DRIVING COLOR



  ―― 洋平、お前は私から逃げられはしないんだ
  ―― 本当のお前を理解できるのはこの私だけだ
  ―― お前が欲しがっているもののすべてを、私はお前に与えてやれる
  ―― さあ、洋平、この手を……
「消えうせろ亡霊野郎!」
 目を開けると花道が覗き込んでいた。夢だったのだ。たぶん、誰一人として望んでなどいないはずの夢。
「……洋平、お前、また例の……」
「大丈夫だ。もうふっ切ってる」
 大楠は約束を守って、花道に何も伝えてはいなかった。花道の身に何かが起こっているという様子もなかった。夜、在宅中に泊まりに来たときは、どう逃げることもできない。誠実でないという理由だけで、どちらか片方を切り捨てることはできなかった。
 腕を伸ばして、花道を抱き締めた。花道も応じた。洋平の苦しみを救う手立てを花道は思い浮かべることができない。ただ抱き締めて、痛みの砂時計の砂のすべてが流れ落ちてしまうことを願うだけだった。
 オレが救ってやると、簡単に言えるほど子供ではなかった。
「洋平、オレ、明日はたぶん抜けてこれねえ」
 インターハイ出場の準備の一環で、今花道は赤木の家で追試合宿の最中なのだ。
「心配すんな。今日、たまたま思い出しちまっただけだから。明日にゃ忘れてる」
「大楠か高宮か……ドンチャン騒ぎやって沈没しちまえ」
「……ああ、そうする」
 既に自分一人のものではなくなった花道を実感する。

 翌日の日曜日は、洋平は終日バイトに明け暮れていた。ユーザー車検を二つこなして昼休みになる。その合間を縫って、高宮が訪れていた。珍しいことだった。
「大楠に頼まれてきたぜ。お前、妙なことに巻き込まれてんだってな」
 大楠が聞いたら激怒しそうな科白を高宮は口にした。高宮の方は、情報の出どころを隠したところで洋平にはまるで意味がないのだということを、本人の数百万倍理解していた。
「ワリかったな。機嫌そこねちまった」
「いいさ。短気な奴らにゃ慣れてる。大楠も反省してんだよ。ただあいつは素直じゃねえから」
 煙草に火を付けて、最初の一口を吐き出したあと、洋平は高宮を見た。素直じゃないのは自分も同じだ。洋平は二人いる。双面神のような、互いの顔を永久に見ることのできない二人。
「昨日の今日でなんか判ったんか?」
「名前だけな。正体は未ださっぱり」
「言えよ」
「ヒロシ。……名字なしの」
 初めて聞く名前だった。名字の判るヒロシならいくらでも知っている。しかし高宮の言うヒロシが、いく人かの洋平の知るヒロシではないことは、ウラを取るまでもなく明白だった。
「で?」
「身長百六十。痩せ形でやや長髪。あぶねえ目つきの野郎だ。水戸洋平を舞台に引っ張り込む策を元北中の奴らに授けたのも、流川に絡んだのも同じ奴だって情報だ。ちなみに実際に流川襲ったのは西の奴だ。小遣い銭もらってた」
「西は組織立った動きはなしか」
「今はな。要するに、そのヒロシとかって奴は、今んとこお前を引っ張り出すことしか頭にねえらしんだよ」
「そこまで有名じゃねえぞ、オイ」
「そこがいっちばん判んねえんだよなあ」
 高宮の軽口に、洋平は頬を弛ませた。煙草を踏み消して携帯灰皿に落とし込む。
「大楠に伝えて。さりげなく」
「ヒロシんこと探れってか?」
「なにげなーく、遠回しに、なでるみてえに」
「なんだかなあ」
 立ち上がって伸びをした高宮は、今の会話の全貌をありのままに伝えられた、その時の大楠の反応が見えるような気がした。

 ヒロシとかいう正体不明のやからに引っ張り出されて舞台に上がる気は、洋平にはなかった。しかしだからこそ、足元を救われないよう、ヒロシの正体を探る必要があった。あれから流川に対してなにか仕掛けてくる気配はない。だがその事実は洋平に、真綿で首を絞められているような不快感を残した。
 花道のためでも、流川のためでもない。ただ、洋平は否定したかったのだ。あの男が長くにわたって洋平に与え続けてきた、教育と愛情という名前の二つの屈辱を。
  ―― 流川の指と唇が再現する。
 深く合わされる唇は苛立ちを生む。どんなに求めても、流川の全てを奪い尽くすことはできない。溶け合うほど側にいたくて力強く抱き寄せても、互いの距離はゼロに近づくだけでマイナスにはならない。舌先も、欲望を明らかにしているその部分も受け入れるのに、マイナスになることはない。
 同じだから苛立った。奪うことも奪われることも、同じ行為の中にあって終始する。
 あの男と流川と、いったい何が違うというのだろう。
「……ん、……アァッ……! アゥッ!」
「水戸……。目を……閉じるな」
「うる、せえ……。しゃべってんじゃねえ」
 思い出している。流川の身体が織り成す時の再現を、細胞の一つ一つに刻まれた記憶を呼び戻している。証明したいものがどちらなのか判らなくなる。同じ、であることなのか、違う、ことなのか。
「ハアッ! 違うだろ、もっとだ!」
「水戸」
「名前呼ぶなって言ってんだよ! 聞きたくねえ!」
「……」
 全てを排して、それでも尚違うということが証明できたら ――
 耳にかかる息も、肌も、絡ませる指も。体臭も声もいらない。初めて花道に抱かれたあの時のように、自分の中に沸き上がる衝動が欲しい。真水と汚泥が混じりあうように、いつしか二つの身体は絡まりあい、境目をなくした。汚泥を真水に変えるためには、真水を注ぐだけではどうにもならない。
 ゼロならいらない。洋平のマイナスをプラスに変える、マイナスが欲しい。
 一パーセントの可能性を信じる気持ちだけが、未だ洋平が失っていない、ただ一つのものなのだから。

 バツが悪そうにもじもじして何も言わない大楠を、洋平はパチンコに誘った。平日の夕方で店の中は空いている。私服のなじみ客に、店の連中は何も指摘しようとはしなかった。
 隣で、無意識に玉を弾く。しばらくしたあと、大楠はやっと声を出した。
「……花道のこととか、忘れてた訳じゃねえんだ。たださ、お前があんま冷てえ言い方すっから……」
「お前が謝ることじゃねえさ。オレもお前も、自分の立場でモノ言う。それが判らねえほど狭いココロはもってねえよ」
「ヒロシって奴のことはぜんぜん判ってねえんだ。どの地区調べても上がってこねえ。少しでも知ってそうな奴はみんな口を閉ざしてた。ねばりゃ口割らせることくらいできっけど」
「狙いは変わってねえんだろ?」
「今んとこはな」
「だったらこれ以上必要ねえ。オレが眠ってる限りそいつにゃなんもできねえし」
 花道を使って動かそうとしてくる可能性はある。しかし、そうなったとき、洋平はもう絶対に動かないだろう。ヒロシには最初から判っているのだ。だからここまでまどろっこしい手を打ってきたのだから。
 次は直接くる。そんな予感が洋平にはあった。
「水戸さん」
 二人同時に振り返ると、後ろにいたのは最初に洋平の仕事場に現われた、あの気に食わない男だった。にやにやしていて洋平のムカつきを誘う。
「何だよ。お前もサボか?」
「授業ならとっくに引けてますよ。……外、見てください」
 ガラス張りの店内から、洋平は外を見遣った。繰り返し貼られたポスターの隙間に、男の差し示した人物がいた。厚くかぶさった前髪の合間から覗く強い目。その目と視線が会った瞬間、洋平はある記憶を呼び覚ましていた。
 遠巻きにするヤジ馬の真ん中に、引き裂かれてボロのように棄てられた身体。遠くに響くサイレンの音。虚ろな視線は、洋平を見た。確かに見られたと感じた。本当は見ていたのかどうか定かではない。
 あの時の奴だ。あれが、ヒロシだったのだ。
 視線は外さず、洋平は言った。
「奴に伝えて。……お前の背負ってるモン、オレに半分預けろ、って」
「水戸さん! それじゃあ……」
「おい洋平!」
「あとのことなんか知らねえ。お前らのためでもねえ。オレが動くのは、あいつのためだ」
「っ伝えます! 元南地区の奴らにも、片桐にも!」
 男が走り去ったあと、洋平は大楠に振り返った。大楠はゾクッとした。その表情は、一年前のあの頃の洋平に戻っていた。
「大楠、調べても判らねえ筈だ。オレはあいつを知ってる」
「洋平……」
「 ―― ヒロシは、あの時の女だ」

「 ―― サイタマって夏休みオレらと一緒?」
 洋平は再び徳永の部屋に来ていた。根回しは大楠に一任してある。一つの説明もしなかったことで、大楠はまた少しヘソを曲げたかもしれない。
「信のところは私立だから少し早いんだ。確か金曜で終わり」
「オレら、来週の水曜からダチの合宿で予定入ってんだ。それまでにカタつける」
「正攻法で一気にいくしかねえじゃん」
「複雑に作戦立てて誰がついてくんだよ。主役はアブラムシなんだぜ」
「……違いねえな」
 突然洋平がその気になった理由を、徳永は知らなかった。洋平の言葉を聞いているうちに一年前のことを思い出していた。初めて、隣地区の副代表ではありえない洋平を知った。引退を間近に控えた、あの夏休みのこと。
 あの時の主役は洋平だった。そして、今回の主役は、阿修羅に搾取され続けてきた多くのアブラムシ。
 アブラムシだった自分を一番嫌悪していたのはこの洋平だったのではないのか。
「同盟のセン、固めといてくれ。片桐が来る金曜に顔合わせセッティングしとく。忙しいけどな」
「水戸……」
 複雑な徳永の顔を見て、洋平は徳永の聞きたいことが判った気がした。
「お前が本気になんのはアブラムシのためじゃねえ。……あのヒロシとかいう奴、あいつに何を見てる」
 答えは簡単に済ませた。
「オレじゃねえ、もう一人の水戸洋平、かな」


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