DRIVING COLOR
阿修羅との約束の時刻が近づいていた。
河川敷。足場は悪くバイクが走り回るには向いていない。それは人間にとっても同じだった。しかし不自由の差は歴然としている。
中央を大きく開けて周囲をいくつかのグループが固めている。エンジンをかけたままのバイクも混じっている。その中央付近に軍団とクラッシャーのアブラムシと片桐徳永の面々、そしてヒロシがいた。前髪が顔を隠して表情を窺い知ることはできない。
自分のバイクが知らぬ間に置かれていたことに片桐は怪訝な顔をしていた。しかし些細なことだった。集まっているグループの人数も最初に決めたときより僅かに少なかった。誰かに確認する必要もなくただ時間にルーズなグループが混じっていたのだと思った。
隣に視線を向けると、洋平は少し首を傾げるように笑った。
「準備運動しねえの?」
その笑顔と言葉でなぜか片桐は納得してしまった。洋平達桜木軍団の直接の手駒と巷で目されているメンバーだけが、この場から姿を消しているのだということ。片桐の表情にも笑顔が浮かんでいた。
「水泳大会になりそうか?」
「オレはその気はねえな。なにせカナヅチなもんで」
「タダで協力してくれってのも考えてみりゃ図々しい話だったな」
どのみちここまで来てしまったのだ。洋平のすることに乗せられてみようと、片桐は決めていた。
その時、遠くからバイクの大音響が轟いてきた。とうとう阿修羅がその姿を現わしたのである。
何も遮るもののない土手の上を独特のフラッグを掲げてやってくる。見る間に近づき土手を走り下りてきた。半数は上に残したままである。数えなくても判る。阿修羅は総勢力だった。
示威の空吹かしは内臓に響き渡る。十数秒も続いたあと、やっと一人が前に出るのを合図に示威行動は止んだ。
しかし後ろのアブラムシは完全に度胆を抜かれて二三歩後退していた。
「おーお、いるいる。駆け込み寺の糞坊主とアブラムシども」
追従する集団が笑った。アブラムシ達の知る顔もその中にはあった。二度と見たくなかったその顔が下品に歪むのは恐怖だった。
「てめえが阿修羅の頭か。三下にしか見えねえぜ」
「あいにくだったな。頭はそら、あの上だ。てめえらなんぞに頭が出る幕もねえって、あちらにお控えあそばしてんだよ。てめえの相手はオレがしてやる。どうせ手も足も出ねえんだ。誰が相手だって同じだろ?」
「約束が違う。オレは頭とタイマンで勝負するって言ったんだ」
「聞いてねえな」
片桐と三下の会話を聞きながら、洋平は心の中で溜息を吐いた。誰もが正々堂々と問題に対処する訳ではないのだ。むしろ片桐のやり方がゲキ甘なのである。洋平が合図を送る間もなく大楠がすでに行動していた。
アブラムシ達に適当に獲物を手渡して回る。その合間にも三下が示威行動に出る。片桐もいつまでも呆けてはいなかった。手で味方に散るように指図する。
始めに突っ込んできた一台は片桐を転がらせてアブラムシほかを散らして人の隙間に道を作って反転した。いつの間にか土手の上にいたもう一つの集団の一部が退路を断つように後ろに回っている。洋平達は完全に挟まれていた。時を置かず今度は両側から数台が突っ込んで来る。
アブラムシが逃げ回って混乱を呼び起こす。集団が狙っていたのは主に片桐だった。軍団三人の心配を洋平はしなかった。近くにいたアブラムシを引き起こして叫ぶ。
「逃げてんじゃねえ! てめえらの頭がやるのと同じ事やってみやがれ!」
見ると片桐は通り抜けながら鉄パイプを振り回すバイクの腹をタイミングよく蹴飛ばして交差しようとしていた別の一台と絡ませて横転させていた。投げ出された鉄パイプを掴んで別方向から来た一台のタイヤの隙間に差し込むと急ブレーキをかけたように前のめりになりながら倒れる。空手二段を控えめに自称する片桐の蹴りの威力は見事だった。一度この男と正面切ってやり合ってみたいと時をわきまえず洋平は思った。
片桐が囮になっている間に、洋平は後ろに回った一団の中から目星をつけた男に向かっていった。手前にいた二台が気付いて向かって来るのを手製のブラックジャックを武器に軽く避け、弾みをつけて獲物を振り下ろす。最初の一撃は振り回された鉄パイプに阻まれて届かなかった。守るように周囲にいたバイクの上から一斉に襲いかかって来る鉄パイプを命がけで避けなければならなかった。
洋平の直感はあたっていた。この男が阿修羅のリーダーだ。
「やれ」
たった今襲いかかった相手が水戸洋平であることを判っているのかいないのか頭の短い命令に回りにいたバイクが周回を始める。殆ど同時に別方向から同盟の余剰兵力が雪崩込んできた。周回するバイクが否応無しにそちらに手を取られている隙に洋平は再び頭に向かって突進する。今度は頭も余裕を見せずにバイクを反転させた。洋平にしてみればその方が攻める手が豊富だった。
戦場は混乱を極めた。新たな兵力の投入は混乱を更に助長させた。洋平は執拗に頭を攻め、ブラックジャックを振り回した。頭はさすがにバイク集団のリーダーなだけあってバイクの扱いは郡を抜いていた。多少の蹴りではよろめきもせず、絶妙なハンドル裁きで同時に鉄パイプを振り回す。まるでそこだけがサンクチュアリに変貌したかのようにほかの誰もが割って入ることができなかった。
しかしその時洋平は信じられない呼び声を聞いたのだ。
「水戸!」
振り返る前に頭の鉄パイプを避けることを忘れなかった。回り込んで時間を稼いだ洋平が見たのは、すぐ近くまで走り込んできていた流川だった。驚きと同時に洋平の思考はすべてを飛び越えていた。飛び越えた先にあったのは何としてでも流川を守らなければならないという強烈な意志だった。
「逃げろバカ!」
別の一台に弾き飛ばされるように流川は洋平の足元に転がってきた。庇って洋平が次の一撃を弾き返す。二台のバイクから自分と自分以外の人間を守り切ることは不可能だった。退路を求めて洋平の頭脳は激しく回転した。
RZ四〇〇R。片桐が武器として使うかもしれないと洋平がさりげなく用意した。しかし今そのバイクは忘れ去られたように手つかずのままそこにある。頭からの次の攻撃が届く前に洋平は短く言った。
「あのバイクまで走れ!」
「水戸……」
「ノヤロー!」
大きく二つに分かれた混乱のちょうど真ん中にぽっかりとあいた空間にある黒のRZ四〇〇Rレースレプリカモデル。流川が駆け出すまでの僅かな時間を稼ぐために洋平は頭に向かっていった。その秩序のない攻撃に阿修羅の頭はとうとう体勢を崩した。すぐさま取って返して流川のあとを追う。後ろを気にしながら走る流川に追いついて阻む敵のバイクの隙間に道を作りながら辿り着いた。
「早く乗れ!」
剥き出しのハンドルを握ってエンジンをかける。一つ目のライトが応えるように周囲を照らす。比較的狭く高いシートに何とか腰を乗せた流川を確認する暇もなかった。気付いて追従するバイクは既に間近に迫っていた。
「掴まってろ。片桐借りるぞ!」
振り返って頷いた片桐の顔も見なかった。そのあと片桐が言った潰すなよの声も無論聞こえなかった。背後から追って来るバイクを振り切るようにアクセルを握り、初めてのマシンをギリギリのバランスで操ることに全神経を費やした。見通しのよい土手の上では道は永久に続いているような錯覚をもたらした。
深い前傾を取る洋平の背後にいる流川にはシートの高さと自らの長身が生み出す前方の視界はかなりの迫力だった。振り落されまいとしっかり洋平の背にしがみつく。スピードを殆ど落さずに車体を倒して曲がる洋平の身体に貼り付いていると膝をこすりそうになる。できるだけ身体を縮めてバイクと一体化するように祈った。
気がつくと背後のバイクの音は聞こえなくなっていた。
徐々にスピードを落としながら進路を変える。辿り着いたのは、既に流川も馴染んでしまった洋平のアパートだった。明日から始まる合宿の用意もあるためか花道が来た様子はなかった。
気力を使い果たしたかのように、部屋までの僅かな距離を二人とも黙ったままで過ごした。部屋の明かりをつけ、座り込んでからも、しばらくはどちらも何も言わなかった。
あのとき思考が飛び越えたものを、洋平は一つ一つ思い浮かべようとしていた。流川を守らなければならないと判断した理由。流川が補導されれば、花道の所属するバスケ部がインターハイへの道を断たれる。流川が怪我をすれば、インターハイで湘北が勝利する可能性がなくなる。流川が関わったことが花道に知れたら、洋平が関わったことも知られてしまう。おそらく流川との関係も花道に知られてしまう。
気分が晴れなかった。苛立ちを感じた。だからその苛立ちをごまかすように疑問をすり替えた。
「お前……なんであんなとこに来た」
「……行けばお前を守れると思った」
呆れ果てる流川の言葉がにわかには信じがたかった。
「てめえ……! 自分がなにしたか判ってんのかよ! てめえを守るためにオレは敵前逃亡するハメんなったんだぞ! 自覚がねえのかよ!」
叫ぶ洋平を流川がその腕に抱き締めた。腕の震えは洋平を驚かせる。
「……オレが行けば、お前は逃げると思った。オレを守るために危険なことはしねえと思った。お前は……守る奴がいねえとどんどん危ねえ方に行く。お前には守る奴が必要なんだ。……オレが側にいたから守れた」
―― 双頭の蛇
眠れる蛇の頭は二つある。一つは桜木花道。そしてもう一つが、流川楓。すり替えた疑問の最後の答えは、ただ流川を守りたかったということ。そうと気付いた時、洋平はあまりのばかばかしさに知らず知らずのうちに涙を浮かべていた。
流川は洋平を見ていた。洋平だけを見ていた。だから流川は知っていたのだ。洋平が流川を求め、同時に庇護しようとしていたことを。
自分が一番、自分を知らないのかもしれない。
「てめえの自己満足のせいでどれだけ迷惑かかったと思ってんだよ。オレは同盟のカナメだったんだぜ」
「お前一人いないだけで負けるケンカだったのか?」
洋平を引き離して覗き込む心配そうな目を見て、殆ど負け惜しみに近かった洋平の突っ張りはあえなく白旗を上げていた。
「……まあ、あのままじゃ負けてただろうけどな。そろそろヒロシが用意した別動隊が来る時間だったし、そいつらが予定通り来てりゃ、惨敗ってこたねえだろ。人数じゃオレらが圧倒的優位だったしな。……主役の片桐がいるから心配ねえよ」
もともと洋平は途中で放り出す予定だったのだ。流川の登場でその予定は早まったが、おそらく流川を救うという理由がついた今の方が、味方に疑われる可能性は少ないだろう。流川はかえって物事を良い方に導いたのだ。しかし洋平は流川にそうとは告げなかった。
「なんかねみいや。お前もう帰れよ」
「キス……したい」
「んじゃ、したらさっさと帰れ」
流川は洋平にキスをした。何度もした。洋平は帰れとは言わなかった。流川は、洋平の二つ目の扉が自分に開かれたことを知った。
流川のキスを受けながら、洋平は感じていた。このキスとあの男のキスとの違いは今でも判らない。だけど、流川は自分を見ている。洋平の過去を何も知らずに今の洋平を見ている。自分の知らない自分が存在するのは過去ではない。これがスタートならば、側にいるのが流川であるのは悪いことではない気がした。
洋平には、孤独な戦いを見守る目が必要だった。
翌日、花道の合宿に合流する道を辿りながら、主に大楠がその後の展開を説明していた。全員睡眠不足を絵に描いたような顔をしている。少なくとも学校に着くまでには目覚めなければならなかった。
「 ―― 魔燐罵が加わって形勢は完全に逆転した。そのあとはほとんど片桐の独壇場だ。頭とケリ着けて。あとのことは地区の奴らも目え光らせてっから阿修羅もうかつなことはできねえよ。カンバンがなきゃヤー様も危ねえこたできねえだろうしな。まあ、あんなもんじゃねえの? お前の名前、更にハクがついたけどな」
それが一番困るのだ。洋平はもう絶対に関わり合うのはゴメンこうむるのだから。
それを除けば、二三のやり残しはあったが、まあまあ洋平が思い描いた通りの結末だと言えた。
「ヒロシは。どうした」
「二三人、やけに執念深く殴り倒してたぜ。ブラックジャックの二刀流で。そのあとあっさりアブラムシの仲間入り果たしやがった。なに考えてんだか。あの片桐の必殺究極お人よし野郎につきあえるの、徳永以外いねえと思ってたからな。謎だ」
「なかなかすごかったぜ、ブラックジャックの二刀流。あれ使いこなせたら無敵じゃねえのかな、あいつ。小せえのによくやるよ」
「お前も最後まで見てられたらよかったんにな」
久し振りのイベントに三人はすっかり昔の調子を取り戻してしまったようだった。戦いの中で生きている実感を得る。そんな資質は洋平の中にも確かに存在した。もしも二つの蛇を捨てさることができたら、洋平もまた戦いの中に戻っていくのだろう。
その中に確かに宿る嫌悪を抱きながらも。
了
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