CITY COLLECTION
藤真邸の門を出て、車に乗り、非常線を突破して走り回ること一時間。三人の泥棒はやっとそのアジトに帰りつくことができていた。思えば遠い道程ではあったが、彼らに感慨の気分はなかった。晴子にバレたのだ。それはレッドフォックスのアジトをほとんどパニックに陥れていた。
「晴子ちゃんはこの家も知ってるし警察官だしおまけにゴリラ課長の妹だし……」
実際のところ、パニックしてたのは洋平だけである。花道はことの重大さをそれほど把握してはいなかった。流川の方は元々パニックという言葉から程遠い人間であるし、よしんばそういう状態に陥ったとしても、流川のパニックは思考停止だったので普段とそれほど変わらなく見えたことだろう。
「水戸、着衣回収袋出してくれ」
などと言って、洋平に「自分でやれ!」と怒鳴られている。
「そうだ流川、お前晴子ちゃんに惚れられてんだから色じかけでなんとかしろ」
色じかけの意味がわからず首をかしげた流川に代わって答えたのは花道だ。
「そんなんダメだ! 流川なんかに大事なハルコさんを……」
「そういうこと言ってる場合じゃねえだろ! 流川、お前童貞じゃねえよな」
「ドーテイ……?」
「女の身体知らねえってことねえだろ?」
「……それは、ねえけど……」
洋平にしてみれば、二人がこれほど落ち着いているのが腹立たしくて仕方がないのだ。やがて晴子がこの三人のことを報告すれば、警察はここぞとばかりにこのマンションを取り囲んで逮捕に乗り込んで来るだろう。そうなれば狭いマンション内でのこと、いつか捕まってしまう。そうなったら三人ともおしまいなのだ。刑期を終えて出所してきたとしても、前科のある泥棒のできることと言えばたかが知れている。一度捕まったら、怪盗はおしまいなのだ。
「……水戸、風呂に入れ」
流川のあまりにのんきな言葉に、洋平は言葉も忘れて立ちつくした。
「焦っても仕方ねえ。とにかくお前が落ちつかねえことにはどうにもならねえんだ、レッドフォックスは」
「だけど警察が……」
「まだ来てねえ。見ろ」
五階建てマンションの最上階。窓を開けた流川は、洋平を伴って下を見下ろした。夜の冷たい空気が流れ込んできる。寒がりの洋平は身体をぶるっと震わせた。
「水戸、向こうのマンションまでの距離はどのくらいだ」
道の向こうに、同じようなマンションが建っている。夜も遅いため明かりはほとんどついていない。
「五十メートルくらいか? だけどそれがどうしたんだよ」
「そのくらいの距離じゃオレは夜でも狙いを外さねえ。あそこまでお前なら行けるはずだ。あとはてめえの才覚でなんとでもなる。そうじゃねえのか」
手すりにピアノ線を絡ませる銃はまだ流川のボストンバッグの中にある。流川の話は現実的で、洋平は自分が落ち着いてくるのを感じていた。落ち着いてきたらそれまで見えなかったものが見えてくるようになる。いたずらに警察を恐れることはないのかもしれない。
自分達は最強レッドフォックスなのだから。
「お前が逃げるくらいの時間は稼いでやるよ。機動隊だろうが自衛隊だろうがオレが負けるわけがねえ」
花道の言葉に、洋平も意地悪心を刺激されて言った。だが洋平の意地悪は本当は極度の照れ隠しなのかもしれない。
「それでオレが一人で逃げりゃまた洋平がいねえって泣くのか? あんま流川に迷惑かけんなよ」
「だれが! 迷惑はこっちだ! キツネオタク野郎」
「……どあほう」
問題は山積みだったが、少なくとも解決する意欲は湧いてきた洋平だった。
なんにせよ、洋平がいなければたちゆかないレッドフォックスなのだ。
翌日(というか、本当なら当日ですね)、リビングに立ててある彫刻を見ながら、洋平は溜息をついていた。右腕が壊れてしまった彫刻である。これを買ってくれる人間が、果たしているのだろうか。赤木課長の執念というべきか、それとも藤真と花形の呪いというべきなのだろうか。
決死の覚悟で宝石ブローカーの牧に電話をした。ところが返ってきた反応は意外にあっさりしたものだったのである。
『買ってやると言っただろう。いまさら何を言ってるんだ。……右腕? 胴体と顔さえ無事ならなんとかなる。オレをみくびるな。口先八丁で売りつけてやるさ』
すごい男である。
気をよくした洋平は本格的に晴子のことを考えはじめていた。やはりこのままという訳にはいかないだろう。警察に設置した盗聴器は聞いてもムダなので聞かないことにしていた。もしも晴子が赤木に報告していたとしたら、偽の情報を流している可能性が大きいからだ。
やはり本人に会って直接探ってみるべきだろう。対応はそれからだ。自室にいるはずの花道に呼び出しを頼もうと腰を浮かせかけたとき、ふいにインターフォンのベルが鳴ったのである。
ここに引っ越してきてからこのベルの音を聞いたのは、花道が鍵を忘れて出たときと、間違いかいたずらのいずれかだけだった。だがこの場合考えられるのは、いたずらや間違いでなければ晴子である。今日は全員そろっているのだから。
「はい」
受話器をとって、恐る恐る言ってみる。表札は出していなかったから、名乗る習慣はないのだ。
『赤木晴子です。……洋平君?』
呼び出す手間が省けたといえばいいのだろうか。だが、洋平には下準備がまるでなかった。盗みにしても何にしても計画性はきっちりした人間である。本当ならもっと準備を整えてから会いたかったのだ。
「晴子ちゃん? どうしたの、突然」
『突然でごめんなさい。今、下に来てるの。行ってもいいかな』
「いいよ。上がっといで。今開けるから」
下の自動ドアを開けてやる。それからが大変だった。エレベーターを使ってこの部屋まで来るのに早ければ一分くらいしかかからないだろうから。
「流川! 銃持って花道の部屋に待機! 花道はふすま全部閉めて彫刻部屋に運べ!」
「何だよいきなり!」
「晴子ちゃんが来る! お前らは留守だ。オレが声かけるまで出てくんじゃねえぞ」
「ハルコさん!」
「話はオレがする。気配消してふすまの向こうにいてくれ。流川、お前もだ」
強引に二人と彫刻を花道の部屋に押し込み、家の中を点検する。おかしいものはない。洋平は少し落ち着けるように、紅茶をいれ始めた。まもなく、ドアの呼び鈴が鳴り響いたのであった。
「はーい、ちょっと待ってね」
念のため魚眼レンズで一人であることを確認した。用心しながら、鍵を開ける。ドアの向こうの晴子は大きな包を抱えていた。
「こんにちわ。ごめんなさいね、忙しいのに。これ、あたしが焼いたクッキーなの。みんなで食べて」
「ありがとう。……今、誰もいないんだ。出かけちまってて。……入って」
晴子はにこやかだった。たぶん、判っているはずなのに。今目の前にいるのはラビットで、レッドフォックスの作戦参謀。昨夜は晴子の兄に膝蹴りを食らわしたのだ。
「紅茶でいい? 安物だけど」
「ええ、ありがと」
それとも判ってないのか。バレたと思ったのは流川の勘違いなのだろうか。
「オレだけじゃたいした話し相手にもならないね。電話もらえれば流川の奴首に縄つけてでも引き止めたんだけど。……あいつまたコレクション増やしに行ったんだ。引き止めるいい口実だったんだけど」
「うん、……でもあたし、洋平君の電話番号知らないし。桜木君はいない方がいいかなと思ったの。それに、本当は流川君も」
洋平は心の中でかなり盛大に驚いていたのだけど、とにかく自然に見えるようにさりげない驚きで目を見張った。大丈夫だ。成り行きいかんでは流川はすぐに銃を構えて出てくる。花道が興奮してもとりおさえてくれる。
「紅茶、飲んで。毒なんか入ってないから」
「熱いの苦手なの」
「冷めてるよ。猫舌用で、オレのとおんなじ温度」
洋平はカップを取り上げて、少しだけ飲んでみせた。晴子は両手でカップを包み込んだが飲まなかった。ゆらゆら揺れる紅茶の表面を見つめながら言ったのだ。
「昨日の夜、あたし夜間出勤だったのよ。レッドフォックスとドラゴンがものすごく広い屋敷に泥棒に入る日だったの。手が足りなくてね、交通課も庶務課も、女の子もみんな出勤だったの」
「そう、大変だったね。それで、泥棒は捕まったの?」
「それが、ダメだったの。お兄ちゃんもものすごく頑張ったんだけど、顔にケガしちゃって……。でも、ケガよりもっと痛いみたい。昨日の夜も眠れてないわ、きっと」
当然だろうな、と洋平は思う。守るべきものを壊してしまったら、人一倍まじめな警察官なら自分を責めるだろう。
「そうだろうね。今度こそってきっと思ってただろうから。世間の目も冷たくなるしね」
「だけどね、あたし、見たの。すれ違ったとき、レッドフォックスの顔が見えた気がしたの。もちろん仮面はつけてたわ。だけど、その仮面が見えなくなるくらい、はっきり見たの。見たのよ……」
その時、晴子は顔をあげてまっすぐ洋平を見据えた。まるで洋平の反応を見抜くかのように。だが、洋平は泥棒だった。嘘つきは泥棒の始まりなのだ。百戦錬磨の洋平は、そんな手にひっかかって自分の中を見せたりしない。
「だったらもう捕まえたも同じじゃない。よかったね、お兄さんの役に立てて」
洋平の笑顔につられるように、晴子も笑顔になっていた。そして、うって変わってコロッとした笑顔で言ったのである。
「それがね、洋平君。あたし、その顔忘れちゃったの。ひどいと思わない? 朝起きたらきれいに忘れてるんだよ。んもう、あたしって自分が思ってるよりずっと年取ってるんだわ」
「それって……晴子ちゃん、そこまでいくと単なるぼんやりじゃすまないと思うよ。お兄さん、がっかりしただろ」
「大丈夫、顔見たって言わなかったから。教えなくてよかったわ。結果あまりに不名誉だもん」
赤木課長にこの話は伝わらず、晴子は一人で忘れたのだ。それが晴子の出した答えだった。晴子は飲み頃をほんの少し過ぎた紅茶を一気に飲み干す。砂糖を入れなかったので、ちょっと苦かった。
「お替わり入れるよ」
「いいわ。そんなに長居するつもりないし。……そんな訳でね、あたしこれからちょっと忙しくなりそうなの。できるだけお兄ちゃんの役に立ちたいし。だから、今日はさよならを言いに来たの。洋平君に」
「……オレに?」
「うん。洋平君、すごくよくしてくれたから。流川君のこといろいろ話してくれて、会わせてくれて。……あたしね、すごく迷惑なことしてたの。誰だって、好きでもなんでもない人にしつこくされたら気分悪いもの。流川君も気分悪かったと思うんだ。ちょっとすれ違っただけのあたしに、まるで友達みたいに付きまとわれて……。もう、やめようと思うの。流川君にも迷惑かけちゃったから」
「だけど……花道はどうするんだ? 花道は晴子ちゃんといるのが楽しくてしょうがないんだ。それとも……花道は、迷惑だった?」
晴子の笑みは、切なさが色を増した。それだけで洋平は判ったような気がしたのだ。次に晴子が言う筈の言葉が。実際に発せられた言葉は、洋平が思ったものと一言一句違わなかった。
「流川君のことがあったから、感じたことなかった。だけど、もしもそのことがなくて、桜木君だけだったら……たぶん、迷惑だったわ」
そのあと晴子は指を立てて、桜木君にはないしょね、と小さく言った。だけど、晴子の言葉が真実でないことも、洋平には判っていたのだ。晴子はそんな女の子ではない。レッドフォックスの正体を忘れてくれた晴子。別れを美しく飾ることの傲慢さに、彼女は気づいていたのかもしれない。
今洋平には、晴子が女神に見えた。恋のために一番近しい人を裏切る決意を固めた彼女は、これから一生言えない言葉を抱え続けることになる。その苦しさは、洋平が一番よく知っているのだ。
「新しい恋が見つかるといいね。今度はあんなキツネオタクじゃない奴」
「そうだね。今は考えられないけど、いつか流川君よりハンサムでかっこいい人見つけなきゃ。女が泣くわ」
恋する女としての、最高の引き際。洋平に見送られた晴子は、今まで以上にない輝いた笑顔でマンションをあとにしていた。洋平も、一つ大人になった晴子を笑顔で見送る。そして、ドアが閉まったとき、洋平は慌てて戻って襖を開けた。そこには息をつまらせて口を開けたまま涙を浮かべる花道と、うしろからとり抑える流川の姿があったのだ。
花道の前に、洋平は膝を折る。そして、もっとも慈愛に満ちた表情で言った。
「花道、お前の言う通りだったな。晴子ちゃんは最高にいいコだ」
流川も花道をとり抑えるのをやめる。花道の身体が支えを失って前のめりになった。
「……もう、我慢しなくていいぞ。よく今まで我慢した……」
花道の目から涙がとめどなくあふれていった。呼吸は嗚咽になり、嗚咽は叫びになる。たった一つの名前を。
「ハルコさん……ハルコさん! ハルコさーーーーーーん!」
叫び続ける花道を、二人はなにも言わずにただ見つめていた。いつまでもいつまでも、花道が一時も早くこの恋に別れを告げられるように。
もう二度と、誰も花道を傷つけないように。
―― 終わりよければすべてよし ―― 日本にはこんな言葉がある。失恋した花道には気の毒だが、そのおかげで彼らの正体がバレなかったことを思えばそれもよしとしなければならないのだ。天使に召されることもなく、ドラゴンに喰われることもなく、ゴリラに捕まることもなかった。世は平和である。まさに、終わりよければすべてよし、なのだ。
彼らに残された仕事は、もはや実務処理だけである。そのほとんどを担当する洋平は、前回同様花道を伴って着衣や仮面を燃やしに出かけるところだった。
その時ちょうど部屋から出てきた流川に言った言葉は、それほどの期待を込めて言われたものではなかった。そうなればいいなあとの軽い気持ちだったのだ。
「流川、もし暇だったら彫刻磨いといてくれねえかな。明日牧んとこ持ってかねえとならねえから。お前、物磨くの好きだろ?」
そのまま洋平と花道は出かけてしまい、流川一人が残される。流川は少し思案していたが、それほど忙しいわけでもなかったので、暇つぶしもかねて彫刻を磨くことにしたのである。
銃の整備に使う愛用のグッズを手に、流川は暁の美少年の前に立った。思えばこの彫刻をこれほど間近でじっくり見るのは初めてである。まどろむような瞳と、わずかに開かれた唇。顎から肩に流れるようなラインに、伸びやかな四肢。失われた右手すら、どこか芸術性を感じさせる。そして視線を腹部から下に移動させたとき……。
流川の視線はしばらくそこから離れなかった。美しく芸術的な素材の、最も美しい部分。誰もいないのをいいことに、流川は我を忘れて見入っていた。そして、わずかに頬を寄せて触れる。硝子の冷たい感触が、流川の心をとらえて離さなかった。表情の変わらない流川も瞳に恍惚の表情を浮かべ ――
そして、おもむろに息を吐きかけながら彫刻を磨きはじめる。その時間が流川にとってどのような時間であったのか。
翌日彫刻を受け取った牧は、一部分だけ異様に輝く彫刻を見て、ひたすら首をかしげたのであった。
了
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