CITY COLLECTION
普段ほとんど会話もなく部屋からでてこない流川であっても、いないとなれば部屋の雰囲気は変わるものである。
しかし今のところ残った二人にそんな観察をしている余裕はないようだった。リビングのソファで、二人は熱っぽく明日の打合せをしているのだ。
「……昼飯は駅前ならヴェニスって店がうまいぞ。女の子には人気のメニューが多いし、トンカツ定食なんかもあるからお前でも恥かかなくて済むからな。そのうえ値段もリーズナブルだ」
「カツ丼はねえのか?」
「これはデートなんだぜ。自分の好きな食い物より雰囲気だ。……昼飯食ったら定番としちゃ映画だけど、お前はスポーツが得意だからボーリングって手もあるな。ルール判るか?」
「よく判らねえ」
言ってしまってから洋平は前に花道とボーリングをしたときのことを思い出していた。ルールも把握してなかったが、花道のボールは隣のレーンにはみ出すほど豪快なのだ。晴子に恥ずかしい思いをさせてしまうだろう。
「そうだよな。……映画も調べたけどあんまりデート向きなのはなさそうだ。恋愛映画なんかお前途中で寝るだろうしな。それに、晴子ちゃんの目的は流川な訳だし。仕方ねえ、間がもてなくなったらつれて来るしかねえな」
できれば家につれて来るのは遠慮したい二人である。花道は流川にばかり見惚れる晴子をこれ以上見たくはなかった。洋平にしたところで前回のようなフォローに気力を使うのはまっぴらである。そうは言うものの相手が晴子である以上花道にまかせきりというのもあまりに不安で、洋平の妥協案として最初花道にデートしてきてもらうことで落ち着いたのである。
「とにかく晴子ちゃんに自分の話はできるだけするな。質問だけしてろ。どんなこと聞けばいいか今書いてやるから」
そう言って紙に質問事項を書き始めた頃、外出していた流川が帰ってきたのである。
「お、流川おかえ……り」
玄関で靴を脱いだ流川はそのまま部屋に直行してしまった。いぶかしんで、だが質問を書き出す作業を続けていると、二分後に流川は部屋からでてきて驚く洋平の腕をつかんだのである。
「おい、何だよ」
流川の雰囲気はいつもと違っていた。洋平が一度だけ見たことのある流川の顔。
「明日、銃の撃ち方を教える。いいな」
「……ちょっと待てよ! 明日は晴子ちゃんが来るんだぜ。出かける訳にゃいかねえだろ」
「桜木の女のことなんかお前には関係ねえ。本人に任せときゃいいんだ」
だけど晴子は婦人警官で花道はオクテで……。いいかけて花道を見ると、花道はなにやら自信ありげに微笑んでいた。本来であれば流川の言葉になど耳を貸さず洋平を取り戻そうとやっきになる花道であるのに。
桜木の女。流川のその言葉に花道は舞い上がってしまっていたのである。
「洋平、オレのことなら心配するな。ちゃんと一人でデートしてみせる」
「だけど花道。相手はただの女じゃ……」
「十時に出かける。支度してろ」
まるで有無を言わさず、流川は洋平の肩を一度だけ抑えつけて、部屋に戻っていった。見ると花道はすでに恍惚状態である。洋平は深い溜息のもとに明日の予定を変更せざるをえなくなったのであった。
洋平は明日という日が無事に過ぎてくれることを祈らずにはいられなかった。
翌日、朝の十時に洋平は流川につれられてマンションをあとにしていた。部屋を出る前に洋平は流川にガンベルトをつけられ、強引に銃を装着させられた。その上からやや大きめのGジャンを着込む。流川の方も同じ二十二口径の銃を身につけていた。しかし慣れたもので、洋平ほど着こなしに違和感をもたれないであろう。スポーツバッグの中には予備のカートリッジや清田に託されたアンケート用紙も入っている。これで電車に乗るのだから、流川の肝も相当座っているというものである。
不安げな洋平を視線で捩じ伏せて、電車とバスを乗り継いでゆく。辿り着いたのは山奥のような森林のさらに奥地だった。約二時間をかけて、二人はこの人気のまったくない場所に到着したのである。
そこで流川はバッグを降ろし、中から的を取り出して約十メートル離れた木に画鋲で貼り付けた。そして、まずは自分の装着していた銃を洋平の手に握らせる。
「おい、流川……」
「水戸、お前銃を撃ったことは」
「ねえよ。オレは日本人で、海外に出かけたのは一度だけだ。ある訳ねえだろ」
「プラモデルもねえのか」
「プラモデルも空気銃も猟銃もねえ! ……人殺しの道具なんてオレには必要ねえんだ」
「だったら今覚えろ。……いいか、この銃はお前の銃と基本的には同じだ。ここを……これで引き鉄引けば弾が出る。構えてみろ」
流川の強引さに辟易しながらも、洋平は素直にしたがった。どちらにせよここまでついてきてしまったのである。いまさら引き返す訳にはいかなかった。
「肘をロックすると反動で肘がやられる。少し曲げた方がいい。……そうだ。あとはよく狙ってゆっくり引き鉄を引く」
言われたとおりに引き鉄を引いた。その瞬間、大きな銃声がして、洋平は思わず飛び上がる。まさかこんなに大きな音がするとは思わなかったのだ。たった一発の銃声が洋平の心臓を直撃していた。
「……マジかよ」
「筋は悪くねえな。ちゃんと的に当たってる。ただグリップ握り過ぎだ。もっと力抜け」
「冗談じゃねえ流川。こんなもんオレに使えって言うのか? オレは人殺しじゃねえんだ。こんな……おっかねえ」
鼓動はなかなかおさまらなかった。たった一発の銃声。たったこれだけで死んでしまう人間がいる。それが恐ろしかった。一年前までただひたすら人を殺し続けてきた流川には、理解することはできないのだろうか。
「どうした。なぜ震える」
言われて初めて気がついた。自分が震えていること。
気を落ち着けるように、洋平は言葉を選んだ。流川は殺人者だった。言い方一つで流川を傷つけることになるだろうから。
「……オレは泥棒だ。銃は使えねえ。人殺しの道具なんかいらねえ。殺す側の人間にゃなりたくねえんだ」
そう言って、洋平は流川に銃を手渡した。受け取った流川は少しの間見つめていたが、やがて銃を持ちかえ、銃口を洋平の胸に向ける。
「……命を狙われてもか」
安全装置は外れている。その気になれば洋平の胸を貫くまでものの二秒とかからないだろう。
「こんな命でも欲しい奴がいるんならくれてやるさ。たいして価値ある命じゃねえ」
そう、洋平が言い終えた二秒後。あたりに一発の銃声が響き渡った。貫かれた木の葉は不自然な仕草で地に落ちる。洋平は顔を青くしたままなにも言うことができなかった。流川が本当にその気になったとき、引き鉄を引くことをためらわないだろうことが判ったのだ。
「人間には二通りいる。死んだら価値の上がる奴と、下がる奴と。善人か悪人かはあんまり関係ねえ。水戸、お前は死んだら価値のなくなる人間だ」
やっとの思いで、洋平は声を出すことに成功していた。
「……だから殺さねえのか、お前は」
流川はその質問には答えず、別の意味のことを言う。
「生与奪権を持つのは殺す側の人間だ。だが生きる権利は殺される側にもある。オレは殺せとは言ってねえ。生きてろって言ってるだけだ」
「……だったらいらねえな、銃の練習は」
「……」
「持ってるだけならしょうがねえ。一度は承知したことだ。だけどオレはこいつを人に向けることはしねえ。だから撃ち方も知る必要はねえ」
「ちゃんとした殺し方を知らねえと殺さずに済む方法も判らねえ」
「くどい」
ようやくいつもの調子を取り戻すことに成功する。洋平は、行動の主導権は人に預けることができても、精神的な主導権を人に託すことのできない男だった。相手が花道であれ流川であれ、精神部分で優位になければ精神のバランスが崩れてしまうのだ。計算された弱みを見せることはできる。だが、本当の弱い部分にまで人を踏み込ませることはなかった。
「帰るぞ、流川」
人を殺すことに関する洋平の無意識の恐怖は、表層意識の洋平に危険を働きかけた。流川も諦めて帰り支度をはじめる。そんな流川の様子に洋平が心の中でほっとしかけたその時、遠くで新たな銃声を聞いて身体を硬張らせたのだ。
「……流川、何だよ今の」
銃声を聞き慣れている流川はさして気にも留めていなかった。だが、今銃声が響いたことくらいは気づいている。
「……誰かいるんだ」
「んなこた判ってる! 向こうの銃声が聞こえるってことは、さっきのオレ達の銃声も向こうに聞こえてたってことだろ?」
「……たぶん」
流川には洋平がどなる訳が判らなかった。きょとんとして洋平を見つめる。
「たぶん、って……お前よく平気だな。日本は法治国家で銃は禁止された国なんだぞ。見つかったら二人とも格子の中だ」
流川にもようやく洋平の言わんとしていることを理解することができた。薬莢を拾い、打ち抜いた木の葉を踏みつける作業を再開させながら言う。
「あれは猿を撃ってるんだ」
「……猿?」
「このあたりは冬になると猿が里に下りてきて人間の食い物を喰い荒らす。だから地元で許可を受けた人間が決められた数の猿を撃つことが許されてる。そういう場所だ。心配ねえ」
説明を聞けば何のことはない。洋平は少しだけほっとする。だが、流川は普段まるで外に出ない人間だった。新聞も読まず、テレビも見ない。地理にも明るくない流川がこういう場所を知っていることに洋平は不信を抱いていた。だから、できるだけわざとらしく聞こえないように、洋平は言ったのだ。
「誰に聞いたんだ? 流川」
的を取りにいこうとしていた流川が振り返った。その目には探るような強さがある。
「銃のブローカーの清田信長。国際銃砲連盟にも所属してる。オレが奴を知ったのは一年前だ。連盟の名簿に載ってたから間違いねえ」
洋平の質問に対する答えは比重としてあまりに過剰だった。
「そんなに詳しく聞いてねえよ」
「調べる手間が少し省ける」
「調べねえよ」
おもむろに、流川は洋平の両肩を抑えつけた。そして、押し殺したような声で言ったのだ。
「お前は調べる。……水戸洋平はそういう男だ」
決めつけられて、洋平は二の句がつけなかった。たぶん自分は調べるだろう。だが、それを悟られるのは洋平には心外だった。
「……調べねえよ」
手を放して的を取りに歩き出した流川を見送って、聞こえないほどの小さな声で負け惜しみのようにつぶやく。聞こえたのか聞こえなかったのか、約十メートルの距離を歩いて的を手にした流川は、たった一発の弾丸の痕を見てぞくっと身体を震わせていた。
弾は中心から僅か一インチほど離れたところを貫通していた。
流川と洋平とがいつものようにお互いの価値観の違いに遭遇していたその頃、花道は晴子と待ち合わせて、洋平に教えてもらったレストランで早めの昼食を口にしていた。
なかなかに楽しい時間である。洋平に言われたとおり、晴子に質問を浴びせながら晴子のことを判ってゆく。ふだん人の話を聞くことを苦手とする花道であったが、晴子の話は別であった。家族構成や幼い頃の話など、花道の興味を惹かない話はない。とりあえずボロを出すこともなく、花道は食事を終えていた。
晴子がトイレに立って、花道も言われていたとおり会計を済ませようと席を立ちかける。その時だった。目の前の晴子の席に、一人の男が腰掛けたのである。
「おいてめえ、そこはハルコさんの……ドラゴン!」
叫びかけた花道は自分で自分の口をふさいだ。ここは公共のレストランである。客はそれほどいなかったが、大きな声でドラゴンの名前を口にしてはいけない場所である。花道にもその程度の理性は働いていた。
「てめえ……いつから」
花道にしては最大の努力を払って声をひそめる。目の前の男 ―― ドラゴンは、花道を見据えてにやっと笑った。
「ずっとそこにいただろうが。ちったあ回りに気を配れよ」
「よけいなお世話だ!」
「しーっ。声がたけえ」
顔を近づけて、内緒話の体制に入る。そうしている方がよけいに人目を引くのだが、そんなことにはまったく気づかない二人であった。
「そうだ。てめえ、何だよあの予告状は! おんなじ日のおんなじ時間に同じものの予告状出しやがっただろ! オレ達への挑戦のつもりか!」
しっかり現状認識のできている花道に、ドラゴンはニンマリと笑った。判っているなら話は早いというものである。
「手短に言うぜ。……なあ、レッド。オレはお前の腕を買ってる。お前の突撃隊としての腕をな。その腕、オレのところで活かしてみる気はねえか?」
突然のドラゴンの申し出は、花道にはまるで寝耳に水であった。あまりに突然だったために花道は言葉をなくす。そんな花道の様子にドラゴンは満足した。この男は人を驚かすのがことのほか好きなのだ。
「でかい仕事だ。一晩で億単位の金が動く。お前が加わりゃ成功間違いなしだ。どうだ? 痛快だぜ?」
ドラゴンの話は大きすぎて、花道には理解する気すら起きなかった。そのせいか少しだけ冷静になる。洋平に言われていた言葉を思い出して、にまにま笑うドラゴンを睨みつけるように言ったのだ。
「それがあの挑戦状とどういう関係があるってんだ。てめえの話は判らねえ」
「怪盗レッドフォックスなんてチンケなコソドロのまんまでいるのはお前のためにならねえ。お前はもっとドでかい仕事をする奴だ。てめえらは三人、オレは一人。だがオレからターゲットかっさらうことすらできねえ」
あまりに莫迦にした科白である。花道はテーブルから立ち上がって言った。
「てめえになんか負けるかよ! オレ達は最強だ! そんな挑戦状になんかオレ達レッドフォ……ムガ」
「馬鹿! 捕まりてえのかお前!」
とっさにドラゴンが口を押さえたからよかったようなもので、このまま花道が叫んでいたらまず間違いなく通報されていたところである。
花道も自分の失言は悟っていたから、おとなしく席に着く。それを追うようにドラゴンも息を吐いて腰掛けていた。
「オレ達が負ける訳ねえ。オレ達は最強だ」
「それが本当かどうかは知らねえ。本当ならオレも諦めてやる。だが、たった一人のオレにも負けるような泥棒じゃ、オレだって納得いかねえ。かわいい弟分のお前を預けとくにゃ役者不足ってやつだ。そうだろ?」
「……てめえに負ける訳がねえ」
「自信があるんだな。だったら賭けをしてみねえか? オレと、お前と」
話が佳境に入ったことを示すように、ドラゴンはさらに顔を寄せた。花道も同じように顔を寄せる。二人の顔はあと数センチでくっついてしまうほどに寄せられていた。だが、そのあまりの不自然さに、二人が気づくことはなかった。
「何だよ、賭けって」
「もしもお前達が勝ったら、オレはスッパリと諦める。だけど、万が一オレが勝ったら、お前はオレと一緒に仕事をやる。どうだ?」
花道は少し考える。だが、あまり多くない頭で考えるには、問題はあまりに大きすぎた。
「それって、何か変じゃねえか? 判んねえけど」
「……自信がねえなら最初からそう言えよ」
ドラゴンがぼそっと言った言葉に、花道は一気に頭に血を上らせていた。
「誰が自信がねえだ! オレは世界最強の……」
「だったらいいな。賭けは成立だ」
「ああ! 賭けだろうが何だろうがやってやる! オレを甘く見るんじゃねえ!」
目的を達したドラゴンは心の中でほくそえんだ。花道の方はうまく乗せられたことに気づきさえしないだろう。そんなこんなでドラゴンがほんの少し警戒を解いたその一瞬に、晴子がトイレから戻って近づいてくるのが見えたのである。
「やべ。女が戻ってきやがった。特別国家公務員とでも言っとけ」
そう言い捨てて、ドラゴンは席を離れてレジに向かう。花道は呆然とドラゴンの後ろ姿を見つめていた。入れ替わるように晴子が花道とドラゴンを見比べながら席に座ったのである。
「桜木君、……どうしたの、あの人」
とっさのことで花道も動転していた。なにも考えずに言う。
「とくべつこっかこうむいんって、何スかね」
言ってしまってから、まずいことを言ったかもしれないと改めて思う。だが、晴子は花道の言葉を繰り返して、やがて笑いながら言ったのである。
「やだ、桜木君。特別国家公務員て、自衛隊のことよ。桜木君、自衛隊の人に誘われたの? ……そう言われてみれば桜木君の身体つきって自衛隊向きかも」
笑いながら話す晴子に、花道もおかしくなって笑う。花道の性格を把握し尽くしているドラゴンは、あとで花道が困らないようにちょっとした罠を仕掛けてくれたのである。
「そうスか。どうも話が判らないと思ったんスよ」
「自衛隊なら最初からそう言えばいいのにね。難しい言葉で言われたって普通は判らないわよね」
晴子と一緒に笑いながら、ドラゴンとの会話のことはすっかり花道の頭から離れてしまっていた。
食事のあと、花道は晴子を伴って再びマンションへやって来ることとなった。
花道にも、晴子が自分と付き合うのは流川に会いたいがためだということは十分に判っていたから、来る前に再三確認は取ったのだ。だが、晴子は落ち着いたところでゆっくりと花道と話がしたいと、流川がいない部屋に行くことを了承していた。そんな晴子の変化は花道にとっては特に嬉しいもので、もしかしたら、などと期待してしまったとしても少しもおかしいことはなかっただろう。
だが、晴子の方の気持ちは少し違っていた。この前の流川との対談は、晴子にしてみれば納得のいかないものであった。それはそれで仕方のないことなのだが、失敗を悟った晴子は、少し作戦を変えたのである。花道が晴子の言うことを何でも聞いてくれる存在だということは、晴子は女の勘ですでに判っていた。この際だから花道を利用して、流川の身辺を探ることに重点をおこうと、晴子は考えたのである。花道の知っていることをうまく聞き出せればよし、更に運がよければ、花道の隙を見て流川の部屋を覗くこともできるかもしれない。そこまでいかなくとも、花道と仲よくなることで少しでも流川に近づけるのなら、それはそれで言うことはなかったのだ。
そんなこんなで互いに少しの思惑と期待を孕んで、二人はマンションに到着していた。誰もいない部屋に帰ることを徹底して嫌う花道ではあったが、今日は二人ともいないことを知っていたし、それに晴子と二人きりになれるチャンスでもあるのだ。発作も引っ込んでいだ。
「ああ、ハルコさん。そこに座ってください。何か飲むッスか?」
「そうね、何があるの?」
「ちょっと待ってください」
寒いから温かいものを、などという計算はもとより働く花道ではない。冷蔵庫を開けると、洋平が用意したのであろう、さまざまなジュース類がずらっと並んでいた。
「……いろいろあるッスね」
「そうなの? それじゃ、失礼して拝見」
茶目っ気たっぷりに、晴子は横から冷蔵庫を覗く。缶ジュースが並ぶ冷蔵庫に一つだけ瓶のオレンジジュースを見つけて、晴子は手を伸ばしながら言った。
「あら? ミニッツメード。これ飲んだことないのよね」
「あ、それダメッス! それは流川の……」
花道の大声に晴子はあわてて手をひっこめた。
「流川君の……?」
「あいつのものは絶対触っちゃだめッス。女の子でも容赦しねえから。……こっちのオレンジジュースでいいスか?」
「……そうね、それにするわ」
焦りまくる花道に驚いたものの、流川がオレンジジュースを好むということを知っただけでも収穫だと思って晴子は諦めた。リビングのソファに腰掛けて、笑顔で会話する。晴子の話す内容は花道に聞かれたことで、花道の話す内容は主に洋平に関することであった。
それなりに会話を楽しみながらも、晴子にとっては忍耐の時間だった。花道は流川に関する話をわざと避けているようである。それは晴子に意地悪をしているというよりも、花道自身が流川を嫌いなところから来るのだと、晴子にはだんだん判りはじめていた。たぶん話せば悪口になってしまうから、わざと話題に乗せないようにしているのだと。
そして、そんな会話が延々と続く中、とうとう晴子にとってのチャンスが訪れたのである。
「あ、オレ、ちょっと便所」
話がとぎれなかったため、かなりの時間我慢していたのだろう。花道はそう言うとものすごい勢いでトイレに消えた。晴子は足音を忍ばせてトイレの前を通過する。そして、そっと、流川の部屋のドアを開けたのだ。
窓のない部屋は暗かったが、晴子は前の時蛍光灯のスイッチの位置をちゃんと確認していた。そうして明るくなった部屋には無数にキツネのぬいぐるみが転がっている。ベッドやカラーボックスや小さな机の上にまでびっしり積み重なっている。キツネ以外のものを求めて視線を移動させた晴子は、壁の隅に張り付いたそれを見つけたのだ。
(これ……フォックスアイ……?)
それは前回レッドフォックスに盗まれたフォックスアイという宝石によく似た形をしていた。銀製の板が仮面の形に加工され、目にあたるところに二つのルビーが填め込まれたフォックスアイ。一瞬ドキリとして目を見張った晴子ではあったが、よく見るとルビーがあるはずの所に填まっているのはただのプラスチックであることが判る。オレンジと赤の中くらいのような色のまん丸のプラスチックである。そして片方の目には大きな傷がついていた。
(きっとレプリカね。でも、どうしてこんなもの……)
晴子はフォックスアイの捜査の担当ではなかった。だからフォックスアイの写真を見ることができたのはほんの偶然なのだ。兄である赤木捜査課長に届け物をするため捜査課に出向いたとき、たまたま赤木が見ていたものを横から盗み見たのだ。それでなければ晴子は一生フォックスアイにお目にかかることはなかっただろう。流川はどうしてフォックスアイを知っているのか。そして、これほど正確にフォックスアイを再現することができるのか。
目の前のキツネのぬいぐるみ達がその対の目で晴子を見据えている気がする。百対を越えるキツネ達の目。その目が晴子を見張っている。無断で流川の部屋に入った晴子を。
その中に、晴子は見つけたのだ。たった一つだけ晴子の方を見ていないぬいぐるみを。まるっきり背中を向けてベッドに腰かけたキツネを。あの巨大なキツネの目は、外せばフォックスアイのレプリカに填められたプラスチックとほとんど同じくらいになるのではないだろうか。
その時だった。トイレから出てきた花道が晴子の名前を呼びながら流川の部屋に入ってきたのは。
「ハルコさん! だめッスよ、流川の部屋になんか入っちゃ!」
放心状態になりかけていた晴子の手を取って、花道は晴子を部屋から引きずり出していた。そして、めったに見せない半分怒ったような顔で言ったのだ。
「流川は人が部屋に入るとすげえ勢いで怒るんッス! 前に洋平が掃除しに入っただけでひどい剣幕で、オレ洋平殺されるんじゃないかって思ったくれえで。ハルコさん! バレたら流川に殺されちまう! 二度と、絶対、流川の部屋には入らねえでください!」
ほとんど泣きそうな顔で訴えかける花道に、晴子は自分がしたことのおろかさを知った。こんなに自分を心配してくれる花道。その花道を利用して、晴子は流川の部屋に入ったのだ。流川は人にプライバシーを知られることを嫌う。それは誰にでもあることで、たとえ兄弟でも自分は兄に部屋に入られるのは嫌だった。さまざまにいろいろなことを感じて、晴子はさっきまでの自分を深く反省した。そして、その心の動きに、さきほどちらりと判りかけたものは泡と消えてしまったのである。
「ごめんなさい桜木君。あたし、どうかしてたみたい」
その晴子の言葉は心からの謝罪だったので、花道もほっとして笑顔を見せた。
「オレも言い過ぎて……すんません」
晴子のすまなそうな顔を見ながら、花道はこのことは誰にも話すまいと、心に決めていた。
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