DRIVING COLOR
いつの頃からか、花道に煩わしさを感じるようになった。
「 ―― 阿修羅がクラッシャーにターゲットを絞ってきてるようです。知っての通りクラッシャーはガキの寄せ集めですから、潰されるのは時間の問題ってとこでしょうけどね。けどそうなると阿修羅の勢力はますますデカくなるんス。オレらもできることならクラッシャーにしばらくマトになったまんまでいてもらいたくて」
今は洋平一人きりの整備工場。仕事の手を休めることなく、洋平は言った。
「で? オレに何しろっての?」
「はっきり言います。……水戸さん、片桐に手え貸してもらえませんか?」
湘北に入ってからは、洋平は一度も、昔桜木軍団の傘下だった中学の同輩から勢力図の変動について報告を受けるようなことはなかった。一年前、花道が地区の代表を引退したときから、洋平もその手の集団と関わることはなくなっている。その花道がバスケ部に入ってからはなおさら、族に恨みを買うようなことは極力避けていた。
中学時代、隣地区の総長だった片桐信に手を貸すということは、その片桐が頭をつとめるクラッシャーに手を貸すことであり、付近の最大勢力とされる阿修羅を敵に回すということだった。
「オレはな、片桐とは昔タイマン寸前までいってんだぜ。なんでそういう楽観的観測ができるわけ?」
「水戸さんは片桐に借りがあるんじゃなかったですか?」
「んなもんねえよ」
「……じゃあ、水戸さんはオレらも見捨てるってことっスね」
腹が立った。昔、この男がまだ桜木軍団の傘下にいた頃、洋平達は彼らを使って軍団の勢力を確固たるものにした。しかしそれは洋平がこの男に借りを作ったというものではない。それなのにこの男は、自らの安全のために洋平を危険にさらそうとしているのだ。それならそうと素直に言えばいい。
「時間稼ぎしてる暇があったら自分らが生き残れる方法でも考えろよ。いつまでもガキみてえに頼ってんじゃねえ」
冷たく言い放った洋平に、男はそれ以上何も言うことができなかった。
部屋に明かりがついていた。見上げた洋平は、一度うつむいた後、踵を返す。花道が洋平のアパートに来る回数は減っていた。それがなぜなのかも判っているつもりだった。
互いの関係を終わりにできるならとっくにしていた。ただ、花道を穢した事実だけは忘れられない。粉々に砕く前に手放したいだけだ。今でも輝きを失うことのない宝石。
バスケに嫉妬しているのだとは認めたくなかった。
クラッシャーの溜り場の倉庫に近いホテル街に足を踏み入れていた。さっきの男の言葉が頭の隅にこびりついていたからなのかもしれなかった。足を止めて、意外な光景を目のあたりにする。大楠が伴っているのは流川だった。
「洋平! お前、あんま心配させんなよ! どこ行ってた!」
「……お前ら、そういう仲?」
ホテルの看板を差し示した洋平に、大楠は慌てて反論した。
「誰が! ……こいつはあれだよ。妙な奴に絡まれてっから仕方なく……。そうじゃねえ! お前、いつの間に片桐についたんだ!」
「……情報が入り乱れてんな」
洋平に対する流川の視線は奇妙な輝きを放っていた。こんな場所で偶然顔を合わせたからそう見えたのかもしれない。
「とにかくここはやべえ。どっか落ち着けるとこ案内しろや」
洋平に言われて大楠が案内したのは、二十四時間営業のバーガーショップだった。
「 ―― で? 誰が何言ったん?」
「元北中の……川瀬とかいう奴。今は虎威闇狂とかいうふざけた名前のチームの。あいつがオレのとこに来て、お前がクラッシャーと阿修羅の対立に巻き込まれて阿修羅の奴らにつけ狙われてっからなんとかしてやれって。マジか?」
洋平は、自分がとんでもない事態に巻き込まれてしまっていることを知った。おそらくこの情報は阿修羅のメンバーにも広まっている。嘘が誠になっているのだ。
「……嵌められたらしいな」
「どういうこった」
「わりい大楠。ウラ、探って。そのハナシ流した奴、シメちまってよ。できればオレらの名前出ねえように」
「……珍しいな。お前がそこまでキレんの。説明しろよ」
「そいつが全部知ってる」
「ドケチ! ……クソ。貸しだかんな! そこにいるデクの棒に言っとけ! 二度と変な場所うろつくな、って!」
大楠がシェークを引っ掴んで店を出ていった後、洋平は苦笑して流川に振り返った。
「 ―― だってさ」
初めて流川と寝たときのことは覚えている。
浮かんでくる花道のイメージを払拭するように声を上げた。愛情に飢えたあの男と、過去の罪状に囚われていたあの女の呪縛から逃れるように身体をくねらせた。誰でもよかった。洋平が選んだ訳ではなかった。
今でも、同じ。
「 ―― 金髪の奴が教えてくれた。お前が五十人のバイク集団に狙われてる」
「あいつは親切が過ぎるな」
ベッドから起き上がって、洋平は煙草に火をつけた。こうすればいつでもどこでも孤独になれる。現実は、煙にぼやけて見えなくなる。
「本当なのか?」
「嘘だよ。でなけりゃ今頃は病院のベッドの上だ」
「これからそうなるかもしれねえ」
「だったら病室忍び込んでヤレよ。簡単だろ?」
他人の心配をすることが洋平はできなかった。だから、他人に心配されることも苦痛だった。昔の自分を知らないから、あの時の流川の誘いに応じたのかもしれない。このまま永久に洋平を理解することができないだろうと思えたから。
誰も彼もなぜ踏み込んでくるのだろう。
「側にいたら……守れる」
―― そうせずにいられないのか。
「もう帰れば?」
阿修羅の連中は、さすがにここを張り込むだけのオツムはないようだった。クラッシャーのサブをつとめる徳永エイジのアパートは、一年前と少しも変わらず閑散としている。冷房設備のないアパートの裏側からガラス窓の開放を確認して部屋をノックした。出てきたのは徳永一人だった。
「……信ならいねえよ。平日はゲキマブちゃんの家」
「教えろ」
「サイタマまで行くつもりか?」
諦めて、洋平は部屋に上がり込んだ。一年前のこの部屋は禁煙だった。今でも変わっていないのだろう。
「いつならいるんだ」
「金曜の夜から日曜の夕方までかな。なにしろ高校入学と同時に引っ越しちまったから。片道二時間かかるし」
「……それでよく阿修羅と戦争しようなんて思うな」
ミネラルウォーターを注いだマグカップをテーブルに乗せて、徳永は洋平の正面に座った。
「例によって優等生片桐信的お節介。クラッシャーのメンバーってのは、もとは阿修羅の資金源だったアブラムシなわけよ。そいつらを一人一人拾って、メンバーに組み込んじまった。阿修羅は怒るさ、甘い汁が吸えなくなっちまったんだかんな。そんで、集中砲火目前」
洋平にはなかなか信じがたい経緯だった。カツアゲは、される奴が悪い。されたくなければ強くなればいい。助けを求めたのならまだしも、タダで拾ってもらおうなんて虫がいいにもほどがあるというものだ。アブラムシよりも始末が悪い。
そういう奴らが大半を占めるクラッシャーは、長くないだろう。
「救いがてえな、てめえのマブダチは」
「付き合ってるうちに快感になるぜ。正義感あふれる正論てのもな」
「マゾかよ」
「オレ、けっこう信の奴に惚れてるし」
「……あいつ、あの顔で悶えんの?」
「バーカ! 信と寝るくらいならアジャコングと寝てら! 変なソーゾーさせんな!」
「こっちの科白だバカ」
アジャコングの肢体のイメージを振り切って、洋平は立ち上がった。
「たぶんもうこねえ。骨も拾ってやるつもりはねえ」
「信に出向くように伝えとくわ」
それには答えず、洋平は部屋を出た。
「 ―― やっぱ虎威闇狂の元北中の奴らが出どころだった。広報に回ってたのは西中の中坊だ。シメといたからそれ以上お前の噂は広がらねえと思う。阿修羅も裏とれなけりゃ静観の構えだろ? ……けどな」
その週の土曜日の早朝、洋平は大楠に寝込みを襲われていた。もちろん、自分が頼んだ事の次第の報告に来た大楠に、文句など言えるはずがなかった。昨夜の流川の仕種が目の前をちらつく。
「それだけ判りゃ上等だ。オレは手を引く」
「オレ、今度のことですげえ身にしみた。……ほんとにやべえんだ、阿修羅ってのは」
「オレには関係ねえよ」
「資金源断たれてんだ! ヤクザ予備軍みてえな奴らが次に何に目え付けんのかくれえ判んだろ!」
「一月前にはクラッシャーの名前は聞こえてた。なのに未だに制裁はねえ。……大楠、とっくだ。阿修羅はとっくにクスリに手え出してる」
洋平の危険を孕んだ視線に、大楠は血の気が引いていくのを感じた。二年前、同じように族からクスリが流れたことがあった。その時、花道が抱えていた南地区の兵隊のうち四人が、クスリでやられたのだ。
今のうちに潰さなければ、同じことが繰り返される。
「判ってて……なんでてめえは関係ねえなんて言えんだよ! 洋平!」
「ケータイ貸してやっから一一〇番でもしろよ」
「ふざけんなよ! お前は奴らのことかわいくねえのかよ!」
「自分の身は自分で守らせろ」
「この……!」
洋平に掴みかかろうとして、大楠は自制した。そのまま踵を返して出てゆく。詰めていた息を、洋平は大きく吐き出した。
花道がバスケを始めたとき、洋平は族とは二度と関わらないことを決めたのだ。
バイクの音がして、アパートの下で止まった。誰が来たのかはだいたい想像がついた。予想通りであれば族車仕様はなっていないだろう。やがて玄関から現われたのは、思ったとおり片桐信だった。
「その後、変わりはねえか?」
片桐の最初の一言で思い出した。この男と話をすると、必ず洋平はムカつくのだ。
「入れよ。てめえと話してるとこ、見られたくねえ」
「悪かったな。よけいなことに巻き込んじまって」
まったくだ、と思う。片桐が資金源を断たなければ、阿修羅がクスリに手を出すまでもう少し時間稼ぎができただろう。
「アブラムシは何人だ」
「総勢二十一人てとこか」
「お前と徳永と」
「含めてな」
本気で頭痛モノだ。どうしてこの男は身も心もサイタマ県民にならなかったのか。
「中地区内のグループで同盟の動きが出てる。水戸、南地区はどうだ?」
「……なーんか、まどろっこしいやり方してっけど、うちの方の狙いもそれっぽいな。けど、オレは知らねえよ。とっくに戦線離脱してんだ」
「お前を動かすにはまず桜木を動かせ、ってことか」
洋平は目だけを動かして片桐を見た。叩いたら音を出しそうなほど張り詰めた空気が互いを覆う。その空気を震わせたのは、洋平だった。
「花道の時代はもう終わってる。オレも一緒に終わった」
「そう思ってる奴はとうの水戸洋平くらいだ。現に阿修羅の奴らもヤブをつつこうとはしなかったじゃねえか」
「つついたって何も出てこねえからだろ」
「いるんだ。ヤブの中には眠れる蛇がな。……それも、蛇の頭が一つじゃねえって、気づいてる奴がいる」
洋平は慄然とした。それは今まで考えもしなかった図式だった。洋平という蛇の頭の一つが花道であるとするならば、もう一つは。
既に一度、目を付けられたのだ。大楠が通りかかったのは偶然だったが、絡まれたのが偶然じゃなかったとしたら ――
洋平が目を覚まさない限り、ヤブはつつかれ続けるだろう。
「けしかけた奴は誰だ」
「少なくともオレらじゃねえことは確かだ」
「話んなんねえ。数頼みゃいいってもんじゃねえだろ。オレはもう引退してんだ、一年も前に。なんだってガキのシリ拭いのために動かなけりゃなんねんだよ」
「そいつは……お前が桜木花道を動かしてた、事実上の南地区代表だったからだろ」
―― いつまでもついて回る。あの男の影が。
今、遠く離れた場所にいながらも、あの男は洋平を縛り続けているのだ。
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