CITY COLLECTION



 本人達曰く最強の怪盗レッドフォックスのアジトでそんな会話が交わされた翌日は、湘北署の捜査課の刑事さん達にとっては週始めでもなんでもない月曜日だった。
 捜査課長はおなじみ赤木剛憲である。昨日は日曜日だというのにけなげにも自主出勤をして、一日中レッドフォックスの情報を集めて回っていた。しかし、これといった成果もなく、そのためよけいに日々の疲労が身にしみる。事務机の上で雑務に追われていると、捜査課の紅一点、彩子女史がお盆にお茶を乗せてやってきて、根を詰める赤木に気遣いの声を掛けた。
「課長、そろそろお昼です。少し休憩なさったら」
「ああ、ありがとう。……もうそんな時間か。そういや晴子がまだ弁当を届けに来んな」
「そのことでしたらご心配なく。一昨日晴子ちゃんと相談して、今日は私が三人分作ってきたんです。たまには三人で食べるのもいいんじゃないかと思って。お嫌でした?」
「いや……。晴子の奴、彩子にオレの分まで作らせたのか。ったく、最近のあいつときたら……すまんな」
「晴子ちゃんが悪いんじゃないんです。私がむりやり……ちょっとした気分転換です。楽しくやらせていただきましたから」
 いつの世も恋愛とは苦労の多いものである。それは晴子にしても彩子にしても、たいした違いはないようだった。片想いとはひたすら面倒で、努力を必要とするものなのだ。好きな男性に手料理を食べてもらいたいと思うのは、晴子でも彩子でも女性として当然の心の動きなのかもしれない。
「午後からレッドフォックスとドラゴンの件で藤真さんの邸宅に伺う予定だったな。約束の時間は何時だ」
 この件で彩子が確認を受けるのは二度目だった。やはり赤木は相当疲れているのだと感じて、心配そうに答える。
「二時です。一時半に陵南署の魚住課長もおいでになりますわ」
「そうだったな。魚住が来るなら今回は彩子、お前は署に残って……」
「とんでもない! 一緒に行きます」
 こんな赤木を一人で(厳密には一人ではないのだが、魚住が赤木の心の慰めになるとは彩子は少しも思っていなかった)偏屈そうな金持ちに会わせるのは一番心配だった。とかく金持ちというのはサラリーマンを苛々させることに快感を覚えるような人種なのだ。もちろんそんなものは彩子の偏見であったが、どちらにせよ疲れる存在であることは間違いない。一人で待つなど、彩子に耐えられようはずはなかった。
 疲れているときほど、赤木は回りに気を遣う。心配をかけまいとする。そんな赤木のために彩子ができることといえば、できるだけ側にいて少しでも重荷を背負ってやることくらいだったのだから。
「相手は若い実業家と芸術家なんですよ。ほんのささいなことでへそでも曲げられたら一大事です。私、これでも芸術方面は少し判るつもりです。失礼ですけど課長では彼らと芸術的な会話ができるとは思えませんわ」
 確かにその通りだったので、赤木は沈黙のまま彩子の意見を了承した。その時、ノックの音とともに晴子がやってきたのである。
「こんにちわ、彩子さん。ごちそうになりにきました」
 二人が話している間にいつの間にか正午が過ぎていたのだ。
「こんにちわ。今お茶いれるわね」
「はい」
 彩子の机の隣の席に腰を下ろしながら、晴子は兄の赤木を見遣った。今日も早朝出勤で顔をあわせる暇もなかった。やはりかなり疲れているようである。兄思いの妹は、これほどまでに兄を消耗させる怪盗レッドフォックスに改めて敵意を燃やすのだ。
 やがて、彩子の心づくしのお弁当が机に並び、女性二人はなかよくならんで、課長は課長席でそれぞれ箸をつけはじめた。
「ねえ、晴子ちゃん、昨日はどうだったの? 行ったんでしょう? 例の電話屋さんのおうち」
 一昨日の夜、二人はその会話で盛り上がったのだ。明日初めて電話屋さんの家に行く予定の晴子と彩子とで。
「うん、行ってきた。でも、あたし失敗ばっかりしてて。……嫌われちゃった気がする」
 赤木はそんな二人の会話を聞くともなしに聞いていた。口を挟む気などなかったが、家での晴子のおかしな様子は赤木も気づいていたので、しょうがないなというように溜息を一つついた。だいたい恋する女の子に何を言ったところで無駄である。
「どんな人なの? やっぱりかっこよかった?」
「ステキな人よ。なんかすごく神秘的で、でも、彩子さんが言ったみたいにちょっと変わってる人みたい。お部屋にね、キツネのぬいぐるみを集めてるの」
「キツネ!」
 晴子の言葉に反応して突然赤木が言った。驚いて振り返った二人は目を血走らせた赤木を見て即座に目配せをしあう。
「それ、課長の前では禁句にしましょう」
 赤木に聞こえないようにささやいた彩子に、晴子もうなづく。
「あと、うさぎと赤、ね」
「……困るわ。赤木課長って言えなくなっちゃう」
 見かけによらず赤木は神経質なのだ。
「それで? ぬいぐるみオタクのほかにはないの?」
「いろいろ聞いたけど、でも本人はぜんぜんしゃべってくれないの。あんまり自分のこと話すの好きじゃないみたい。質問にも答えてくれなくて、回りにいた洋平君ていう人がいろいろ教えてくれて……」
 意気消沈する晴子は恋に悩む気弱な女の子である。相手の小さな反応に真剣に悩んで落ち込んで……。そんな晴子は彩子にはとても初々しく映った。だが話を聞く限り、その電話屋の男が晴子の恋の相手に適当だとはどうしても思えなかったのである。
 できるだけ晴子を傷つけまいと、彩子は思った。そして、一言一言納得させるように、晴子に言ったのである。
「晴子ちゃん、恋愛は戦いよ。女にとってはほとんど命がけの戦場。真剣にぶつかるの。相手の心を手に入れるまで命をかけて。……でもね、もしもだめだと思ったら、スッパリあきらめなさい。引き際を見定めることも必要だから。こればっかりは努力したら必ずむくわれるものじゃないもの。それも女の価値よ。判る?」
 人生の先輩の彩子を、女きょうだいのいない晴子はまるで姉のように思っていた。心強い味方である。そんな彩子の言葉に、晴子はふっきれた表情でうなずいた。
「そうね、ぶつかってみよう。ダメでもともとだもん」
「それでもしダメなら相手の男に見る目がなかったのよ。自信を持って」
 女性陣ががっちり握手して戦闘意欲を燃やしていたその時、捜査課の電話が鳴り響いていた。それはくしくも流川が修理した電話であった。取ったのは目の前の赤木である。
「はい捜査課……はい……はい、少しお待ちを。彩子、青いファイル取ってくれ」
「どなたですか?」
「三丁目の南さんだ。……ああ、すまない。それで服装は……」
 晴子はよく事情が判らずに首をかしげて見守っていた。赤木に広げたファイルを渡した彩子はちょっと困った顔をして晴子の隣に戻って来る。やがて、二人が見守るなか、赤木は電話を切った。立ち上がってファイルから紙を一枚抜き出して彩子に手渡しながら言う。
「今暇な奴はいないようだ。悪いが昼休みが終わったら頼む。晴子、お前は午後は急な仕事か?」
 問われた晴子はよく事情がつかめないまでも、仕事に厳しい兄を知っていたので短く答える。
「たまってる回覧文書を読もうと思ってたの。別に緊急の用事はないわ。どうかしたの?」
 その質問には書類を受け取った彩子が答えていた。
「この、南歳三さんて、近所のおじいさんなの。身体は元気なんだけど、ボケがひどくてね、よく行方不明になるのよ。最近こういうお年寄りが多くて、捜査課に捜索願いが来るのよね。その度にいちいち特徴聞くのが面倒だから名簿作っちゃったの。本当だったら捜査課の人間が広報車でさがし回るんだけど、今忙しいでしょう? 晴子ちゃん、運転お願いできないかしら」
 このシステムは、彩子が赴任してきた年に地域住民とのコミュニケーションを図るために彩子自身が考えだしたものだった。おかげで彼らは月に二三度広報車で市中を巡るはめになったのである。もちろん普段の時は一向に構わなかったが、今日は藤真邸訪問の日なのである。彩子は赤木について行くことができなくなってしまったのだ。
「交通課に話は通しておく。頼めるか? 晴子」
「ええ、もちろん。あたしで役に立つなら」
「ありがたいわ。……なんかあたし、自分で自分の首絞めちゃったみたい」
 ちろっと舌を出した彩子の瞳に、晴子は片想いの辛さを少しかいまみたような気がしていた。
 そして、彼女が本当の姉になってくれる日がくればいいと、ひそかに願わずにはいられなかった。

 午後、赤木は魚住を伴って、藤真家の大邸宅に到着していた。
 まるで全寮制の私立学校のように広い敷地である。門を入ると正面には巨大な噴水が飛沫を上げている。その両側、視界の範囲内は芝生と季節の花畑。上空から見たらさぞかし整然とした美しさをみせることだろう。その噴水を大きく回って歩き続けると、左右対称の位置にいくつかの洋館が見えてくる。林立する洋館を過ぎると、やっと母屋の建物が正面に現われるのである。
 そこまで辿り着くのに徒歩十分。警備状況を頭に入れつつ歩いてきた二人の捜査課長は、ため息と息切れの区別をつけるのに苦労しなければならなかった。
「確かここは藤真健司の私邸で藤真家のいわば別宅だったはずだよな」
「その通りだ。だからここには藤真健司と例の芸術家の二人しか住んでいないはずだ」
「とりあえず裏に回ってみよう」
 最寄り駅からは遠いとはいえ、これだけの広さの屋敷である。ただ単に持っているというだけでも赤木や魚住の年収の十倍以上は維持費がかかるだろう。ごく普通の一般家庭に生まれ、長男として両親の建てた家に同居している彼らとしては、せめてこの屋敷の百分の一の敷地でも手に入れることは難しいだろう。世の中にはいるのだ。息子一人のためにこれだけの敷地と家をポンと買い与えることのできる親が。
 母屋の建物を半分回るだけで約三分。建物の裏は人工湖と森とオブジェの空間だった。外壁までどれほどの距離があるのかもわからないほどに深い森がある。赤木はこの建物の警備には少なくとも八十人の人数が必要だと感じて、散策を終えた。
 改めて玄関から名乗り、屋敷の中に案内される。待たされた部屋は質素な二十畳ほどの部屋だった。質素とはいっても外観からすればいくぶん質素に見えるという話で、ソファなどの調度は申し分ない程度には揃えられていた訳なのだが。
 なにも言わずしばらくの間待ち続けていると、やってきたのは長身に眼鏡をかけたちょっとみは地味に見える一人の青年だった。ありきたりのセーター姿の青年は、こんな屋敷には不釣合に見えるほど没個性的だった。
「ようこそいらっしゃいました」
 二人も立ち上がって手帳を見せながら挨拶する。
「こちらこそお時間を取らせてしまって申し訳ありません。湘北署捜査課長の赤木と陵南署捜査課長の魚住です」
「あ、どうも。花形透です」
 名前を聞いた二人は次の瞬間、ほぼ同時に顔を上げていま一度青年をまじまじと見つめる。花形透は例の芸術家の名前であった。そして今回ねらわれているガラス彫刻の作者であるのだからいわば被害予定者なのである。
 写りの悪い写真でしかその姿を現したことのない青年は、二人の捜査課長にぶしつけに見つめられてやや顔を赤くした。彼は人に見つめられることに馴れてはいない。
「あの、すみません、どうかおかけください。藤真はまだ帰って来ませんからオレがお話を伺いますので」
 フェイントである。二人にしたところでそれなりの知識もあり、芸術家というものについて多少のイメージは持っていたのである。そのイメージと目の前の青年とはあまりに違っていた。だが、彼がそう名乗る以上いかにそう見えなくても彼は新精鋭の芸術家なのである。青年実業家に目の飛び出るほどの金額で囲われるくらい魅力的な作品を作ることのできる男なのだ。
「失礼しました。今日お邪魔しましたのは湘北署の方にあなたの彫刻を盗みにはいるなどという戯けた予告状が参りましたもので……」
 赤木の口上を、花形は礼儀正しく最後まで聞いていた。そしてその言葉が終わったとき、花形は言ったのである。
「お話はよくわかりました。ただ、この家には特殊な警備システムがあって、予告状の時間にはだれも出入りすることができなくなるんです。警備員もおりますので、警察の方々のお手を煩わせることはないと思います。せっかくですがお引取りいただけますでしょうか」

 その約三十分後、赤木と魚住は結局何の収穫もないまま屋敷をあとにしていた。捜査に協力してもらうことは承諾させられなかった。最初さほど手強く見えなかった花形は、ふたを開けてみればたいした頑固男だったのである。
「あきらめる訳にはいかんぞ、魚住」
 レッドフォックスに対して湘北署と陵南署の合同捜査という形を取り始めてから、今回が二度目の盗難予告である。それまでの四回の盗難はすべて陵南署の単独捜査であったこともあって、前回初めて合同対策本部を設置したとき、魚住は赤木にだけは負けまいという変な気負いがあった。ところが前回、赤木が失敗したことから、魚住にはその気負いがまったくと言っていいほどなくなってしまったのである。そして自分が辿ったと同じ道を辿るようにレッドフォックスに執念を燃やす赤木を見て、魚住は自分でも驚くほど赤木に対してライバル意識を感じなくなっていた。むしろ同情していたのである。
「まあ、あの男では埒があかんな。藤真健司を引っ張り出さないことには」
「二言目には『藤真にそう言われてます』だ。せめて屋敷の外で警備することを許してもらわんことには奴らを逮捕することなどできん。あと二週間だ。何としてでも約束を取り付けるぞ」
 新たな決意とともに屋敷をあとにする。
 そんな二人の様子を、屋敷の窓から見つめている二対の目があった。一人は先程二人との対談を無事に終えたばかりの花形透である。そしてもう一人は、まだ帰っていないはずの藤真健司であった。
「あの二人、歩き方もまるでゴリラだな。よく似てる」
 少しの笑いを漏らす。どんな表情も、彼の美貌を際だたせこそすれ損なうことはなかった。うしろに立つ花形も無言で同意の意を示した。
「どうしてガレージを見ていかないんだろ。経験を次に活かすことを知らないのかな、歩く盗聴器達は」
「やっぱり盗聴器をつけてた?」
「二人ともだよ。たぶんあれはボタンに仕込まれてるな。クリーニング屋変えた方がいいよ、捜査課長さん」
 この家は見かけは豪華なだけの洋館に見えるが、中身は近代的な警備システムを持った要塞である。廊下を歩いていた二人は随時電波を出してその会話の内容を第三者に伝えている。だから藤真は会わなかったのだ。電波を通さない部屋に通しはしたものの、そのあとで二人が話の内容について語り合えば、その第三者に筒抜けになってしまうからである。
「ずっと会わないつもり?」
 花形の言葉に、藤真はにっこりと笑った。そして悪魔的な皮肉な表情で言ったのだ。
「あと二回来たら三回目には会ってもいいかな。その時にはもっと趣味のいい背広をプレゼントすると思うけど」
 辛辣な言葉を投げかけて、二人の偉才の青年達は互いに微笑みあうのだった。

 照準の向こうで風になびく黒髪に、エースは不思議な懐かしさを覚えていた。
 ゆっくりと、安全装置を外す。馴れた角度に人さし指を曲げて、その指先の感触を確かめる。ほんの少し力を入れれば終わりだった。黒髪が揺れ、声もなくその場に崩れ落ちて二度と動かない人形になる。
 その甘やかな誘惑は結局のところ功を奏することはなかった。暗闇の中に浮かび上がる人影はそれ一つだけでほかに動くものの影とてない。ひとたび弾丸の発射されたところで、エースのしたことだと見破られる可能性は万に一つほどしかありえないであろう。そびえ立つ高架橋の下は都会の死角。ここに呼び出されたことからも、照準の向こうの若い男は五分の確率で死を覚悟しているはずだから。
 確認したいのだ。エースが男を本当に殺すことができるのかどうかを。だが、今はまだその時ではなかった。ゆっくりと指を外し、安全装置をもとに戻す。地元の銃砲屋から買い求めたライフルはそのままに、エースは懐かしい男を肉眼でとらえられる位置まで移動して、うしろから声をかけた。
「フォックス」
 振り返るフォックスの目には僅かなとまどいがある。視線は感じていた。弾丸が身体に食い込んでから一秒後に聞こえるはずの銃声を耳に捉えることができるよう祈りながら。
「ベネチアの酒場でバーテン殴り倒して以来だな。一年ぶりか」
「……マティーニなんて人間の飲むもんじゃねえ」
 一年ぶりのフォックスの肉声に、エースは僅かに唇の端を上げた。日本人街ででもなければ日本酒など置いてあるはずはない。さらに焼酎とオレンジジュースをブレンドして客に出してくれる酒場など、できた途端に客足はぱったりなくなるだろう。
「ずいぶん無防備じゃねえか。ガンベルトが見えねえぞ」
「必要ねえ国だ」
「その昔ダディーと賭けをしたことがあるんだ。フォックスが生きてる間に銃を手放す瞬間があるか、ってさ。賭けは成立しなかったよ。フォックスは眠るときもSEXするときも絶対銃を離さない奴だって確信があった。……お笑いだ。たった一年でお前は最大のパートナーを手放しちまう。歩くより先に銃の扱いを覚えたお前がだ」
「……」
「人間は生きてなけりゃ意味がねえ。そう言ったのはお前だろう? 生きたいから殺す側に回ったんじゃねえのか?」
 天使の称号を持つエースは、ほんの数秒をフォックスのために沈黙した。それは長い時間をかけてエースが培ってきたフォックスに対する話術だった。フォックスは寡黙ではあるがなにも考えていないデク人形とは違う。ただ、情報を仕入れたあとの処理とそれを自分の内部の言語にうまく当てはめることがほんの少し苦手なだけなのだ。沈黙はフォックスの中に渦巻く感情をスムーズに処理することを僅かに助けた。しかし、その沈黙に耐えられずフォックスを待ちきれなくなって次の言葉を紡ぎ出すのも、このエースなのだ。
「お前があのときどういう失敗をしたのかは聞いた。だけどそいつを取り返しのつかない失敗だって言う奴はいなかったぜ。ああいうのは不可抗力って言うんだ。責任感じて姿消したんなら申し開きの余地もあるってもんだ。誰もお前の暗殺命令は出さねえ。……お前の気持ちしだいでな」
 今度こそエースは深い沈黙に落ちた。フォックスが一言でも口にするまでは声を出すまいと決心するかのように。
 そんなエースの言葉を、フォックスは理解していた。おそらくエースも含めたかつての仲間達や育ての親ともいえる元締のダディーは、今フォックスの行方をさがしているのだ。そして、それまで通りの仕事をフォックスがすることを望んでいる。もしも戻って来るならばこの一年間のことは水に流そうというのだ。だが、戻らないとなれば即座に暗殺命令が出され、フォックスは追いつめられ殺されるだろう。まずは目の前のエースが第一の暗殺者に早変わりする。
「……めんどくせえ」
 フォックスの言葉はエースをホットな男に変えていた。
「てめえなあ! 人が親切に休暇取ってまで来てやってるってのになんだよその言い方は! ガキの頃おねしょの始末してやったの忘れたのか?」
 エースの方が少し年上なのだ。
「頼んでねえ」
「オレの仕事回してやったじゃねえか。お前が人付き合いしないって理由で仕事ほされた時に。たまにはオレの言うことにも耳を貸せよ」
「てめえに自信のねえ仕事押しつけたんだろ。腕がねえなら断わりゃいいんだ」
 フォックスの指摘に、エースは二の句がつけなかった。エースという男は別に腕がない訳ではなかった。その人当たりのよさだけで天使の称号を得ている訳ではない。彼の天使という名前には二通りの意味がある。告死天使。エースを恐れる人間は死を告げる天使の意味で彼を呼ぶのだ。
 エースは自分の伝説を守るために、できないと思う仕事は遠慮なく断わった。それは自分のためでもあるし、エースに金を払う客のためでもあった。だが、フォックスは難しい仕事も断わらない。失敗を恐れない男で、さらに成功を続けていたから伝説のスナイパーの再来と言われるまでになったのだ。一年前の初めての失敗もフォックスの名を貶めなかった。
 一番側にいたのはエースだった。唯一フォックスの味方であったのも。飼犬に手を噛まれるとはひどい言い草だったが、まさにエースはそう感じて絶句してしまったのである。
「……たった一年でお前を変えた奴がいるか」
 弾丸は三発。調子の変わった声に驚愕してフォックスはエースを振り返った。告死天使の目に見返される。
「エース、てめえ……」
「用心しろ。また連絡する」
 くるりと振り返ってそのまま去ってゆく背中に、フォックスは見覚えがある。銃を持っていようがいまいがかかわりない。エースはフォックスに背中を向けることを厭うことはないのだ。
 フォックスは複雑な思いで、エースの背中を見送っていた。


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