CITY COLLECTION



 晴子が帰り、洋平達が帰ってくる間のわずかな時間が、花道には長かった。
 誰もいないマンションで一人になる。先程の洋平からの電話ですぐに帰ってくることが判っていても、一人で待つ時間は花道にはつらすぎた。さまざまなことを思い出す。子供だった頃のこと。洋平と出会ったばかりの頃のこと。そして、今日再び現われたドラゴンのこと。
 ドラゴンと賭けをしたことを、花道は後悔していた。レッドフォックスは最強だという自信はある。絶対に負けることはないし、盗めないものもありえない。それでも万が一、レッドフォックスがドラゴンに負けてしまったら……。花道はレッドフォックスの一員ではなくなってしまうのだ。ドラゴンの仲間になって、ドでかい仕事をすることになってしまうのだ。
 万が一、レッドフォックスが負けたら、花道は洋平の仲間ではなくなってしまう。そのことがより花道を打ちのめしていた。ずっと考えてきた。もしも洋平がいなくなったら、その時自分はどうなってしまうのかと。その不安は花道のなかでにわかに現実味を帯びた。ドラゴンとの賭けに負けたとき、その不安は現実のものとなってしまうのだから。
 ドラゴンを嫌いなわけではない。ただ、花道は洋平が好きだった。それだけははっきりしていて、それでも、洋平に話すことはできないことも感じている。また一つ、話せないことが増えてしまった。苦しくて、でも、どうすることさえできなくて ――
 やがて、帰ってきた洋平に花道は何も言わずに抱きついていた。そんな花道の様子に洋平もいくぶんほっとして、背中をたたいてやった。
「ただいま、花道。どうした? ちゃんと帰ってきただろ?」
 何も言わず、洋平の名前すら呼ばない花道に、洋平も少し不安になる。いつもの発作とは少し様子が違うのだ。いつもであればもう少し落ち着きなくうろたえる花道なのに。
「どうしたんだよ、黙ってちゃ判らねえだろ? 何かあったのか? 晴子ちゃんにフラれでもしたか?」
「……」
「夕飯作ってやるから少し離れろ、花道」
「……」
 いよいよもって様子がおかしい。そう感じた洋平は、一緒に帰ってきたはずの流川の名前を呼んだ。流川の方も、自分の部屋に明かりがついている訳をあれこれ考えていたところである。すんなり部屋から出てきて、帰ってきたときとまったく同じ格好で抱き合ったままの二人を目にして少し目を細めた。
「流川、わりい。ちょっと花道の様子が変だ。こいつを台所に運んで冷蔵庫につっこんどいてくれ」
 よほどの事情がないかぎり頼まれれば嫌とは言わない流川である。洋平から買い物袋を受け取って、適当に品物を冷蔵庫に入れた。その間にどうにかこうにか洋平は花道付きのままリビングのソファまで移動する。ソファに腰掛けても、花道の様子は一向に変わらなかった。
「水戸、オレの部屋に明かりがついてた」
「消して出たのか?」
「確かじゃねえ」
「花道が知ってるとしてもこの状態じゃな。……流川、マジでこんな花道初めてだ。夕飯作れるかどうか判らねえから弁当でも買って食ってくれ。財布……」
 このとんでもない状態で財布をポケットから出して流川に投げ渡す。受け取った流川も、夕食に関して文句を言う気はなかった。花道の異常さはいってみれば病気のようなものである。病人に喧嘩をふっかけるような変な趣味は流川にはなかった。
「お前らの分は。どうする」
「とりあえず気にしなくていい。どうせ花道がこれじゃ、オレは食えねえし、食えるようになったら自分で買いにいくさ」
 そんな会話が交わされている間も、花道はずっと洋平に抱きついたままだった。いつもだったらなにもかもを洋平に話して、大丈夫だと言ってもらって安心して眠るのだ。今日はそれができなかった。だが、話せないと思うことは花道の中で、すでに飽和状態になっていた。
 流川が一人でダイニングのテーブルで弁当を食べる音。風呂でシャワーを浴びる音。洋平の呼吸音の向こうに、花道はそれらを聞いていた。そしてやがて、部屋の中を動き回る音は聞こえなくなる。その間、洋平はただ黙って、花道に抱かれ続けていた。
「洋平……」
 静かな部屋に、不安げな花道の声だけが響く。それに答える洋平の声は驚くほど穏やかだった。
「何だ?」
「今晩、一緒に寝てくれるか?」
「かまわねえよ。どら、ふとん敷いてやる」
 やっと、洋平から離れることができる。洋平がいつもとなに一つ変わらないから。
 一つのふとんに、二人は身体をぴったり寄り添わせていた。二人で眠ることはめったになかったが、そういうとき洋平は必ず花道に背を向けた。前になぜかと聞いたとき、洋平は寝顔を見られるのが嫌いなのだと答えた気がする。それきり問い糾したことはなかった。どちらにせよ真っ暗闇で、互いの姿勢など気にしても仕方のないことである。
「洋平」
「どうした?」
「洋平はいなくなったりしねえよな。ずっとオレの側にいるよな」
 不安になると、花道はいつも同じことを口にする。そのたびに洋平はまったく同じ言葉を返すのだ。
「どこにもいかねえよ。オレが約束破ったことねえだろ?」
「……それならいい。絶対、どこへもいくな洋平」
「安心しろ、花道」
 花道は予感しているのかもしれないと、洋平は思う。いつか、自分が去ってゆくことを。
 洋平は人の傍らで眠ることなどできなかった。たとえそれが花道であってもである。花道に一緒に寝てほしいといわれたとき、洋平はいつも背を向けたまま眠ったふりをした。洋平が眠ってしまえば花道もすぐに眠ってしまう。そのあと自分の部屋に帰って、今度こそ本当に眠りにつくのだ。誰かが側にいれば、洋平は必ず警戒した。真の安眠は人の傍らでは絶対に得られないのである。
 花道が早く眠りにつくことを、洋平は願ってやまなかった。寝たふりを続けるのは程度の差こそあれ苦痛には変わりないのだ。
「洋平、寝たのか?」
 動かずに花道のいびきが聞こえることを願う。だが、気配は変わらなかった。花道が自分の背中を見つめているらしい視線も。
「眠ってたら、聞こえねえよな。だったらしゃべっても平気だよな。いなくなったりしねえよな」
 飽和状態だった、花道の心の中。それを吐き出す方法を今、花道は見つけたのだ。
「オレ、お前と離れたくねえ。だけど、ドラゴンの奴が言ったんだ。もしもあいつが勝ったらオレはあいつのところにいかなきゃならねえ。そうしたら、もう洋平と一緒にいられねえんだ。オレ、馬鹿だから、あいつの話にのっちまった」
 知らずに、洋平は身体がこわばってくるのを感じていた。のどがカラカラに渇いている。聞いてはいけない話を聞いているのではないだろうか。聞いたら後悔するような話を。
「側にいてほしい奴はいつもすり抜けてどっかにいっちまう。うれしくて、もっと同じでいたいのに、何でか消えちまうんだ。……真夜中、電話が鳴った。『まだ夜だから花道は寝てなさい』って言われて、ふとんに入って、朝起きたらいなくなってた。お前は捨てられたんだって言われて、捨てられたのはいらないからだって……
 ……オレ、捨てられたのかな。オレのこと嫌いだったのかな。もういらないから、置いていこうって、思ったのかな。オレがいい子じゃなかったから、馬鹿だから、こんな子供いらないって……かあちゃん ―― 」
 洋平は今、寝たふりをしたことを激しく後悔していた。ずっと逃げ出したかった。誰にも何も告げず、ただ花道の前からいなくなってしまいたかった。いつか、本当の自分を見せてしまう前に。そうやって生きてきた。花道に出会う前は。
 花道が繋ぎ止める。いつもいつも、逃げるきっかけをなくしていた。いつまでも一緒にいられるわけじゃない、いつか別れ別れになるときが来る。別れるのは早い方がいいのだ。だけど、いつの間にか長い時間が流れていた。
 完全に、花道に捕まった。洋平は永久に立ち去ることができなくなってしまったのだ。
 いつか洋平は後悔するだろう。今よりも激しい心で、今日のこの日のことを。

 赤木と魚住、そして彩子は、再び藤真家の邸宅を訪れていた。今度は藤真健司にちゃんとした約束を取り付けてある。ところが、意外なことに玄関で門前払いをくらったのである。
 執事の応対は埒があかなかった。それでもしつこくしつこく食い下がると、やっと中から花形透が顔を出したのであった。
「執事さん、もういいから仕事に戻ってください」
「しかし、花形様」
「藤真はあなたの責任をとやかく言わないって約束したから」
 老練の執事は頬の筋肉をピクリと痙攣させ、だが何事もなかったように一礼して引っ込んでいった。その様子からも、花形がこの執事に必ずしも歓迎されていないことが窺える。しかし少なくとも赤木たちにとってはあの執事よりも話の通じる相手だった。
「失礼しました。あの方は先代のそのまた先代のご主人様の時代からこの家の使用人だったそうで、まじめな方なので」
「いいえ、そうでなければ勤まらんのでしょう。立派なことです」
「そうですね。……ただ、オレが出てきても事態はあんまり変わらないんです。どうか今日のところはお帰りください」
 それはあんまりと言うものである。再三電話で確認も取り、必ず会えるということではるばるやってきたのだ。ここまできて会えないでは話が違うではないか。
「どうして……いや、理由をお聞かせください。あんまり話が通らんでしょう」
「藤真がへそを曲げたんです。こちらでもちゃんと会うつもりで準備してお待ちしてました。特注のスーツも用意して」
「スーツ?」
「いや、こちらの話です。予告状にあった裸身像もお見せする予定でした。……藤真にも人並みに羞恥心というものがありまして、特にオレの作った彫刻は全身裸のものです。自分で言うのもなんですが、ほとんど本人と違わないくらい精密にできたものなんです。藤真にとってあの彫刻は自分そのものだといっても言い過ぎではないでしょう。男性の方でしたら、それなりに我慢もできると思うんです。ただ……」
 言葉を濁した花形の視線の先には彩子がいる。赤木と魚住も彩子を見て、そして納得していた。前回の時、彩子はいなかった。だから藤真は今回もてっきり二人で来るものだと思ってしまったのだろう。
「藤真の気持ちも察してもらえれば」
「判りました。つまり、彼女がいなければ会って頂けると」
「そう単純でもないみたいで。……二度と警察の方には会いたくないと言ってます。当日建物の外に警備陣を敷くことは許すと言ってます。でも、建物の中には入れないようにと。もしも外壁の内側を警備するようでしたら、配置図を作ってお持ちください。この屋敷は十時以降は完全警備になりますから、警察官のバーベキューが大量に出来上がることになります」
「花形さん! なんとか取り次いでもらう訳にはいかんでしょうか」
「無理ですね。藤真、相当怒ってるし……言い忘れました。婦人警官の人が警備に参加する場合は屋敷から見えないところでお願いします。それじゃ、オレはこれで」
「花形さん!」
 取り付くしまもないというように、花形は扉を閉め、今度こそ本当に三人は締め出しをくらっていた。諦めて歩き出す。さすがに門を出るまでははばかられたが、門を通過した途端、彩子は怒り沸騰の形相で言った。
「あー腹が立つ! 女性蔑視もいいところだわ! わがままなバカ殿!」
 彩子の気持ちが判らない訳ではないのだが、男である赤木や魚住は藤真の気持ちもそれなりに理解することができるのだ。とっさに適切な言葉が見つからずに沈黙する。しかしそのままという訳にもいかなかったので、責任感のようなものを感じて矢面に立ったのは赤木であった。
「もっと気を遣ってしかるべきだったようだな。なにしろ相手は藤真財閥の御曹司だ」
「それがわがままだって言うんですよ。あたしに会いたくないなら課長達二人にくらい会ってくれてもいいようなもんでしょう? それを頭ごなしに……婦人警官のどこが悪いのよ!」
「まあ起こってしまったことは仕方がない。署に帰って警備体制を練り直そう。……これだけの広さの屋敷だ。前回の失敗を繰り返さないためにも、警備の人数は増やした方がいいな。ほかの課にも応援を頼むことになるだろう」
 そして、湘北署に帰った赤木は、とんでもない大所帯の警備陣を敷くことになるのである。

 三人の警察官を追い返すことに成功した花形は、そのまま藤真の待つ部屋へと足を運んだ。そこは屋敷内の警備システムを総括するかなり広めの部屋である。藤真はそこで、花形達の会話を盗み聞いていたのだ。
「おかえり。上々だったよ」
「言われたとおりにやってきた。オレはおかしくなかった?」
「バッチリ。あの気の強そうな女、今頃オレの悪口言ってるよ。でも、残念だったな。せっかく会えると思ったのに。……ま、警官を遠ざけるいい口実にはなったけどね」
「でも、塀の中に入れたら警備システムの半分は死んだと同じだ。どうしてそんなリスクを背負うの? もしかしたら本当に盗まれてしまうかもしれないのに」
 それまで椅子に座ったままだった藤真は、ついと立ち上がって花形の側までやってきた。そして、右手を伸ばして、花形の頬に触れる。その手の甲には一文字の傷があった。
「花形が彫刻に傷を作るからだよ。どうしてこの傷をつけたの?」
「傷が……きれいだったから」
 頬に当てられた手に、自らの左手を重ねる。たった一つ残る傷跡は、完璧に見える容姿の唯一の欠陥。だからこそ藤真はきれいなのだと花形は思う。この傷こそが、藤真の美貌を完璧に仕上げているのだ。
「もしも盗まれてしまったら、もう一度作ってくれる? 今度は傷はない方がいいな」
「今度作るときも傷はつけると思う」
「どうしてこう、芸術家ってのは頑固なんだろ」
 左手を花形の首に回して引き寄せ、その唇に一瞬のキスをする。いたずらっぽく微笑む藤真に、花形は小さな抗議の声を上げた。
「藤真……」
「当日は少し夜更かしするよ。興味があるんだ。レッドフォックスとドラゴンの対決に」
「藤真家の警備システムが突破できるのかな」
「できるよラビットなら。だけど、あの重い彫刻をどうやって持って帰るんだろ。八十キロもあるのに」
 藤真の思惑とは別に、準備の方は着々と進められているのである。


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