CITY COLLECTION
その日、三人はそれぞれに行動を開始していた。珍しいことに一番最初にマンションを出たのは流川であった。もともと流川はそれほど外に出ることを好まない男である。だが、趣味と実益を兼ねる銃のコレクションを増やそうと思えば、否応なしに外出しない訳にはいかなかった。
携帯で打合せしておいた人気のない場所に到着すると、相手は既に同じ場所で待っていた。流川御用達の銃のブローカーである。名前を清田信長という。
「よう、フォックス。景気はどうだ?」
「……」
今日の流川のお目当ては、最新式の護身用の小型銃である。かなり前から流川はカタログで選んだこの銃を清田に予約しておいたのだ。この銃はトリガーに指紋解析の機能が付いていて、登録のない人間が引き金を引くと高圧電流が流れるようになっている。もちろん流川には必要ないものである。流川はこの銃を洋平に持たせるつもりなのだ。
流川があいさつとか意味のない景気の動向の話など日本的な時間かせぎを好まないことを、清田は既に知っていた。その見る人が見れば傍若無人に思えるほどの活発さで、流川の沈黙を吹き飛ばすように喋りはじめた。
「カタログ番号K188EDXだったよな。二十二口径で弾は十コ装填できる。百でよかったんだっけ?」
「……ああ」
「そんじゃ、これが現物。代金はいつもの口座に振り込んでくれ。アンケート用紙も入ってるからエアメールで郵送な。ドイツ語だから間違えんなよ」
無造作に高島屋の紙袋に入ったそれを、流川は確かめもしなかった。表面をなでて、持っていたスポーツバッグに放り込む。顔をあげて睨みつけた流川に、清田は少しドキリとして竦み上がった。ちょっとばかりいつもと様子が違うのだ。いつも割に寝起きのままのような目つきで清田に接する流川が、今日はしっかりと目覚めて自分を睨みつけている。
「な、何だよ。オレだってドイツ語なんかちんぷんかんぷんだぜ。代わりに書けったって無理だからな」
「お前だな」
「何が!」
そのまま、流川は壁に手をついて清田の行方を遮った。その目の迫力は清田を震え上がらせるものがある。だが清田もかなりの負けず嫌いだったので、本人は少しもびびっちゃいないぞというように笑顔すら見せていた。その笑顔は引きつっていて、清田の思惑を半分も満たしてはいなかったのだが。
「オレの携帯の番号、誰に教えた。場合によっては……消す」
その言葉のあとの清田のうろたえ方を見れば、返事は聞かなくても判るというものだ。
「ちょ……ちょっと待て! オレだって銃を扱っちゃいるが善良なブローカーなんだぜ。天使のエースに脅されちゃ教えねえ訳にいかねえだろ。あいつに逆らったらマジで闇から闇だ。判んだろ、フォックス」
清田のいうことは判り過ぎるほど判っている。エースのことは清田より数十倍もよく知っているのだ。まるで天使のように優しい顔をしているくせに、ひとたび敵だと思えば容赦なく消しにかかる。清田など髪の毛一本残さずに消されるだろう。
ここで流川が清田を消したところでどうにもならないことも判っている。既に仙道は流川の居場所をつきとめているのだから。
「話せ」
「ああッ、つ……つまりな、一週間くらい前にエースから国際電話があって、フォックスのこと知ってたら教えろって。オレは住所とか知らねえから携帯の番号しか教えてねえ。そうしたら一昨日だったか、エース本人が来たんだ」
「……日本にか?」
「ああ、しばらく世間話して、ライフル一丁買ってった。それでフォックスを殺るのかって聞いたら、『……かもな』って言ってた。……そんだけだ! 頼む、見逃してくれ!」
流川はちょっと考え込む。どちらにしてもこれ以上この男から情報を引き出すことはできないだろう。
「ライフル一つだけだったんだな」
「ああ、間違いねえ」
「弾は、いくつ売った」
「三だ。余ったら日本を発つとき銃と一緒に売りにくるから同じ値段で引き取れって。……ほんとにこれ以上知らねえ」
「なあ、清田。カタログ番号K188EDXと命とどっちが高い」
流川の言葉に、清田は光明を見い出した。
「差し上げます! お代はロハ! それでいいっす!」
「一つ覚えておけ。昔から、エースよりオレの方が数倍恐い」
首をかくかくやりながらうなずく清田に背を向けて、流川はその場をあとにしていた。
出会った時から数えて初めて流川を本気で怒らせた清田は、いま流川の言った言葉をその身で実感したのだった。
二度目に部屋を出たのは花道である。花道もこれまた変装もせずに、携帯電話で打ち合わせた人気のない場所で御用達の情報屋、相田彦一と会っていた。とにかくこの男の情報にはかなりガセネタが混じっていることで有名である。だが、それほど情報というものに重きをおかない花道には適当な相手であると言えるかもしれない。
「で? 今日は何でっか? あんまり無理な注文はごめんでっせ」
実は前回の盗みの時、彦一は洋平にかなりの無理難題を出されて、ずいぶん機嫌を損なったのである。もちろん花道は悪くないのだが、洋平を大の苦手とする彦一であるから、花道にあたりたくなる気持ちも判るというものである。
なにしろ、花道はこれまでの情報料を一度も払ったことがないのだ。
「FUJIMAコレクション、て知ってるか?」
「そらレッドさん、この彦一に失礼というものでっしゃろ。いまんとここの業界でFUJIMAコレクションを知らん人間はおらん筈でっせ。うちとこでも資料取り揃えてま」
「そいつは話が早え。そのFUJIMAコレクションの全部の資料と、等身大のガラスの彫刻の写真、すぐに取り寄せてくんねえか? あと、FUJIMAコレクションの保管場所の情報と」
今回の花道に対する情報量は、今までとはケタ外れであるらしい。なにぶんこのFUJIMAコレクション、かなり秘密裏に製作され、もともと販売目的ではないのである。巷に流れる情報は少ない。洋平も自分一人で得られた情報量が少ないので、本職の情報屋にかなりの部分を頼るはめになったのである。
それまでの情報料を払ってもらっていない彦一はかなり不安になっていた。そして、思い切って言ってみることにしたのである。
「あの、言いにくいことですけどレッドさん、今回ばかりは今までのツケ、払ってもらう訳にはいかへんやろか」
花道は金のことにはとんとうとい性分である。ちょっと首をかしげて言った。
「そうか? ……まあ、今回の盗みが成功したらけっこう金になるらしいから、ちょっとくらいなら払ってもいいぜ。いくらだ?」
まさかここまですんなり払ってもらえるとは、言ってみるものである。喜び勇んで彦一は愛用の電卓を取り出した。
「おおきに! ……えっと、今回の情報が……ちょっと高めでこんなもんでっしゃろか。それに今までのツケがこのくらいで、……こんなもんでんな」
彦一の示した金額には多少の色がついていたが、そんなことは花道には判らない。判ったところでどうというものでもないだろう。両手を打って、花道は言った。
「いいぜ。……支払いはモノが売れてからでいいか?」
「かまへんです。まいどおおきに」
「そんじゃ、よろしくな」
「おおきに」
去っていく赤い髪を見ながら、彦一は知らずにホクホク顔になっていた。しかしそういつまでも浮かれていられない心配性の彦一である。しばらくして、ふと不安になっていた。
「そういえばもうひとりあの彫刻ねらってる御人がおらはったんや。もしかしたら怪盗レッドフォックスも今回ばかりは失敗しはるかもしれへんな。レッドさん、ツケの支払いは彫刻が売れてからだって言わはったし。……こら、レッドさんひいきさしてもらうよりあらへんな。きばろ」
こうして彦一は自分のために、レッドをひいきすることにしたのである。
ここは私鉄彦上線湘北駅の駅前道路の路上である。
わりに賑わいのある街中は冬物を買い求める買い物客でごったがえしていた。しかしそれほど大きな駅ではない。狭い路上には駐車禁止の標識と、それをものともせずに駐車違反をおかす車がぽつぽつと点在していた。数本先にはちゃんと駐車できる道路が控えているにもかかわらず、である。
湘北署交通課の婦警、赤木晴子の主な仕事は、この駅の駐車違反を取り締まることであった。今日も相棒の松井さんとともに、制服姿で駐車違反の車にチョークで印をつける作業をしていた。
大きくない駅の、それほど数もない違反車である。はっきり言ってその仕事は暇であった。晴子は同僚で親友の松井さんと無駄口をききながら、機械的に違反車の取締りを行っていた。
「……それじゃ、けっきょく名前も判らないの? その人」
「そうなの。ただ電話屋さんてだけ」
「やっかいな人にホレたわね、晴子も」
「やだ、そんなんじゃないわよ」
一度、署内ですれ違っただけの電話屋さん。捜査課の電話を修理に来ていたその人に、晴子は一目惚れしてしまったのだ。背が高く、きつい目元のその人に。
「でもそれじゃ探しようがないじゃない。きっとむこうは覚えてもいないわよ。残酷なようだけど」
「……うん、それは判ってるんだ」
「やっと晴子からそういう話聞けると思ったんだけどな。今度はもっと現実的な話持っといで。たとえば街中で偶然すれ違うなんて、万が一よりも確率低いと思うわよ」
そんなことは判ってる。でも、今は晴子の心の中からその人を追い出すことはできないのだ。名前も判らない、たった一度会っただけの人だからこそ、その想いは純粋だった。美しい思い出の中の、理想の人。
その時だった。ふいに晴子の視界の中に一人の男が飛び込んできたのは。
身長、背格好、うしろ姿のその人は晴子の思い描くその人にぴったり重なったのだ。大股で歩く男のうしろ姿に晴子は自然にかけだしていた。松井さんの驚きの声も聞こえずに。
「あ、あの! すいません、ちょっと待って!」
晴子の声に、男の方はすぐに気づいて振り返った。そして、晴子が顔を上げた瞬間、呆然と立ちつくしたのだ。
「あ、すいません……人違い、です」
呼び止められて振り返った男こそ、怪盗レッドフォックスの突撃隊長、レッドこと桜木花道だったのだ。
花道が振り返った一瞬、晴子が見せた最高に華やいだ表情。うつむいて恥ずかしそうに顔を明らめる少女。その顔に花道は一目で恋に落ちていた。だいたい女の子に声をかけられること自体、花道は初めての経験だったのだ。
「ごめんなさい。あたし……あなたによく似た人と間違えて……ごめんなさい」
そうして顔を上げてよくよくみれば、その顔はなんとあの人と違ったことだろう。だいたい髪の毛が炎のような真っ赤に染められている。晴子の王子様はまっすぐな黒髪だったというのに。
「いいっす! 気にしてねえっす! オレ、桜木花道。……あの、あなたは……」
花道が見かけよりも恐い人でないと知って、晴子もほっとしていた。まだ恥ずかしさに顔を赤くしていたが、名乗られてはっと気づいて言った。
「ごめんなさい。あたし、赤木晴子といいます。湘北署の婦人警官してます。本当にすいませんでした。お忙しいのに呼び止めてしまって」
「そんなことぜんぜん! オレ、暇な奴ですから」
婦人警官と聞いて、花道はいくぶん身体を震わせた。泥棒が本職の花道である。警察と名のつくものにはできるだけお近づきになりたくないのが本音であった。
だが、一目で恋に落ちた花道、実はそんな心の余裕はなかった。近づきたいという思いと近づきたくないという思いとが複雑に交錯したジレンマに陥ってしまったのである。
「ちょっと晴子、あんまりじゃない。その人が晴子の愛しの君? ……な訳ないか。きつい目に長いまつ毛、引き締まった口元、ってイメージじゃないもんね」
「ちょっと! ……失礼じゃない」
「人違いで呼び止めたあんたの方がよっぽど失礼よ」
追い掛けてきた松井さんの言葉に、花道の頭に浮かんだイメージはまさしく流川のものだった。が、愛しの君という言葉が花道をどん底に落とした。出会って恋した次の瞬間に失恋では、あまりにかわいそうな運命というものである。
「ハ……ハルコさん! オレに似た人って……その、こ……恋人で……」
「そんな! ……違うわ。ぜんぜん違うの。一度だけほんのちょっとすれ違っただけの人なの。あたしのお兄ちゃん、湘北署で捜査課にいるの。そこにお弁当届けに行って、ちょうど捜査課の電話を直しに来ていたその人と会っただけ。ぜんぜん名前も知らない人なの」
それを聞いていくぶんほっとした花道は、さらに言葉も弾んだ。
「そうですか。お兄さんも警察官で。すごいっすね」
「すごいかどうかは知らないけど、でも今大変みたい。ほら、レッドフォックスっていうものすごーく悪い泥棒がいるでしょう? その泥棒が捕まえられないってピリピリしてるの」
その泥棒こそ自分です。と、言えないところがつらい花道である。
「ところで桜木君、免許は持ってる?」
「免許、ですか? オレ、持ってないっす。このオレのスケールの大きさでは教習所は狭すぎるらしくて、卒業できなかったっす」
「そうなの。それじゃ、あたしの敵にはならないね。あたし、免許持ってる人はみんな敵だと思ってるから。桜木君はそうじゃないから安心だわ。……やだ、あたしなに言ってるんだろ。こんな話初対面の人に。……桜木君、話しやすい人なのね。普段初対面の人とはこんなにしゃべれないのに」
「そんな、こ、光栄です!」
自分が何をしているのか、花道にはまったく判らなかった。相手は婦人警官。そして、その兄は捜査課の刑事さん。そんな相手とこれほど長話をして万一ばれでもした日には、仲間たちに顔向けできなくなるだろう。だが、一目恋してしまった花道は、そんな計算よりも晴子と話せることがうれしかった。晴子がいろいろ話してくれることの方がうれしかったのだ。
「晴子、そろそろ仕事に戻らないと」
「ああ、そうね。あたしったら。……桜木君、また縁があったらお話しましょう。あたしわりといつもここで取締りやってるから、見かけたら声かけてね」
「あ、はい」
花道がほっとして、でもかなりの割合で残念に思って別れのあいさつを交わした。と、その時、花道の視界に流川の姿が移ったのである。流川は花道には気づかないようにまっすぐにこちらに向かって歩いて来るところだった。
もしも流川が気づいていたなら、もちろん花道のことは避けて通ったことであろう。それは別に二人の仲が悪いからではなく、レッドフォックスの存在が秘密である以上、たとえ街で会っても他人のふりをするのが三人の中での取決めになっていたからである。
花道が気づいた次の瞬間、晴子も流川に気づいていた。そしてその顔には再び最高の微笑みが浮かんだのである。
「あの人……今度こそ間違いないわ」
かけだしてゆく晴子のあとを追って、花道もかけだしていた。
「ハルコさん!」
その花道の声は流川にも届いていた。だが知らないふりをして歩き続ける。そんな流川に声を掛けたのは婦人警官の制服を着た晴子だった。
「あの、すいません! 電話屋さん!」
その呼びかけに流川は返事をしなかった。その昔自分が変装で電話屋さんになったことなど忘れていたのだ。
しかし、腕を捕まれてようやく振り返る。目の前には見も知らない婦人警官が ――
「誰だあんた」
その流川の反応は当然といえばあまりに当然だった。が、晴子は傷ついたように呆然と立ちつくす。そのまま流川は歩いて去って行った。あとに花道と晴子を残して。
恋する晴子の愛しの君が流川。その事実が花道を逆上させた。
「ハルコさん! あんな奴やめた方がいいっすよ! あいつは免許持ってるし、オレの部屋に携帯電話おいて目覚まし代わりにオレを使うくらい寝起きわりいし、部屋の中はキツネのぬいぐるみオンリーだし、絶対ハルコさんには合わないっす! あんな奴最低っす!」
「桜木君……あの人のこと、知ってるの……?」
しまった。と思ったときはすでに時遅し。
「あの、それはつまり、その……そうじゃないかなって……」
「知ってるの? ねえ、知ってるんでしょう? そうでしょう?」
「……」
「お願い桜木君、あの人のこと教えて。どんなことでもいいの。お願いよ」
かわいい晴子さんにお願いよ、と迫られて、いやだと言える花道ではなかった。
そして花道は、自分の手でこの恋の展望を難しくしてしまったのである。
……気の毒に。
さて、三人目の水戸洋平ことラビットである。洋平は今日は急いで三人の人間と会わなければならなかった。流川も出かけた今日、花道を誰もいない部屋に帰す訳にはいかない。花道は部屋に帰って誰もいなかった場合、ヒステリーの発作を起こすのだ。それは花道の歪みの一つだった。
一人目は情報屋の野間忠一郎。二人目は絵画ブローカーの大楠雄二である。その二人との会談は簡単に済ませ、洋平は三人目、宝石ブローカーの牧紳一に会うべく、人気のない場所に向かっていた。
ごく普通のサラリーマン風の背広を着た牧は、それであっても目立つ存在だった。ラフなスタイルの洋平と並ぶとまるでやくざの親分子分のようである。考えてみればそう取られても大差ないような経歴を持っている二人ではあるのだが。
「悪い、待たせたな」
「いや、それほどでもない。……あれからどうした? あの狙撃屋はまだいっしょにいるのか?」
牧と会うのはほぼ一年ぶりである。初めて流川と会って、その流川を日本につれてくる時、牧にはかなり世話になったのだ。その時はきちんと礼も言えなかった。言葉で礼をするよりも、儲けさせてやることの方がこの業界では一番の礼になる。
「その狙撃屋が怪盗レッドフォックスのフォックスだよ。今では畑を変えて修業中だ」
「そうか。まさかとは思ったが……名前は変えなかったんだな」
本職は宝石商。だが、さまざまな業界に通じた得体の知れない男である。捌くルートのない変わった品物もこの男ならほとんど無条件で買ってくれる。ただ値段に関してはほとんど交渉の余地はなかったが。
「あいつ、狙われてるん?」
「いや、少なくとも暗殺命令は出てねえ筈だ。ただ見つかったらちょっとやっかいだぞ。早いところ手を切った方が無難かもな。これはお前を心配して言うんだが」
「まだなんだ。まだあいつ、独り立ちできねえ」
洋平はかなり長い時間をかけて泥棒としてやってきた。泥棒の世界は知り尽くしている。だが、流川はコンバートしてきて実際に盗みを経験してからまだ半年にもならない。スナイパーとしてエキスパートだった流川がこれから泥棒として生きてゆくには、かなりの経験を積むことが必要になってくるだろう。
そのくらいの時間は面倒をみようと思っていた。それが一年前、洋平が自分に誓ったことだったのだから。
「ラビット、お前の足かせになってるのはレッドか?」
洋平はぎょっとして振り返った。その目は半分図星を突かれた怒りに血走っている。
「お前はヤバくなれは遠慮なく逃げる奴だった筈だ。レッドがお前を変えたのか? それとも、フォックスに肩入れする訳でもあるのか?」
「だったらなんだってんだ」
「……いや」
―― あのころ洋平についたあだ名を、知っているのは今ではこの牧だけ。
「で、買うのか買わねえのか。等身大ガラス彫刻」
「『暁の美少年』だろ。まあ、あれがFUJIMAコレクションの中では一番の目玉だからな。だが、本気で盗む気か? 大きさは何でも百八十近いって言うぞ」
「盗むさ。怪盗レッドフォックスは最強だ」
「……まあ、彫刻は専門外だが買ってやる。知ってる通りほかより安いがな」
「ああ。その時はまた連絡する」
「ラビット!」
くるりと背を向けて去ってゆこうとした洋平を、牧は強引に引き戻していた。
「なんだよ!」
「判ってるのか! 殺されてからじゃ遅いんだぞ!」
「死なねえよ。放せ」
「一生一緒にいられるとでも思ってるのか? いつか別れ別れになるときが来るんだ、レッドとも、フォックスとも。……今のうちに手を切れ。それがお前のためだ」
何度も、思ったことがある。真夜中に予告なく立ち去ってしまおうと思ったことが幾度となく。
「裏切られるんならその方がマシだ。殺したけりゃ殺せよ」
「洋平……」
「ラビットだ」
牧にだけ見せる洋平がいる。そんな洋平は、誰よりも危うく、頼りなかった。
去ってゆくうしろ姿を見つめながら、牧は何か恐ろしいものを予感せずにはいられなかった。
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