CITY COLLECTION
そんなこんなで盗みの当日。
レッドフォックスの面々は、それぞれに支度を整えていた。フォックスこと流川楓は黒の長袖Tシャツにスラックス、革靴に皮手袋といういつものいでたちである。レッドこと桜木花道の方は、今回ばかりは目立つ訳にはいかなかったので、流川とお揃いのような長袖TシャツにGパン、それにバスケットシューズもすべて黒で統一されていた。そして、ラビットこと水戸洋平も、役割上できるだけ軽い素材で風になびかない、ぴったりしたTシャツを二枚重ねて着込んでいた。ほかの二人に比べて、洋平はかなりの寒がりでもあるのだ。その上からガンベルトを巻いて、流川にプレゼントされた護身銃をも身につける。そうして仮面をつけて並んだ三人は、まるっきり怪しい怪盗団のようであった。
予告状の時刻は午前零時。現場まで三十分ほどかかることを計算に入れても、一時間前に出発すれば十分間に合うだろう。今回も前回同様車を使っての盗みである。なにしろターゲットの重さは約八十キロもあるのだ。車で三十分の距離を徒歩でかついで移動するなど、正気のさたではない。
「用意が早すぎたな。まだ三時間もある。オレ、盗聴器の方見てくるわ」
洋平が自室に設置された受信機の方に向かおうとするところ、流川が洋平の肩を掴んで引き止めていた。
「なんだよ流川」
「待合せをしよう。十一時に高架橋の下だ」
「お前……いまさらなに言ってんだよ! これから単独行動なんてできる訳ねえだろうが!」
レッドフォックスは三位一体。三人いなければ、作戦を遂行することは不可能だった。たとえば現場に移動する最中、何か手違いがあって到着できなくなったとしても、三人一緒にいればどうとでもできるのだ。最悪の場合は盗みを中止することもできる。だが、別々に移動して万が一のことがあったとき、様子が判らなければまったく動きが取れなくなってしまうのだ。そんな危険を犯す訳にはいかなかった。
「無線器を持って出る。何かあったらちゃんと連絡する」
「連絡できねえ状況になることだってあるだろう!」
「待合せ場所にいねえってことはありえねえ。だがもしもいなかったらそん時はたぶんもう生きてねえ」
「……なんだって?」
意味を掴みかねて洋平が聞き返すわずかな間に、流川は上着をはおってスポーツバッグを持った。その中には流川愛用のライフルと、今回使う用具の一部が入っている。そして踵を返して出ていく流川に、洋平は追いつくことができなかった。
「待てよ流川! 今のいったいどういう意味だ!」
花道が追いすがろうとするのを洋平は引き止めていた。どうしてかは判らない。ただ、流川の行動が単なる自分勝手から出たことなのだと、洋平にはどうしても思えなかったのだ。
「なんで止めんだよ! あいつ……今までん中じゃ最悪のわがままだ!」
「そうだな。だけど現地集合じゃないだけマシだ。あいつを信用するしかねえ」
「どうしてそんなに落ち着いてんだよ! もしもあいつが裏切ったら、オレ達はおしゃかなんだぜ!」
花道に言われて初めて気づいた可能性に、気づかなかった洋平は呆然としていた。
そして、いつの間にか流川を信用してしまった自分に、改めて気づいたのである。
同じころ、ほぼ百人にまでふくれ上がった湘北署と陵南署の合同捜査の警備陣は、湘北署内の駐車場に集められて、それぞれのグループごとに説明を受けていた。
その中にはほとんど関係のない交通課の赤木晴子や松井さんなどもいる。彼女達は一番外側の外壁に近い場所を警備することになるのだが、ここまでくると警備というより人海戦術といった趣である。前回、分散した警備陣を一人ずつ眠らされた経験から、今回はそれが不可能な人数を配置することにしたらしい。統制の取れた動きを期待することはできないだろう。それよりも、少しでも多くの人間にレッドフォックスの顔を見させ、モンタージュの充実を図る狙いが大きいのかもしれなかった。
それだけの人数であれば、パトカーの台数も三十台を超える。さらに白バイ部隊が加わって、近隣の道路を封鎖するのだ。特に田舎町であるので、一軒一軒の敷地はかなり広く、道の本数も少なく道幅も狭い。そのかわり道が曲がりくねっていて袋小路も多いので、警備する側にとっても盗む側にとっても頭の痛いところである。白バイ部隊が十人、パトカーが十五台の合計四十人が、道路封鎖にあたった。
残りの六十人が十数台のパトカーに分乗して屋敷に向かう訳だが、赤木は六十人を二十のグループに分け、三人一組で行動させることにした。動員した婦人警官は二十人である。彼女達二人に男性一人というグループを十作り外壁近くを、残りは男性のみのグループで屋敷近くを警備する。こうして整理してみると、百人という人数ではまだ足りないような気がしてくるのだ。なにしろ外壁だけで周囲三キロ近くある。たとえばそこに均等に十グループを配置したとして、グループ同士の間は三百メートルにもなる。屋敷が広すぎることは言うまでもなかった。
いまだレッドフォックスを捕まえられず、結局藤真にも会えず彫刻を見せてすらもらえなかった赤木は、この警備陣の配置を見てさらにイライラをつのらせていた。
それでも平静を装って、百人を率いるレッドフォックス及びドラゴン対策本部長は藤真邸に向かったのである。
真夜中というにはほんの少し早い午後十一時少し前、フォックスこと流川楓は再び高架橋の下に来ていた。
視線の先にはエースこと仙道彰がいる。互いの十メートルという距離は、話をするにはいささか遠く、狙撃するにはあまりに近い。
「微妙な時間に呼び出すじゃないか。これじゃ決心がついたのかそうでねえのか判断がつかねえ」
レッドフォックスが盗みに入る約一時間前。裏切りを決めたフォックスに制裁を加えるとしたら、これがぎりぎりのタイムリミットだった。簡単にかたがつく。背を向けたフォックスにたった一回引き鉄を引くだけ。
「いつから、オレがここにいるって知ってた。……いつだ」
「半年……くらい前だったか? レッドフォックスって名前の泥棒が週刊誌で話題になった。ダディーは『フォックスという名前のスナイパー』で情報を集めてたが、あいにくオレはもう少し賢くてな。『何でもいいからフォックスって名前のつく人間』ってさ。世界中の情報屋に情報提供頼んで、レッドフォックスを見つけたときはパニクったぜ。しかも三人組の泥棒ときた。一匹オオカミならぬ一匹キツネだったお前がだ」
「……」
「裏を取るのにたいして手間はかからねえさ。……それからずっと、オレはお前の働きぶりを見てきた。その間お前は誰一人として殺さねえ。何がおもしろいのか半年も泥棒続けてやがった。いつか飽きるだろうって、オレも……」
「……」
「……遊びは終わりだ、フォックス。これ以上はどうにもならねえだろ。お前にも判ってるはずだ」
それまで地面に向いていた銃口を、エースはこころもち上に向けた。その弾道にはフォックスの足先がある。返答しだいでは上げることもあり、下げることもあるという意思表示だ。
「それともまさか、泥棒に魅入られたか……?」
天使のエースが、その名の由来となった天使の微笑みを漏らした。流川の瞳に戦慄が走る。エースの微笑みは見るものに信頼感と不信感とを同時にもたらした。エースの微笑みを向けられてなおかつ背を向けたとき、その人間は告死天使の餌食となる。
「エース、オレは記憶のないくらい昔からてめえの側にいた。オレに銃を握らせたのはてめえだ」
エースの腕からわずかに力が抜ける。だが、もちろんライフルの構えを損なうほどではない。
「その通りだ。お前はオレが知るどんな奴よりも早く銃を手にして、誰よりも正確に扱いを覚えていった。お前は銃と一緒に成長した。お前にとって銃は生活の一部の筈だ」
「銃を持たねえオレは誰よりも価値がねえ」
「お前の価値が、お前の持つ銃の価値になるんだ。お前が銃に命を与える。それが価値じゃねえのか?」
エースは今、生まれて初めてフォックスの迷いを見ていた。フォックスは誰よりもまっすぐな軌跡でスナイパーとしての自分を確立した男だった。自信に満ちていたあのころ。泥棒に手を染めたために絶対の自信を失ったのだとしたら、一刻も早く一年前のフォックスに戻してやらなければならないのだと思ったのだ。
「お前はピカイチだ。たった一度の失敗で揺らぐようなやわな腕じゃねえ。この一年で多少の勘が狂ってたとしたってすぐに取り戻せる。それはお前が一番判ってることだろ?」
それは誰もが一度は落ちる落とし穴だった。自信を失って自分自身すら見失ってしまう。フォックス以外の人間は皆立ち直って自信を取り戻しているのだ。人より遅くスランプの時期にあたったフォックスだったが、立ち直れないわけはないとエースはたかをくくっていた。
だがフォックスの次の言葉は、エースの思い込みを根底から揺るがしたのだ。
「……ずっとそうだ。オレの回りには、オレと銃を切り離して見る奴なんて一人もいやしねえ。ガキのころから一番側にいたてめえですらそうだ」
「フォックス……お前……!」
エースは自分が思い違いをしていたことを悟っていた。だが物事の本質を追及するよりも先に、その事実に思い当たったのである。
「さっきからお前、どうして時間稼ぎを……」
その時だった。遠くで声がしたのは。
「おお、よかった、いたいた。……流川ーっ!」
二人が声に振り返ると、物陰から声の主がかけてくる。そして、流川が一人ではないと気づいてぴたっと足を止めた。ラビットこと水戸洋平。洋平はエースの存在に気づかずに流川を本名で呼んでしまったのである。
(ルカワ ―― それが本名か? フォックス)
通称を使う人間は、仕事上のつきあいに関してはよほど信頼できる人間以外に本名を知られることを嫌う。また、互いに本名を名乗り合うことは信頼の証でもあるのだ。洋平は瞬間的に頭を巡らせて後退りながら言った。
「すみません。その……人違いで……」
そんな洋平のフォローをまったく意に介さず、流川は大股で洋平に近づいて、手首を握りしめた。そもそも事情のさっぱり判らない洋平は、目を見開いて流川とエースとを代る代る見比べている。そんな中、流川はエースに聞こえないほどの小さな声で言ったのである。
「協力しろ、水戸」
そのあと流川が取った行動は、それまでの流川のしたことのすべてを合わせたよりさらに洋平を驚かせた。洋平の腕を引いて抱き寄せ、その唇に自らの唇を重ね……
(ゲッ! ……嘘だろ)
洋平はなす術もなく流川の腕に屈しない訳にはいかなかった。もちろん目の前にいるのが流川であれ誰であれ、男にキスされるのはできれば遠慮したい洋平である。しかしそんな洋平の思いとは別に、流川はさらに深く唇をあわせ、わずかに開いた口から舌を這わせてくる。あまりの驚きに洋平の思考はぴたりと止まった。状況を把握できない洋平にしてみれば、迂闊に拒否する訳にもいかず、にっちもさっちもいかなくなってしまったのである。
身体はすでに容易に動けぬほど強固に固定されている。洋平も男であるから、ここまで頑丈に締め上げられるのは初めての経験だった。翻弄されている自分が男としてのプライドを刺激する。だが、流川のディープキスを受け続けてきた洋平は、ふいに開き直ったのである。
このよく判らない状況はすべて流川の協力しろの一言がもたらしたものだった。だったら協力してやろうではないか。このまま一方的にされるがままというのはあまりに悔しかった。洋平はわずかに身体を寄せ、積極的に流川の舌に自らの舌を絡ませていったのだ。
まるで永遠のように長いキス。男のプライドをかけて、二人は互いに負けじと張り合った。それまでの経験のすべてを動員して、互いを屈服させるためだけにキスを繰り返す。それは戦いの様相を挺していた。しかしその戦いに身を委ね、回りの状況すら忘れかけていた二人であったが、やがて最初にキスした流川がその目的を思い出して我に返ったため、やや強引に決着もつかぬまま勝負は終わりを告げたのである。
そんな二人の様子を、エースはあっけに取られて見つめていた。エースは洋平の顔もフォックスとの関係も知り尽くしていた。フォックスが一番巻き込みたくないと感じている人物だということも。
「フォックス……」
二人のキスが心温まる愛情の交換であるとはエースには思えなかった。
「エース、ラビットは殺し屋だったオレを知らねえ。オレがどんな奴なのか、こいつには意味がねえんだ」
ラビットが事前に何も知らされていなかったことは明らかだった。何も知らせず、突然キスした自分を受け入れるはずだと確信できるほどに、フォックスはラビットを信じている。そこまでエースは信じられているだろうか。フォックスの気持ちはもう、エースにはないのかもしれない。
それを悟るのに時間はいらなかった。銃とフォックスとを切り離せない訳ではない。むしろそうしていなければ、自分は天使のエースでいられなかったのだ。
「……遅かったのか? オレは……」
半年前ならば、まだ間に合ったのかもしれない。泥棒の存在の意味に触れる前なら。
「……ラビットに手出しはするな」
ラビットを伴って背を向けたフォックス。エースは銃口を上に向けた。そしてフォックスの背中を照準ごしに見つめる。最後のチャンスだった。フォックスを天使の元に引き寄せる、最後の……
フォックスがエースに思い込ませようとしていた気持ちについて、それがどんな作戦だったのか、エースに知る術はなっかった。
しかし、その行動はけっして無から生まれはしないという事実は、エースの心にいつまでも楔となって残るのだった。
非常線の張られた道路に真っ正直に進入してきた白いワンボックスカーは、警備する警察官に瞬時に警戒心を呼び覚ましていた。
すぐにナンバーと形態を記録する。側面には吉田タイルとあり、近隣の家の名簿を手にしていた警察官たちはその文字に確かに見覚えがあった。
「止まれ! ここは今通行禁止です。通り抜けできませんからほかへ回ってください」
夜間用の警棒を振り回して車を止める。顔を出したのは、三十代くらいに見える実直そうなタイル工だった。
「なんかあったんッスか?」
運転席のうしろはガラスにセロファンが張ってあり鮮明には見えなかったが、中身はほとんど工具であるらしい。それだけを見て取った警官は、運転席から不安そうに見つめているタイル工を安心させるように少し笑ってみせた。
「今夜はこのあたり一帯通行止めなんですよ。どちらに行かれますか?」
「どちらにって……うちに帰るんス。ほら、もう少し先の茶色い屋根の」
「身分証明書みせてください」
「免許証でいいッスか?」
警察官はタイル工の免許証と名簿を照らし合わせる。とくに不審な点はないようだった。これ以上引き止めればかえって警察官への不信を招くだろう。そこのところの見極めが大切なのだ。
「判りました。通っていいですよ。お疲れ様です」
「どうも。お役目ご苦労さん」
「いいえ」
警官が開けてくれた通路を通って、車は徐行しながら家路へとついた。やがて吉田家の塀の前で車を止める。エンジンを止めてハンドブレーキを引いたタイル工は、ふうっと溜息をついて背伸びした。そのうしろの用具置場には、いつの間にか二人の人間が顔を出していた。
タイル工は含み綿を取り、多すぎる眉を剥がし、茶色かかった髪の毛をばさっと外した。そして、うしろの赤い髪の男が差し出したクレンジングクリームで顔をなぞる。と、そこには誰もが馴染んだラビットの顔が現れたのである。
「あんまりしつこくない奴で助かったぜ。ドア開けろって言われなかったし」
「みつからねえようにおとなしくしてたんだぜ」
「てめえが一番心配なんだよ。……車はここにおいてくからな。道具忘れんなよ」
第一の難関は割とあっけなくクリアしていた。ここから先、藤真邸までは警官は一人もいないはずだった。しかし外壁までである。中には約六十人の警官がうろうろしている。
今回、重い道具は一つもない。田舎の広い敷地に建てられたほとんど農家の密集するこの土地では、三人は道路を歩くよりも人の家の庭を突っ切る方が安全だった。洋平は精密機械を、流川はボストンバッグ、花道はなにも持たずにすっかり寝静まってしまった家の庭を歩き、壁を乗り越えた。距離としてはわずかに三百メートルほどである。ただ、帰り道は重さ八十キロの彫刻と一緒であるのだから、けっして楽な道程とは言えなかっただろう。
つながれた犬に吠えたてられながら、やがて藤真邸の壁にまで到達する。壁の高さは約二メートル。飛び越えられない高さではない。
「フォックス、頼む」
しかし三人はすぐに飛び越えようとはしなかった。まずはフォックスがボストンバッグの中からライフルを取り出し、壁に立てかける。それからもう一つ、ライフルの形をした変わったものを取り出した。そして、立てかけたライフルを足掛かりに、まずは壁の向こうを覗いてみる。ちょうど三人組の警官達が通り過ぎるところだった。
頭を下げてやり過ごすころ、レッドに肩車されたラビットがフォックスの隣に立った。そして、スコープから目を離さないフォックスに短く指示を与える。
「フォックス、一階の出窓の格子を狙ってくれ」
その二秒後、音もなく発射された銃から、錘とそれにつながれた細いピアノ線がラビットの指示したその場所へと伸びていった。母屋の隣の洋館の、横の格子に絡みついて止まる。フォックスがライフルの足場から降りて引いてみたが、ピクリとも動かなかった。
「OK。狙い通り。そのまま固定しててくれよ。……レッド、サポート。センサーにひっかからないように高くな」
「おお、任せろ」
なんと壁の上にはセンサーがあって、ひっかかったものを狙い撃ちにする恐ろしいシステムがあるのだ。それが今夜作動しているかどうかは判らなかったが、用心するにこしたことはない。念には念を入れるのが、作戦参謀としてのラビットの方針だった。
一本のリボンを握ったラビットが、レッドの組んだ手に足をかける。そして、狙いを定めて跳んだ。壁を越え、リボンをピアノ線にひっかける。そのまま約二百メートルをまるで宙を飛ぶようにラビットはすり抜けていった。出窓の前で勢いをつけて、せり出した手すりの内側へ音もなく着地する。身軽なラビットでなければできない芸当である。さらにラビットはピアノ線を外し、一度仲間達に手を振ったあと、二階の窓によじのぼって建物の中に消えていったのだ。
残された二人は、用心しながらピアノ線をたぐり寄せる作業に追われていた。今回の盗みは、屋敷の構造などからもほとんど二人の出番はないといっても過言ではないだろう。屋敷の外に彫刻を運びだすまで、すべてラビットの手に委ねられているのだ。やがて二人はピアノ線をすべて回収してラビットが消えた屋敷内へと思いを馳せる。トランシーバーでの連絡が入るまで、外で待機するのである。
それは二人にとっては、ただひたすら忍耐の時であった。
すでに予告時刻にほど近い時間になっている。さまざまなコンピューターの納められたこの部屋にいる二人の人物は、普段はこれほど遅い時刻まで起きていることはめったになかった。だが、今日は温かいベッドに入ることもせず、居並ぶモニターとディスプレイの前に陣取って、客の訪れを待っていた。一人はこの屋敷の正当な持ち主藤真健司、もう一人は藤真に囲われる芸術家、花形透である。
「客の一人はローズヴィラからのご登場だ。すごいよ花形。ちゃんと攻撃用センサーのないところを通ってる」
この屋敷は一つの要塞である。午後十時になると自動的に厳戒体制がしかれ、一般的な通路はすべて攻撃用のシステムで覆われるのだ。だが、真夜中に活動しなければならない人間もいる。そういった人間達のために、裏街道のようなものが設けられているのである。
「身長と熱量から計算するとどうやらラビットらしいね。母屋の回りは警官達がひしめいてるからローズヴィラにしたらしい。さすがだね。ここと裏街道がつながってるの、ローズヴィラだけだ」
二人が見ているモニターに画像を送っているのは、カメラではなくセンサーである。たとえば温度や磁場などの情報を分析してそれを画像に組み立て直して見せているのだ。それによってカメラでは映らないさまざまな情報を得ることができる。ただし、カメラのような鮮明な画像は望むべくもなかったのだが。
画面に映る洋平の影のようなものは、迷いもせずに裏街道を目的地に向かって進んでいった。そして連絡用通路を通って、母屋に入ってくる。更に同じころ、もう一つの影が建物の反対側から進入しつつあったのだ。
「こっちはまた大胆だな。いきなり入ってきた。よく警官と騒ぎを起こさずに入れるよ。……ああ、なるほどね。怪しくないコスチュームだ」
「すごいな。この画面で服装まで判るの?」
「服装は形態を分析した情報がディスプレイの方に文字で出るんだ。こっちの奴は警察官の制服着てるよ。たぶんこれがドラゴンだ」
ドラゴンの方の動きはラビットに比べるとかなりスピードが遅いようである。おそらく地図が頭に入っていないのだろう。時々道を間違える傾向がある。それでも攻撃用センサーを避けているからたいしたものだ。最短距離ではなかったが、こちらの男も着実にターゲットに近づいていた。
「そろそろラビットが攻撃用センサーの地帯に入るな。まずはお手並み拝見」
当然のことながら、彫刻の納めてある部屋までの裏街道は存在しない。さらに入口からほぼ一本道である。最初の入口付近で、ラビットは動きを止めた。システム内部の情報を映し出すディスプレイの方を眺めていた藤真は、やがて嬉しそうに微笑んだのである。
「さすがだ! あいつやっぱ相当泥棒馴れしてるよ! この分だと一つ目は突破できるかも」
機械にうとい、というよりは機械に関して一般的な知識しか持たない花形は、藤真の見ているものの意味もその科白の意味もさっぱり判らなかった。ディスプレイに映し出されているのはさまざまな数字やアルファベットの羅列である。モニターのラビットは配電盤の前で踞ってなにやら作業しているだけである。しきりに感心している藤真に、花形はうしろからその顔を覗き込むようにした。
「藤真?」
「すごいよ。チェックデジットもクリアしてる。ダミーもパスしてる。あんな小さな機械でここまでできるんだ」
「よく判らないよ、藤真」
「ほら、解けたよ。もうセンサーは役に立たない。一つクリアするのに一分二十秒か。同じようなのがあと六箇所あるから、八分で突破できる。……計算上はね」
そのころになって、ようやく藤真は落ち着きを取り戻していた。花形の視線に答えられるほどに。
「話を単純にすると、つまりは鍵と鍵穴なんだ。鍵がなくても鍵穴の中の構造さえ判ればドアを開けることはできるだろ? それと同じで、ラビットは配電盤にコンピューターをセットして、鍵の構造を調べたんだ。つまり鍵を開けるパスワードを調べて、入力したってこと」
「そんなことができるのか? それだったらこんな警備システム意味がないじゃない」
「そうだけどね。でも、そんなに単純な構造じゃないし、騙されないように何重にもチェックが入る。普通だったらまず不可能だよ。一歩間違えたらバーベキューだ」
たとえば一つ入力ミスをおかせば、それまで止まっていたはずのシステムも復活してセンサーが作動する。その時ラビットは真っ黒焦げの人形になるのだ。藤真が期待するのはどちらなのだろう。最新の科学を集めた警備システムを突破するだけの天才なのか。人が黒焦げになる瞬間なのか。
藤真の微笑みに人の残忍さをちらりと見たような気がして、花形は知らずに身体を震わせていた。
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