CITY COLLECTION



 そろそろ予告時間の五分前になろうというのに未だレッドフォックスもドラゴンも現われる気配がないことから、赤木はかなりのイライラをつのらせていた。
 赤木がいるのは母屋の正面玄関の前である。そこから門までは一本道であるし、今は噴水も止まっているのでかなり見通しが利く。そこで無線機片手に部下と連絡を取りながら情報収集をしているのである。ちなみに魚住は母屋の反対側の人口湖の方を見張っていた。
 連絡の取れなくなった部下はいない。異状を訴える声もない。壁の中は少しの変化もないのだ。レッドフォックスやドラゴンがすでに屋敷に侵入していたとしても、何かの痕跡は残しているはずである。それまでのレッドフォックスの行動は確かにそうだった。あの派手な三人組は、騒ぎを起こさずにいられないのではないかと思わせるほど賑やかな連中だったのだから。
 ドラゴンがグループなのか個人なのか知る術はなかったが、たとえ一人であっても合計四人の泥棒が敷地内にひしめいていればそれはどんなに巧みに隠れようとしても見つかるはずである。部下には言ってあるのだ。たとえどんな小さな異状でも報告するようにと。
 赤木は知らなかった。それまでの盗みで騒ぎを起こし、痕跡を残してあまりある賑やかな連中は、レッドフォックスの中の二人なのだということを。今回その二人は壁の外にいて、屋敷内に入ったのはたった一人なのだということを。そしてその男は盗みで騒ぎや痕跡など、まったく残さない男なのだということを。
 暗闇の中、懐中電灯を照らしながら警備する赤木捜査課長のイライラは、そろそろ頂点に達しようとしていた。

 そしてそのころ、屋敷の中でコンピューターとの対決に勝利をおさめ続けてきたラビットは、その最後の警備システムをおとなしくさせることに成功していた。そして、ロックされている扉を開ける。かなりの広さを持つその部屋の中に、今夜はたった一つの彫刻が台座に据えられて立ちつくしていたのだ。
 懐中電灯を向けて確認する。伸びやかな肢体を持つ等身大ガラス彫刻は、そのタイトルの通り目覚めたばかりのまどろみの中にいる暁の美少年であった。微妙な明かりに輝く肉体は完璧なまでに美しく、その毛筋の一つ一つまでがすべて神に愛された人間のそれのようである。その唇はまるで見るものを怪しい官能の世界へ引きずり込もうとでもいうように僅かに開かれている。本当に少しの時間ではあったが、ラビットはその幻想的な風景に心を奪われていた。
 やがてラビットは壊す訳にはいかない精密機械とトランシーバーを、床の邪魔にならないところにおろした。そして、台座の回りを一回り回ってみる。高さは一メートルほどであるが、ラビットにそれを降ろす力はないようだった。それに重さ八十キロではラビットでは運び出すことはまず不可能だろう。
 そのまま回り続ける。すると、ラビットが苦労して通過した死の廊下を、軽快な足取りで無造作に進入してくる一つの足音を聞いたのである。
(まずはご対面、か)
 それでも用心しながら顔を出したのは、警察官の制服を着たがっちりした男だった。だがその容貌は花道に確認し、自らも調べた顔に相違ない。今回レッドフォックスに挑戦状をたたきつけるという大それたことをしでかした泥棒、ドラゴンだったのである。
 ドラゴンは彫刻を確認し、ラビットを見て仰天する。まさか一人で来るとは思わなかったのだ。しかしやがて、その顔に自信の笑みが浮かんだのだ。
「お前がラビットか。ふん、ここまで来られたことは褒めてやろう。だがここまでだ。暁の美少年はこのドラゴンがいただく」
 片腹痛いとはこのことである。ラビットがシステムを止めなければ、ドラゴンは永久にこの部屋にたどり着くことはなかっただろう。
 声が分析されることを恐れて、無言のままラビットは戦闘体勢に入る。そんなラビットの様子にドラゴンも戦闘意欲を燃やしていた。もともとがレッドの先輩である。腕にかなりの自信を持っていることは言うまでもない。薄闇の中で殴りかかったドラゴンは、僅か二秒という早さでラビットを床に殴り倒したのである。
 そのままラビットが動かないことを確認する。そして、静かに彫刻を台座から降ろし始めた。ガラス製であるからドラゴンも慎重である。指の一本でも損なえば価値は半減するのだ。それでもなんとか作業を終え、その魅力的な裸身像を両手に抱えたドラゴンは嬉々として部屋を出ていったのだった。
 そして足音が完全に聞こえなくなったころ、ラビットはむくりと起き上がる。急所は外したが床にたたきつけられて背中をしこたま打ちつけたのだ。それを今まで我慢するとは、さすがにプロである。
 ターゲットを奪われてしまった哀れなレッドフォックスのラビットは、痛む身体を引きずって電波の通じるところまで歩いた。そして仲間に指示を与えるためにトランシーバーを取ったのである。

 さて、レッドフォックスの残りのメンバーであるが、もちろんただ黙ってラビットからの連絡を待っていたわけではない。ピアノ線を回収したあと、二人はまた人の家の庭を通って移動を始めたのだ。そこはおそらくドラゴンが侵入経路とするだろう田圃沿いの外壁である。辿り着いた二人は周囲を警戒しながら、あらかじめ指示されていたとおり、ドラゴンの痕跡を探したのだ。
 それはほどなく見つかった。隣の田圃から地下を通ってトンネルが掘られているのを、二人は発見したのである。
 人一人が腰をかがめて通れるほどの穴だった。そんな穴を掘る方も掘る方だが、今日まで見つけられなかった警察もどうかしているというものである。外壁の脇の舗装道路の下を通っているのだから、距離も相当なものなのだ。ドラゴンが彫刻を通すためにこつこつと掘り進めていったことを思えば、涙さえ出て来るような話である。
 やがてトランシーバーから入った連絡によって、ラビットがドラゴンに彫刻を奪われたことが伝えられた。フォックスが穴のことを話すと、ラビットは言ったのである。
『それじゃ二人とも慎重に穴を通ってきてくれ。くれぐれも警官に見つかるなよ』
「……この穴をか? 人間のすることじゃねえ。奴が出てきたところで奪い返しゃいいじゃねえか」
『それじゃレッドフォックスが盗んだことにならねえだろうが。勝負は敷地の中でつけるんだ。でなけりゃオレ達が勝ったって誰も認めねえだろ』
 どこで奪い返してもたいした違いはないような気がしたが、ラビットの言葉にフォックスもそういうものなのかもしれないと納得する。レッドはすでに穴の中を覗いて安全性を確かめていた。あきらめてフォックスも穴に入ることを決意する。どちらにせよ二人が壁の向こうに渡るためにはここを通るよりほか道はなかったのだから。
「フォックス、もぐらは英語でなんて言うんだ?」
 トンネルの中でのレッドの退屈しのぎの言葉に、フォックスもなんとなく答えていた。
「a mole」
「ドラゴンの奴、名前それに変えりゃいいんだ」
 そんな二人であったが、もぐらを漢字で書くと土竜になることは、当然のことながら知らなかった。

 ドラゴンが重い彫刻を運びつつ建物の非公式な入口を用心深く通り抜けたとき、突然両側から二人の男が現われていた。一人は昔の仲間のレッド。そしてもう一人は怪盗レッドフォックスの正式な構成員、フォックスであった。
 目的は明らかである。二人はドラゴンの持つ彫刻を奪い返しに来たのだ。
「どうしてここから出て来るって……」
 この場所はドラゴンが吟味に吟味を重ねて選んだ場所なのだ。建物の外壁が少しへこんでいるために警察官が間近まで来なければ発見されることもなく、壁の非常出口は彫刻の搬出も容易な程度に広い。向かいの塀の手前は深い植え込みの陰で、塀の向こうは刈り入れの終わった田圃である。すべてにおいて一番都合のいい場所だった。だからこそラビットはここがドラゴンの侵入経路だと見当がついたのだ。だが、ドラゴンは元々肉体派の泥棒であるので、そこまでは思い至らなかった。
「ドラゴン、悪いこた言わねえ。素直に彫刻渡せよ。二対一だ。逃げられるとは思ってねえだろ?」
 この巨大な彫刻がせめて宝石なら、逃げ足で遅れをとるドラゴンではなかっただろう。だが重い彫刻を抱えての逃走は不可能だった。レッドとの一騎打ちであればなんとかなるかもしれない。しかし得体の知れないフォックスが混じれば、勝負は明らかにレッドフォックスの優勢だった。
「三対一だ。これで全員そろったな」
 うしろの出口からラビットがひょっこり顔を出す。しかし彼らに再会を喜びあう時間もなさそうだ。時が経てば、巡回の警察官に見咎められるのは必然だった。
「三対一とは卑怯な。レッド、オレはお前をそんな男に育てた覚えはねえぞ」
 レッドにしてみれば育てられた覚えもないというところであろう。だが、そんな問答に費やせる時間はなかった。そんな緊張の中、ふいに流川が三十八口径の銃を構えてドラゴンの胸に狙いを定めたのである。
「さっさと渡せ。オレはそう気が長くねえ」
 ドラゴンにとってまさに絶体絶命。しかし同時にこの状況はレッドフォックスにとっても歓迎すべきでない事態だった。彫刻を奪い返すのが遅れれば遅れるだけ、レッドフォックスの捕まる可能性は雪だるま式に増加する。流川の危険をはらんだ視線に、ドラゴンの目は打開策を求めて落ち着きなく彷徨った。そして、その視線がそれに止まったのである。
「……地獄へ落ちろ」
 そう言った途端、ドラゴンは彫刻を置いて一歩後方に跳びすさった。そして横にいたラビットをフォックスのいる方向へと突き飛ばす。その一瞬にドラゴンはラビットの腰からそれを抜き取っていたのだ。そしてフォックスに狙いを定めて引き金を引いたその瞬間 ――
「ウゲッ!」
 ドラゴンは衝撃にもんどりうって倒れたのだ。ドラゴンは知らなかった。ラビットの持つ銃が、ラビット以外の人間には絶対に扱えない珍品であるということを。つんのめって転がったラビットはうしろを振り返って倒れたドラゴンを目にすることになる。身体中が痙攣してしゃべることも動くこともできなくなっているドラゴンに、そんなものを初めて見た洋平は言葉を失い、しかし気力を取り戻して言ったのだ。
「……だから言ったんだ。泥棒が銃なんか使うとロクなことはねえって」
 ほかの二人もあまりの効き目に呆然としていたが、ラビットの言葉に反論するようにフォックスが言った。
「役に立ったじゃねえか」
「ああ。……とりあえずこの不毛な状況からは解放されたな」
「ドラゴン、大丈夫か?」
 不幸にもラビットの護身銃の最初の犠牲者となってしまったドラゴンに、ただ一人心配してレッドは声をかけた。そのドラゴンは悔しさに奥歯を噛み締めたい衝動に駆られていたが、震える身体に歯が噛み合わず、諦めざるを得なかった。ドラゴンの手からこぼれ落ちた銃を、フォックスが拾ってラビットに手渡す。銃を再びガンベルトに戻したラビットに言ったのはレッドだった。
「ラビット、ドラゴンはどうするんだ? このまま置いてったら捕まらねえか?」
 純粋な心配もあるが、逮捕されたドラゴンからレッドフォックスの正体がバレるのを警戒しての言葉でもある。とっさに答えられなかったラビットに代わって口を開いたのはフォックスの方だった。
「痺れはせいぜい十分で消える。そのあと捕まるかどうかはこいつしだいだ。それよりラビット。まさかもう一度あのトンネル通れとか言わねえだろうな」
 一度でこりてしまったのか。どちらにせよ、ラビットとしても人の掘ったトンネルから脱出というのはプライドが許さないようなところがある。それにあのトンネルはいささか長過ぎた。もしも通過中に見つかってしまったら、袋のねずみならぬ袋のレッドフォックスは間違いないだろう。
「作戦に変更はなしだ。そろそろ警官が気づくころだから頼むぜ、二人とも」
 そう言い捨ててラビットは再び建物の中に戻ってゆく。一番近い場所にある配電盤をこじあけた時だった。外にいる二人と警察官の格好をして倒れているドラゴンを、見張りの警官グループの一つが見つけたのは。
「見つけたぞ! レッドフォックスだ!」
 それからの数分間は、二人にとって一番しんどい時間となるのである。

 その少し前、居並ぶモニターの前に陣取った藤真健司は、いわゆる金庫室でのラビットとドラゴンの様子を見て、腹を抱えて大笑いしていた。画面の方はすでに彫刻を抱えて来た道を戻るドラゴンと、気づかれないようにあとを追っているラビットの姿が映し出されている。藤真がこんなに楽しそうに笑う姿を見たのは、花形はまるっきり初めてのことだった。
「ハハハ……最高だ、ラビットの奴。ドラゴンに運び屋の役やらせちまった」
「藤真……」
 花形にしてみれば気が気ではない。自分の作った彫刻が盗まれようとしているのだ。この、最近になってもてはやされ始めた芸術家はどちらかと言えばまだ素人臭さが抜けてはいなかったが、少なくとも自分の作った作品への矜持はベテラン並に持っている。ことさらに愛情を注いで作り上げた作品が手元を離れていくのは、耐えがたい苦痛のように思われたのだ。
「どこで取り返すつもりだろ。ちゃんとセンサーの働いてる場所だといいな」
「藤真、このままじゃ本当に盗まれてしまうよ。あの彫刻は藤真そのものなのに」
「花形……?」
 その一言だけで、花形の気持ちは藤真に伝わっていた。少し潤んだ、少しの微笑みをたたえた瞳で花形を見返す。花形の手をとって引き寄せ、椅子の前に膝を折らせて言った。
「オレはここにいるよ。ここにいるオレは、お前が愛すればどんどん輝きを増す作品だ。それのどこが不満なの?」
 だけどあの彫刻は藤真そのものなのだ。誰かの手に渡ることなど耐えられない気がする。誰かがあの彫刻に触れていると思うだけで気が狂うような気がする。誰にも、たとえ一部分でも、藤真を渡したくはない。
「オレ……欲張りだと思う? 人目に触れさせたくないんだ。たとえ彫刻でも、あれは藤真だから」
「欲張りは好きだよ。ゾクゾクする。お前が彫刻を作ったり、絵を描いたりするとき、お前に見つめられてるだけでオレは身体がとろけそうな気分になるんだ。彫刻の肩や腕にお前の指が触れると、まるで自分が触れられてるような気がする。身体に震えがきて、立っていられなくなるんだ。……時にはイマジネーションの方が実物より感じるんだよ。あからさまな愛情表現よりも押し殺して時々かいま見せる欲情の方がより心を動かすようにね。
 ねえ、花形。あの最高の時間をもう一度味わいたいと思わない? 同じ作品は二度と作らないって言ってたけど、盗まれて失われたらもう一度作ってくれるだろう? ……何度でも感じたいんだ。人の手に渡った彫刻のことなんか忘れてしまいなよ。実物に触れられるのは世界にたった一人、お前だけなんだから」
 自らの手を握りしめる両手に、花形は唇を押しつけた。その右手には傷がある。花形は美しいものの崇拝者だった。
「傷を作らなければよかった。そうしたらあれは藤真じゃなかったのに」
「あんな彫刻こわれてしまえばいいのにね」
 やがて ――
 再びモニターに目を映した藤真は、ラビットの真価を知って顔を青ざめさせることになる。ドラゴンを倒し、建物の内部に戻ってきたラビットは、ウィルスを植えつけてコンピューターを壊滅状態にしてしまったのである。
 非常事態を知らせるベルの音は、藤真の精神にしばらく立ち直れないほどの大きなダメージを与えるのだった。

『見つけたぞ! レッドフォックスだ!』
 その叫びは直接赤木の耳に届いた訳ではなかった。無線機に飛び込んできたのである。一気に頭に血をのぼらせた赤木は、場所と人数を確認すると自分もかけつけながら指示を出したのである。
「現在建物の東側半分を巡回中のものは全員集合しろ! ほかのものは指示があるまで待機!」
 そして赤木がかけつけたとき、警官七人がレッドフォックスの二人のメンバーによって既に戦闘不能にされていたのである。
 すぐに巨大なライトによって二人が照らされる。前回の時、警官二十人を投入したにもかかわらず見事に逃げられてしまったレッドと、赤木が一騎打ちで追いつめながらもラビットとの連携プレイで逆に赤木の方が昏倒させられたフォックスである。その二人は今は逃げることもせず、捕まえにかかった警官を殴り倒すことに体力を使っていた。それこそ好機とばかりにネットを投げたりロープを巻きつけようとしてみたりするのだが、それらはことごとくあしらわれていった。
 警察官の捕りものは喧嘩ではない。回りを埋めるのは専門的に訓練された警察官達なのだ。それなのにあらゆる方法で試しても、移動しない標的を捕まえることすらできないのだ。それほど、二人の連携プレイは見事だったと言わざるをえなかった。
 赤木が銃の使用を許可するかどうか決断にとまどっていると、やがて建物からラビットが出てきて彼らの様子は一変した。それまでただ警官をあしらうためだけに行動していた二人のうち、レッドが彫刻を抱え、フォックスが銃を抜いたのである。
 その時だった。屋敷からとんでもない音量の非常ベルが鳴り響いたのは。
 瞬間、一番早く行動したのはラビットだった。一足飛びで赤木に走り寄り、捕まえにかかる赤木を目にしてそれを避けるように壁に向かって飛んだ。そして片足で反動をつけて顔面に膝をヒットさせたのである。倒れないまでもふらついた赤木に次の瞬間フォックスが足払いをかける。その脇をレッドが彫刻を抱えて通過した。振り返った赤木は怒りを全身から放出してベルに負けないような大声で叫んだのだ。
「レッドを捕まえろ! ほかは構わん!」
 それまでの彼らに足りなかったのは結局のところそれなのである。連携プレイの見事さに騙され、気がつかないまま二兎を追ってしまったのだ。目的は彫刻を持ったレッドだけでいい。レッドさえ捕まえてしまえば彫刻は取り戻せるし、自白させれば居所はすぐにわかるだろう。どうやら正規の門の方向に向かっていると見た赤木は、屋敷内の全員に指示を出し、門を固めさせた。それと同時に彫刻を抱えて逃げ足の遅くなったレッドに警官隊が手を伸ばすのだが、それらはことごとくラビットとフォックスによって退けられていったのであった。
「レッドフォックス……貴様ら許さん!」
 走って追い掛けていた赤木はこの時とうとうぶっちぎれた。そして、脇を一緒に走っていた部下の静止を振り切って、拳銃を抜いたのである。
「課長!」
「死ね、レッド!」
 敵味方を通じて今夜初めて発射された弾丸。銃声を聞いた赤木の側の警官達はその行方を追った。レッドをねらった弾丸はレッドを貫きはしなかった。両側を走っていたフォックスとラビットにも当たらなかった。銃弾はその時、とんでもないものを貫いたのである。
  ―― カシャ……ン!
 軽快な音に振り向いたすべての人間は、キラキラ舞い落ちる硝子の破片に心を奪われた。美しい彫刻は壊れる瞬間も美しかった。レッドが抱えていたFUJIMAコレクション暁の美少年の、身体からはみ出した右腕の部分。肘から下は砕けてその芸術的な腕は一瞬にしてただのガラスになってしまったのだ。
 自分のしたことに呆然として膝を折った赤木の元に、無断で持ち場を離れた彩子がかけつけていた。レッドフォックスは既に追いつけない距離にまで遠ざかっている。意気消沈してひたすら地面を叩き続ける赤木を慰めるように、彩子は赤木の肩を抱いた。もしも側にいたら、こんな事態にはならなかったかもしれない。
「オレは……何てこと……。何て愚かな……」
 慰めの言葉は見つからなかった。赤木の人生はじまって以来の失態である。すべては赤木が冷静さを欠いていたことがもたらしたのだ。赤木を疲れさせないよう彩子がもっと気を配っていればという思いは、赤木にとって自分が必要な存在なのだと感じるのに十分だった。
「課長、自分ばかりを責めないでください。それより今はレッドフォックスを捕まえることです。私達も行きましょう」
 気力を取り戻した赤木を見ながら、今夜が終わってしばらくして赤木が落ち着いた頃、飲みに誘ってみようと彩子は決心した。

 赤木から無線連絡が入ったとき、晴子達のグループは割と正門に近いところを警備していた。だからすぐに正門を固めることができたのだ。晴子は松井さんと交通課の男性警官との三人で組んでいたのだが、男性警官はレッドフォックスを捕まえるため、グループを離れて屋敷の方に向かったのである。
 晴子達のほかにも続々と婦人警官達が集まりはじめていた。そして、彼女達が背を向けた正門に異変が起こりはじめたのである。
「え? なに……?」
 それまで固く閉じられていた門扉がゆっくりと開いたのである。この門も母屋のコンピューター制御で、警官隊が到着したあとはずっと閉じられたままだった。それが動き出したかと思うと、ぴたっと止まって今度は閉じ始め、半分閉じてまた開くという奇妙な動きを始めたのだ。彼女達は知らなかったが、これはラビットがコンピューターに植えつけたウィルスの作用だった。
 やがて騒ぎの中心が近づいてくる。警官隊のほとんどを突破したレッドフォックスが最後に対決を迫られたのは婦人警官隊であった。交通課の婦人警官とはいえ、それなりの訓練は受けている彼女達である。広い屋敷を走り回り疲れも出てきた泥棒達が手を抜ける相手ではなかった。
 肘から下のないミロのヴィーナス然とした彫刻を抱えたレッドを守りながら、ラビットとフォックスがなるべく手荒にならないように婦人警官達を突破してゆく。目の前はすぐに門だった。まるでサウンドにあわせて踊っているような動きの門だったが、これを突破してしまえば門の外にほとんど警察官はいないのだ。そこまであと十メートルもない。最後の力を振り絞るように、三人は人波を押しのけ進んでいった。そして、最後に立ちはだかる晴子の横を通り過ぎたとき……
 フォックスは晴子と目を合わせてしまったのだ。晴子の動きがぴたっと止まる。その頭のなかで、記憶と記憶とが不思議な回路で結ばれた瞬間だった。その目、その口元。晴子の心に一番大きな位置を占めて存在するその男性 ――
(流川……君……?)
 それまで気づかなかったのが不思議だった。モンタージュ写真も特徴も、何度も見ていたはずなのだ。流川がフォックスで、桜木がレッドで洋平がラビット。同じ三人組で、これほど特徴のぴったりする人間がほかにいるはずがない。そうして照らしあわせたとき、思い当たる節はいくらでもあるのだ。最初に流川を見たとき、それは捜査課の電話を直しにきた流川だった。電話に何か細工をするために来たのではないのか。そして、指紋をきれいに拭っていったのではないのだろうか。
「晴子! 大丈夫?」
 同僚の松井さんが気づいて側に寄ってきていた。レッドフォックスは既に踊る門扉を突破してしまっていた。
「あの人……」
「どうしたの? ……まさか、知ってる人だったの?」
「ううん! 違うの! そうじゃなくて……」
「顔を見たんなら報告はあとですればいいわ。今怪我人の手当と点呼してるの。あたし達も行きましょう」
「……そうね」
 とっさに嘘をついた晴子であったが、この時はまだ自分がいったいどうすればいいのか判ってはいなかった。


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