CITY COLLECTION
「流川、飯ができたからでてこいよ」
晴子の期待のまなざしを頬に感じながら待つこと十秒。部屋の中からはいっかな何の音沙汰もなかった。
「寝てるのか? 入るぞ」
そもそも流川の部屋には窓がついていなかった。さらに明かりもつけずに眠っているらしく、その部屋は暗い。洋平は手さぐりでぬいぐるみをかきわけ、ベッドまで近づいた。そして、流川の眠っているらしい肩に手をかけようとしたとき、暗闇がいきなり襲ってきたのである。
「え?」
訳も判らないまま、どしんという近所迷惑な音とともに横倒しにされた洋平の頭上に、銃特有のカチッという金属音。洋平の中から一瞬にして血の気が引いた。このまま流川が引き金を引けば、間違いなく洋平は殺されるだろう。
「流川待て! 話せばわかる!」
開け放したドアからの明かりに映し出される流川の目は完全に座っていた。こんな寝ぼけまなこの奴に間違いで殺されたとあっては末代までの恥というものである。グリグリ押しつけられる銃口に冷や汗をたらしながら、やがて気づいて入ってくるであろう花道と晴子のことを思って、洋平はさらに顔面を蒼白に変えていた。万が一この銃を晴子に見られたら、三人とも銃刀法違反で逮捕されることはほぼ間違いない。
「流川、目え覚ましてくれ。よく見ろ。オレは敵じゃねえ」
「どうした、洋平。今の音なんだ?」
押し殺したような洋平の声に、いいつけどおりに皿を運んでいた花道の呼び声がかぶさる。洋平が焦りまくる中、流川はようやくその意識を現実に合わせようとしていた。銃にかけられた手の力がいくぶん抜ける。洋平はややほっとした表情になって、目をしばしばさせた流川に早口で言った。
「とにかくそいつを隠せ。急いで」
「水戸……」
「いいから早く!」
どうにか動かせる程度に自由になった右手で流川の銃を取上げ、ベッドの下に押し込む。部屋のドアの方から女の子の叫び声が上がるのとほぼ同時だった。
「きゃあ……!」
(見られたか?)
「ハルコさん! どうしたんッスか!」
入り口に顔を覆って横を向いてしまった晴子と、晴子の声を聞き付けて駆け込んできた花道。晴子の様子から察するに、さっきの叫びは流川の銃とは無関係であるらしい。洋平は改めて自分の体勢を点検して、すべての事情が決して自分達が不利な状況にないことにほっと胸をなでおろしていた。
「流川、ホモだと思われたくなかったらとりあえずオレの上からどいてくれ」
目の前の流川の目が一瞬細められたが、次の瞬間すぐに洋平の言うとおりに身体をどけたので、洋平はすぐに忘れてしまった。
「洋平、何だよいったい。流川に何かされたんか?」
「何にもされちゃいねーけど……流川、昼寝するなとは言わねーけど、寝ぼけて人襲うのだけは勘弁してくんねえ? どんないい夢見てたか知らねえけどよ」
流川はぼんやりと回りを見回して、ちょっと頭を押さえると言った。
「……プラ・メールちゃんが手招きしてた」
この場合、プラ・メールちゃんとは流川が一番大切にしている巨大キツネのぬいぐるみのことである。花道と洋平は顔を見合わせて、いくぶん怒ったように言った。
「だからてめえは変態だって言うんだ!」
「今度キツネのことで迷惑かけてみろ。流氷に乗せてシベリア送りにしてやる」
三人が互いに意味もない会話を交わしながら、果たして相手の言葉の何がごまかしで何が真実であるのか、三人にも既に判らなくなっていた。そのことがかえってよかったのだろう。晴子にはそんな三人がとても自然に見えた。おそらく彼らがごまかしている会話の内容すら満足には判らなかったが、仲のよい三人を微笑ましく見守っていた。もちろん、最大の関心ごと、流川の動向からは逐一目を離さなかった。
立ち上がった流川は背が高く、ドアの前に立っていた晴子の脇をすり抜ける流川の顔をじっと見つめるためには、晴子はずいぶん首を反らさなければならなかった。そもそも、晴子が初めて流川に恋したとき、流川は初めての盗聴器設置という大役を果たした緊張の中にいたのだ。その目は凛々しくつり上がり(あくまで晴子の主観である)唇の引き締まった最高の美青年であった。二度目に偶然見かけた流川は銃のブローカー清田信長との一種危ない会見の直後で、一触即発の雰囲気を纏っていた。そんな流川を、晴子はそのたくましい想像力でもって強力な人物像に仕立て上げていた訳である。目の前の流川はそんな晴子の理想像とはかなりかけ離れてはいたが、そんなささいなことで恋の炎が色あせるほど、晴子の恋心は儚くもか弱くもなかった。
ゆえに、洋平の心づくしの昼食に与っているあいだも、晴子は正面に座った流川を積極的に見つめ、さらに精力的に話しかけていたのである。
「ねえ、流川君。流川君はいつから電話屋さんをしてるの?」
そんな晴子の質問は、まるで耳などどこかにおいてきてしまったというような流川の態度に、これ以上はないほど完璧に無視されていた。何の反応もないことは晴子にかなりの落胆を与えたけれど、そんなもので晴子の根性は参らなかった。
「……あの、電話屋さん、大変でしょう? 機械とか強くないとできないものね。あたし機械はぜんぜん判らないから強い人って不思議。昔から好きだったの?」
そんな晴子はけなげで、見ていてかわいそうなくらいである。流川にばかり興味を持つ晴子に花道はかなりおもしろくなかったが、さすがの花道も痛々しくて、助け船を出すように言った。
「流川てめえ、せっかくハルコさんが話しかけてんのに黙ってんじゃねえよ! なんとか言えなんとか!」
「あ、いいのよ桜木君。誰だって起きたばっかりの時は頭が働かないものだもの。……そうよね、ごめんなさい、流川君」
「謝ることねえッスよ、こんな奴。だいたいいつもこいつは人の話聞いてんだか聞いてねえんだか。何様のつもりか知らねえけど、ひとのこと莫迦にしくさってんだこいつ」
「そんなこと……」
それまで、ただ黙って成り行きを見つめながらおかしなことを二人が言いそうになったときにはすぐにフォローに入れるように万端の準備をしていた洋平は、初めて二人の会話に割り込んでいた。このまま花道が流川の悪口を言いはじめると、花道に対する晴子の印象が悪くなることは目に見えていたからである。
「晴子ちゃん、こいつさ、今もう電話屋やってないんだ」
流川が電話屋であることを少しも疑っていなかった晴子は、洋平の言葉にはっとして振り返っていた。
「……そうなの?」
「うん、なんかさ、主任だか部長だかとけんかして、バイトクビんなったんだ。今までの職歴からするとずいぶん長く続いてたバイトだから、その分ショックがでかくてさ。オレらもそのことに触れてねえの。だから……」
「ごめんなさい! あたし、知らなくて……」
もちろん洋平の口からでまかせである。だが、そもそもそんな日常会話に嘘が含まれているなどとは夢にも思わない晴子である。自分の質問が流川の一番触れられたくない部分に触れてしまったことを知って、大いに後悔していた。
「いーのいーの。流川だってそう物判りの悪い奴じゃねえし、何言われたってそう長いこと覚えちゃいねーから。それよりさ、最近警察も大変なんでねえの? ほら、何てったっけ? 変な泥棒が地方紙賑わしてるじゃん」
洋平の話の変え方は多少わざとらしさを禁じえなかったが、晴子にしてみれば話を変えてくれたのはかなり歓迎すべき事態であった。洋平が晴子のためを思ってわざと話題を変えてくれたのではないかと思えるほどに。そして、洋平の方としては、これこそが本当の目的だったのだ。
「レッドフォックスのこと?」
「そうそれ! まあ、うちなんか盗まれるようなもんはねえけど、やっぱこんな平和なとこに訳判んねえ泥棒がいるとなっちゃけっこう心配なんだよな。拳銃ぶっぱなす奴もいるんだろ?」
特に、この街で生活する一般の人達にとって、洋平の言葉はほぼ代表的な意見に間違いなかっただろう。晴子も警察組織の一員である。一般の人達に不安を与えているだろうことは、街で駐車違反の取締りをしている晴子は肌で感じていた。そんな人達の不安を少しでもやわらげることができるのならそうしてあげたいと常々思ってもいた。それはたとえ微力でも兄である捜査課長の役に立つことでもあったのだから。
「警察は何やってんだ、って言いたいわよね。でも、お兄ちゃん達もすごく頑張ってるの。毎日くたくたになるまでモンタージュ写真持って目撃者さがして。今日も日曜日だっていうのに出勤して頑張ってるの。今度こそ絶対捕まえられると思うわ」
捕まえられたら困るのは彼らである。だが、そんなことはおくびにも出さず、洋平は深刻そうに言った。
「そうなんだ。大変だね。まあ、オレ達もかげながら応援してるよ。……でもさ、今度こそって、もしかしてまた何か来たの? 予告状とか」
もちろん予告状を出したのはこの洋平なのだ。いけしゃあしゃあとよく言ったものである。
「そうみたい。あたしも詳しいことは知らないけど、お兄ちゃんの話によると、今回は二枚来たんだって。おんなじ日のおんなじ時間で」
今までボロを出さないように黙っていた花道や、もともと口を挟むつもりなど毛頭なかった流川も、その晴子の言葉にちょっと反応して耳をそばだてた。洋平もわずかに身を乗り出す。部屋の雰囲気が微妙に変わったことに晴子も気づいていたが、それほど気にも留めなかった。
「それって、同じ予告状が二枚来たってこと? レッドフォックスの」
「ううん、違うの。何て言ったかな、あるおうちの彫刻を盗みますって、同じ時間で二組の盗みの予告があったらしいのよ。一昨日レッドフォックスからの予告状が届いて、昨日もう一つのが届いたんだって。何て言ったかしら。恐そうな……
そう、ドラゴン」
「ドラゴン!」
思わず叫んでしまったのは花道だった。叫んでからしまったと思う。だが、いまさら言ってしまった言葉は取り消せない。当然のごとく花道は焦りまくったが、焦ったのは洋平も同じだった。
「桜木君、ドラゴンて知ってるの?」
ドラゴンという名前が新聞など表に出て来たことは今までおそらくなかっただろう。もちろん洋平は知らなかったし、流川も知らなかった。だが花道は知っているのだ。洋平は忙しく頭を巡らせて、なんとかごまかそうと笑顔で口を開いたのである。
「いや、花道が言ったのはぜんぜん違うんだ。昨日だっけかな、たまたま流川と花道がレクリエーションで討論会しててさ、まあ、ほとんど口げんかなんだけど、偶然、ドラゴンの話だったんだ」
話している間に筋立てを決めて、少し落ち着いてくる。晴子はまだ判らなそうに洋平を見つめていた。まだ、半信半疑というところである。だが、ここで疑われた日には、三人とももはや逃げる手段はなかっただろう。
「花道の奴はドラゴン……まあ、竜だよな。竜神様って言うくらいだから神様の一種だって主張なんだ。流川の方は、ドラゴンなんて諸悪の根源だ、みたいな主張で、そんなんで延々と二時間。つきあう方の身にもなってほしいよ」
晴子の方はまだ納得できない顔つきである。当人達である流川と花道が何も言えなくなっていることから、その不安はさらに部屋の中を不気味な雰囲気にさせていた。
「判らない? つまりさ、流川って、帰国子女な訳。親の都合でヨーロッパとか転々としてたの。だから向こうの感覚がしみついてるらしくてさ、純日本人の花道としょっちゅうけんかしてんだ。けっこうどうでもいいことで」
この洋平の言葉は、洋平が期待したよりもさらに絶大な効果を発揮していた。要するに、晴子にとって一番大切なものとは、今このときは流川の情報だったのだ。洋平がなにげなく言った帰国子女という言葉は、それだけでドラゴンに対するちょっとした不信感などみごとに吹き飛ばしてしまっていた。
「流川君、帰国子女だったの?」
目を輝かせて流川に迫る晴子を、当の流川は完全に無視していた。そんな沈黙も、日本語があんまり堪能ではないのだと思えば、晴子の落胆も半減するというものである。
「それじゃあ、外国語もしゃべれるのね。何語がしゃべれるの?」
ちょうどその時食事を終えた流川は、まるで何事もなかったかのように部屋に引き上げていた。さすがの晴子も引き止めることはできなかったらしく、残念そうに背中を見送っている。ドアの閉まる音を聞いて、花道も洋平もいくぶんほっとしていた。もう、流川から自発的に部屋を出て来ることはないだろう。
「晴子ちゃん、流川はそういうこと自慢げに話す奴じゃないよ。帰国子女だってこともけっこうあいつ気にしてるようなところあるし」
流川の沈黙をフォローするのも大変である。晴子の方はまた少し表情をくもらせていた。
「あたし、また流川君の気に触るようなこと言っちゃったんだ」
「気にすることないッスよ。何が気に入らねえのか知らねえけど、あいつが笑ったのなんか見たことねえし。もともとああいう奴なんスよ」
花道の言葉に、晴子は微笑みを見せていた。その微笑みは純粋に花道に向けられたものだったので、感覚的にそれを理解した花道は、この上なく暖かい気持ちになっていた。
「優しいね、桜木君。今度は桜木君の話を聞かせて。桜木君はどんな仕事をしているの?」
舞い上がった花道に洋平が絶妙なフォローを入れながら、三人は嘘で塗り固めた会話を交わした。夕方晴子が帰るまで、表面的にはなごやかに、レッドフォックスと婦人警官の危険な対談は続いたのである。
晴子を送り出したあと、洋平がぐったりしてソファにうずくまったまましばらく動けずにいたことは言うまでもない。
洋平が先程の晴子の来訪からようやく気力を取り戻して夕食の支度をしているころ、花道は晴子からもらった包を大切そうに抱えて、ニコニコしながら白昼夢に浸っていた。中身は晴子が焼いたというクッキーである。すぐにも食べたいような気もするし、しばらく食べずに楽しんでいたいようなところもある。洋平の手伝いもせずに遊んでいる花道に、洋平は判ってはいるものの文句の一つも言いたくなっていた。そもそもここまで洋平が気力を失った原因はすべて花道の道ならぬ恋なのだ。八つ当たりしてみたくなる気分も判るというものである。
しゃくに触る花道の顔を横目で見遣り、今日何度目かの溜息をつく。やがて、やっぱり食べよう、という声とともに袋をゴソゴソやり始めた花道に、洋平は精一杯皮肉っぽく声をかけた。
「おい、一人で全部食べる気か? お前」
花道は一瞬意外なことを聞いたというように顔を上げたが、すぐにこちらもちょっと皮肉な表情を浮かべて言った。
「さては洋平、ひがんでるな? オレだけが女の子からプレゼントもらったから」
洋平はさらに深い溜息をついた。あのとき晴子は確かに、皆さんで、と言ったのだ。その言葉の裏には、流川に食べてほしい、という意思表示がありありとうかがえる。洋平のひがみだと花道が思うのは勝手だが、たとえ中の一つでも流川にわたさなければ、苦心して作っただろう晴子があまりにかわいそうというものである。
「まあ、洋平は頑張ったから、一割くらいならあげてもいいぞ」
「オレのことはいいから流川にはやっとけ」
「だーれがやるか! あんな奴……ハルコさんがあんなに一生懸命話しかけてんのにそんなハルコさんのこと無視しやがって。ほんっっとに死ぬほど腹の立つ野郎だあいつは!」
たとえば、流川が晴子の言葉を無視して嫌な態度をとって、万が一晴子に嫌われたとすれば、得をするのは花道の方なのである。そう思えば、流川のああいった態度は、花道にしてみれば歓迎すべきものであっても腹を立てるようなことではないはずだ。なのに花道は自分の都合よりも晴子にかわいそうな思いをさせた流川のことを本気で怒っている。そんな、かなりピントのずれた花道の態度に驚くとともに、洋平は改めて花道の純粋さに気づいてさっきのちょっとした八つ当たりの気分などすっかり忘れてしまっていた。
しかし八つ当たりとは別に、洋平には生来の意地悪精神が根強くしみついているようなところがある。口調をゆるめることもせずに、ひたすら花道を苛め続けていた。
「だけど花道、考えてみろよ。晴子ちゃん、お前に渡せば流川も食べてくれると思って一生懸命作ったんだぜ。もしもお前がひとり占めして流川に一つもやらなかったってこと知ったら、晴子ちゃん、悲しむと思うよ。どうする? 『ひどい、桜木君!』かなんか言って泣かれたら」
それは十分ありそうな話だったので、花道は包をじっと見つめながら思案していた。やがて、小さな声でぼそっという。
「だけど、お前が言わなけりゃバレねえ」
「言っても言わなくても同じことだ。結局お前はそうやって晴子ちゃんの信頼を裏切ったんだからな。裏切って、その事実隠して、嘘つきながら笑って晴子ちゃんとデートするのか? お前それでよく良心痛まねえな」
まるで自分は嘘など一度もついたことのないような言い方である。一番晴子を裏切って、晴子に事実を隠して、晴子に一番嘘をついたのはほかならぬこの洋平だというのに。
花道以外の人間であれば、とっくに気づいて反論していたことだろう。だが、花道は真剣に洋平の言葉に悩んでいた。このまま流川にひとかけらもやらずに晴子に嘘をつきとおすことと、ほんのひとかけら(本来なら三分の一程度はやらなければならないところだが、花道はほんのひとかけらで十分だと思っている)流川にくれてやって胸を張って晴子とデートすることとを秤にかける。かなり不本意ではあったが、結果は明らかに後者の方がマシだった。
「判った。流川にもやってくる。ちょっとでいいだろ?」
「ま、良心の痛まない程度にな」
「流川ーっ!」
一度そうと決めてしまえば花道の行動はすばやい。気持ちを切り換えて流川にクッキーを渡しに行った花道を、洋平はかすかな安堵をもって見送った。まだ、花道が洋平の手の中にいることに。多少意にそまないと思うことでも、洋平の説得になら素直に応じる花道を見て、洋平はいつもほんの少しだけ安心することができるのだ。
「食わねえだぁ? てめえ、せっかくのハルコさんの気持ちを! むりやりにでも食わせてやる!」
流川の部屋からいつもの争いが聞こえて来るのに洋平は誰にも判らないようなわずかな微笑みを浮かべて、ちょうど出来上がった夕食をダイニングの方のテーブルに並べ出した。並べながらまだ言い合いをしているらしい二人の、唯一聞こえる花道の声にかぶせて二人を呼ぶ。部屋から出てきた二人はテーブルにつきながらもお互いに憮然とした表情を見せた。どうやら今日も花道が流川に負けたらしいことは一目瞭然である。
「ハルコさんに何て言お」
花道の言葉に気の毒になった洋平は、先程自分が脅して取らせた行動などもう既に忘れ去っている。
「渡したのに食わなかったって言やいいんだよ。ライスは? 皿にするか?」
「茶碗。……そうか。その手があったか」
「流川は? 皿? 茶碗?」
「a plate」
「ラジャー」
この一年で見慣れた夕食風景だった。だが、洋平はずっとひっかかっていたことがある。流川は食事がすめばさっさと部屋にひきこもるから、確かめるのは今しかない。ハンバーグにつけるライスをよそってテーブルについた洋平は、既に茶碗の半分をかきこんでしまった花道に問いかけた。
「花道、ドラゴンて何だよ」
晴子が言ったドラゴンという言葉に対する花道の反応は、だれが見ても心当たりのある人間のそれだった。洋平はそのフォローに全知識の総動員と流川を帰国子女にしてしまうことを必要としたのだ。普段英語などめったに使わない流川が皿を英語で言ったことも、そのあたりの流川なりの皮肉があったのかもしれない。
洋平の問いかけに対する花道の答えは、洋平が期待した言葉とはまったく違っていた。
「そうだ! ドラゴンだ! あいつなんだってオレのじゃまばっかしやがって! ……ハルコさんと楽しくデートしてたってのに」
初めて思い出したというようにテーブルをドンとたたいて怒りをぶつける。洋平特製のオリジナルスープがテーブルの上でちゃぷんと波打った。
「ちゃんとオレに判るように話せ。お前、そのドラゴンて奴に会ったのか?」
花道は午前中の出来事を洋平にかいつまんで説明した。もちろん説明というものが基本的に上手でない花道の話である。内容があちらこちらに飛んで、洋平が理解できたのは、聞き耳を立てながらももくもくと食べ続ける流川がそのほとんどをたいらげかけたころだった。
「……だいたい判った。つまり、喫茶店に呼び出されて女の話をしただけだったんだな?」
「ったく腹が立つ。ハルコさんがブスの訳ねえだろ。ハルコさんは女神みてえにきれいで……」
「それはいいって。それより肝心の、ドラゴンでいったい誰なんだよ」
「ドラゴンは、昔の仲間だ。オレがまだ大部屋だったころの」
初めてだった。花道が自分の過去を話すのは。
花道はおしゃべりで、自分のことを話さずにはいられない人間だった。昔どんなものを盗んだとか、警官を何人なぎ倒したことがあるとか、自慢話はいくらでも聞かされた覚えが洋平にはある。ただ、花道は自分にかかわりのある人間のことを一度も話したことがなかった。大部屋とはこの場合、盗賊団の下っ端集団のことである。花道が盗賊団に所属していたことすら、洋平は聞いたことがなかったのだ。
食事が終わった流川もこのときばかりは部屋に引き上げようとしなかった。盗みに関する話しである以上、流川には聞く義務がある。だが、そんなことより花道の昔に対する興味が勝っていたことは隠しようのない事実だった。
「それで?」
「ドラゴンが突撃隊長で、オレはあいつに泥棒ってもんを教わった。それなりにうまいこといってたんだ。十五六人の盗賊だったけど、頭目はいい奴でシノギけちったりしねえ賢い奴だった。だけど仲間の一人がやっちまったんだ」
そこで言葉を切る。思い出したのだろう。その、仲間の顔を。
「何をやったんだ?」
「よく、判らねえ。そいつが逃げて、オレ達は金にならねえ盗みをするはめんなった。だけど失敗して、ブローカーに総スカンくらったんだ。盗賊としちゃ致命的だ。散り散りんなって、そんとき以来誰にも会ってねえ。会ったら殺してるところだ」
その時自分達の身に何が起こったのか、花道は正確に理解することができなかったのだろう。だが、洋平にはおぼろげながら判っていた。おそらくその仲間は、盗賊団の中でも特に信頼されていたのだろう。中で信頼される奴はブローカーにも信頼される。盗賊団の次のえものを売るという約束で手付け金としていくらかブローカーに出させ、おそらくそのまま逃走したのだ。洋平は理解した。そして、花道がタダ働きをあれほど嫌う訳も。
「そうか。それじゃ、ドラゴンて奴ともそれ以来会ってねえ訳だ。何年も」
「何年か計算できねえけど、洋平と会う前はしばらく一人でやってたんだ。ドラゴンとは切れてる。どうしていきなりあいつが出てくんのかさっぱり判らねえ」
そのドラゴンが、洋平達と同じものを狙っている。それも同じ日の同じ時刻に。これはどう見ても挑戦だった。怪盗ドラゴンから、怪盗レッドフォックスへの。
理由は判らない。だが、真っ向から挑戦状をたたきつけられて、受けない訳にはいかないだろう。レッドフォックスは最強だ。そんな訳の判らないドラゴンになど負ける訳にはいかないのだ。
「花道、今度そいつから接触があったら、挑戦状のこと問い詰めろ。できるか?」
「挑戦状……? そうか、あの野郎!」
「ここまで莫迦にされて黙ってる訳にゃいかねえ。実力で思い知らせる」
洋平の静かな怒りに、花道はおおっぴらに怒りを表明して残りのハンバーグ定食をたいらげた。流川もさりげなくフォークをテーブルにたたきつける。そんな流川を横目で見て、洋平は不意に我に返っていた。
(ひょっとして、友引ってのがいけなかったかもな)
流川の血走った目を見ながら、洋平は一生流川に友引の意味だけは教えまいと天に誓っていた。
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