DRIVING COLOR



 それは去年、夏休みが終わりに近づいた頃だった。
 花道は南地区の代表を引退していた。同じく洋平や軍団も受験体勢に入る時期だった。夜は、街を闊歩する人種に合わせて色を変える。初めてヒロシと出会ったのはその一瞬の空白の時だった。
 数日後、噂で聞いた。まだ少女と言っておかしくない一人の女が、数人の男達に強姦されたのだと。
 よくある出来事だったのかもしれない。その証拠に、洋平もすぐに忘れてしまっていた。気にも留めなかった。二度と噂に上ることもなかった。
  ―― ヒロシの強い視線を受けて、洋平だけが気付いた。今までのヒロシの行動の全てが、ただ一つのことを意味していたのだと。
 復讐 ――
 同じ失望を洋平は知っている。それを与え続けたあの男に復讐を果たしたあの時から、未だに這い上がれない自分を知っている。必死で抱き締める花道の腕も、見守る仲間達の優しさも知っている。何も知らずに洋平を受け止め続ける流川の存在も。
 ヒロシは、一人で這い上がってきた。
 一年近くの歳月をかけて、復讐だけを支えにここまで勝ち上がってきた。
 どうして受け止めずにいられただろう。ヒロシはもう一人の洋平なのだ。そして、もう一人の洋平であるヒロシは今、洋平を必要としているのだ。傷を舐め合う同病者としてではなく、共に戦う仲間として。
 洋平に戦いを思い出させてくれたのはヒロシだ。この戦いは誰のものでもない。洋平のものでもなく、アブラムシのものでもなく、ヒロシのものだ。ヒロシが勝つことが、洋平の次なる戦いを促すキーワードになる。
 主役がヒロシであることを誰も知らない。表向きの主役は片桐とアブラムシ。それでいい。影の主役がヒロシであることを、花道の影だった洋平だけが知っていればいい。
 舞台を思う通りに操れるのは演出家だけなのだ。

 足音で、誰が来たのかは判った。
「 ―― 出かけんだけど」
「バイク集団のところか」
「関係あんの?」
 流川は洋平の唇を塞いだ。キスは、嫌いじゃない。目を閉じれば何も見えなくなる。洋平に唇を触れ、何もしゃべらなくなる。
 腕を回して求めた。あとどれくらい、奪い取ることのできるものは流川の中に残っているのだろう。
 全てを奪い尽くしたら何かが変わるのだろうか。
「……水戸……」
「口をきくな」
  ―― そうして奪い尽くした抜け殻でさえ、汚泥を浄化できない。
「そいつらを、殺せばいいのか」
 腹立ちが込み上げてきた。焦りと、怒り。
「オレらのことに口出すんじゃねえ。てめえはバスケだけやってりゃいいんだ」
「桜木みてえにか」
「……最低だお前。帰れ」
「水戸……」
「二度と来んじゃねえ!」
 洋平が怒るのは判っていた。だから今まで口にしなかった。突き飛ばすように離れようとする洋平を放すまいと掴みかかる。ボディーに喰い込んだ拳の重さが、次元を超えたところで流川の力を奪った。
 声が出せない。
「いつまでも自由にできると思ってんじゃねえよ。おとなしく下んなってりゃいい気になりやがって。お前に守ってもらわなけりゃなんねえほど落ちぶれてねえよバーカ」
 だけどこのまま終わりにする訳にはいかなかった。洋平の身体だけが欲しいのではない。だけど、初めてのあの時、流川に開かれていた洋平の入口は、その部分しかなかった。ほかの場所が誰に開かれているのか、知ることもできなかった。
 その言葉を捨て科白にして、洋平は部屋を出ていった。洋平を失うこと以外に怖いことなど流川にはなかった。

 クラッシャーのたまり場になっている倉庫に、アブラムシと片桐と徳永、そしてヒロシがすでに集まっていた。洋平達軍団四人が合流する。ヒロシは、男にしては長髪だが、女だと思って見ればそれほど長い髪ではない。不揃いの前髪が目の表情を隠して、掻き上げる仕種を見せたときにだけ憎しみを浮き彫りにする。
 ヒロシは最初から洋平だけを見ていた。洋平も、初めてまともに目にするヒロシに、自分と同じものかあるいはまったく違う何かを捜していた。
 少なくともヒロシは女ではなかった。
「 ―― 阿修羅とクラッシャーの解散を賭けて奴らの頭とのタイマンに持ち込む。相手はオレがやる。それでいいな」
 片桐の意見に否はなかった。発端はクラッシャーと阿修羅の確執なのだ。誰にも文句をつける余地はないし、もしも片桐が負けても洋平達は傷つかない。クラッシャーのアブラムシが消えるだけだ。もちろんそのあとは阿修羅と同盟との全面戦争になるだろうが。
 むしろその方が今の洋平の気分には合っていたかもしれない。
「残党狩りは南と中の地区同盟に任せる。タンクに阿修羅のステッカー貼ってる奴、残らずやってくれ。ただし、剥がした奴にはそれ以上手は出すな。オレらの目的はあくまで阿修羅の解散だ。そのへん、履き違えないでくれ」
 火曜日の夜を決行の日に決めて、会合は散会した。洋平は仲間達と一緒に倉庫を出る。ドアの外、ほとんど暗闇と言ってもいい所で、先に出ていたヒロシが洋平に目配せした。洋平は仲間達を置いて、ヒロシの前に歩いていった。
「まさか信じてる訳じゃねえよな」
 ヒロシは、片桐が話している間、殆ど口をきかなかった。だから洋平は初めてヒロシの声を聞いた。女を感じさせる要素はなかった。
「阿修羅がタイマンになんか応じる訳はねえな」
 洋平の返答に、ヒロシは満足したように髪を掻き上げた。
「片桐は人を信じ過ぎる。悪いことだって言ってる訳じゃねえよ。あいつはそうすることで、自分の回りに自分を裏切れなくなる人間を作ってんだ。だけどそういうやり方は犠牲が大きい。踏み躙られんのはアブラムシ達だ」
 平和な日常生活を営む上では、片桐のやり方は悪くないのかもしれない。しかしここでは通用しない。汚い仕事をする人間は必要なのだ。
「オレに預けろ。そう言ったよな、オレは」
「半分だけだろ? ……有明の魔燐罵、あの時間に走り抜ける。だからあとのことはお前に頼む」
 この一年、ヒロシは眠っていた訳ではなかった。走り屋の魔燐罵はクリーンな方だ。阿修羅に復讐するために、ヒロシは魔燐罵に渡りをつけて、この日を待っていたのだ。
「終わったら、どうすんだ」
 ヒロシは少し考えた。
「クラッシャーに仲間入りさせてもらうかな」
 復讐のあとは、自分の中のアブラムシとの長い戦いがある。
 洋平が今その戦いの中にいる。

 口に出すことは言い聞かせることだ。目の前に誰がいてもいなくても、口に出されたことを自分では半分しか信じていない。洋平は誰に対しても口にしてきた。『自分には関係のないことだ』と。
 怖いものなど何もないと言い切る人間は、自分の中の恐怖を克服しようと足掻いている。自分には関係がないと言い続けた洋平は、無意識下で関係を断ち切ろうと必死だった。自分を頼り切るアブラムシを断ち切ることで、自分自身のアブラムシを切り捨てようとした。自分を搾取してきた二匹の働き蟻に復讐を果たすことで、蟻への思慕の念を置き去ろうとしていた。
 正直に認めることは負けることのような気がした。
「 ―― アブラムシに持たせる獲物、人数分用意しといて。おっぱじまっちまってからおたおたされてもまぬけだかんな」
「ヤッパの一本くらいで歯向かえるような性根があるたあ思えねえけどな、あいつらじゃ」
「気分だけでいいんだよ。奴らだって阿修羅の野郎どもには恨みがあるんだ」
「そいつに賭けるってことか。片桐の分はどうする?」
「んなもん用意したらこっちが最初のマトんなるぜ。……そうだな、奴のRZ四〇〇R、見えそうな場所にさりげなく配置しといてくれ」
「またさりげなく、かよ」
 大楠の言いように洋平は笑った。大楠に語る洋平の作戦は片桐とのものとは微妙にずれていた。その場が混乱してしまえば多少の差異は判らなくなる。そうして最後は洋平の思うとおりの結末になる。
 一年前までは花道のまとめる南地区を守るためだけに暗躍してきた。それは、大きな諍いを未然に防ぐということだった。しかし今回は違う。どんなに事を荒立てても花道が傷つくことはないのだ。
 ようやく磨かれ始めた、洋平の宝石。
「サツの動きだけ追ってろ。オレら四人が補導されなけりゃそれで構わねえ。適当な理由つけてさっさと抜けるからな」
「裏切んのか?」
「あのなあ。オレらはあくまでタイマンの立会人なんだぜ。乱闘はいわばフソクの事態だ。オレはそれ以上の介入、片桐に約束してねえよ」
「……悪魔だお前」
「オレらが捕まりゃ迷惑被んのは花道だ」
 そう言われてしまうと大楠には次なる言葉はない。大楠は洋平がなぜ今まで介入を控えていたか知っている。花道に迷惑をかけたくないという理由だけで、洋平はこの数か月どこのグループとも付き合わなかったのだ。
「……まあな。お前の言うこと聞いててとりあえず後悔したことねえし」
「片桐に漏らすなよ」
「言えるかバーカ」
  ―― 口に出すことは、自分に言い聞かせること。


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