのだ。しかしその事実は花道を喜ばせはしなかった。闇をも引き裂く悲鳴は、晴子の命を絶望の縁に落とし込んでしまっていた。
 もう、どうなるか判らなかった。このままこの場にいる全員が殺されてしまったところで、何の不思議もなかっただろう。
 悲鳴は途切れ、その場に崩れ落ちるようにして晴子は魔物から目を離すこともできなくなってしまったかのように硬直していた。だが、闇の魔物は晴子の存在などまるで気にかけはしなかった。そもそも、花道以外の人間がいることなど知らないのではないかと思われた。
「 ―― オレは、闇の王流川」
 初めて名乗った闇の王に、花道は再び視線を戻す。これが闇の王。これが、花道が倒さなければならない、魔王流川なのか。
 かなわないと思った。どんなに自分が強くなっても、こんな圧倒的な魔王を倒せるはずがないと思った。
「水戸はここにはいねえのか。 ―― てめえ、水戸を殺したか」
( ―― 殺される!)
「水戸を殺したのか」
 冷や汗がじっとりとこめ髪を濡らした。水戸という魔物は光の子を殺すために和光村を襲ったのだ。ここには水戸がいないことを魔王は知った。水戸がおらず、光の子がここに生きているということを。
 どうして今魔王が花道を殺さない訳があるだろう。
「……オレは洋平を殺してねえ。殺す訳がねえ。いなくなっちまったんだ。オレのこと捨てて消えちまったんだ」
 そして、信じられないことが起こった。
 闇は急速にその密度を弛めていった。目の前の闇の王の姿は見る間に小さくなり、遠ざかっているのだと花道が気付いたときには、王は既にその姿を半ば消していた。
 冷えきった大気はもとの暗闇を取り戻し、やがて完全に魔王の闇が消えて、それまで絶えていた木の葉のざわめきや生き物の気配が戻ってくる。示しあわせたように四人は大きく息を吐いていた。
 晴子の悲鳴を聞き付けたらしい城の兵士や国王赤木が駆け込んでくる様子に我を取り戻した花道は、まっすぐに晴子にかけよった。そして、まだ半ば正気を失ったままの晴子の肩に手をかけて軽くゆすりながら言った。
「ハルコさん、大丈夫ッスか?」
 晴子は恍惚の表情を花道に向け、双の目から二つぶの涙を流した。その涙に胸を突かれ、花道の胸がドキッと高鳴る。見ている前で、晴子は微笑んでいた。それはそれまでの晴子が浮かべたこともないような、不思議な色香のある微笑みだった。
「ハルコさん!」
「あ、桜木君、大丈夫あたし」
「ハルコさん?」
 兵士たちは晴子の微笑みにとりあえずの危険はないことを察し、遠巻きに見つめていた。その人波をかきわけ、赤木が現われる。しかし晴子はそんな回りの様子など気付いていないようだった。
「桜木君、あたし、恋をしたわ。あたし、恋をしたの」
「ハルコさん」
「こら貴様! 晴子から離れろ!」
 花道は再び赤木の怪力に晴子から引き離されていた。しかしそんなことは意識にも上らなかった。
「この世のものとも思えないくらい綺麗な人だった。触れることも、見つめられることも、言葉を交わすこともできなかったけど、でも、あたしは恋ができたの。判る? あたし、恋をしたのよ。短い恋だったけど、でも、こんなに幸せな気持ち生まれて初めて。桜木君、判ってくれる? あたしがどんなに幸せか、桜木君なら判ってくれるわよね」
 花道は自分が馬鹿になってしまったのだと思った。晴子の言うことがまるっきり理解できないのだ。どうして晴子は突然こんなことを言うのだろう。恋をした? いったい誰に? 晴子が今目にしたのは、魔物の王以外にいないではないか。
「晴子、大丈夫か! お前、この男に何かされたのか! 場合によってはこの男 ―― 」
 突然、晴子は赤木に向かって手をついた。そして頭を垂れる。赤木は言葉を失いもはやピクリとも動かなかった。晴子は今まで、国王である赤木に対してもこれほどまでにかしこまった態度を取ることはなかったのだ。
「お兄ちゃん ―― いえ、国王陛下。今日までの数々の無礼、お許しください」
「晴子……」
「勅命により、わたくしは陵南王国国王の従弟、陵南公仙道様に嫁ぎます」
「晴子、お前」
 晴子は顔を上げ、おとなびた表情で微笑した。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。あたし、お兄ちゃんの気持ちも考えなくて。……争いを終わらせることは国民の幸せを考えてのことだったのよね。お兄ちゃんがあたしのこと愛してくれてないはずなんかなかったのよ、いつも」
「……仙道は悪い男じゃない。必ず幸せになれる」
 晴子が魔物の王に恋をしたこと。花道はそれをどうしても理解することができなかった。そして、あんなに嫌がっていた結婚をこうあっさりと承知してしまったことも。晴子は恋をして大人になったのだ。それは、まだ大人と呼ばれることのない花道には、理解できなかったのである。
 しかしそれよりも、花道の心の中に大きくのしかかっていたのは、巨大な魔王に対する完璧なまでの敗北感だったのである。


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